兄弟
兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける(マタイ5・22)/
わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは(マタイ25・40)/
1.仁慈の善の中にいる者
2.古代では教会のものであった者たちは凡てかれら自身を「兄弟」と呼んだ
3.主
4.兄弟は隣人と同じことを意味している
5.天界の従属
6.善と真理とが連結するとそれらは「兄弟」と呼ばれる
7.聖母から司祭へ
8.『兄弟』の意義は善を通して連結していること
9.ヴァッスーラ
10.マリア・ヴァルトルタ・・・あの方をよく知るなら、すべての人は兄弟のようになるでしょう
詩篇133・1−3
見よ、兄弟が共に座っている。
なんという恵み、なんという喜び。
かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り
衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り
ヘルモンにおく露のように
シオンの山々に滴り落ちる。
シオンで、主は布告された
祝福と、とこしえの命を。
マタイ5・21−24
あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
マタイ18・15−17
兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
1.仁慈の善の中にいる者
天界の秘義4121
『兄弟たち』によりその内意では類似した善と真理の中に、即ち、善と真理に対する類似した情愛の中にいる者たちが意味されている。なぜなら他生では凡ての者は情愛に順応して共に交わっており、共に交わっている者たちが兄弟の団体を構成しているからである。彼らは自分自身を兄弟と呼んでいるのではなくて、連結により兄弟となっているのである。他生では地上で血縁と結婚とにより親類関係と呼ばれているものを生み出しているものは善と真理であり、それでその二つのものの間には相応が存在している、なぜなら善と真理とはそれ自身において観察されるなら主以外の父を何ら承認していないからである、なぜなら善と真理とは主のみから発しているからである。ここから善と真理との中にいる者は凡て兄弟の間柄にいるが、しかしそれでもその善と真理との性質に応じて幾多の度の親類関係が存在している。これらの度は聖言に『兄弟』『姉妹』『婿』『嫁』『孫息子』『孫娘』により、また他の家族名により意味されている。
天界の秘義4121[2]
地上ではかれらは情愛の方面ではいかほど異なっていても、共通の両親との関連からそのように名をつけられているが、しかしこの兄弟関係または親類関係は他生では消滅してしまい、かれらは地上で類似した善の中にいないかぎり、かしこでは他の兄弟関係に入ってくるのである。実際最初はかれらの大半は共になるが、しかししばらくすると分離してしまう、なぜならかの世界では人間を共に結びつけるものは富ではなくて、今し方言ったように、情愛であり―その情愛の性質がその時白日の下に在るように明らかになるのであるが―また人間が他の者に対して抱いていた情愛の種類であるからである。そしてこれらのものは明らかになるため、また各々の者の情愛がその者をその者の社会へ引き寄せるため、気質が異なっていた者たちは分離してしまうのであり、外なる人のものであったところの兄弟関係と友情はことごとく両方の側で消滅してしまって、内なる人のものであるものが残るのである。
天界の秘義5067
まことにわたしはあなた方に言う。あなた方はそれをこれらのわたしの兄弟たちのいと小さい者の一人に為したのは、それをわたしに為したのである、と。(マタイ25・40)
仁慈の、また生命の善の中にいる者たちは「兄弟たち」と呼ばれている。なぜならかれらは善そのものの中にいるため、主はかれらのもとにおられ、また元来隣人により意味されている者はかれらであるからである。
天界の秘義6756[5]
古代では教会に属した者たちが彼ら自身を『兄弟』と呼んだことは、前に言ったように、彼らは主をただ一人の父として承認したためであり、また主から彼らは新しい霊魂と新しい生命を得たためであった。それで主は言われている―
あなたらはラビと呼ばれてはならない、あなたらの師は一人であり、実にキリストであり、あなたらはすべて兄弟であるからである(マタイ23・8)。
霊的に兄弟であることは愛から発しており、即ち、一人が他のものとなろうとする愛から発しており、善の中にいる者たちは「主の中におり、主はその者たちの中におられる」ため(ヨハネ14・20)、彼らは主から「兄弟たち」と呼ばれているのである。
