わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、

わたしにしてくれたことなのである。

マタイ25章

 

小さな仕事も愛をもって行う

ぼろを纏(まと)い 素足のまま 乾いた唇をして 乞食の姿で訪れている

兄弟仲間主をお喜ばせする主が求めるものは愛

わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたとに飲ませ(マタイ25・35)

小さな仕事も愛をもっ行う

 

 

 

 

1.聖書

2.兄弟・・・善の中にいる者たち、隣人

3.わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、

わたしにしてくれたことなのである。(マタイ25・40)

4.義しい者

5.ヴァッスーラ

6.マザー・テレサ

7.ルイザ・ピッカレータ

8.マリア・ワルトルタ

 

 

 

1. 聖書

 

 

マタイ25・31−40

 

人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

 

 

 

 

2.兄弟・・・善の中にいる者たち、隣人

 

 

天界の秘義2360

 

 兄弟は隣人と同じことを意味しているのは、人間はことごとく隣人を自分自身のように愛さなくてはならないという理由によっており、かくて兄弟は愛から、またはそれと同一のものであるが、善からそのように呼ばれたのである。

 

表象した善からそのように呼ばれた。

 

「兄弟」である者たちは善の中にいる者たちであり、事実隣人と呼ばれているすべての者。

 

 

 

 

天界の秘義5067

 

 まことにわたしはあなた方に言う。あなた方はそれをこれらのわたしの兄弟たちのいと小さい者の一人に為したのは、それをわたしに為したのである、と。(マタイ25・40)

 

仁慈の、また生命の善の中にいる者たちは「兄弟たち」と呼ばれている。なぜなら彼らは善そのものの中にいるため、主は彼らのもとにおられ、また元来隣人により意味されている者は彼らであるからである。

 

 

 

 

黙示録講解746ニ[]

 

「主は仁慈の善の中にいる主の教会の者たちを『兄弟』と呼ばれている」ことは以下の記事から認められることが出来よう。福音書には―

 

イエスはその弟子たちの上にその御手を伸ばされて言われた、見よ、わたしの母とわたしの兄弟たちを、たれであれわたしの父の御意志を行おうとする者、その者はわたしの兄弟、姉妹、母である(マタイ12・49,50、マルコ3・33−35)

 

主がその者たちの上に御手をのばされた「弟子たち」は主の教会に属している凡ての者を意味しており、「主の兄弟たち」は主から発している仁慈の善の中にいる者たちを意味し、「姉妹」はその善から発している真理の中にいる者たちを意味し、「母」はそれらの者から構成されている教会を意味している。

 

 

 

 

黙示録講解746ニ[]

 

マタイ伝には―

 

イエスはマグダレアのマリアに、また他のマリアに言われた、恐れてはならない、行ってわたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい、そこで彼らはわたしを見るでしょう(マタイ28・10)

 

ここにもまた「兄弟たち」は、仁慈の善の中にいる教会の凡ての者を意味している弟子たちを意味している。ヨハネ伝には―

 

イエスはマリアに言われた、わたしの兄弟たちのもとへ行って、彼らに言いなさい、わたしはわたしの父の御もとへ登ります、と(ヨハネ20・17)。

 

弟子たちはここに再び「兄弟たち」と呼ばれているのは、「弟子たち」は「兄弟たち」と同じく仁慈の善の中にいる主の教会の凡ての者たちを意味しているためである。

 

 

 

 

黙示録講解746ニ[]

 

マタイ伝には―

 

王は彼らに言った、わたしはあなたたちに言います、あなたらはこれらのわたしの兄弟たちの最も小さい者たちの一人にそれを行ったため、それをわたしに行ったのである(マタイ25・40)

 

そこの前に言われていることから主がここに「兄弟たち」と呼ばれている者たちは仁慈の善い業を行ったような者たちであることが明白であるが、しかし、主は彼らの父であられるものの、主は依然彼らを「兄弟たち」と呼ばれていることを知らなくてはならない。主は神的愛から彼らの父であられるが、しかし主から発出している神的なものから兄弟であられる。

