小さな仕事も愛をもって行う

 

 

愛徳生贄

人は目に映ることを見るが、主は心によって見る(サムエル記上16・7)

わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは(マタイ25・40)

主をお喜ばせする

 

 

 

 

1.聖書

2.トマス・ア・ケンピス

3.ヴァッスーラ

4.シスター・エマヌエル

5.マリア・ワルトルタ

6.スウェーデンボルグ

7.マザー・テレサ

8.ルイザ・ピッカレータ

9.サンドロ・ニョッキ

10.ベルナデッタ

11.アグレダのマリア

12.マーリン・キャロザース

13.グリニョン・ド・モンフォール

14.ヨゼファ・メネンデス

15.サンダー・シング

16.コンソラータ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

サムエル記上16・7

しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

 

 

 

ミカ書6・6−8

 

何をもって、わたしは主の御前に出で

いと高き神にぬかずくべきか。

焼き尽くす献げ物として

当歳の子牛をもって御前に出るべきか。

主は喜ばれるだろうか

幾千の雄羊、幾万の油の流れを。

わが咎を償うために長子を

自分の罪のために胎の実をささげるべきか。

人よ、何が善であり

主が何をお前に求めておられるかは

お前に告げられている。

正義を行い、慈しみを愛し

へりくだって神と共に歩むこと、これである。

 

 

 

マタイ9・12−13

 

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 

 

 

マルコ12・41−44

 

 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群集がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 

 

 

ヨハネ3・12−14

 

 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。

 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。

 

 

 

黙示録2・23

 

こうして、全教会は、わたしが人の思いや判断を見通す者だということを悟るようになる。わたしは、あなたがたが行なったことに応じて、一人一人に報いよう。

 

 

 

 

2.トマス・ア・ケンピス

 

 

キリストに倣いて/1・3・5

 

ああ、人々がもし知識上のことを問題にするほど熱心に、悪を去り善を行うのに努めたならば、世間にはこれほど多くの罪悪(つみ)や醜聞(いやなこと)も起らず、また修道院内にもこれほど多くの不規律はなかったろうに。

まことに、審判の日に私たちが尋ねられるのは、なにを読んだかということではなく、なにをしたかということであり、いかに雄弁を揮ったかということではなくいかに信仰厚く生活(くら)したかということである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・15・1

 

 愛のない表面(うわべ)の行いはなんの役にも立たない。しかし愛から出る行いはどんなに小さくつまらないことでも、みな大いに効果がある。

 それは神が、人の行いの大小よりも、むしろ愛の大小に重きをおおきになるからである。

 

 

 

中世思想原典集成17/平凡社/トマス・ア・ケンピス/貧者の宿/P329

 

謙虚ですみやかな服従をもってするなら、小さなわずかな奉仕でも、すこぶる神を喜ばす。

 

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/天使館/ランプのあぶら/花むこから花嫁への呼びかけ/P52

 

 小さな例をあげましょう。イエスが私を教え始められた初期の頃。イエスはいつも日中、その日の出来事をとおして教えられました。ある日メッセージを書いていると、電話が鳴ります。電話が鳴ると直ぐ、イエスは書きおろしを止められたので、受話器を取ってよいと分かったのです。それは母からでしたが、彼女は膝が悪くてよく歩けません。電話ごしに、「ヴァッスーラ、ひとっ走りして店が閉まる前にパンを買って来てちょうだい。今すぐ!」と言います。私は、「ちょっと待って」と答えようとしました。イエスのおことばを書きおろしているのです。イエスは眉を上げて「パンを買いに行きなさい」という合図をなさいました。そして「はい、行きます」と答えて受話器をおろした後、イエスはおっしゃいました。「あなたが誰に仕えていようとそれは、私に仕えていることです」と。ほかの人、隣人にすることは、すべてがイエスにしていると、こうした仕方で教えて下さったのです。

 

 

 

ヴァッスーラ/あなたは預言を無視しますか/P99

 

