お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、

のどが渇いていたときに飲ませ、

マタイ25章

 

わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは(マタイ25・40)

ぼろを纏(まと)い 素足のまま 乾いた唇をして 乞食の姿で訪れている

マザー・テレサ主をお喜ばせする主が求めるものは愛

小さな仕事も愛をもって行う

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.ヴァッスーラ

4.マリア・ワルトルタ

 

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ25・31−40

 

人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

4954−4959

 

 

天界の秘義4954

 

前章の序言に、善い者と悪い者に対して行われた審判について語られた、マタイ伝25章31節から33節に至る主の御言葉を明らかにした(4807−4810番)。今はその後の順序を追って続いて述べられている御言葉を、即ち、以下のものを明らかにしなくてはならない―

 

そのとき王はその右手の者に言うであろう、さあ、わたしの父に祝福された者たちよ、世の創設から[世が初めて据えられてから]あなたがたのために備えられた王国を得なさい。わたしは飢えたが、あなたがたは食べさせてくれた、わたしは渇いたが、あなたがたは飲ませてくれた、わたしは他国者であったが、あなたがたは宿らせてくれた、裸であったが、あなたがたは着せてくれた、牢に繋がれたが、あなたがたはわたしのもとへ来てくれた(34−36)。

 

 

 

 

天界の秘義4955

 

これらの言葉の内意に含まれているものは以下の記事から明らかになるであろう。先ずここに列挙されている業は仁慈の業そのものを順序を追って挙げたものであることを知られたい。このことは聖言の内意を熟知していない者はたれ一人、即ち、飢えた者に食べさせること、渇いた者に飲ませること、他国の者を宿らせること、裸の者に着せること、病んだ者を訪ねること、牢にいる者のもとへ来ることにより意味されていることを知らない者はたれ一人認めることは出来ないのである。文字の意義からのみこれらの行為を考える者は、それは外なる形における善い業を意味しており、その中にはそれ以上秘められた意義は無いと推測はするものの、その各々の中には、主から発しているため、神的なものである秘められたものが在るのである。

しかしその秘義は、現今仁慈の教義的なものは何ら存在していないため、今日理解されてはいないのである、なぜなら人間は信仰から仁慈を分離して以来この方、この教義的なものは死滅してしまい、代って、仁慈とは何であるか、隣人とは何であるかを些かも教えてはいないところの、信仰の教義的なものが発明されて、受け入れられているからである。古代人の間に存在した教義的なものは仁慈の凡ゆる種属と凡ゆる種類とを教えたのであり、また仁慈を隣人に対して行わねばならないが、その隣人とはたれであるかを教えたのであり、人各々はいかように異なった度における、またいかように異なった関係における隣人であるかを教えたのであり、従って仁慈を異なった人々に行うにあたって、それはいかように異なっているかを教えたのである。

彼らはまた隣人を部類分けして、これに名前をつけ、或る者は貧しい者、乏しい者、惨めな者、苦しんでいる者と呼び、或る者は目しい、かたわ、びっこ、また父なし児、やもめと呼び、また他を飢えた者、渇いた者、他国の者、裸の者、病んだ者、縛られた者などと呼び、かくして彼らは仁慈を受ける者が異なるに応じて自分らはその者に対しいかような義務を負うているかを知ったのである。

しかし前に言ったようにこの教義的なものは死滅してしまい、それと共に聖言の理解も死滅してしまい、現今ではたれ一人聖言の『貧しい者』、『やもめ』、『父なし児』によりそのように呼ばれている者以外の者は何ら意味されてはいないとしか考えていない程にもなり、同じようにここでも『飢えた者』、『渇いた者』、『他国の者』、『裸の者』、『病んだ者』、『牢にいる者』によってもそのように呼ばれている者以外の者は何ら意味されてはいないとしか考えていない程にもなってはいるが、しかしこれらの者により仁慈が、その本質においてあるがままに記されており、また仁慈の実践が、それがその生命の中に存在しなければならないままに記されているのである。

 

 

 

 

天界の秘義4956

 

 隣人に対する仁慈の本質は善と真理との情愛[善と真理に対する情愛]であり、また自己を悪いもの、誤ったものとして承認することであり、実に隣人とは善と真理そのものであって、この善と真理とに感動することが仁慈を持つことである。隣人に対立したものとは悪と誤謬であり、それは仁慈を持つ者たちにより嫌悪されるのである。それゆえ隣人に対する仁慈を持っている者は、善と真理とは主から発しているため、その善と真理とに感動するのであり、悪いものと誤ったものとは自己から発しているため、それらのものを嫌悪するのであり、彼がそのことを為すとき、自己を承認することから自らを卑下しており、また自らを卑下している時は、主から善と真理とを受け入れる状態にいるのである。