このことは諸天界の凡ての者は主から発出している神的なものを受け入れている者たちであるが―天界における、また教会における主である、これは天使または人間のものではなくて、彼らのもとにおられる主のものであり、従って彼らのもとにある仁慈の善そのものを―それは主のものであるが―兄弟と呼ばれ、そのことはまた天使たちと人間とを兄弟と呼ばれるのと同様であるが、彼らはその善を受け入れる主体であるためである。

約言すると、諸天界における主の神的なものであるところの発出している神的なものは、天界における主から生まれた神的なものである。それでその神的なものから、それを受け入れる者たちである天使たちは「神の息子たち[子たち]」と呼ばれており、これらの者は彼ら自身の中に受け入れたかの神的なもののために兄弟たちであるため、「兄弟」と言われる方は、彼らの中の主であられる。なぜなら、天使たちが仁慈の善から話す時は、彼ら自身から話すのではなく、主から話すからである。それでこれが主が「あなたたちがこれらのわたしの兄弟たちの最も小さい者たちの一人に行ったため、それをわたしに行ったのである」と言われる理由である。

それで霊的な意味においては主の兄弟たちは前の諸節の中に列挙されている仁慈の諸善であり、これらのものがすぐ前に言われている理由のため主から「兄弟たち」とよばれているのである。さらに彼らをそのように呼ばれる「王」は発出している神的なものを意味しており、それは一つの言葉においては神的真理、または神的な霊的なものと呼ばれ、それはその本質においては仁慈の善である。

 

 

 

 

黙示録講解746ニ[]

 

それ故以下のことが心に留められなくてはならない。即ち、キリスト教界に受け入れられている見解に従って、主は彼らのように人間であられたために、彼らを「兄弟」と呼ばれたのではないのであり、そうした理由のため、たれか人間が主を「兄弟」と呼ぶことは許されはしないのである。なぜなら主はその人間的なものの方面においてすら神であられ、神は兄弟ではなくて、父であられるからである。

地上の諸教会の中で主は兄弟と呼ばれ給うているのは、彼らが主の人間的なものについて形作った観念はたれか他の人間的なものについて抱いている彼らの観念と同じようなものであるためであるが、主の人間的なものは神的なものである。

 

 

 

 

黙示録講解746ニ[十一]

 

「王」は前には神的真理に関連した主を表象したため、主の霊的王国の中で天使たちにより受け入れられている神的真理は神的な霊的な善と同じようなものであるため、霊的善は仁慈の善であるため、それでイスラエルの子孫を治めるものとして任命された王たちはその従者たちを「兄弟」と呼んだが、他方従者たちは彼らの王を「兄弟」と呼ぶことは許されなかったのであり、ましてや主はそのように呼ばれてはならないのである。主は王たちの王、主たちの主であられるのである。

 

 

 

 

3.わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイ25・40)

 

 

天界の秘義2718[]

 

隣人をその者の内にある善のために愛する者は主を愛するのである。

 

 

 

5063−5071

 

 

 

天界の秘義5064

 

 前章の序言に(4954−4959番)、『飢えた者に食物を与え、渇いた者に飲物を与えること』、『他国の者を宿らせ、裸の者に着せ、病んだ者と牢にいる者とを訪れること』によりその内意に意味されていることを説明した、即ち、そこに意味されて、そのように記されているものは仁慈の本質であることを説明したのである。『飢えた者』、『渇いた者』、『他国の者』により善と真理との情愛[善と真理に対する情愛]が意味され、『裸の者』、『病んだ者』、『牢にいる者』により自己を承認することが意味されているのである(4956、4958番)。

 

 

 

 

天界の秘義5066

 

右手の者の言った答え―

 

主よ、何時私たちはあなたが飢えておられるのを見て、あなたに食べさせましたか、または渇いておられるのを見て、飲物を与えましたか。何時私たちはあなたが他国の方であられるのを見て、お泊めしたでしょう。または裸であられるのを見て、お着せしたでしょう。何時私たちはあなたが病まれ、または牢におられるのを見て、あなたのもとへ来たでしょう。

 