イエスは、いつも私のかたわらにいるとおっしゃっています。私がなにをするときにもイエスはいつも私と一緒です。もしもなにかやりたいことを選びなさいと言われたら、いつもイエスのお側で祈ったり、お話しを聞きたいと思います。でも家庭では、料理をしたり、掃除機をかけたり、洗濯をしたり、あれやこれとやらなければならないことばかりです。イエスは私をご覧になって、こうおっしゃいます。「いいかね、私のためにやりなさい。これからやろうとしているすべてのことを、私に捧げなさい。愛情をこめて、私のために。そうすればあなたにとってつまらない雑事が、私の目には重要なものになる。もしあなたが愛情をこめてそれを行えば」。

 

 

 

ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか・現代の預言者ヴァッスーラに聞く/P224

 

ヴァッスーラ、自分の仕事を捨てて、私に従う者は幸いだ。実際、あなたは多くの時間を、私と一緒に書くために捧げてくれた。だが、他にも言わせてほしい。私はまた、あなたが働き、小さな務めを、大して重要でないような務めを立派に果す姿を見るのも好きだ。それらの仕事を、あなたが愛をもって行っていさえすれば。あなたが行う小さな仕事は、どんなにささやかな、取るに足らないものであっても、私の目には大きく映り、快いものだ。それらのささやかな仕事が、愛をもって行われている限りは。祝福を受けなさい。(1987年2月18日)

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P74

‘87・2・18

 

ヴァッスーラ、自分たちの仕事から退いて 私に従う人びとは幸せです。 あなたは本当に沢山の時間を私と一緒に書くために捧げている、しかし ほかにも言わせてほしい。 私はあなたが働き 小さな務めを果すのを見るのも好きです、大して重要でない務めであっても、愛をもって行うなら。 あなたの行うすべての小さな仕事は、どんなに小さく無意味なものであっても 私の目には大きく映り 私を喜ばせる。 これら小さな行いが愛をもってなされるなら。 祝福を受けなさい。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P174

 

‘87・5・7

 

イエスよ、「あなたを愛しています」と主に百回も言ってはいないのをご存じですか。でも、あなたは千回、そう言うようにと頼まれました!

 

ヴァッスーラ、ああ、ヴァッスーラ、愛をこめてなされた行為はどれも「あなたを愛しています」と私に伝えていることを 知らないのか、あなたは こうしたやり方によっても愛を示しているのです。あなたの人生でなされる行為はどれもすべて私にたいしてなされたものです♡ 来なさい。美しくなって! 栄えなさい! 輝きなさい! 香りを放ちなさい! 私を愛の花輪で飾りなさい、花びら一枚一枚を 茨の冠一本一本の棘と置き替えなさい、花びらが多ければ多いほど、私を突き刺す棘は少なくなろう、愛している、私を愛しなさい、ほかの人びとにも私を愛するように教えなさい、私の訴えをこの人びとに見せてほしい♡

 

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・7巻P238

‘95・2・18

 

あなたは来るべき大いなる出来事の夜明けに直面している。 心をこめた仕事をするように。 それから互いに優しく接しなさい。 いいかげんな仕事は私の気を損ねる。 ああ、与えなかったもので これ以上何かほかに与えられたであろうか? ゲルトルート(*1)にだけ示し 人類の目には隠されていたこの尽きない宝を あなたに与えた、その宝とは彼女の心をすっかり魅了し 目はその不思議(*2)にすっかり奪われた。

 *1彼女は使徒聖ヨハネに、それを示されました。  *2終わりに付記されているメモを参照。

この尽きない宝は あなたの時代: 時のおわりに取っておかれたもの。 我が聖心はこれらの富を あなた方の時代まで大切に取っておいた。

 

 

 

 

4.シスター・エマヌエル

 

 

シスター・エマヌエル/メジュゴリエの証言者たち/P67

 

ヤコブは1983年9月5日、彼の母親ヤカが亡くなったその日に、彼女がすでに天国にいるということを知って、大きな喜びを与えられた。私はヴィッカに、これについていくつか質問した。

「あなたの考えでは、ヤカの生活の中で、どうして彼女はそのように早く天国に行くことができたの?」

「それはとても簡単なことよ」ヴィッカは答えた。「彼女はすべての小さな日々の仕事を、愛をもって、全心をこめてしたのよ。神は私たち一人ひとりに一つの仕事を委ねられる。あなたは書物を書き、そして私は巡礼者たちに話す。私たちはその仕事を心をこめてしなければならないのよ。そのことがそれを偉大なものとするのよ!

