最高の教義・最高の真理

 

ヨセフ(ヤコブの子)

心を尽くし、精神を尽くし(マタイ22・37)

高価な真珠の譬(マタイ13・46)・・真珠

善と真理との連結連結

神的人間性

 

 

 

1.二つの主要な教義

2.最高の教義、最高の真理

3.宗教の生命

4.たれが神的なものでないものを崇拝しようか

5.そのことを承認しないならば、主は人間の中の諸真理へ流れ入って、それと連結されることは出来ない

 

 

 

 

1.二つの主要な教義

 

 

天界の秘義2859

 

聖言における教義のすべてのものは人間については主を拝し、主を愛することである。

 

 

 

天界の秘義4723

 

教会を構成している二つの本質的なものがあり、そこから教義には二つの主要なものがあり、その一つは主の人間的なものは神的なものであり、他の一つは主に対する愛と隣人に対する仁慈が教会を作るものであって、それは愛と仁慈とから分離した信仰ではないということである。

 

 

 

天界の秘義4766[2]

 

主の人間的なものが神的なものであるというこの神的真理[神の真理]が受け入れられないなら、必然的に三一のものを崇拝して、一つのものを崇拝してはならないことが生まれてくるのであり、また主の半分は、即ち、主の神的なものは崇拝しなくてはならないが、その人間的なものは崇拝してはならないということが生まれてくるのである、なぜならたれが神的なものでないものを崇拝しようか。そして三一神が、即ち、一人が他の一人から分離して拝されている所に、または三人が等しく拝されているところでは、教会は何か意味のあるものであろうか、なぜなら三人は一人であると呼ばれてはいるものの、それでもその思いは三人を区別して、三人を作り出し、ただ口の言葉のみが一人と言っているに過ぎないからである。たれでも自分は一人の神を承認して、一人の神を信じていると言う時、自分自身の中では三人の神を考えていないかを反省してみられよ、また父は神であり、子も神であり、聖霊も神であり、これらはまた人格では明確に区別され、働きも明確に区別されていると言う時、三人は互に他からは明確に区別されてはいるが、和合していいることによって、また一人は他の一人から発出している限り身を卑しくすることによって、一人のものとなっているという方法によらなくては、一人の神がいるということを考えることが出来るか否かを反省してみられよ。それで三人の神が崇められるとき、教会は何処に在るであろうか。

 

 

 

天界の秘義4766[3]

 

しかし主御自身が以下のように言われているように、即ち、『あなた方はわたしを信じないにしても、業を信じなさい、あなた方が父はわたしの中に、わたしは父の中にいることを知り、信じるためである』(ヨハネ10・38)、『わたしを見た者は父を見たのである、ピリポよ、あなたはわたしが父の中に、父がわたしの中におられることを信じませんか、わたしは父の中に、父はわたしの中におられるというわたしを信じなさい』(ヨハネ14・9−11)、『わたしを見る者はわたしを遣わされた者を見るのである』(ヨハネ7・45)、『わたしのものは凡てあなたのものであり、あなたのものは凡てわたしのものである』(ヨハネ17・10)と言われているように、その中に完全な三一のものが在り、父の中におられ、また父がその中におられる主のみが崇拝されると、その時は基督教会が存在するのであり、同じく教会が主が以下のように言われたことの中に止まるとき基督教会が存在するのである、即ち、『すべての誡命の中で最初のものはこれである、ああイスラエルよ、聞け、われらの神、主は一人の主である、あなたはあなたの神、主を心情を尽くし、魂を尽くし、心を尽くして愛さなくてはならない、第二もそれに似ている、即ち、これである、あなたはあなた自身のようにあなたの隣人を愛さなくてはならない、これらのものより大きな誡命は他にない』(マルコ12・29−31)。『われらの神、主』は主であられることは他の所に見ることが出来よう(マタイ4・7、10、22・41−45、ルカ1・16、17、ヨハネ20・28)、同じく旧約聖書の『エホバ』は新約では『主』と呼ばれていることも見ることが出来よう(2921番を参照)。

