ヨセフ(ヤコブの子)
1.『すすぐこと』と『加えること』
2.主の霊的な王国
3.主の神的な霊的なもの、または神的な真理
4.合理的なものである天的な霊的な人
5.最高の教義
6.内なる善
1.『すすぐこと』と『加えること』
天界の秘義3969
『神はわたしの恥をすすがれた』の意義から、また『エホバがわたしに他にも一人の息子を加えられますように』の意義から明白である、なぜならかれは『すすぐこと』と『加えること』から『ヨセフ』と名づけられたからである。
2.主の霊的な王国
天界の秘義3969[2]
ヨセフにより主の霊的な王国が表象され、かくて霊的な人を構成している二つのもの、すなわち、仁慈と信仰があり、またはそれと同一のものではあるが、善と真理とがある。信仰が存在する源泉である仁慈は、または真理が存在する源泉である善はヨセフにより表象されるものであり、仁慈がその中に存在しているところの信仰は、または善がその中に存在しているところの真理は『他の一人の息子』により意味されるものであり、ベニヤミンにより表象されるものである―かれについては創世記35・16−18に述べよう。かくて『ヨセフ』は天的な霊的な人であり、ベニヤミンは霊的な人である。
天界の秘義3969[5]
霊的な人は信仰の善の中に(すなわち、真理が存在する源泉である善の中に)いるが、しかしかれが霊的なものになる以前は信仰の真理の中に(すなわち善がその中に存在している真理の中に)いるからである、なぜなら主題が真理であるときは『神』が用いられるが、それが善であるときは『エホバ』が用いられるからである(2586、2807、2822、3921番)。
天界の秘義3969[6]
ヨセフにより主の霊的な王国が、または霊的な人が表象され、かくて信仰の善が表象されていることもまたかれのことが言われている聖言の記事から認めることができよう、
3.主の神的な霊的なもの、または神的な真理
天界の秘義3969[16]
ヨセフによりその最高の意義において表象されているところの主の神的な霊的なもの、または神的な真理については、それは主の中にはなくて、主から発しているのである、なぜなら主は神的善[神の善]以外の何ものでもなく、神的真理は神的善から発出しているからである。たとえて言うなら、それは太陽とその光のようなものであり、光は太陽の中にはなくて、太陽から発出しているのである、またはそれは火のようなものであって火の光は火の中にはなくて、火から発出しているのである。神的善それ自身もまた聖言では『陽』にまた『火』にたとえられ、同じく『陽』、『火』と呼ばれている。主の天的な王国は主から発出している善から生きているが、しかし主の霊的な王国はそこから派生している真理から生きており、それで他生では主は天的な者には陽として現れておられるが、しかし霊的な者には月として現れておられるのである(1053、1521、1529−1531、3636、3643番)。熱も光も太陽から発出しており、熱は―たとえて言うと―愛の善であって、それはまた天的な熱と霊的な熱と呼ばれ、光はそこから派生している真理であって、霊的な光ともまた呼ばれている(3636、3643番)。
天界の秘義3969[17]
このことからわたしたちは神的な霊的なものとは何であるかを、また霊的な王国は何処から、また天的な王国は何処から発しているかを求めることができるのであり、霊的な王国は信仰の善であり、すなわち、仁慈であり、それは主から直接流れ入り、また天的な王国を通して間接的に流れ入っていることを認めることができるのである。主から発出している神的な霊的なものは聖言では『真理の霊』と呼ばれていて、聖い真理であり、それは何れかの霊のものではなくて、主によって遣わされた霊を通して来ている主のものであり、そのことはヨハネ伝の主御自身の御言葉から認めることができよう―
かれが、すなわち、真理の霊が来るとき、かれはあなたたちを凡ゆる真理の中へ導き入れるであろう、なぜならかれはかれ自身から語るのではなくて、いかようなことであれ、その聞くことをことごとく語り、また将来おこることも明らかに述べるからである、かれはわたしを栄化するであろう[かれはわたしをあがめるであろう]、なぜならかれはわたしのものをとって、それをあなた方に明らかに述べるからである(ヨハネ16・13、14)。
4.合理的なものである天的な霊的な人
天界の秘義4286[3]
しかし天的な霊的なものの何であるかもまた簡単に述べてみよう。直ぐ前に霊的なものであると言われた者たちは天的な霊的なものと呼ばれており、彼らは中間の、または第二の天界にいるのであり、彼らは相互愛から『天的なもの』と名づけられ、そこから派生してくる理知から『霊的なもの』と名づけられているのである。そこの内なる天使たちはヨセフにより表象される者たちであり、聖言の中では、また『ヨセフ』と呼ばれているが、そこの外なる者はイスラエルにより表象されている者たちであって、聖言の中ではまた『イスラエル』と呼ばれている。前の者たちは(すなわち『ヨセフ』と呼ばれている内なる天使たちは)合理的なものを帯びているが、しかし『イスラエル』と呼ばれている外なる者たちは自然的なものを帯びている、なぜならこれらの者は合理的な者と自然的な者との中間にいるからである。このことがイスラエルは、自然的なものの中におり、かくて自然的なものである天的な霊的な人であり、ヨセフは合理的なものである天的な霊的な人であると言われている理由である。なぜなら普遍的な意義では愛と仁慈とのものである善はすべて天的なものと呼ばれ、そこから派生してくる信仰と理知との真理はすべて霊的なものと言われているからである。