この答えは、もし彼らが主御自身を見たなら、その各々の者はことごとくこれらの務めを行ったことであろうが、それでもそれは主に対する愛から行いはしないで、主が宇宙の審判者となられるために、恐怖から行ったであろう、ということを意味し、かくて主のためではなくて、彼ら自身のために行なったであろうし、かくて内から、または心から行わないで、外から、ただ行為の上でのみ行ったであろうということを意味しているのである。

 

 これは人が偉大な、または富んだ者になることが出来るように、かねがねその恩恵を得ようと願っている王を見、それでその前に身を卑うする時のようなものである。聖い外なる礼拝を守っている者の場合もこれに似ている、彼らはその礼拝の中ではいわば主を見まつり、主の前に身を屈め、かくして自分たちは永遠の生命を受けるであろうと信じてはいるものの、何ら仁慈を持ってはおらず、自分自身のためでない限り、たれにも善を行わず、かくてただ自分自身にのみ善を行うのである。彼らは外の形では非常な尊敬を込めてその王のご機嫌をとるが、心では彼を無視しているため、その命令を嘲っている人物のようである。こうした事柄、またそれに類した事柄が右手にいてそのような答えをしている者たちにより意味されていることであり、悪い者もまた外の形ではそれに似た事柄を為しているため、それで、左手にいた者らもまた殆ど同じようなことを答えたのである。

 

 

 

 

天界の秘義5067

 

 それで主は外なるものを顧られないで、内なるものを顧られるため、また人間は単に礼拝によってのみでなく、仁慈とその行為とにより、その内なるものを立証するため、主は以下のように答えられたのである。―

 

まことにわたしはあなた方に言う、あなた方はそれをこれらの私の兄弟たちのいと小さい者の一人に為したのは、それをわたしに為したのである、と。

 

仁慈の、また生命の善の中にいる者たちは『兄弟たち』と呼ばれている、なぜなら彼らは善そのものの中にいるため主は彼らのもとにおられ、また元来隣人により意味される者は彼らであるからであるからである、これらの者の中にもまた主は御自身を明らかに示されはしないのである、なぜなら彼らは主に対しては卑賤なものであるからである、しかし、その人間が内から拝することにより、自分自身を主の前に明らかに示すのである。

 

 

 

 

天界の秘義5068

 

 主が以下の御言葉の中に、御自身を『王』と呼ばれているのは

 

 人の子はその栄光の中に来るとき、その栄光の王座に坐るであろう、そのとき王は彼らに言うであろう、

 

主の王者性が神的真理であり、その真理から、またその真理に従って審判が行われるためである。しかしその真理から、またその真理に従って、善い者と悪い者とが審判される方法はそれぞれ異なっているのである。善い者は、神的真理を受け入れているため、善から審判かれ、かくて慈悲から審判かれるが、悪い者は、神的真理を受け入れていないため、真理から審判かれ、かくて慈悲からは審判かれはしないのである、なぜなら神的真理を彼らは斥けており、そこからそれを他生でも斥け続けるからである。神的真理を受け入れることは、単に信仰を持つことではなくて、それを実践することであり、かくて教義のものであるものを生命のものとすることである。主が御自身を『王』と呼ばれることはそのことから発している。(主の王者性は神的真理であることは、前に示したところである(2728,2015,3009,3670,4581,4966番)。

 

 

 

 

天界の秘義5069

 

 右手の者たちが『義しい者』と呼ばれていることは、

 そのとき義しい者はかれに答えて、言うであろう、云々、

また、

 義しい者は永遠の生命へ入るであろう、

彼らが主の義の中にいることを意味している。仁慈の善の中にいる者たちは凡て『義しい者』と呼ばれているが、それは彼らが彼ら自身から義しいのではなく、主から義しいのであり、その義が彼らのものとなされるということである。自分自身は自分自身から義しいのであって、自分の中にはもはや悪は些かも無い程に義しくなっていると信じている者は、義しい者の中にはいないで、義しくない者の中にいるのである、なぜなら彼らは善を彼ら自身に帰し、またそのために自己の功績を感じており、こうした者は真の卑下から主を決して崇拝しないからであり、かくて聖言に『義しい者』、『聖徒』と呼ばれている者たちは、善はことごとく主から発し、悪はことごとく自分自身から発しており、即ち、地獄から発して、自分のものとなっていることを知り、また承認する者たちである。