 神は山々を動かし、それをどこか他の場所に移すことを私たちに求めてはおられない。その人にとって問題なのは、小さな日常的な事柄です。多くの人々はあまりにも複雑すぎる。ヤカは何か普通でないことは何一つしていない。でも、神は彼女の心がいかに大きいかをご覧になったんだわ。」

 

 

 

 

5.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P137

 

義人として生きるならば、いつか手にするであろう天の国は、毎日の小さいことによって作られる。慈悲をもって、清い心をもって忍耐をもって、与えられているもので満足することをもって。お互いのゆるし合い、愛、愛、愛をもって。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P309

 

善意の行いは、彼らの救いの始りとなりえます。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P41

 

 まことに、わたしはあなたたちに言う、愛の行為は、どんなに小さなものであっても、たとえ苦しんでいる他者のために発する同情の溜息でさえも、報いなしにはすまない。無限の報いが天にある。そう、それは大きな報いである。すでに現世においてもそれを経験している人々以外には理解できない報いである。わたしの善意の人々すべてにはキリストの平和の報いがあり、わたしがわたしの慰めを見出すために来る『この上無く善良な、この人々』には言葉の輝きの報いがある。

 

 

 

 

6.スウェーデンボルグ

 

 

神の愛―遺稿13(静思社/黙示録講解第12巻に併録)

 

第3天界の天使について

 

彼らは主を愛することは用である善を行うこと以外の何かであるとは全く考えてはおらず、用は自分たちの許におられる主であられると言うのである。用により彼らは、祭司、統治者のみでなく、商人と工人における聖職、統治、職業を理解しており、彼らの職業に関係していない善い業を彼らは用とは呼ばないのであり、それらを施し、喜捨、心附けと呼んでいる。

 

 

 

黙示録講解478(3)

 

『彼らは昼も夜もその方にその方の神殿に仕える』(黙示録7・15)と言われているが、しかしこれは彼らが連続して神殿の中におり、または連続して礼拝と祈りの中にいることを意味してはいない、なぜならそうしたことは天界では行われはしないからである。そこでは各々の者はことごとく、世にいたときのように、その業務と仕事に携わっており、時折、世にいたときのように神殿におりはするものの、常に真理の中にいるときは、『昼も夜も神に仕える』と言われるのである。なぜなら善い霊と天使とはことごとくその者自身の真理とその者自身の善であるからである、なぜなら彼らは真理と善を求める情愛であるからである。情愛または愛は各々の者の生命を構成しており、従って真理に対する情愛の中にいる者たちは、その業務、事務、職業に携わっているときでさえも、絶えず主に仕えているのである、なぜなら内部に在る情愛が絶えず支配しており、仕えているからである。さらに、このことが主が求められる奉仕であるが、絶えず神殿におり、礼拝に携わっていることが主が求められるものではないのである。神殿の中にそこの礼拝に携わってはいるものの、真理の中にいないことは主に仕えることではなく、主に仕えまつることは真理の中にいることであり、凡ゆる事の中に誠実に公正に行動することである、なぜならそのとき人間のもとに在る真理、誠実、公正の原理が主に仕えているからである。さらにこうしたものを通して―礼拝のみを通してではない―人間は世におけるその生命の後で、天界にいることが出来るのである、なぜならこうしたもののない礼拝は、従って真理を欠如した礼拝は空虚な礼拝であり、その中へは流入は全く見られはしないのである。聖言には『役立つ[奉仕する]』と『仕えること』が、また『召使い[]』と『仕える者』が記され、真理の中にいる者たちは『主の僕』、『主に奉仕する』と言われている一方では、善の中にいる者たちは『主に仕える者たち』、『主に仕える』と言われている。(真理の中にいる者たちは聖言では『僕』と呼ばれることは前の6番に、善の中にいる者たちは『仕える者』と呼ばれていることは。155番に見ることが出来よう。