 

 

 

 

2.最高の教義、最高の真理

 

 

天界の秘義4687

 

『ご覧、私の束は起き上がり、またまっすぐに立ちました』。これは主の神的な人間的なものにかかわる教義的なものを意味していることは以下から明白である、即ち、『束』の意義は教義であり(直ぐ前を参照)、『起き上がって、まっすぐに立つこと』の意義は統べ治めなくてはならない、また彼らが崇拝しようとする最高のもの[最高の教義]である。これは主の神的な人間的なものであることは以下の記事から明白である、即ち、十一の束がその束に身をかがめたのであり、第二の夢では、陽と月と十一の星とがヨセフに身をかがめたのであり、そのことにより、統べ治めなくてはならない、また彼らが崇拝しようとする最高のものが意味されており、それでまたヤコブは、『私とおまえの母とおまえの兄弟たちはほんとにおまえのもとへ来て身をかがめ地に平伏するのであろうか』と言っているのである。前に言ったように、主の神的な真理がヨセフにより表象されるものであり、その真理の最高のものは主御自身であり、幾多の教義的な事柄の中でも最高のものは主の人間的なものが神的なものであるということである。

 

 

 

 

天界の秘義4692

 

この主題そのものについては、これが凡ての中でも、仁慈から信仰を分離した教会が特に軽蔑し、また反感を抱くところの最高の真理であり、即ちそれは主の人間的なものは神的なものであるということである。

 

 

 

天界の秘義4731

 

信仰から始る教会は、もしその中に以下の神的な真理が、即ち、主の人間的なものは神的なものであるという真理が残っていないなら、教会でなくなるからである、なぜならそれは教会の最高のまたは最も内なる真理であるからである。こうした理由からルベンは、ここでこの真理を表象しているヨセフを彼の兄弟たちの手から救い出して、父に返そうと願ったのであり、そのことによりそれはこの真理を教会のために求めようと願ったことが意味されているのである。さらにルベンは坑に帰って、ヨセフがそこにいないのを見ると、彼はその衣を裂いて、兄弟たちに、『子供はいない、そして私は、私は一体どこに来るのか』と言ったが(29、30節)、そのことにより主に対する信仰は最早無く、かくて教会が無いことが意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義4731[2]

 

 主の人間的なものは神的なものであるというこの最高の、または最も内なる真理は、信仰のみの中にいる者らにより否定されてはいるものの、それでも彼らは聖言から、主の中には神的なものが在ることを知っており、人間的なものがいかようにして神的なものになることが出来るかを把握しないため、その両方のものを主に帰して、主の神的な性質と人間的な性質とを区別しているのである。しかしながら信仰の生命の中に、または仁慈の中にいる者たちは、主を己が神、救い主として崇めており、そして崇めている時は主の神的なものを人間的なものから分離しないで考えており、かくて心の中で主における凡てのものが神的なものであることを承認しているのである。しかし彼らは教義から考えるときは、同じように人間的なものがいかようにして神的なものになり得るかを把握することが出来ないため、その教義に従って語っているのである。

 

 

 

 

3.宗教の生命

 

 

天界の秘義4733

 

主の神的な人間的なものを承認し、崇拝することが宗教の生命であることは、直ぐ前に言われたことから明らかであり(4731番)、また以下の事実からも明らかである、すなわち、人間は多少なりと認識し、考えることが出来るものを拝そうと欲するといった性質を持っており、感覚的な人間は何らの感覚により認めることが出来るものをさえ拝そうとしており、また彼らはその中に神的なものが存在していない限り、それを拝そうともしないのである。これは人類に共通である。こうした理由から異邦人は神的なものがその中に存在していると信じている偶像を拝しており、他の者は人間をその死後拝して、これを神か、または聖徒であると信じている。なぜなら人間の中には、その感覚に影響を及ぼす何ものかがない限り、何一つ呼び出されることは出来ないからである。