 

 

 

 

天界の秘義5070

 

 義しい者に与えられる永遠の生命は善から発している生命である。善は、生命そのものであられる主から発しているため、それ自身の中に生命を持っている。主から発している生命の中には知恵と理知が存在している、なぜなら主から善を受けて、そこから善を意志することは知恵であり、主から真理を受け入れて、そこから真理を信じることは理知であり、この知恵と理知とを持っている者は生命を持ち、そしてこのような生命には幸福が結合しているため、永遠の幸福もまた『生命』により意味されているからである。

悪の中にいる者らの場合はそれに反している。これらの者も生命を持っているかのように ― 特にこれらの者自身には ― 実際見えはするものの、しかしそれは聖言では『死』と呼ばれているような生命であり、また霊的な死である、なぜなら彼らはいかような善からも賢いのではなく、またいかような真理からも理知的なものではないからである。このことはたれであれその事柄を考察する者から認められることが出来よう、なぜなら善とその真理の中に生命が在るため、悪とその誤謬の中には、それらは対立したものであって、生命を消滅してしまうため、生命は在り得ないからである。それで問題の人物は狂人に属しているような生命以外の生命は持たないのである。

 

 

 

 

天界の秘義5071

 

 これらの者は去って永遠の刑罰へ入るであろう

 

彼らが善と真理とに面を背けて、悪と誤謬とに向かったためである。『呪い』は、聖言の内意では面を背けることを意味している(245、379、1423、3530、3584番)。彼らが去って入って行かねばならない永遠の火は自然的な火ではなく、良心の呵責でもなく、悪の欲念である。なぜなら人間の欲念は人間を身体の生命の中で焼き尽くし、他生では責め苛む霊的な火であるからである。これらの火により奈落の者らは互いに凄まじい方法で拷問にかけるのである。

 

 

 

天界の秘義5071 []

 

『永遠の火』は自然的な火でないことは明白である。それは良心の呵責でないことは悪の中にいる者は凡て何ら良心を持ってはおらず、身体の生命の中で何ら良心を持っていない者は他生でも全くそれを持つことが出来ないからである。しかしそれが欲念であることは、生命の火は凡て人間の愛から発しているためである、即ち、天界の火は善と真理の愛から発し、奈落の火は悪と誤謬の愛から発し、またはそれと同一のことではあるが、天界の火は主に対する愛と隣人に対する仁慈から発し、奈落の火は自己への愛と世への愛から発しているためである。人間の中の火または熱はすべてこの源泉から発していることは、たれでも、もしその事に注意を払うなら、知ることが出来よう。愛が霊的な熱と呼ばれ、聖言の『火』と『熱』によりそれ以外のものは何ら意味されていないことはまたそうした理由によっている(934イ、1297,1527,1528,1861,2446,4906番)。悪い者の生命の火は、彼らがその激しい欲念の中にいる時は、また一種の火の中にいるといったものであり、そこから彼らは他の者を責め苛む激情と狂熱の中にいるが、善良な者の生命の火は、彼らもまた、高度の情熱の中にいる時は、一種の火の中にいるようなものであるが、しかし彼らはそこから他の者を益しようとする愛と情熱の中にいるのである。

 

 

 

 

天界の秘義6711

 

 しかし他の者に優って自分自身を愛してはいない者たちは―主の王国のものである者たちはすべてそうした者であるが―彼らが何ものにも優って愛さなくてはならない方、即ち、主から隣人の起原を得ており、凡ゆる者を、その者の主に対する愛の性質に従って隣人として認めるのである。それで他の者を自分自身のように愛している者たちは、特に ― 天使たちのように ― 自分自身にも優って他の者たちを愛している者たちはすべて主から隣人の起原を得ているのである、なぜなら善は主から発出しているため、主御自身が善の中におられるからである。ここからまた愛の性質がたれが隣人であるかを決定することを認めることが出来るのである、なぜなら主は善の中にいた者たちに、その者たちは『主に食べさせ』、『主に飲ませ、主を宿らせ、主に着せ、主を訪ね、牢獄の主のもとに来た』と言われ、後に『彼らはそれを主の兄弟たちの中でいと小さい者の一人に為したため、それを主に為したのである』と言われているからである(25・34−40)。