これらが主の以下の御言葉の内意に含まれている仁慈の特質である、『わたしが飢えた時、あなたがたは食べさせてくれた、わたしが渇いた時、あなた方は飲ませてくれた、わたしが他国者であった時、あなたがたは宿らせてくれた、裸であった時、わたしに着せてくれた、わたしが病んでいた時、わたしを訪ねてくれた、わたしが牢にいた時、わたしのもとへ来てくれた』。これらの言葉にはこのような事柄が含まれていることはたれ一人内意によらなくては知ることは出来ない。古代人は仁慈の教義的なものを持っていたため、彼らはこれらの事柄を知ってはいたが、しかし今日ではそれは、こうした事柄がその中に在ると言われると、たれでもが怪しむほどにも縁遠いものとなっている。

 更に人間のもとにいる天使たちはこれらの言葉をそのようなものとしか認めていないのである、なぜなら彼らは『飢えた者』により情愛から善を欲求している者たちを、『渇いた者』により情愛から真理を欲求している者たちを、『他国者』により進んで教えを求める者たちを、『裸の者』により自分自身の中には善と真理とは何一つないことを承認している者たちを、『病んだ者』により自分自身の中に悪以外には何ものもないことを承認している者たちを、『縛られている者たち』または『牢にいる者たち』により、自分自身の中には誤謬以外には何ものも無いことを承認している者たちを認めるからである。もしこれらの事柄が一つの意味となると、今し方前に述べたことを意味するのである。

 

 

 

 

天界の秘義4957

 

この凡てから主が言われた事柄の各々には―例え単に世的な物の中にいる者たちには、特に身体的なものの中にいる者たちには、主の御言葉はたれでも人間の言うようなものとしか見えないにしても―神的なものが在ることが明白である。否、身体的な物の中にいる者らは、主のこれらの、また他の凡ての御言葉について、それには現代の者で、流暢にまた学殖も豊かに話す者の談話と説教に見られる程の優雅さは見られはしないし、それでそれ程の重みも見られもしないと言うであろうが、それでも彼らの談話や説教は殻ともみがらを核と穀粒とに較べるようなものである。

 

 

 

 

天界の秘義4958

 

『飢えること』は情愛から善を欲求することであるのは、『パン』は内意では愛の善と仁慈の善であり、『糧』は全般的には善であるからである(2165、2177、3478、4211、4217、4735番)。『渇くこと』は情愛から真理を追求することであるのは、『ぶどう酒』は、また『水』は信仰の真理を意味するためである(『ぶどう酒』はそうしたものであることは前の1071、1798番に、『水』もそうしたものであることは2702番に見ることができよう)。『他国の者』は進んで教えを受けようとする者であることは前に見ることが出来よう(1463、4444番)。『裸の者』は、自分自身の中には善または真理は何一つないことを承認している者を意味し、『病んでいる者』は、自分が悪の中にいることを承認している者を意味し、『縛られた者』または『牢にいる者』は、自分が誤謬の中にいることを承認している者を意味していることは、それらの者を記している聖言の多くの記事から明らかである。

 

 

 

 

天界の秘義4959

 

 主が主御自身についてこれらの事柄を言われる理由は主はそうした者の中におられるということであり、それ故また主は『まことにわたしはあなた方に言う、あなた方がそれをこのわたしの兄弟たちの中でもいと小さい者の一人に為したのは、それをわたしに為したのである』と言われている(40,45節)。

 

 

 

黙示録講解617ハ(19)

 

マタイ伝には―

王はその右手にいる者たちに言われた、わたしは飢えたが、あなたたちはわたしに食べさせてくれました、わたしは渇いたが、あなたたちはわたしに飲ませてくれました。左手の者らには、わたしは飢えたが、あなたらはわたしに食べさせはしなかった、わたしは渇いたが、あなたらはわたしに飲ませはしなかった(25・34,35,41,42)。

 

