聖言による連結
1.天使を通じて天界と連結する
2.天使の情愛が流れ入る
3.一瞬にして行われる
4.聖言は主によって人間にもまた天使たちにも与えられている、それは聖言によって人間と天使とが主と共にいるため
5.霊的天使たちは聖言の霊的意義におり、天的天使たちはその天的意義にいる
6.聖言を通して主は人間と連結され、天界は世と連結する
7.連結を通して救いが生まれている
1.天使を通じて天界と連結する
天界の秘義3735[2]
かくて人間が聖い状態の中にいてパンのことを考えると、例えば聖餐のパンのことを、主の祈りの中の『日毎のパン』のことを考えると、その時その人間がパンに抱く思いは彼のもとにいる天使たちには主から発している愛の善について考えるための客観的な表象的なものとして役立っているのである。なぜなら天使たちは人間がパンについて考える思いを何一つ把握しないで、その代わりに善について考えるからである。なぜならそうしたものが相応であるからである。同様に人間が聖い状態の中にいて着物について考える時、天使たちは真理について考えるのであり、そのことは聖言の他の凡てのものにも言われるのである。このことは聖言によって天と地とが連結しているということの性質のいかようなものであるかを示している、即ち、人間が恭々しく聖言を読んでいる時は、例えその人間は聖言の文字の意義の中に在る物のみしか考えていないにしても、このような相応によって密接に天界に連結し、天界を通して主に連結しているのである。その時その人間のもとに在る聖いものは、天使たちが持っているような、天的な霊的な思考と情愛とが流入してくることから発しているのである。
天界の秘義9152
信仰の善の中にいる教会の人間が聖言を読む時、天使たちはその時主から聖言を通して天使たちのもとへ流れ入ってくる知恵のために天使たち自身をその人間に接合させ、その人間を歓ぶのである。ここから天界は人間と連結しており、そうした連結は聖言がなくては在り得ないのである。なぜなら聖言はその原語ではその一点一画すらも天使たちを感動させて、彼らを人間に連結させはしないものは何一つないといったものであるからである。
天界の秘義9396〔4〕
今しがた言ったことを把握する者は、聖言を通して人間は天界と連結し、天界を通して主と連結し、聖言がないなら連結は在り得ないことを知り、また或る程度そのことを認めることも出来よう。
天界の秘義9396〔9〕
神的真理または聖言が契約または連結であることは、それが主から発した神的なものであり、かくて主御自身であるためである。それ故聖言が人間により受け入れられると、主御自身が受け入れられるのである。このことから聖言を通して主は人間と連結されることが明白であり、主は人間と連結されるため、天界もまた人間と連結するのである、なぜなら天界は主から発出している神的真理から、従って神的なものから天界と呼ばれており、それで天界の中にいる者たちは『主の中に』いると言われているからである。神的なものは主を愛し、主の聖言を守る者たちにそれ自身を連結させることはヨハネ14・23に見ることが出来よう。
天界の秘義9457
この内なる事柄が今や連結を生むのであるが、それにも拘らず現今では連結の唯一の手段は聖言である、なぜなら聖言は、その中の各々の、また凡ての事柄が相応し、かくして諸天界に存在する神的な事柄を表象し、意味するように記されているからである。
スウェーデンボルグ/聖書78
さらに、主が人間のもとに現存されて、人間に連結されるのは、聖言によるのである、なぜなら主は聖言であられ、その中でその人間といわば話されるからである。主はまた、聖言も同じく神的真理そのものであるように、神的真理そのものであられる。このことから、人間が聖言を理解するのに従って、主はその人間のもとに現存されると同時に、その人間と連結されることが明白である、なぜならその人間は理解に従って真理とそこから派生する信仰とを得、また愛とそこから派生する生命とを得るからである。主は実に人間のもとに聖言を読むことを通して現存されてはいるが、しかし聖言から真理を理解することを通して、またその理解に従って人間と連結されるのであり、そして主が人間と連結されるに比例して、教会はその人間の中に存在するのである。教会は人間の中に在るのであって、人間の外にある教会は己が中に教会を持った幾多の人間のもとにある教会である。このことが神の国は何時来ましょうかと尋ねたパリサイ人に答えられた主の御言葉の意味である―
神の国はあなたたちの中に在る(ルカ17・21)。
ここでは『神の国』は主を意味し、主から、教会を意味している。
2.天使の情愛が流れ入る
天界の秘義3464[2]
聖言の文字の意義から発している教義的な事柄については実情は以下のようになっている、すなわち、人間はその教義的な事柄の中にいると同時にそれに従った生命[生活]の中にいるとき、かれはかれ自身の中にそれに相応したものを得るのである、なぜならかれとともにいる天使たちは内的な諸真理の中にいるが、かれは外的な真理の中におり、かくて教義的な事柄を通して天界と交流するが、しかしそれはかれの生命の善に順応しているのである。