 

 

 

 

天界の秘義9210

 

 基督教の仁慈を知らない者は、それは乏しい、貧しい者に与えることに在るのみでなく、同胞に、教会に、理由のいかんを問わず、または目的のいかんを問わないで、善を行うことに在ると信じるかもしれない。しかし人間の行為の凡ての性質を決定するものは目的であることを知られたい。 もしその目的が、または意図が名声のために善を行うことであり、または名誉あるいは利得を得ることであるなら、その時はその者の行う善は、その者自身のために、引いては、またその者自身から為されているため、それは善ではないのである。しかしもしその目的が同胞、国、また教会のために、かくて隣人のために善を行うことであるなら、その時はその行う善は善である。なぜならそれは善そのもののために行われており ― 善は、全般的に、隣人そのものである(5025,6707、6711、6712、8123)―かくてまたそれは主のために行なわれているのである。なぜならこうした善は人間から発してはいないで、主から発しており、主から発しているものは主のものであるからである。主によりマタイ伝に意味されているものはこの善である―

 

 あなたたちはこのわたしの兄弟たちのいと小さい者の一人に為したことは、わたしに為したことである。(マタイ25・40)

 

 

 

天界の秘義9210 [] 

 

善に言われることは真理にも言われるのである。真理のために真理を行う者たちは、それを主から行っているため、また主のためにそれを行なっている。真理のために真理を行うことは善を行うことである。なぜなら真理はそれが理解から意志へ入り、意志から発して行為となる時、善となるからである。

 

 

 

天界の秘義9338

 

善の中にいる者たちは主の『兄弟』と呼ばれ(6756番)、かくてまた善いことを行う者たちも主の兄弟と呼ばれている、なぜなら善は人間のもとにおられる主であるからである。それで『あなたらがこの兄弟たちの一人にそれを行ったからには』と言われ、『兄弟たちの一人に』とは言われていないのである。

 

 

 

 

天界の秘義10129

 

 主が承認され、隣人が愛される時、その人間は例えそのことに全く気がつかないにしても、主はその隣人に対する愛の中におられるのである。このことがマタイ伝の主の御言葉により意味されているのである。

 

  義しい者は答えるでしょう、主よ、私らは何時あなたがた飢えておられるのを見て、あなたに食べさせましたか。または渇いておられるのを見て、あなたに飲ませましたか。いつあなたが病んでおられるのを、または牢におられるのを見て、あなたのもとに来ましたか、と。王は彼らに言うでしょう。まことにわたしはあなたに言います、あなたらがこのわたしの兄弟たちの中でもいと小さい者の一人にそれを行ったことにおいて、それをわたしに行ったのである。マタイ25・37−40

 

ここから、例え仁慈の善の中にいる者たちはそのことを知らないにしても、主はその善の中におられ、その善であることが明らかである。

「兄弟」によりその最も近い意味では仁慈の善の中にいる者たちが意味され、人物から抽象された意義では、主の「兄弟たち」は仁慈の善そのものを意味しているのである。(天界の秘義5063―5071)

 

 

 

 

黙示録講解394

 

「言った、いつまで、ああ主よ、聖い、真の方よ、あなたは地に住む者らを審かれず、(これに)私たちの血の復讐をされませぬか」は、公然と主を承認し、仁慈の生命の中にいる者たちを迫害し、とりついて悩ますものらを審判し、取り除く[遠ざける]ことについて、公正であられる主に嘆き訴えることを意味している。このことは以下から明白である、即ち、『叫び出して、言う、いつまで、ああ主よ』の意義は悲哀から嘆きを主に注ぎ出すことである、なぜならこれらは呻吟し、溜息し、公正を懇願する者たちの言葉であるからである。また『聖い、真の方よ』の意義は公正であられる方である、なぜなら公正は、主について述べられている時は、主はこのようなことは容認されはしないことを意味し、しかもそのことは主は聖い、真の方であられるためである。また『審き、私たちの血の復讐をされること』の意義は、公然と主を承認し、仁慈の生命の中にいる者たちを迫害し、これにとりついて、悩ます者らを審き、取り除かれることである。これがこれらの言葉の意義であることは『血』が神的な善と神的真理に、かくて主に加えられた凡ゆる暴行を意味しているためであり、従って仁慈と信仰との生命にいる者たちに加えられた暴行を意味している。これらの者に暴行を加えることは、マタイ伝における主御自身の御言葉に従って、主御自身に暴行を加えることである―