イエスはその御手を弟子たちの方へのべられて言われた。見なさい。わたしの母とわたしの兄弟たちを。たれでも天におられるわたしの父の意思を為す者はことごとく、わたしの兄弟、姉妹、母であります。(マタイ12・49,50)
あなたらはこのわたしの兄弟たちの中で最も小さい者の一人にそれをなした限り、それをわたしに為したのである。(マタイ25・40)
そして主はまたその弟子たちを「兄弟」と呼ばれているのである。
恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。(マタイ28・10)
わたしの兄弟たちのところへ行ってこう言いなさい。(ヨハネ20・17)
「弟子」によりその表象的な意義では信仰の諸真理と愛の善の中にいる者が凡て意味されているのである。
天界の秘義9338
善の中にいる者たちは主の「兄弟」と呼ばれ(6756)、かくてまた善いことを行う者たちも主の兄弟と呼ばれている。なぜなら善は人間のもとにおられる主であるからである。
啓示による黙示録解説32
『兄弟』により、聖言の霊的意義では、仁慈の善の中にいる者が意味され、『仲間』より、そこから信仰の諸真理の中にいる者が意味されている。なぜなら凡ての者は、いわば、仁慈によっては血縁関係にいるが、信仰によっては親類の関係にいるからである。なぜなら仁慈は連結させるが、しかし信仰は、それが仁慈から発しなくては、連結させはしないからである。信仰が仁慈から発しているとき、そのときは仁慈は連結させ、信仰は共にまじらせるのであり、それらは一つのものとなっているため、それで主は凡ての者は『兄弟』でなくてはならないと命じられたのである、
黙示録講解746ハ
最も近い意味では「男」は凡ゆる者を意味し、「兄弟」は血縁関係にあるため同一の種族の者を意味し、「仲間」「は相似性によってのみ結びつけられているため他の種族の者を意味しているが、しかし霊的意味においては「男」は真理の中にいる者を意味し、そのときまた誤謬の中にいる者を意味している。「兄弟」は仁慈の善の中にいる者をたれでも意味し、抽象的な意味においてはその善そのものを意味し、その反対の意味においては、これらは仁慈の善に対立した悪と、かの善から発した真理に対立した誤謬を意味している。「兄弟」と「仲間」の両方の言葉は二つのものがあるため用いられている。すなわち、人間の生命を作り上げている二つのもの、意志と理解があるように、教会を構成している仁慈と信仰とがあるためである。それで一つのものとして活動している二つのものがあり、例えば二つの目、二つの耳、二つの鼻孔、二つの手、二つの足、二つの肺葉、二つの心室、頭脳の二つの半球などがあり、その中の一方のものは真理が発してくる源泉の善に、他は善から発した真理に関係している。このことが「兄弟と仲間」と言われている理由であり、「兄弟」は善を、「仲間」はその真理を意味している理由である。
黙示録講解746ニ[七]
「主は仁慈の善の中にいる主の教会の者たちを『兄弟』と呼ばれている」ことは以下の記事から認められることができよう。福音書には―
イエスはその弟子たちの上にその御手を伸ばされて言われた、見よ、わたしの母とわたしの兄弟たちを、たれであれわたしの父の御意志を行おうとする者、その者はわたしの兄弟、姉妹、母である(マタイ12・49,50、マルコ3・33−35)。
主がその者たちの上に御手をのばされた「弟子たち」は主の教会に属している凡ての者を意味しており、「主の兄弟たち」は主から発している仁慈の善の中にいる者たちを意味し、「姉妹」はその善から発している真理の中にいる者たちを意味し、「母」はそれらの者から構成されている教会を意味している。
黙示録講解746ニ[八]
マタイ伝には―
イエスはマグダレアのマリアに、また他のマリアに言われた、恐れてはならない、行ってわたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい、そこでかれらはわたしを見るでしょう(マタイ28・10)。
ここにもまた「兄弟たち」は、仁慈の善の中にいる教会の凡ての者を意味している弟子たちを意味している。ヨハネ伝には―
イエスはマリアに言われた、わたしの兄弟たちのもとへ行って、かれらに言いなさい、わたしはわたしの父の御もとへ登ります、と(ヨハネ20・17)。
弟子たちはここに再び「兄弟たち」と呼ばれているのは、「弟子たち」は「兄弟たち」と同じく仁慈の善の中にいる主の教会の凡ての者たちを意味しているためである。
黙示録講解746ニ[九]
マタイ伝には―
王はかれらに言った、わたしはあなたたちに言います、あなたらはこれらのわたしの兄弟たちの最も小さい者たちの一人にそれを行ったため、それをわたしに行ったのである(マタイ25・40)。