 

 

 

 

7.マザー・テレサ

 

 

マザー・テレサ/日々のことば/P79

 

愛には限界がありません。神は愛であり、愛は神だからです。ですからあなたがほんとうに神の愛のうちにいるなら、神の愛は無限なのです。だからこそ、こう言うのです。どれだけたくさんのことをするかが問題なのではなく、どれだけたくさんの愛をその行為にこめるかが大切なのです。

 

 

 

 

8.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P18

 

全ての人間は消え失せるように。そうすれば、彼らから何か命令された時、あなたはそれをあたかも直接わたしがあなたに命じたかのように行なうでしょう。わたしにしっかりと眼差しをすえているなら、誰をも裁くことはなく、そのことが辛いか、味気ないことか、易しいか、難しいかを眺めることもないでしょう。人からあなたに命じられたこと全てに目を閉じ、わたしにのみその目を開けていなさい。そしてたびたび“主よ、あなたのためにのみ行いつづけ、そして終わりたいので、この仕事がよくできますように必要なお恵みを下さい。私はもう人間の奴隷となりたくありません。”と言いなさい。ですから歩く時も、話す時も、働くに際しても、ただわたしのより大きい喜びと満足のためという唯一の目的のためにして下さい。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P19

 

イエスは以上に記したような事柄について、私が練習するようになさったあと、しばらくして今度は苦業の精神についてお話しになりました。たとえ徳であれ、または大きな犠牲であれ、もしそのわざの初め、最中、終わりがいつも主への愛によるものでないならば、それは味のない、なんの功徳もないものとなる、ということを私に分からせて下さいました。そして私におしゃいました。「愛徳とは、それなしでは全ての行いは死んでしまうほど、他の全てに輝きを与える徳です。愛徳の精神なしになされた行為にたいしては、わたしの目はなんの魅力も感じません。ですから、それはわたしの心に近づくこともないのです。あなたはどんなに小さい行いも愛徳の精神をもってわたしのうちに、わたしとともに、わたしのためにして下さい。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P42

 

「娘(こ)よ、たとえそれが良いことであっても、真っ直ぐな思いを持たないまま、習慣的にまた利益目的でなされた多くのわざはどうなるだろうか? 行いそのものは良くても、彼らの思いゆえに、それらの多くのわざが裁きの日に腐り果てているのを目にしたなら、人はどれほど恥ずかしい思いをするでしょう。それらの行いは名誉の代わりに恥となるでしょう。私が注意を向けるのは偉大な働きではなく、それを行なうときの思いなのです。私はそれだけに注意しています。」

 

 

 

 

9.サンドロ・ニョッキ

 

 

サンドロ・ニョッキ/「神さまの声が聞こえる」/P75

 

 ある日、妻は病院勤務で家にはおらず、私は台所に立って食器洗いに忙しくしていました。そのとき、イエズスがルイザ・ピカレッタさんを呼ばれたことについて考えていました。ピカレッタさんが神のみ旨に自分の生活を奉献したとき、何と単純に主はピカレッタさんを呼ばれたことでしょう・・・。

 

「ルイザ、私に呼びかけなさい・・・ものを望むだけで充分です・・・あなたの人間の望みを私に献げてくれないか。そうしたら私はあなたのところへ神の意志のすべての力で、あなたの一つ一つの行いを変えて高め、神聖化するように急いであなたのところへ行きます。」

 

 私はイエズスが日常茶飯事のこと、ピカレッタさんの生活の全行動をどんな瞬間でも、意味すらない行為までも求められたことを思い出していました・・・。

 

すぐに私の心の中に光りが灯り、神のみ旨の中で生きる望みが“食器を洗う”という中にも広がり、必要なことのように広がっていきました。それからこのようにしていることは正しいことで、すべては神に基づくことだということを感じていました。イエズスのルイザ・ピカレッタさんの言葉を強く確信し、あのとき、この言葉を口にしていました。