 

あなたらはそれをわたしのいと小さい兄弟たちの一人に行ったからには、それをわたしに行ったのである(25・40,45)。

 

これがこの意味における『血』により意味されていることは前に見ることが出来よう(329番ヘ、ト)。

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P196

 

真に言うが、あなたたちがしなかった注油を一人の女がした。後々その事を悲しく思い出すであろうが、未来に幾度となくあなたたちは愛をもって、人々を神との出会いに準備するために屈む時、それを繰返す事ができよう。私は、物ごいに、死につつある人々に、旅人たちに、孤児たちに、未亡人たちに、囚人たちに、飢え渇き寒さに震える人々に、苦しみ疲れている人々の中にいる。私は、私の信者たちと一致している。私の神秘的体は、すべての肢体にいるのである。私を彼らにおいて愛すれば、あなたたちの足りなかった愛の補いができる。それは私に大きな喜び、あなたたちに多くの光栄を与える事である。

 

 

 

 

4.義しい者

 

 

天界の秘義9263[]

 

主から発した隣人に対する愛の善が『義しい者』の本来の意義であることは『義しい者』『義』『義とされる』が言われている聖言の他の記事から見ることができよう、例えばマタイ伝には―

 

・・・(25・37−40,46)

 

 

 

天界の秘義9263[]

 

ここに挙げられているところの、隣人に対する仁慈の善を行った者たちはここで『義しい者』と呼ばれているのである。そして仁慈の善はその者たちのもとにおられる主であることが明らかに言われている。

『あなたらがそれをこのわたしの兄弟たちの中のいと小さい者の一人に行ったからには、それをわたしに行ったのである』(4807−4810、4954−4959、5063−5071番)。

これらの者はまた『羊』と呼ばれている、なぜなら『羊』により主から仁慈の善の中にいる者たちが意味されているに反して(4169番)、左手にいて、罪に定められた『山羊』により仁慈から分離した信仰の中にいる者らが意味されているからである(4169、4769番)。

 

 

 

黙示録講解63

 

 

 

 

5.ヴァッスーラより

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P174

 

‘87・5・7

 

イエスよ、「あなたを愛しています」と主に百回も言ってはいないのをご存じですか。でも、あなたは千回、そう言うようにと頼まれました!

 

ヴァッスーラ、ああ、ヴァッスーラ、愛をこめてなされた行為はどれも「あなたを愛しています」と私に伝えていることを 知らないのか、あなたは こうしたやり方によっても愛を示しているのです。あなたの人生でなされる行為はどれもすべて私にたいしてなされたものです♡ 来なさい。美しくなって! 栄えなさい! 輝きなさい! 香りを放ちなさい! 私を愛の花輪で飾りなさい、花びら一枚一枚を 茨の冠一本一本の棘と置き替えなさい、花びらが多ければ多いほど、私を突き刺す棘は少なくなろう、愛している、私を愛しなさい、ほかの人びとにも私を愛するように教えなさい、私の訴えをこの人びとに見せてほしい♡

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P169

 

あなたたちは確実に 私が聖書で語っている言葉を 無視している、もし本心からそれに従っていたなら、「年寄りだからといって 軽蔑するな・・・」(*3)むしろ手を差し出すようにと書かれてあるのを 読んでいよう。 自らを聖なる人、義人と呼ぶあなた方が、誰かに対して怒りを抱くなら、どうして私に哀れみを求められよう? あなたは 兄(*4)に対して恨みを抱く、その罪を私は赦すべきか? あなたが日々唱えるキリエ・エレイソンを 私はどう扱うべきか? たびたびの犠牲や 焚かれる香を 私はどうしたらよいのか? これらとて あなたの罪に対する私の赦しを得させてはくれない。