5.最高の教義
天界の秘義4687
『ご覧、私の束は起き上がり、またまっすぐに立ちました』。これは主の神的な人間的なものにかかわる教義的なものを意味していることは以下から明白である、即ち、『束』の意義は教義であり(直ぐ前を参照)、『起き上がって、まっすぐに立つこと』の意義は統べ治めなくてはならない、また彼らが崇拝しようとする最高のもの[最高の教義]である。これは主の神的な人間的なものであることは以下の記事から明白である、即ち、十一の束がその束に身をかがめたのであり、第二の夢では、陽と月と十一の星とがヨセフに身をかがめたのであり、そのことにより、統べ治めなくてはならない、また彼らが崇拝しようとする最高のものが意味されており、それでまたヤコブは、『私とおまえの母とおまえの兄弟たちはほんとにおまえのもとへ来て身をかがめ地に平伏するのであろうか』と言っているのである。前に言ったように、主の神的な真理がヨセフにより表象されるものであり、その真理の最高のものは主御自身であり、幾多の教義的な事柄の中でも最高のものは主の人間的なものが神的なものであるということである。
6.内なる善
天界の秘義5826[5]
更に人間が再生して教会となるためには、真理を通して善へ導かれなければならないのであり、真理が意志における、また行為における真理となるとき、かれは導かれるのである。この真理は善であり、真理の善と呼ばれ、新しい諸真理を絶えず生み出すのである、なぜならそのとき初めてそれはそれ自身を豊かに実らせるからである。そこから生み出され、または実った真理は内なる真理と呼ばれるものであり、それが発生してくる源泉である善は内なる善と呼ばれている。なぜなら何一つそれが意志の中に植えつけられるまでは内なるものとはならないからである、なぜなら意志のものであるものは人間の最も内なるものであるからである。善と真理とが意志の外側に在って、理解の中にのみ在るかぎり、それらは人間の外側に在るのである、なぜなら理解は外に、意志は内に在るからである。
天界の秘義5827
「一人はわたしから出て行ってしまった」。これは内なる善が外観的には去ってしまったことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『出て行くこと』または去ってしまうことの意義は去ることであり、ヨセフの表象は内なる善である(そのことについては前を参照)。その去ったことは表面のみのことであったことは明らかである、なぜならヨセフは依然生きていたからである。このかんの実情は以下の如くである。ヨセフについて述べられていることにより、始めから終りまで、主の人間性の栄化が順序を追うて表象されているのであり、従って低い意義では人間の再生が表象されているのである、なぜなら人間の再生は主の栄化の映像または模型であるからである(3138、3212、3296、3490、4402、5688番を参照)。人間の再生の実情は以下のようなものである。人間が真理を通して善へ導き入れられつつある最初の状態では、真理は世の光の中に在って、身体の感覚的な物からへだたってはいないため、それは明らかに現れているのである。しかし善は異なっている、なぜなら善は天界の光の中に在って、身体の感覚的な物からへだたっているからである、なぜならそれは人間の霊の中に在るからである。ここから信仰のものである真理は明らかに現れてはいないのである。人間はそれ以外の方法では決して再生することはできないのである。しかしこの状態がすぎると、そのときは善はそれ自らを明らかに示し、しかもそのことは隣人に対する愛により、また生命のために真理を求める情愛により行われるのである。これらのこともまたヨセフが連れ去られて、父に現れはしなかったが、後に自らをかれに明らかにしたことにより表象されている事柄である。こおこともまた内なる善が外観的には[表面では]去ったことにより意味されており、その去ったことが『その一人はわたしから出て行ってしまった』により意味されているのである。
天界の秘義5901
「神が送られたのである」。これは神的な者がそれを為されたことを意味していることは解説の要もなく明白である。この間の実情のいかようなものであるかは、ヨセフについて、かれはエジプトへ売られ、そこで先ずポテパルの家に仕えたと言われたところに明らかにしたのである。すなわち、ヨセフはその最高の意味では主を表象し、低い意味では主により再生されつつある者を表象したため、記憶知が最初に学ばれねばならないものである、なぜなら記憶知はそこから真理が結論づけられ、またその中に真理がそのとき終結しなければならないものであるからである。その後でさらに内的な事柄に向って進むことが行われるのである。凡てこのことはヨセフが表象したことであり、それがそうであるため、かれをそこに送ったのは神的なものであったのである。