 

「イエズス、来てください。私の意志をおとりください。あなたのと交換してください。あなたが、私の中で生きて、望み、行動してください・・・食器を洗うこの私の行為をあなたの存在で神聖なものとしてください。この仕事を無限の価値へと変えてください。父なる神に名声と栄光を献げるのにふさわしくしてください。」

 

(中略)

 

突然イエズスが愛をこめ、この上ないデリケートさで姿を現されました。ちょうど貧しい物乞いが、少しの物乞いに行くときに、大変小さな信頼のあらわしが大きな奇跡を生むように、ほとんどつま先立ちで私の目に今までにも味わったことのない優しさで現れました。私の左側に、祭壇でミサを挙げている司祭の姿で、ご自分を現されたのです。

 

(中略)

 

そのときイエズスは私に話されました。

「ごらん。司祭が人間の意志の単純な行為で、ホスティアの奉献の中にいる私を呼んだとしても、私は急いでその中に行きます・・・。でもあなたは多分、それは人間の意志に基づいていると思っているでしょう・・・。でもちがうのです。司祭は私の前からの行為にあらわした望みを最大限に利用しているのです・・・。私がルイザ・ピカレッタに言ったことに基づいて、人間のあなたの意志の単純な行為であなたは私を呼び、私の明らかな望みを実現するだけなのです。それを望んでいるのは私です。」

 

 

 

 

10.ベルナデッタ

 

 

魂の日記P36

 

 神のより大いなる栄光のために、大切なことは、多くのことをなすことではなく、心をこめて果たすことです。

 

 

 

魂の日記P53

 

 大切なことは、多くのことをなすことでもなく、目立つことをすることでもありません。神のみ旨を果たすことです。これこそ、福音のすべて、主のご生涯のすべてです。このように生きることは、どんな種類の暗闇を歩むときにも、助けです。

 

 

 

魂の日記P55

 

 今年こそ、自我にうち勝ち、自我に死ななければなりません。我意との戦い。神のより大いなる栄光のために、大切なことは、多くのことをなすことではなく、心をこめて果たすことです。

 

 

 

 

11.アグレダのマリア

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P254

 

元后の御言葉

 藁を取り除くとか、一杯のコップの水をあげるとか、最も功績の低いことをする時、神に対する愛により賜物は増えます。最も無意味の仕事の一つ一つが、これらの賜物を増やすのです。太陽の光の何倍以上もある明瞭の賜物が増え、恩寵の状態に加えられます。人間的、現世的腐敗を通させないための普通の人間以上の力である物体通過の賜物が増えます。普通の抵抗力を越え、穿通(せんつう、突き刺さって貫通する)の新しい力を獲得するための微妙の賜物が増えます。鳥、風、火など活発なものよりももっと能動的な敏捷(びんしょう)の賜物も増えます。体の賜物の増加が判れば、霊魂の賜物の増加も理解できるでしょう。第一の至福幻視は、神の属性や完全さを教会博士よりももっと大きな洞察と明瞭さを与えます。第二の理解の賜物は、思考無限善なる神を所有することで、心の静けさをもたらします。第三の賜物である結実は、最小の行為に伴う愛の故に、愛の度を増します。

 

 

 

 

12.マーリン・キャロザース

 

 

マーリン・キャロザース/この世に天国を/P110

 

 たいていの場合、私たちが不平を言うのは、私たちがしなければならない小さなことに対してです。たとえば、朝起きたり、皿を洗ったり、車を洗ったり、食料品を買ったり、雨漏りのする屋根を修理したりというようなことです。しかし、神は、日常のわずらわしい仕事の一つ一つを特別な気づかいをもって与えてくださっているのです。「言葉にしろ、行いにしろ、何かをするときには、主イエズスを通して父である神に感謝しつつ、すべてを主イエズスの名において行いなさい」(コロサイ3・17)と私たちは言われています。私たちがしなければならないこと、その一つ一つが神への愛を表わすものであるべきです。そうすれば、神の愛によって私たちはさらに高く引き上げられることでしょう。