 

*3 シラ書8:6

*4 ヨハネ・パウロ二世教皇

 

 

私の言うことを 聞きなさい。 あなたのすべての落ち度に私は涙したが、我が心は、兄弟よ、愛と慈しみの深淵。 あなたの霊を生き返らせ 目に輝きをそえるのは 私。 私は癒しといのちと祝福を与える。 もしあなたにおもねる言葉を述べたなら、それは私ではない。 あなたの過ちを明確に説明したのは 悔悛の心で私のもとに立ち帰らせるため そのときはあなたを癒そう。あなたの恥ずべき裸身は 今や我が聖人たちと 天国の我が天使たちに見られている。 あなたは自分を 曝している、兄弟よ、しかもすべての国たみだけでなく 全天を前に。 唖然とするような裸身であろうと、それでも、自らを低くし、悔い改めて私が述べたことを深く心に受けとめるなら あなたを支えて ふたたび私自身をまとわせる。

 

膝を屈めなさい、ギリシャよ、そして赦しを 私の名によって赦しを求めなさい。 起き上がって 死から甦り、御母にその歩みを導かれなさい、聖性へと サファイア(*)の小道を 幼子のように。 あなたの不毛の行為から回復して下さるよう 聖なる母に呼び求めなさい、私への奉仕が清い心でなされ 高貴なものとなるように。 あなたの聖性を聖母が取り戻し ふたたび成長して救いに至るよう助けてくださるように。

 

聖人たちに呼びかけなさい あなたが塵と灰の中で悔い改め 私(*1)に対して言ってきたすべてを撤回するとき光の故郷への道を示され 発する言葉がもはや空虚ではなく 平和の旋律に変えられるように。 ああ、東の家が聖なる口づけをもって 西の家に挨拶するのは いつの日か? ic

 

娘よ、彼らの口が 私のからだに負わせた深手を見よ。 祝福された者よ 私を探そうと 身を屈めないように。 私はあなたの頭上 そして傍らにいる。

 

来なさい 主の歓びと平安のうちに入りなさい。 決して後を振り返らず 私に接ぎ木されたまま 前を見ていなさい。 Ic

 

 

教皇さまがギリシャを訪問されている間に このメッセージを受けました。そこでは多くの人たちが、この訪問に抗議していました。このメッセージは 多くの大主教の手に渡され、ヨハネ・パウロ二世教皇が発たれる二日前に、クリストドロス主教にも届けられました。

 

(*)サファイアは「美徳」を表します。

(*1)「私」とはここではヨハネ・パウロ二世教皇のことも含まれています。「最も小さな者にたいしてすることは、私にしているのです」と聖書の中で仰ったキリストのみ言葉を確認するものです。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P220

 

できるだけ多くの場所に 私たちのベスミリアムを立ち上げなさい。 虐げられた人びとを引き上げ 孤児を助けなさい。 私を護り、私を泥沼から救い出し、保護して養いなさい、私の重荷と労苦を解き、私を支え励ましなさい しかし何よりもまず 私を愛しなさい。 私の最も小さな兄弟にする一切は 私にしてくれること・・・

 

 

 

 

ヴァッスーラ/天使館/ランプのあぶら/花むこから花嫁への呼びかけ/P52

 

 小さな例をあげましょう。イエスが私を教え始められた初期の頃。イエスはいつも日中、その日の出来事をとおして教えられました。ある日メッセージを書いていると、電話が鳴ります。電話が鳴ると直ぐ、イエスは書きおろしを止められたので、受話器を取ってよいと分かったのです。それは母からでしたが、彼女は膝が悪くてよく歩けません。電話ごしに、「ヴァッスーラ、ひとっ走りして店が閉まる前にパンを買って来てちょうだい。今すぐ!」と言います。私は、「ちょっと待って」と答えようとしました。イエスのおことばを書きおろしているのです。イエスは眉を上げて「パンを買いに行きなさい」という合図をなさいました。そして「はい、行きます」と答えて受話器をおろした後、イエスはおっしゃいました。「あなたが誰に仕えていようとそれは、私に仕えていることです」と。ほかの人、隣人にすることは、すべてがイエスにしていると、こうした仕方で教えて下さったのです。

