マザー・テレサ
1910〜1997
ぼろを纏(まと)い 素足のまま 乾いた唇をして 乞食の姿で訪れている/
わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ(マタイ25・35)/
わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは(マタイ25・40)/
口ばかりで行動の伴わない自分にとって、マザー・テレサの愛の実践の
前には一言の弁解の余地もありません。彼女は家族を大切にしなさい、
愛することはまず家庭からと言います。家族を顧みることをおろそかにし、
家族にほほえみかけることすらできない厚顔無恥で冷酷な自分です。
彼女はカルカッタで貧しい人々に給食を行いました。私たちの生活も
食事はあるにしても霊的には食べるもののないカルカッタです。
人間は真理がなければ飢えて、霊的には死んでしまいます。この霊魂の
カルカッタで霊的な食べ物を集めて、わずかでも給食をできればと考えます。
しかし、知識のかき集めだけでは冷たい食物かもしれません。温かい
食べ物とは愛のこもった真理の知識を意味しているのかも知れません。
そうです、私たちの本当に欲しいのは愛なのです。彼女は愛を給食の
形を通して、あるいは医療や介護の形を通して配ったのでしょう。
熱した鉄の塊のように、熱が鉄の中にあるように、愛も真理や行い
という媒体を通さなければ存在できず、伝えることもできません。
なお、彼女は貧しい人々はキリストご自身であるとたびたび言います。
これは私には残念ながらまだ良く分かりません・・・。
1.彼女も主を神と認めているように思われる
2.聖母
3.飢えたときに食べさせ
4.家庭
5.ほほえみ
6.犠牲
7.回心
8.信仰
9.愛は行い
10.存在の理由
11.主に従う・・・苦しみ
12.祈り
13.メモラレ
14.招命
15.その他
1.彼女も主を神と認めているように思われる
ドン・ボスコ社/わたしはあなたを忘れない/P60
神のたいへんな謙遜さを見てください。全能の神が幼子として来られたのです。
ドン・ボスコ社/わたしはあなたを忘れない/P36
イエスはわたしたち貧しい者のもとに来てくださいました。神はわたしたちを愛している、わたしたちは神にとって特別な者である、神はわたしたちを偉大なことのために創造された、つまり互いに愛し、愛されるために創造された、これらのよい知らせを告げるために貧しい人々のもとに来てくださったのです。
聖書の中で神はこう言っています。「わたしはあなたたちをあなたたち自身の名前で呼んだ。あなたたちはわたしのものである。」
・・・神はそれを証しするために、こうも言っています。「もし母親が自分の子どもを忘れることがあっても、わたしはあなたを忘れない。わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻んだ。」
マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P45
神は全く純粋です。何もその純粋さを汚すことはできません。私は、神が憎むことができると思いません。なぜなら神は愛であり、惨めで罪に満ちたこの私たちを愛してくださっているのですから。神こそが愛すべきお父様であり、私たちは神にのみ向かうべきです。神は憎みません、神は愛します、神は愛だからです。けれど私たちの不純さは、神を知る妨げとなるのです。
2.聖母
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P115
聖母マリアは私たちの母であり、喜びの理由です。私たちの母であるマリアに私はいつも話しかけ、その存在を身近に感じています。
3.飢えたときに食べさせ
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P58
貧しい人々の中でも最も貧しい人々は、私たちにとってキリストご自身、人間の苦しみを負ったキリストに他なりません。
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P63
病人や貧しい人のお世話をする時、私たちはキリストの苦しんでいる体のお世話をしているのです。
世界中のどこであれ、貧しい人々は、苦しんでいるキリストご自身なのです。貧しい人々の中で神の子は生き、かつ死んでおられます。彼らを通して、神は、ご自分のみ顔を示していらっしゃるのです。
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P72
私たちはイエスにしているかのように貧しい人々に仕えてはいけません。彼らはイエスその方だから仕えるのです。
マザー・テレサ/愛するために/ドン・ボスコ社/P99
いくつの資格をとったか、いくら稼いだか
どれほど偉大な業績をやり遂げたか
生涯の終りにわたしたちが裁かれるのは
これらのことについてではありません。
わたしたちはキリストのことばによって裁かれるのです。
「わたしが飢えていたときに食べさせてくれ
裸であったときに服をくれ
路頭に迷っていたときに助けてくれた」
パンだけではなく、愛に飢えている人。
服だけではなく、人間としての尊厳や尊敬を奪われている人。
レンガの家がないだけではなく、受け入れてくれる人のいない人。
この人たちこそみじめな姿を取られたキリストなのです。