そこの前に言われていることから主がここに「兄弟たち」と呼ばれている者たちは仁慈の善い業を行ったような者たちであることが明白であるが、しかし、主はかれらの父であられるものの、主は依然かれらを「兄弟たち」と呼ばれていることを知らなくてはならない。主は神的愛からかれらの父であられるが、しかし主から発出している神的なものから兄弟であられる。このことは諸天界の凡ての者は主から発出している神的なものを受け入れている者たちであるが―天界における、また教会における主である、これは天使または人間のものではなくて、かれらのもとにおられる主のものであり、従ってかれらのもとにある仁慈の善そのものを―それは主のものであるが―兄弟と呼ばれ、そのことはまた天使たちと人間とを兄弟と呼ばれるのと同様であるが、かれらはその善を受け入れる主体であるためである。約言すると、諸天界における主の神的なものであるところの発出している神的なものは、天界における主から生まれた神的なものである。それでその神的なものから、それを受け入れる者たちである天使たちは「神の息子たち[子たち]」と呼ばれており、これらの者はかれら自身の中に受け入れたかの神的なもののために兄弟たちであるため、「兄弟」と言われる方は、かれらの中の主であられる。なぜなら、天使たちが仁慈の善から話すときは、かれら自身から話すのではなく、主から話すからである。それでこれが主が「あなたたちがこれらのわたしの兄弟たちの最も小さい者たちの一人に行ったため、それをわたしに行ったのである」と言われる理由である。それで霊的な意味においては主の兄弟たちは前の諸節の中に列挙されている仁慈の諸善であり、これらのものがすぐ前に言われている理由のため主から「兄弟たち」とよばれているのである。さらにかれらをそのように呼ばれる「王」は発出している神的なものを意味しており、それは一つの言葉においては神的真理、または神的な霊的なものと呼ばれ、それはその本質においては仁慈の善である。
黙示録講解746ヘ
このことからまた主はたれを『兄弟』により意味されているかが明らかである、すなわち、主を承認し、主から仁慈の善の中にいる凡ての者、従って主の教会に属している凡ての者である。
2.古代では教会のものであった者たちは凡てかれら自身を「兄弟」と呼んだ
天界の秘義2385
主に対する愛と隣人に対する仁慈とはその上に律法のすべてがかかっているものであり、またあらゆる予言者から語られているものであり、それでそれらはあらゆる教義と礼拝との本質的なものであるという真理が受け入れられている場合は非常に異なるのである。なぜならその場合心はその真理が原理として受け入れられないときは不明確な誤った原理の中に隠されてしまうところの聖言の無数のものにより明るくされるからである。いな、そうした場合には異端は消滅してしまって、一つの教会が多くのものから起こってくるのである。
たとえその一つの教会から流れ出ている、またはそれへ導かれている教義的な祭儀的な事柄がいかに甚だしく相違しているにしても。
[5]そうしたものが古代教会であって、それは多くの王国に拡がっていたのである。すなわちアッシリア、メソポタミア、シリア、エチオピア、アラビア、リビア、エジプト、ツロとシドンにもたっしたぺリシテ、ヨルダンの両岸のカナンの地にも拡がっていたのである。これらの国の間では教義的なものと祭儀的なものとは相違してはいたが、しかしかれらには仁慈は本質的なものであったため、依然教会は一つのものであった。そのとき地上には主の王国が天界におけるように存在したのである。なぜならそうしたものが天界であるからである(684,690)。もしそれが現今もそのようなものであるなら、すべては主により一人の人間として支配されるであろう。
なぜならそれらは一つの身体のいくたの肢体と器官のようなものとなるからである。なぜなら身体の肢体と器官とは同じ形はしておらずまた同じ働きも持ってはいないものの、それでもすべてのものは一つの心臓に関連をもっていて、その心臓にすべてのものが、また各々のものが、あらゆる所で相違しているそのいくたの形をもちつつも依存しているからである。そのときは各々の者は、いかような教義の中に、いかよう外的な礼拝の中にいようとも、これはわたしの兄弟である、わたしはかれが主を拝していて、善良な人間であることを認めると言うであろう。
スウェーデンボルグ/天界の秘義2913
もし凡てのものが仁慈を持っているなら、たとえ教義的なものと礼拝とについては異なっているにしても、教会は一つのものとなるであろう。(1285,1316、1798、1799、1834、1844、2385)
天界の秘義3803[2]