 

 

 

 

6.マザー・テレサ

 

 

マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P136

 

悲しみに暮れている人に、ほほえみかけ、短時間でも、淋しい人を訪れて慰め、雨にぬれている人に傘をさしかけ、目の不自由な人の代りに読んであげること、こういうことは皆、小さい、本当に小さいことです。でもこのような貧しい人々への具体的な行為こそが、私たちの神に対する愛の表れなのです。

 

 

 

 

マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P58

 

 貧しい人々の中でも最も貧しい人々は、私たちにとってキリストご自身、人間の苦しみを負ったキリストに他なりません。

 

 

 

 

マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P63

 

 病人や貧しい人のお世話をする時、私たちはキリストの苦しんでいる体のお世話をしているのです。

世界中のどこであれ、貧しい人々は、苦しんでいるキリストご自身なのです。貧しい人々の中で神の子は生き、かつ死んでおられます。彼らを通して、神は、ご自分のみ顔を示していらっしゃるのです。

 

 

 

 

マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P72

 

 私たちはイエスにしているかのように貧しい人々に仕えてはいけません。彼らはイエスその方だから仕えるのです。

 

 

 

 

マザー・テレサ/愛するために/ドン・ボスコ社/P99

 

いくつの資格をとったか、いくら稼いだか

どれほど偉大な業績をやり遂げたか

生涯の終りにわたしたちが裁かれるのは

これらのことについてではありません。

 

わたしたちはキリストのことばによって裁かれるのです。

「わたしが飢えていたときに食べさせてくれ

裸であったときに服をくれ

路頭に迷っていたときに助けてくれた」

 

パンだけではなく、愛に飢えている人。

服だけではなく、人間としての尊厳や尊敬を奪われている人。

レンガの家がないだけではなく、受け入れてくれる人のいない人。

この人たちこそみじめな姿を取られたキリストなのです。

 

 

 

 

マザー・テレサ/愛するために/ドン・ボスコ社/P97

 

イエスのことばを確実に理解することができるために

イエスへの渇きをいやすことができるために

イエスへの愛を満たすことができるために

イエスは御自分をいのちのパンとなさったのです。

しかし、主はそうまでなされても、満足されません。

主ご自身が飢える者となられたのです。

わたしたちの愛に対する主の飢えを

わたしたちがいやしてさしあげられるように。

それは、貧しい人々へのわたしたちの奉仕をとおして可能になるのです。

わたしたちは主の飢えを満たすのです。

 

 

 

 

7.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P149

 

「あなたは、このような三重の愛を私に返報する義務がある。私をあなたの神として愛することによってあなた自身のすべてを固定し、私への愛でないものは、何もあなたから出てはならない。あなたが考えつく世話と善意を通して私を愛し、全ての人のため、全ての人のうちで私を愛することである。」

 

 

 

 

8.マリア・ワルトルタ

 

 

聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上巻/天使館/P26

 

 あらゆる過ちと、あらゆる嘲りは、に罰せられるだろう、は決して嘲笑を受けられず、より小さい人々を抑圧することは許されないゆえに、とは言われる。

 だが、マリアよ、一つのことに注意しなさい。より小さな人々の方からも律法に対する尊敬が必要です。守らねばならない。それはあなたたちがいつもと共にいるためだ。

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P43

 

二心を持つな。神は、からかえるものではなく、まただませるものでもない。人間に対して、神に対してするようにせよ。なぜなら人間に対してする不正、侮辱は、神に対して行ったのと同じことである。人間に見られたいように神に見られるのを望め。

 謙遜であれ。おまえたちの師にはそれがないととがめ得ないだろう。私は、おまえたちに模範を与える。私がするようにせよ。謙遜、柔和、忍耐深くあれ。世間を征服できるのは、これをもってである。