 

 

 

 

13.グリニョン・ド・モンフォール

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/222

 

わたしが提唱するこの信心を、もし忠実に実行するなら、あなたはわずか一ヵ月の間に、ほかのものとむずかしい信心業を数ヵ年の間実行するよりも、はるかに大きな栄光をイエズス・キリストに帰することができるのです。そのわけを次に申し上げます。

 

@この信心の流儀にしたがって、あなたが何かの行いをなすとき、あなたは自分自身の意向と行い(それが善良でまた自分にハッキリ分かってはいても)を、まったくうち捨てて、聖母のご意向と行ないのうちにそれを、いわば自滅さすのです。聖母のご意向が何であるかが、自分にはぜんぜん分からなくてもです。こうしてあなたは、聖母のご意向の崇高さにあずかることができるのです。

 聖母のご意向は、このうえなく純潔でしたから、わずかな行ないをもって、神にこのうえない栄光を帰していたのです。たとえば聖母が糸をつむぐとか、針仕事をなさるとか、こうしたささいな行いでも、聖ローレンシオがアブリコの上で生きながらからだをジリジリ焼かれる残酷な殉教よりも、またはすべての聖人たちのすべての英雄行為よりも、はるかに大きな栄光を神に帰したのです。

 そんなわけで、地上生涯のあいだ聖母は、かぞえ尽くせないほどの恩寵とクドクをお積みになったのです。聖母の恩寵とクドクをかぞえるよりはむしろ、大空の星、大海の水滴を、浜べの砂つぶをかぞえるほうが、もっとやさしいくらいです。こうして聖母は、すべての天使、すべての聖人が過去・現在・未来をとおして、神に帰したすべての栄光よりも、はるかに大きな栄光を神に帰されたのです。

 ああ、マリアの驚嘆すべき偉大さよ。だが、しかし、聖母よ。あなたのうちにまったく自分自身を滅ぼし尽くす霊魂の中でなければ、さすがのあなたもこの偉大な恩寵のみわざを、おこなうことがおできになりません。

 

 

 

 

14.ヨゼファ・メネンデス

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P59

 

み主には私に明らかにご自分を一番喜ばせるものは何であるか、それはすなわち従順によってなされる小さな行いである、ということをおわからせになりました。これこそ私が全力をつくさなければならないことで、これによって、私は何についても自己犠牲を学ぶことが出来ます。たとえその行いがどんなに小さくても、イエズスのみ心をお喜ばせすることができます。

 

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P190

 

“ある霊魂がつらい行為をしたとしても、愛からではなく、興味や楽しみによるものであるなら少しの功徳しか積めない。反対に、非常に小さなことであっても、大きな愛をもって捧げたなら、わたしの聖心を慰め、わたしをその心の方へかがみ寄らせ、そのみじめさのすべてを忘れさせるに至らせるのだ。

 そうだ、わたしの熱烈な望みは愛されることなのだ。もし霊魂が、わたしの愛の烈しさを知っていたなら・・・。わたしはそのためにこそかれらを求め、走り廻り、霊魂がわたしに戻って来るように、どんなことも辞さないのである。“

 

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P292

 

“行為はかまわない。それをする意向をわたしは見るのだ。ほんのささいなことでも愛をもってする時、それは大きい価値を得てわたしをほんとうに慰めてくれる。わたしが探し求めるのは、愛のみだ。”

 

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P297

 

“他の人々が悪に陥るのを防ぐために、苦しみを捧げる人々がいる。あの二人が、もし昨日、罪を犯したのであったら永久に失われるところだった。しかしおまえがした多くの小さな行為が、誘いに抵抗する勇気をかれらに与えたのだ。”

 ヨゼファは、そればかりの僅かなことが、そんなに大きな結果をもたらすことに驚くと、“それはほんとうなのだ。わたしの聖心は、小さな捧げものにも、とうとい値うちをつける。わたしが望むのを愛で、わたしはそれだけしか望まないのだから。”と。

 

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P315

 