これらの語によってもまた霊的な飢えと渇きと霊的な食べることと飲むことが意味され、霊的な飢えと渇きとは善と真理に対する情愛と願望であり、霊的な食べる事と飲む事は教えられること、受け入れること、己がものとする事である。ここに主は飢えられ、渇かれた、と言われているのは、主はその神的愛から凡ゆる者の救いを欲求されるためであり、人間は主に食べさせ、飲ませたと言われているが、そのことは、彼らが情愛から主から善と真理とを受け入れ、認め、生活によりそれらのものを彼ら自身のものとして所有する時行われるのである。それに似たことが、己が心情から人間に教え、その者の救いを欲する人間にも言われることが出来るのであり、それ故これらの言葉により、またそれに続いて言われている言葉により記されているものは仁慈であり、または真理に対する霊的な情愛である。

 

 

 

 

天界の秘義5066

 

 主よ、何時私たちはあなたが飢えておられるのを見て、あなたに食べさせましたか。・・・

 

この答えは、もし彼らが主御自身を見たなら、その各々の者はことごとくこれらの務めを行ったことであろうが、それでもそれは主に対する愛から行いはしないで、主が宇宙の審判者となられるために恐怖から行ったであろうということを意味し、かくて主のためではなくて彼ら自身のために行ったであろうし、かくて内から、または心から行わないで、外から、ただ行為の上でのみ行ったであろうということを意味しているのである。これは人が偉大な、または富んだ者になることが出来るように、かねがねその恩恵を得ようと願っている王を見、それでその前に身を卑しうする時のようなものである。

 

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻Pxvii

 

「悲しまないように、友よ 私を愛する者たちよ、 私の堪え忍んでいるものを忍びなさい、しかし、私を慰め 信じるように。私の名のもとに 大いなるわざをなし遂げるであろう。 私が寛容であるように寛容でありなさい。 私は飢え、渇き しばしば餓死しそうであったが あなたは助けに来てくれた。善いわざを続けなさい 報いよう。まことに言う あなたは独りではない、私がともにいる。 私と一致し 平和のうちに生きるように。あなたは私の血の子孫 王国の跡継ぎです。主の心が愛であり 掟の心は愛に基いていることを伝えなさい。私の家に管財人は不要だと 私の者たちに伝えるように。この者たちは私の日に正当化されることはない 我が家を一つの事業としてしまったのはまさにこの者たち。 あなた方の心に住むように 私は、我が霊を送った、このため 私の教会があなた方の心のうちに再建され、心のうちで互いを兄弟と認め合うようになるのを あなた方のうちに住む霊が 指し示して下さるであろう。」(ノート55、‘91・9・9)

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P201

‘90・8月 聖ネクタリオ修道院で

 

私は、しばしば眠らずに、働いて苦労した。 愛の欠如に飢え渇き しばしばひもじい思いもした。 愛の欠如で寒さに震えている、そこで私を読む人びとは、私の面倒を見てくれるか? 仔羊たちの面倒を見てくれるか? こうは言わないように: 構わないでくれ、そこまで行って与えることはできない!

 

(あとは再びもとのように、イエスはメッセージを続けられました。)

 

今日は私を読むあなた方に言う、この家の必要を満たす誰であろうと 我が祝福を与える。 あなたの行うすべては、最も小さなことであろうと、私のためにしている。 では祝福を受けなさい 我が声を聞き 御父のみ旨を行う人びとよ。 こうして、誰であろうとこの家の必要を満たす人びとは 天の御父より大きな報いをいただく。 ただし何らかの困難や問題をそそのかす者たちには警戒していなさい。 避けるように。 与えている平和と呼応して すべてを行いなさい ♡ 愛のうちに愛ゆえに すべてを行いなさい ♡ 私が頼んでいるのは愛だけです これをいつまでも覚えておくように。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P137

‘92・9・14

 

―私がよそ者だった時 あなたは迎え入れてはくれなかった、戸口に立って扉をたたいても それが耳に入らなかった。 私は真理を語っていたが、あなたは私を裁き 非難し、その舌で絶えず私について 不正な偽りを述べていた。 私はセンスのよさを教え 我が知識、指導力と奉仕を 思い出させに来た、しかしあなたは私を嘲り ひやかした。 あなた方皆を 我が心のうちに一致させ 初代教会の決まりをはじめから教え直そうと熱望し 愛といたわりをもって訪れたが、あなたの霊は 自分でつくった決まりに囚われるのを許し 私をその心から締め出した。 あなたは尋ねよう:「いつ、私はそんなことをしましたか 主よ? あなたに言っておく、私はすでに そうした仕打ちを受けている。 あなたは未熟な判断を下し唇で私を非難した、我が特使たちにしたことは 私にしたころ。 あなたは私を喜ばせると考え、彼らの名を汚した、しかし実際に汚していたのは私の名。 私のことばを受け取らず 兄弟と和解しないまま:「みことばは わが主よ、私の足の灯火、歩む道の光」と どうしていまだに言えるのか?

