ヨセフ(ヤコブの子)

 

 

天界の秘義4686

 

「ごらん、わたしたちは畠のもなかで束をつかねていました」。これはかれらが教義から教えていたことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『束』の意義は教義であり、そこから、『束をつかねること』の意義は教義から教えることであり(そのことについては後に述べよう)、『畠』の意義は教会である(2971、3766、4440、4443番)。『畠のもなか』は教会の内的なものであり、かくてそれは何らかの仁慈の信仰の中にいる者たちである、なぜなら『もなか[まんなか]』はその内意では内的なものと最も内なるものであるからである(1074、2940、2973番)。なぜなら教会各々の中にはそのまん中にいる、または最も内なるものである者たちがいく人かいて、かれらは仁慈の中にいる者たちであり、ここでは最小の仁慈の信仰の中にいる者たちであるからである。これらの者のもとに主は現存されている、なぜなら主は仁慈の中におられ、仁慈を通して信仰の中におられるからである(4672番)。これらの者が意味されていることは以下の記事からもまた明白である、すなわち、ヨセフの束が起きて、他の束がその周囲に来たことからも明白である、なぜならヨセフの束により主の神的真理から発している教義が意味されているからである。

 

 

天界の秘義4686[2]

 

束が教義を意味しているのは、今し方言ったように、畠は教会であり、畠の中に立っている穂は教会における真理であるためであり、それで穂が在る束はその中に真理が在る教義を意味している。『束』にはダビデの書では類似の意義があるのである―

 

 涙の中にまく者は歌いつつ刈り取るであろう、種子のますをたずさえて泣きながらその道を歩んで行くが、必ずやその束をたずさえて、歌いつつ再び帰ってくるであろう(詩篇126・5、6)。

 

これは霊的に捕われてはいたが、自由にされた者について言われているのである。『種子のますをたずさえること』は真理を教えられることを意味し、『歌いつつ帰ってくること』は真理の情愛[真理に対する情愛]の喜びを意味し、『束をたずさえてくること』はこの真理の狭義的な事柄を意味している。

 

 

 

 

 

天界の秘義4687

 

前に言ったように、主の神的な真理がヨセフにより表象されるものであり、その真理の最高のものは主御自身であり、いくたの教義的な事柄の中でも最高のものは主の人間的なものが神的なものであるということである。

 

 

「わたしの束(ヨセフの)は起き上がり、またまっすぐに立ちました」

 

統べ治めなくてはならない、またかれらが崇拝しようとする最高のもの[最高の教義]である、これは主の神的な人間的なもの、十一の束がその束に身をかがめた

 

陽と月と十一の星とがヨセフに身をかがめた