“日々の生活をわたしの生活と、絶えず一致させることを知る者は、わたしの光栄となり、救霊のために偉大な働きをする。たとえ、それ自身何の価値もないことをしても、それをわたしの血に浸し、また、わたし自身が地上で行った業に併せれば、救霊のためにどれほどのみのりをもたらすかわからない。それは全世界をめぐって説教する以上の収穫となる。学ぶにせよ、話すにせよ、書くにせよ、または針仕事をしても、掃除をしても、休息するにしても同じ効果がある。それらの業が、命ぜられたことであるとか、義務であるとかであって、ただ、気ままにするのでないならば、次にわたしの血に浸して、清い意向をもってわたしと緊密に一致して行うならば、どんな事業でも偉大な価値があるものとなる。

 この事実を、多くの者が理解するよう切に望む。行為それ自体に何か価値があるのではなく、それを行なう動機と、わたしとの一致が大切なのである。わたしがナザレットの仕事場で掃除をしたり働いたりした時、後に公生活中に説教したと同じように天のおん父に光栄を帰し奉ったのである・・・。世間に出て立派な仕事をして、重要な地位についている人が、わたしの聖心に大いなる光栄を与えていることも事実であるが、卑しい働きに、世の眼から隠れた多くの人々も、わたしの葡萄畑にまことに有用な働き手である。彼らこそ愛に動かされて働き、その最小の行為さえも、わたしの血を浴びて、超自然的黄金とかえることを知っていたからである。

 朝まだきよりわたしと深く一致して、その一日をわが聖心が人々の救霊に役立てるようにと熱願し、愛をもって、その義務を一瞬一瞬果すならば、一日にどれほどの宝を積むことができるであろう!“

 わたしの愛をもっともっと彼らに現わそう。わたしの愛はつきることがなく、愛する者にとっては、愛に導かれるままにするほど容易なことはない“と。

 

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P318

 

“ほんとにわたしこそ霊魂をやさしく愛するイエズスなのだ。人々を呼び、保護し、世話するこの聖心を視よ、人々から愛されることを、特にわたしの選んだ者たちから、愛されたいとの念願に燃えている聖心を視よ。”

 

“さあ、もっとその人々のために記せ。”

 

“わたしの聖心は単に愛の深淵であるばかりでなく、更に慈悲の深淵である。神からいとも愛される霊魂さえも、人間の惨めさをもっていることを知って、わたしはかれらがいかほどささいな行為でも、世の救済のため、わたしによって無限の価値を帯びるようにと望んでいる。だれもかれもが皆説教をすることはできない。また、遠く未開地へ福音をのべ伝えることもできないが、皆ほんとにだれでもわたしの聖心を知らせ、愛させることができる・・・。だれでも互いに助けあいながら、選ばれる人々の数を増やすことができる。つまり多くの霊魂が失われるのを防ぐことができる。・・・そうしてこれは、わたしの聖心の愛と哀隣の結果からである。もし惜しみなく、わたしの求めるすべてを与えるならば、自分と他人のために莫大な宝を積み、多くの者を滅びの底からとり戻すことになる。わたしが選んだ人々に、わたしの愛はもっと多く行なうことができる、ということを語ろう。人々は日常生活の僅かな行いを利用することができるばかりでなく、救霊のために、惨めさ、過失、罪さえも役立てることができる。ほんとに愛はすべてを変化し、聖化し、哀隣は全てを赦す。”

 

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P320

 

“かれらに対するわたしの愛はもっと深い。いかにささいな行為にも聖なる価値を与えて、日常生活を生かして行くばかりでなく、その惨めさ、弱さ、過失さえも、世の救いのために、わたしは利用したいと思う。つまり、自分が惨めさに満たされていることを知っている霊魂はどんな善をも自分のてがらとしないで、かえってその不完全さを見出すことによって、一層謙虚な気持ちを抱くようになる。