例えば、聖さんにおいてかれはその時用いられる言葉―『これはわたしの身体であり、これはわたしの血である』―から単純に主を考えるとき、かれとともにいる天使たちは主に対する愛と隣人に対する仁慈とを考えるのである、なぜなら主に対する愛は主の身体にまたパンに相応し、隣人に対する仁慈は血にまたぶどう酒に相応しているからである(1798、2165、2177、2187番)、そしてこのような相応が在るため、天界からその天使たちを通して、その時その人間がおかれているその聖い状態の中へ情愛が流れ入り、この情愛を、かれはかれの生命の善に順応して受けるのである。
天界の秘義3464[3]
なぜなら天使たちは各々の人間のもとにその生命の情愛の中に住んでおり、かくてその者がそれに従って生きている教義的な事柄の情愛の中に住んでいるが、しかしもしその人間の生命がその教義的な事柄と一致していないなら、決してその中には住みはしないのである、なぜならもしその生命が一致していないならば、例えば、もしかれが教義的な事柄により名誉と富とを得ることを求める情愛の中にいるなら、そのときその天使たちは退いてしまって、奈落の者らがその情愛の中に住んで、かれの中へ自己と世とのために教義的な事柄を確認することを注ぎ入れ、かくて説得的な信仰を注ぎ入れるか―この信仰はそれが他の者の心を捕らえさえするなら、事の真偽を問わないといった底のものであるが―または信仰をことごとくとり去ってしまうかして、そのときかれの唇の教義はこれらの愛の火によりたきつけられ、また加減される音声に過ぎないのである。
3.一瞬にして行われる
天界の秘義3507
それでも主は、自然的な観念が霊的な観念に変化し、しかもそれが一瞬にして行われるために、天界のものである霊的な事柄と世のものである自然的な事柄との間にこのような相応を聖言を通して遂行されるのである。ここから天界が人間を通し、実に聖言を通し、従って聖言がその中に存在している教会を通して世と連結しているのである。
聖書63
文字の意義によって天界の天使たちと共になることができる理由は、その中に霊的な意義と天的な意義とが在って、天使たちはその(二つの)意義の中にいるということである。すなわち霊的王国の天使たちは聖言の霊的意義の中に、天的王国の天使たちはその天的意義の中にいるということである。これらの意義は、文字の意義である聖言の自然的な意義から、真の人間がその意義の中に止まっている間に、(天使たちにより)展開されるのである。その展開は一瞬にして行われる、従ってその(天使たちと)共になることもまた一瞬にして行われる。
4.聖言は主によって人間にもまた天使たちにも与えられている、それは聖言によって人間と天使とが主と共にいるため
天界の秘義3476
この凡てから聖言はいかようになっているかを、人々は知ることが出来よう、なぜなら聖言は主によって人間にもまた天使たちにも与えられているからであって、それは聖言によって人間と天使とが主と共にいるためである、なぜなら聖言は地を天界に結合し、天界を通して主に結合させる媒介であるからである。その文字の意義は人間を第一の天界に結合させるものであり、そしてその文字の意義の中には主の王国を取扱っている内意が在り、内意の中には主を取扱っている最高の意義が在るため、そして、これらの意義は秩序をもって一つの意義は他の意義の中に在るため、聖言によって遂行される主との結合の性質のいかようなものであるかが明白である。
聖書62
聖言によって主と連結することが出来る理由は、主の教義の中に示したように、聖言は専ら主を取扱っており、従って主はその凡てにおける凡てであられ、聖言と呼ばれておられるということである。文字の意義の中に連結が在るのは、この意義によって聖言は完全なものとなり、聖いものとなり、力を発揮するということである。そのことはそのことを特に取り扱った前の章で示したところである。その連結は人間には明らかではないが、しかしそれは真理に対する情愛の中に存在し、また彼が真理を認識することの中に存在しており、かくて神的真理に対するその人間の愛の中に、また信仰の中に存在しているのである。
5.霊的天使たちは聖言の霊的意義におり、天的天使たちはその天的意義にいる
聖書64
霊的天使たちは聖言の霊的意義におり、天的天使たちはその天的意義にいることは多くの経験により私に明らかにされたのである。私は聖言をその文字の意義で読んでいる間に、諸天界と、あるときはその中のこの社会と、あるときはかの社会と連なることが出来、私がその自然的意義に従って理解したことを、霊的天使たちはその霊的意義に従って理解し、天的天使たちはその天的意義に従って理解し、しかもそれが一瞬にして行われることを認めることが出来たのである。私はこうした連なりを幾度も認めているため、私はそのことは些かも疑ってはいないのである。更に諸天界の下にはこうした連なりを濫用する霊らがおり、彼らは何かの言葉をその文字の意義から唱えると、すぐさま連なることの出来る社会に気づき、これを注視するのである。こうしたことを私は再三見もし、また聞きもしたのである。こうした事柄から、私は、聖言はその文字の意義の方面で[聖言の文字の意義は]主と天界と連結する神的な媒介[手段]であることを実際的な経験から知ることが出来たのである。(聖言によるこうした連続については、「天界と地獄」を扱った著作に言われていることもまた参照されよ、303−310)。