 

 

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・7巻P51

‘93・12・6+8

 

主はあなた方一人ひとりに これらの質問を投げかける日が来ます:

「隣人を自分と同じように愛したか? 神のみ旨をまだ理解していないのではないか? 平和を維持するために できるだけのことをしただろうか? 敵が飢えている時 あなたの食卓から食べ物を与えたか? 渇いていた時、飲ませてあげたか? 与える時、愛なしに与えるのはなぜか?」と。 私は祈りを願いました。 あなた方の多くは祈ります、けれど愛なくして。 あなた方の多くは断食します、けれど愛がありません。 あなた方の本当に多くは 私のメッセージについて語ります、けれどその心に愛が欠けているので従う人はほとんどいません。 あなた方は身を低くかがめ 掟の文字に従います、けれどその心を理解してはいません。 あなた方の多くは 一致を口にします、ところが愛に欠けているのでそれを実行に移す人びとを まっ先に非難します。 お願いしているすべてを 愛なしに実践しても、まだ闇の中にいるのです。まだ戦争に組し 平和の味方ではありません。 あなた方は自分が何でも知っていると思い込んでいます、しかし実際には何も知らないのです。 あなた方は皆 互いに部分なのですから、和解を呼びかけました、しかし私の声は聞かれていません。 今日までも 皆に呼びかけています:

       

 私のメッセージを生きて下さい!

 

神のうちに、その愛のうちに自らを新たにし 互いにどう愛し合うかを学びなさい。 善良で 聖となりなさい! 架空の願望を追って、自分を欺かないように、小さな子どもたちよ。 愛とは、真理のうちに生きることです。 「持ち物を一つづつ、全部与えていくとしても、火に投げ込まれるために 身を相手に渡したとしても、愛なくしては、何の益にもならない」という言葉を読みませんでしたか? あなた方のたった一人でも傷ついているなら キリストのからだ全体が傷つき ともに苦しんでいることが分からないのですか? 隣人を傷つけるなら 隣人ではなく、キリストのからだを傷つけたことになるのです。 こう言えますか:

 

「私は畏敬、誠実と愛をもって 神のもとにやってきた」と。

 

「いつ? 」と主はお尋ねになるでしょう、「いつ畏敬、誠実と愛をもって私のもとにやって来たか? あなたは私のからだを傷つけている、私は裁かれ、辱めをうけ、中傷され、偽りによって裏切られた。 軽蔑され、拒まれ、その唇によって すっかり不名誉を帰せられた、そこで、いつ私のもとに畏敬、誠実と愛をもって来たというのか? 私を愛する何かはっきりした証しを与えてほしい」

 

 我が子たちよ、サタンがなぜあなたの弱さにつけこんで 戦いに誘惑したかを理解しなさい。 キリストが飢えて やって来られた時 あなた方は食物を与えませんでした。 喉を渇かせて来られたのに 飲ませてあげませんでした。 よそ者としてやって来られましたが 迎え入れず 好きなようにあしらいました。 我が子たちよ、あなたの愛は 唇から出る単なる言葉であってはいけません、心から溢れてくる何かでなければ。 あなたの愛は生き生きとして 働きかけるものでなくてはなりません。 私がともにいて 助けます。 こう言って あなた方皆を祝福しましょう:

 

行うすべてが 愛のうちに、

 真心こめて成されますように ♡

 

 

 

 

4.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P84

 

 では、あなたたちは、私も彼女を祝福するとあの人に伝えておくれ。私に代って子供たちを愛してくれるようにとね。あなたたちは蜂蜜とパン菓子のためだけでなく、あのよい婦人を愛しなさい。私の名で子供を愛している人は、その名が天に書かれるのだから、あなたたちも彼女に倣いなさい。私の名で水の一杯を与えても、あわれみの心は天の報いを受けます。子供に対してのあわれみ、子供たちを飢えや渇きや寒さばかりでなく、世間の腐敗から救っている場合は、無限に報いられると知りなさい。