ヤコブはラバンの妹の息子であるのに、かれが自分自身をラバンの『兄弟』と呼んでいる理由は、凡ての者は善から兄弟であるということであり、その同じ理由からラバンもまた代ってヤコブを『兄弟』と呼んでいるのである(15節)。血縁関係を作り、連結させるものは善である、なぜなら善は愛のものであって、愛は霊的に連結させるものであるからである。これが古代教会では善の中にいる者はすべて兄弟と呼ばれ、ユダヤ教会においてすらそのように呼ばれた理由であるが、しかしこの教会は他の凡ての者を卑しいものと考えて、自分自身のみが選ばれたものであると考えたため、ユダヤ人として生まれた者のみを兄弟と呼んで、他の凡ての者を連れの者、仲間または他国者と呼んだのである。原始教会もまた善の中にいる者たちを凡て兄弟と呼んだが、しかし後には自分自身の集会の中にいる者のみを兄弟と呼んだのである。しかし兄弟という名は善とともに基督教徒の間から消え去ってしまって、真理が善に代り、または信仰が仁慈に代って起ったとき、かれらはもはや善から互に他を兄弟と呼ぶことができなくなって、隣人と呼んだのである。このこともまた仁慈の生命を欠いた信仰の教義の結果であり、自分自身より低い地位にある者との兄弟関係はかれらの下に在るように見えるのである、なぜならこのような人物のもとでは兄弟関係はその起原を主から得ておらず、従って善から得ていないで、自己から得ており、従って名誉と利得から得ているからである。
天界の秘義6756
「彼はその兄弟たちのもとへ行き」。これは教会の諸真理と連結したことを意味していることは以下から明白である、即ち、『兄弟たち』の意義は教会の諸真理であり(そのことについては以下に述べよう)、『彼らのもとへ出かけて行った事』の意義はそれらと連結したことである。『兄弟たち』については、彼らは教会の諸善を意味することもあり、その諸真理を意味することもあり、天的な教会が取扱われている時は、諸善を意味し、霊的な教会が取扱われている時は、諸真理を意味している、なぜなら天的な教会は善の中にいるが、霊的な教会は真理の中にいるからである。そして古代では教会のものであった者たちは凡て彼ら自身を「兄弟」と呼んだのである。霊的な教会のものであった者たちもまた善から彼ら自身を『兄弟』と呼んだが(3803番を参照)、しかし内なる教会の人たちは、善の性質に従って、かくて諸真理に従って、そのように呼んだのである、なぜなら善はその性質を諸真理から得るからである。その後、教会が善から離反し、そこからまた真理からも離反すると、そのときは彼らは最早、仁慈と信仰の霊的な血縁関係と親類関係から互いに他を「兄弟」と呼ばなくなり、ただ単に自然的な血縁関係と親類関係からのみ、また友情からのみ『兄弟』と呼んだのである。更に彼らは低い境遇にある者が、自分自身を『兄弟』と呼ぶといったことに激怒し始めたのである。その理由は彼らは霊的な起源から発した親類関係を軽視し、または無視して、自然的な、社会的な起源から発した親類関係を重視し、または無上のものとしたということであった。(教会の諸真理が『兄弟たち』と呼ばれていることは、ヤコブの息子たちが教会の諸真理の総合体を表象したという事実から明白である、5403、5419、5427、5458、5512番を参照)。
天界の秘義6756〔2〕
古代では彼らは霊的な親類関係から『兄弟たち』と呼ばれた理由は、新しい出生、または再生は、自然的な出生よりも高度の血縁関係と親類関係を作ったということであり、その起源を一人の父、すなわち主から得ているためである。ここから人間は死後天界に入ると、善と真理によらなくては、いかような兄弟も認めないし、母、または父さえも認めないのであり、善と真理とに従ってそこに新しい兄弟関係を見出すのである。それでそこから教会に属した者たちは互いに他を『兄弟』と呼んだのである。
天界の秘義6756〔5〕
古代では教会に属した者たちが彼ら自身を「兄弟」と呼んだことは、前に言ったように、彼らは主をただ一人の父として承認したためであり、また主から彼らは新しい霊魂と新しい生命を得たためであった。それで主は言われている―
あなたらはラビと呼ばれてはならない。あなたらの師は一人であり、実にキリストであり、あなたらはすべて兄弟であるからである(マタイ23・8)。
霊的に兄弟であることは愛から発しており、即ち、一人が他の者となろうとする愛から発しており、善の中にいる者たちは『主の中におり、主はその者たちの中におられる』ため(ヨハネ14・20)、彼らは主から『兄弟たち』と呼ばれているのである―
イエスはその御手を弟子たちの方へ伸べられて、言われた、見なさい、わたしの母とわたしの兄弟たちを、たれでも天におられるわたしの父の意志を為す者はことごとく、わたしの兄弟、姉妹、母であります(マタイ12・49、50)。