 

 

 

天界の秘義4733[2]

 

 自分は最高の存在を承認していると言ってはいるが、その存在については何ら認識の観念[考え]を持ってはいない者らの大半は神を全く承認してはおらず、その代わりに自然を承認している、なぜなら彼らは自然を把握するからである。基督教徒の間の学者たちの非常に多くの者はこのようなものであるが、そのこともまた彼らが主の人間的なものが神的なものであることを信じないためである。それで人間が神的なものから自らを甚だしく遠ざけてしまい、形体的なものになってしまって、木や石を拝さないように、また人間をたれかその死後拝し、かくてその人間の下に悪魔をたれか拝し、神をいかような方法によっても認めることが出来ないため、神自身を拝しはしないことのないように、かくて教会の凡ゆる物が滅んで、教会と共に人類も滅んでしまわないように、神的なものそれ自身が人間的なものを取って、それを神的なものにしようとされたのである。それで学者たちは主の人間的なものを考えると同時に、それが神的なものではないと信じないように注意されたい、なぜならそのようなことを為すことにより彼らは自ら躓くものを作って、遂には何ごとも信じなくなってしまうからである。

 

 

 

天界の秘義4738[2]

 

さらにこの真理については古代教会はそれを承認し、また原始基督教会もそれを承認したことを知らなくてはならない、しかしイザヤ書にバビロンの王について、『おまえは心の中で、わたしは天に昇り、わたしの王座を天の星の上にも上げ、集会の山に坐り、雲の高い所の上にも昇り、至高者のようにもなろうと言った』と言われているように、法皇権が全人類の霊魂を治める主権にさえ至るまでも昂進して、それ自身を高めてしまった後では、主の人間的なものからは神的なものは取り去られてしまったのであり、すなわち、主の神的なものと主の人間的なものとが区別されたのである。

 

 

 

天界の秘義4738[3]

 

このことが或る会議でいかようにして布告されたかもまた私に啓示されたのである。

 

 

 

 

4.たれが神的なものでないものを崇拝しようか

 

 

天界の秘義4766[2]

 

主の人間的なものが神的なものであるというこの神的真理[神の真理]が受け入れられないなら、必然的に三一のものを崇拝して、一つのものを崇拝してはならないことが生まれてくるのであり、また主の半分は、即ち、主の神的なものは崇拝しなくてはならないが、その人間的なものは崇拝してはならないということが生まれてくるのである、なぜならたれが神的なものでないものを崇拝しようか。そして三一神が、すなわち、一人が他の一人から分離して拝されている所に、または三人が等しく拝されているところでは、教会は何か意味のあるものであろうか、なぜなら三人は一人であると呼ばれてはいるものの、それでもその思いは三人を区別して、三人を作り出し、ただ口の言葉のみが一人と言っているに過ぎないからである。たれでも自分は一人の神を承認して、一人の神を信じていると言う時、自分自身の中では三人の神を考えていないかを反省してみられよ、また父は神であり、子も神であり、聖霊も神であり、これらはまた人格では明確に区別され、働きも明確に区別されていると言う時、三人は互に他からは明確に区別されてはいるが、和合していいることによって、また一人は他の一人から発出している限り身を卑しくすることによって、一人のものとなっているという方法によらなくては、一人の神がいるということを考えることが出来るか否かを反省してみられよ。それで三人の神が崇められるとき、教会は何処に在るであろうか。

 

 

 

 

 

5.そのことを承認しないならば、主は人間の中の諸真理へ流れ入って、それと連結されることは出来ない

 

 

天界と地獄376

 

諸真理に連結している善は凡て主から発しているため、何人も主と主の神的なものを承認しない限り、真の結婚愛にいることは出来ないことが推論される、なぜならそのことを承認しないならば、主は人間の中の諸真理へ流れ入って、それと連結されることは出来ないからである。