主が聖言により人類と連結されていることが、または天界の天界が世と連結していることがここに話されているため、そのことの実情の如何ようなものであるかを述べなくてはならない。聖言の性質を知らない者は、聖言により主が人類と連結され、天界が世と連結していることを到底信じることは出来ないし、まして聖言を軽蔑したり、またはそれを問題にしいていない者は絶対に信じることは出来ない。しかし諸天界は神的な真理[神の真理]により存続しており、それがないなら諸天界は存在しないのであり、人類は天界により存続していることを彼らは知らなくてはならない、なぜなら天界が人間のもとへ流れ入らない限り、人間は些かも考えることは出来ないのであり、かくて何事も合理的に意志する[欲する]ことも出来ないからである。それで天界が存続し、人類が天界と連結することにより存続するために、天使たちと人間に対する神的な真理を宿した聖言が主により供えられたのであり、聖言はその文字では非常に単純で、洗練されたものではないように見えるものの、その霊的な天的な意義では、人間はその卓越性を殆ど全く考えることも出来ないほどにもすぐれた度における天使の知恵そのものをその中に含んでいるといった性質を持っているのである。
天界の秘義10452[3]
ここから天界は、聖言が人間により読まれているとき、その聖言からその知恵の中に在リ、そのときそれと同時にその人間は天界と連結していることが明白である。こうした目的の下にこうした聖言が人間に与えられたのである。ここからもしこうした連結の手段が世に存在しないなら、天界との連結は死滅してしまい、この連結とともに人間における意志の善の一切も、理解の真理の一切も死滅し、それとともに人間を人間に交わらせるかの人間性そのものもまた死滅してしまい、従って悪と誤謬とに完全に掌握され、そのため社会は次から次へと死滅してしまったことが生まれてくるのである。なぜならそのときは人間は何処へ行こうとも暗闇に包まれて、躓いてしまうときのようにもなり、また頭が錯乱して、その結果身体が狂い、正気を失って破壊されるときのようにもなり、また心臓が衰弱して、そのため器官と部分とがその機能を遂行することが出来なくなり、遂には身体全体が死んでしまうときのようにもなるからである。
天界の秘義10452[4]
天界が人間と連結しない限り、人間の状態はこのようになるであろうし、聖言がない限り、または古代におけるように、神的な真理が天使たちを通して直接に伝達されない限り、天界は人間と連結はしないのである。天界のことが言われるとき、神的なものもまた意味されているのである。なぜなら主の神的なものが天界を作っているからであり、それで天界と連結することは主と連結することであり、天界から分離することは主から分離することであり、主から分離することは死滅することである、なぜなら善に向って物事を処理することはことごとく―それは摂理と呼ばれているが―この源泉から発しており、こうした処理が除かれるなら、凡ゆるものは悪に突入し、かくして荒廃してしまうからである。この凡てから聖言は如何ようなことに役立っているかを認めることが出来よう。しかし聖言はこうした性質を持っており、このような偉大な用を果たしていることを信じる者は僅かしかいないのである。
天界の秘義10495
「彼が今日あなたらに祝福を与えられるためです。」これは聖言から神的な真理を受け入れて、それにより主と連結することを意味していることは、『祝福』の意義から明白であり、それは全般的には主により人間に与えられるものであり、主の与えられるものは凡て愛の善と信仰の真理とに関連しているため、このものが、またこのもとから発した凡ゆるものが『祝福』により意味されているものであり、それでここでは聖言から神的な真理を受け入れて、そのことにより主と連結することが意味されているのである(1096、2846、3017、3406、4216、4981、6298、8674、8939番を参照、『祝福』は主との連結を意味している、3504、3514、3530、3565、3584、6091、6099番)。この間の実情のいかようなものであるかは前の記事で示したところである、聖言を通して主は人間と連結され、天界は世と連結することについては、10452番を参照されたい。
天界の秘義7211
神的な人間的なもの〔神の人間性〕が天界の凡てのものである理由は、そこではたれ一人、最内部の、または第三の天界の天使でさえも、ヨハネ伝の『これまでにたれ一人神を見た者はない』(ヨハネ1・18)、『あなたらはいかような時にも父の御声を聞いたこともなく、またその御形を見たこともない』(ヨハネ5・37)という主の御言葉に従って、神的なものそれ自身についてはいかような考えも抱くことが出来ないということである。なぜなら天使たちは有限なものであり、有限なものは無限なものを考えることは出来ないからであり、それで天界では彼らは神については人間の形を考えない限り、何の考えも持たないか、または不当な考えを抱くかし、かくて信仰によっても、愛によっても神的なもの〔神〕と連結することは出来ず、それが実相であるため、天界では彼らは人間の形を取られた神的なものを認めているのである、そこから諸天界における神的な人間的なもの〔神の人間性〕が彼らの注視する凡てのものであり、かくて彼らの信仰と愛との凡てのものとなっており、そこから連結が生まれ、連結を通して救いが生まれているのである(6700番)。