あなたらはこのわたしの兄弟たちの中で最も小さい者の一人にそれを為した限り、それをわたしに為したのである(マタイ25・40)。
そして主はまたその弟子たちを『兄弟』と呼ばれているのである(マタイ28・10、ヨハネ20・17)。『弟子』によりその表象的な意義では信仰の諸真理と愛の善の中にいる者が凡て意味されているのである。
黙示録講解104
仁慈が教会を構成するのであり、809、916、1798、1799、1844、1894、番、教会の内なるものは仁慈であり、4766、5826番、
もし凡ての者が、たとえ信仰の教義と礼拝の祭儀[儀式]との方面では相違してはいても、仁慈から顧慮されるなら、一つの教会が存在して、現今のように、多くの教会は存在はしないのである、1286、1316、1798、1799、1834、1844、2385、2982、3267、3451番、主を拝することは仁慈の生命の中に在り、8254、8256、番、礼拝の性質は仁慈の性質に順応しているのである、2190番
3.主
黙示録講解746ニ[十]
それ故以下のことが心に留められなくてはならない。すなわち、キリスト教界に受け入れられている見解に従って、主はかれらのように人間であられたために、かれらを「兄弟」と呼ばれたのではないのであり、そうした理由のため、たれか人間が主を「兄弟」と呼ぶことは許されはしないのである。なぜなら主はその人間的なものの方面においてすら神であられ、神は兄弟ではなくて、父であられるからである。地上の諸教会の中で主は兄弟と呼ばれたもうているのは、かれらが主の人間的なものについて形作った観念はたれか他の人間的なものについて抱いているかれらの観念と同じようなものであるためであるが、主の人間的なものは神的なものである。
黙示録講解746ニ[十一]
「王」は前には神的真理に関連した主を表象したため、主の霊的王国の中で天使たちにより受け入れられている神的真理は神的な霊的な善と同じようなものであるため、霊的善は仁慈の善であるため、それでイスラエルの子孫を治めるものとして任命された王たちはその従者たちを「兄弟」と呼んだが、他方従者たちはかれらの王を「兄弟」と呼ぶことは許されなかったのであり、ましてや主はそのように呼ばれてはならないのである。主は王たちの王、主たちの主であられるのである。
4.兄弟は隣人と同じことを意味している
天界の秘義2360
ロトが彼らを『兄弟』と呼んでいるのは、彼が彼らに勧告しているのは善から発しているためであることは、『兄弟』の意義から明白である。 聖言には『兄弟』は隣人と同じことを意味しているのは、人間はことごとく隣人を自分自身のように愛さなくてはならないという理由によっており、かくて兄弟は愛から、またはそれと同一のものであるが、善からそのように呼ばれたのである。
天界の秘義2360〔5〕
このすべてから、ユダヤ人とイスラエル人とはすべて互に他を兄弟と呼んだが、しかし契約により結合した者たちを仲間〔連れ〕と呼んだことは明白である。それでも彼らは聖言の歴史的な世的な事柄を超えては何ごとも理解しなかったため、彼らはすべて一人の父またはアブラハムの子孫であるため互に他を兄弟と呼ぶのであると信じたが、それでも彼らは聖言ではそうした事情から『兄弟』と呼ばれたのではなく、その表象した善からそのように呼ばれたのである。『アブラハム』もまた、その内意では、愛それ自身以外には、すなわち、主以外には何ごとをも意味してはいないのであり(1893、1965、1989、2011番)、その息子たちは、従って『兄弟』である者たちは善の中にいる者たちであり、事実隣人と呼ばれているすべての者であり、このことは主がマタイ伝に教えられるところである―
あなたたちの主人は一人である、すなわちキリストである、あなたたちはすべて兄弟である(23・8)。
5.天界の従属
天界の秘義7773
天界では凡ての者は、平等な者に似ている。なぜならかれらは兄弟が兄弟を愛するように互いに愛しあっているからであるが、それでも互いに他の者をその者が理知と知恵とにおいて勝っているに応じて自分の上においているからである。
各々の者は善と真理との愛そのものにより、いわば自分自身から善の知恵と真理の理知において自分よりもまさっている者に自分自身を従属させているのである。
6.善と真理とが連結するとそれらは「兄弟」と呼ばれる
善は相対的には主人であり、真理は相対的には僕であるが、それにも拘らずそれらは「兄弟」と呼ばれている。それらが「兄弟」と呼ばれているのは、善と真理とが連結すると、そのときは善は真理の中に映像となって示されるように示され、その後で連結して働いて、結果を生み出すからである。しかし、善と真理とが連結しない中は、善は「主[主人]」と呼ばれ、真理は「僕」と呼ばれており、ましてや先在性について議論がなされるときはそのように呼ばれるのである。