 また、その使徒的働きや職務についても、己れの無能をはっきり感じ、人々を自分がいまだ達しえない道にまで、助けなければならぬことを心苦しく思い、自然とへりくだるようになる。そうして、もしこの弱さを謙遜に自覚して、わたしのもとに駆け寄り、努力の足りないことを詫び、力と勇気をわたしの聖心に願うならば、どんなに深い愛の眼をそそぎ、またどんなにわたしが、その働きを有効なものにするか、計り知れないほどである。ある者は、毎日の努力や犠牲を、一瞬ごとに心惜しみなく捧げることを知らない。その一生は約束ばかりで、何も実行せずに過ぎてしまう者が多い。しかし、ここに差別がある。もしこの種の人々が、約束することが一つの習慣となってしまい。実行するために何もしないなら、わたしは次の言葉を言うほかはない。『おまえが穀倉に積み重ねた藁に火がつかないように注意せよ、また、風が一瞬にして吹き飛ばしてしまわぬように警戒せよ。』と。

 しかし、わたしがここで言うのは、他の種類の人々で、どうかしてその愛を表わそうと善意をもって切に望みながら、その日を始める、そうして、「この機会には自分を忘れて物惜しみなくいたしましょう。こんな場合には」と約束する。しかしその折が来ると、持ち前の性質や、自愛心、また心持の悪さとか何かに負けてしまい、数時間前に、あんなに心から約束したことを実行できなくなる。しかし心を取り直し、へりくだってその弱さを認め、赦しを乞う。そして再び、わたしの聖心に信頼し、依り頼んで決心を新たにし、愛や寛大な行ないをもって償おうと努力する。この霊魂は、過ちを犯さなかった者より以上にわたしに大いなる光栄を帰すのである。“

 

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P487

 

行きなさい、おまえたちからは償いと愛とを期待している。愛は行いによって表われる。それだからおまえのすべての行為は、おまえの愛を示すものとしなさい。大きなことにも小さいことにも、愛の使者となるのだ。愛のためにすべてをなし、愛によって暮しなさい。

 

 

 

 

15.サンダー・シング

 

 

フリードリッヒ・ハイラー著/金井為一郎訳東洋及び西洋の使徒 聖サンダー・シング

 

「かれらの一人一人が、ただに彼の唇をもってのみならず、また彼の全生活

によってキリストへの証人たることができる。」

 

 

 

フリードリッヒ・ハイラー著/金井為一郎訳/東洋及び西洋の使徒 聖サンダー・シング

 

「すべてのキリスト教徒は、男でも女でも、少年でも少女でも、富める者も貧しき者も、労働者も農夫も、著作家も祭司も、裁判官も官吏も、医者も法律家も、教師も生徒も、政府の官吏でも宣教師でも、かれが主のための証をなすという事を条件としてのみかれはキリスト教徒である。主の証を立てんがためには、必ずしも我々が公開の席で説教をせねばならぬとか、説教壇から説教をせねばならぬとか聖書のクラスや日曜学校やキリスト教同盟やを指導せねばならぬとかいうのではない。否、これらは、それによってわれわれが証をすることの出来るいくつかの方法にすぎない。しかしすべてのキリスト教徒は、かれらがどこにあろうとも、主のために証をなすことの機会を持つのである。かれらはこの証を、かれらの正直な生活によって、欠点なき品性によって、行為の完全なることによって、言語による真面目さによって、おのが宗教に対する熱心と主に対する愛とによって、イエス・キリストに関して他人に語ることの出来るあらゆる機会を用いてなすことが出来る。」

 

 

 

 

16.コンソラータ

 

 

中央出版社(絶版)ロレンツォ・サーレス著 ヨハネス・ワツラビク訳編

『シスター・コンソラータ』― 愛の最も小さい道 ―/P126

 

−イエズス−

「常に沈黙を守りなさい。必要なことばすら最小限に慎みなさい。その代わりすべての人々にほほえみでこたえなさい。そしてそのほほえみをいつも続けなさい。」(1935年8月2日)

 

 

 

−イエズス−

「あなたが二つの仕事のうち、どちらを選ぶか迷ったときは、よりひとりでいられるほう、より沈黙を守れるほう、より愛することができるほうをいつも選びなさい。」(1936年8月22日)