7.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ/1974.2.18
・・・きょう、あなたのために、この場所で本当に何かが生まれます。小さな種ではありますが、広がり育ち、大木になるでしょう。きょう、あなたのために一つの出会いがあったでしょう。あなたは一人の兄弟を見いだしたのでした。でも私は、どれほど長い間、彼を準備して来たことでしょう!そう、ずっと前から、この司祭を鍛えて来ました。苦しみや誤解、孤独によって、ああ、私の心がこれほど好きな、あの内的謙遜とあの幼児の精神が、どれほどその習性となるようにしたことか。
聖母から司祭へ/1974.6.21
ここであなたは、私が殊更に愛し可愛がっている一人の司祭と全く一致していましたね。子よ、彼は私の運動のため、私自身が兄としてあなたに与えた人です。
8.『兄弟』の意義は善を通して連結していること
天界の秘義5440
「かれらは言った、わたしたち、あなたの僕らは十二人の兄弟であります」。これは信仰の凡ゆるものであり、それがここのようにヤコブの息子たちについて述べられ、またはかれらにちなんで名づけられた種族について、また使徒たちについて述べられているときは、信仰の凡ゆるものの一つの統合体であり(577、2089、2129、2130、2553、3272、3488、3858、3862、3913、3926、3939、4060番を参照)、『兄弟』の意義は善を通して連結していることである、なぜなら諸真理が善により連結するときは、その諸真理はそれら自身の間にいわば兄弟関係のようなものをおびるからである。もしそれらが善がないのに連結しているように見えるなら、たとえ連結しているように見えても連結はしていないのである、なぜなら悪の誤謬が常にそれらのものに入って、それらのものを分離するからである。そのことの理由はそれらのものが派生する源泉である一つの起原をもってはおらず、またそれらのものがそれに向って向けられる一つの目的をもってもいないということである。なぜなら連結が存在するためには最初のものと最後のものとは連結しなくてはならないのであり、最初のものはそれらのものが発生してくる源泉である善でなくてはならず、最後のものもそれらのものがそれに向ってすすむ善でなくてはならないからである。さらに諸真理が連結するためには、善が遍く支配しなければならないのである、なぜなら遍く支配するものが連結させるからである。(『兄弟』が善の情愛[善に対する情愛]を意味していることは前の2360、2524、3303、3459、3803、3815、4121番に見ることができよう)。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻Pxvii
「悲しまないように、友よ 私を愛する者たちよ、 私の堪え忍んでいるものを忍びなさい、しかし、私を慰め 信じるように。私の名のもとに 大いなるわざをなし遂げるであろう。 私が寛容であるように寛容でありなさい。 私は飢え、渇き しばしば餓死しそうであったが あなたは助けに来てくれた。善いわざを続けなさい 報いよう。まことに言う あなたは独りではない、私がともにいる。 私と一致し 平和のうちに生きるように。あなたは私の血の子孫 王国の跡継ぎです。主の心が愛であり 掟の心は愛に基いていることを伝えなさい。私の家に管財人は不要だと 私の者たちに伝えるように。この者たちは私の日に正当化されることはない 我が家を一つの事業としてしまったのはまさにこの者たち。 あなた方の心に住むように 私は、我が霊を送った、このため 私の教会があなた方の心のうちに再建され、心のうちで互いを兄弟と認め合うようになるのを あなた方のうちに住む霊が 指し示して下さるであろう。」(ノート55、‘91・9・9)
10.マリア・ヴァルトルタ・・・あの方をよく知るなら、すべての人は兄弟のようになるでしょう
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/8卷上P171/514・7
真の神は、ヘブライ人だけでなく、ローマ人、ギリシャ人、アラブ人、パルティア人、スキタイ人、イベリア人、ガリア人、ケルト人、リビア人、ヒュペルポレオス人の神でもあります。神は、ただ御一方です! けれども、多くの人がそれを知らず、誤った知識を持っています。あの方をよく知るなら、すべての人は兄弟のようになるでしょう。権力の乱用、憎しみ、中傷、復讐、色欲、盗み、殺人、姦通、嘘はなくなるでしょう。わたしは真の神を知っていて、彼を知らせるために来ました。