マザー・テレサ/愛するために/ドン・ボスコ社/P97
イエスのことばを確実に理解することができるために
イエスへの渇きをいやすことができるために
イエスへの愛を満たすことができるために
イエスは御自分をいのちのパンとなさったのです。
しかし、主はそうまでなされても、満足されません。
主ご自身が飢える者となられたのです。
わたしたちの愛に対する主の飢えを
わたしたちがいやしてさしあげられるように。
それは、貧しい人々へのわたしたちの奉仕をとおして可能になるのです。
わたしたちは主の飢えを満たすのです。
4.家庭
マザー・テレサ/愛するために/ドン・ボスコ社/P62
現代社会のトラブルの多くは家庭の崩壊が原因です。母親も父親も忙しすぎて家にはいません。
子供たちが学校から帰って来ても、そこには
自分たちを迎えてくれる人も
かまってくれる人も
励ましてくれる人も
一緒に喜んでくれる人もいないのです。
子供たちは、自分たちを受け入れてくれる人
愛してくれる人
もめてくれる人
誇りに思ってくれる人を求めています。
そのような人がいなければ、子どもたちは路上をうろつきます。そこには子供を狙っている大人がたくさんいます。こうして子供は餌食になるのです。多くの憎しみと破壊は、子供と家庭のつながりが断ち切られたところに生じるのです。聖母とヨセフのように、わたしたちも子供を探しに出かけなければなりません。イエスが行方不明になったとき、彼らは来た道を戻って探しに行きました。決して座り込んで待っていたわけではありません。見つけ出すまで、休みも取りませんでした。
わたしたちも子供を連れ戻し、彼らが愛されていることを感じさせなければなりません。
子供のいないところには希望もありません。
マザー・テレサ/愛するために/ドン・ボスコ社/P70
神はご自分の愛の証しをさせるため夫と妻と子供たちを家庭に送られました。かつて私は六歳か七歳の女の子を路上で保護し、「シシュ・バビン」(子供の家)に連れていきました。そこで、その子を風呂にいれ、着替えさせ、ごちそうをしました。ところがその晩、彼女は逃げ出しました。
二度、三度とその子は保護されましたが、その度に逃げ出すのです。
三度目のときは、シスターにあとを追ってもらいました。そのシスターはその子がお母さんと妹と一緒に木の下に座っているのを見つけました。小さな皿を前にして、お母さんは道から拾ってきたものを料理していたのです。
彼らはそこで料理をし、食事をし、眠るのです。
そこが彼らの家なのです。
それでその子が逃げた理由がわかりました。お母さんはその子を本当に愛しているのです。そして、その子もお母さんのことが大好きなのです。二人はお互いに、とても大切な存在なのです。
その子は「バリジャボ(ここがあたしの家なの)」と言いました。
お母さんこそ、彼女の家だったのです。
マザー・テレサ/愛するために/ドン・ボスコ社/P67
愛は家庭からはじまります。
もし四六時中ともに生活している人を愛せないのなら
どうやって一度しか会わない人を愛することができるでしょうか。
思いやりや親切によって
喜びを分け与えることによって
ほほえみを投げかけることによって
ささいなことを通してでも愛をあらわすことができます。
幼い子はなんの困難も障害もなく愛することができます。
だからイエスはこう言われたのです。
「幼な子のようにならなければ・・」
マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P92
私は、自分の母のことを決して忘れません。彼女は一日中たいへん忙しくしているのが常でした。でも、いつも夕方になると、大急ぎで父を迎える支度をするのです。あのころは、子どもたちにはわかりませんでした。ですから私たちは母をからかって笑ったりしたものでした。けれど今思えば、母の父に対する愛は、なんとすばらしく、こまやかな愛だったことでしょう。何が起ころうと、母はほほえみながら父を迎える準備をしていたのです。今日、私たちは時間がありません。お父さんもお母さんも忙し過ぎます。子どもたちが家に帰ってきても、そこには、彼らを愛してほほえみかけてくれる人がいないのです。ですから私は、共労者の方々にたいへん厳しいのです。いつもこう言っています。家族をまず優先してください。もしあなたが家庭にいなければ、どうやってあなたの愛が人々に向かって育っていくのでしょうか。
マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P25
あなたの家族をほうっておいてはいけません。もっと、家にいるようにしましょう。今日多くの若者たちが誤った方向へ向かっています。彼らのおじいさんやおばあさんはどこかの施設に入っていますし、子どもたちが学校から帰ってきても母親は、家にいられないほど忙しいからです。つまり、家には子どもたちを受け入れて一緒に遊んでくれる人がだれもいないのです。それで、麻薬やお酒やその他いろいろな誘惑が待ち構えている路上へと出かけて行くのです。どこでも同じ状況です。すべてのことは、私たちがいかにお互いに愛し合うか、にかかっているのです。
マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P15
あなたの子どもたちの心に、家庭に対する愛の心を植えましょう。子どもたちが、たくさんの時間を家族と一緒に過ごすようにしましょう。もし人々がほんとうに家庭を愛するならば、私たち人間は多くの過ちを避けることができるでしょう。
マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P29
自分の家庭の外で人々にほほえむことはたやすいことです。あまりよく知らない人をお世話することは、実はとても易しいことなのです。あなたの家の中で毎日会っている家族を、思いやりをもって、優しく、ほほえみを忘れずに愛し続けることはとても難しいことです。特に疲れていたり、イライラしていたり、機嫌が悪かったりする時はなおさらです。だれにでもそんな時があります。そんな時こそ、苦しむ姿のうちに救い主が私たちのところに来ておられるのです。
マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P284
もし私たちの家庭生活に困難があるとしたら、もし、私たちの家庭でそれほど多くの苦しみがあるのなら、それは、家族の生活が壊れてしまっているからです。そして、それは私たち自身の手で壊されてしまっているのです。破壊は内部からやって来ます。もし、それが外からのものであるならば、それを追いやることは簡単でしょう。けれど、破壊が内側からやって来る時、これはたいへん難しい問題です。だからこそ私たちには祈りが必要なのです。
マザー・テレサ/日々の言葉/女子パウロ会/P41
親御さん方へ。私たちの世界の広大な領域が霊的な砂漠に覆われています。人として、自暴自棄になっている若者を、いたるところで見るでしょう。これは、彼らの心の奥深いところまで、影響を与えてしまうほどの、壊れた人間関係の結果です。たとえ若者たちが霊的な生活に渇いているとしても、彼らのほとんどは、猜疑心にさいなまれているのです。彼らは、神に自分たちの信頼を置くことができないし、また、信じることもできないでいるのです。なぜなら、信用してきた人たちの生き方を信頼できなくなってしまったからです。両親の別れは、幼児期や思春期の子どもたちの純真な無邪気さに、傷をつけてしまうでしょう。その結果が、疑いと幻滅です。彼らはこのように感じています。生きている目的は一体なんだって言うんだ?人生はまだ何か意味のあることだっていうのか?
マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P46
カルカッタにはいくつかの目に見える『死を待つ人の家』があります。他の国では多くの若者が、目には見えない『死を待つ人の家』にいます。目には見えないけれど、それはほんとうのことです。放蕩息子のたとえ話をしている時、ニューヨークの男の子が私に言いました。「僕のうちではね、家族を捨てたのは息子じゃなくて父親の方なんだ」物的には何不自由なく育てているかもしれないけれど、子どもたちの目から見ると全く存在していないような両親が実際にいるのです。
マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P300
カルカッタへ来た人々が帰る前に、私に願いました。「私たちがもっと良く生きていく助けとなることを何かおっしゃってください。」
私は言いました。「お互いに笑顔を向けてください。あなたの妻に、あなたの夫に、あなたの子どもたちに。だれであってもかまわないのです。そうすればお互いにいっそう大きな愛を成長させることでしょう」ひとりが尋ねました。「あなたは結婚しているのですか?」私は答えました。「はい。時々私の主人であるイエス様に笑顔を向けることは、とても難しいと思う時がありますよ。なぜなら彼は厳しい要求をたくさんくれます」これはほんとうです。愛は、要求がとても厳しい時、私たちが喜んで与えることができる時、生まれてくるのです。
マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P107
お互いに、心の底から愛し合っている人たちはこの世でいちばん幸せ者です。彼らは少ししか、いいえ全く何も持っていないかもしれません。でも幸せなのです。すべてのことは、どのように愛し合うかにかかっているのです。
5.ほほえみ
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P136
悲しみに暮れている人に、ほほえみかけ、短時間でも、淋しい人を訪れて慰め、雨にぬれている人に傘をさしかけ、目の不自由な人の代りに読んであげること、こういうことは皆、小さい、本当に小さいことです。でもこのような貧しい人々への具体的な行為こそが、私たちの神に対する愛の表れなのです。
マザー・テレサ/同P137
何でもないほほえみが及ぼす効果には、計り知れないものがあります。
一緒に住んでいたり、または血のつながった親族といった人たちにほほえみかけることは、あまり親しくない人々に対してほほえみかけるよりむずかしい時があるものです。「愛は近きより」ということを忘れないようにしましょう。
6.犠牲
ドン・ボスコ社/わたしはあなたを忘れない/P48
イエスが十字架上で死んだのは、わたしたちのために必要だったからです。わたしたちを利己心や罪から救うために。
わたしたちも神のみ旨を行うために喜んですべてを差し出さなければならないこと、イエスがわたしたち一人ひとりを愛したように、わたしたちも愛し合わなければならないことを示すために、すべてを差し出したのです。
・・・ですから、わたしたちも痛みを感じるまで互いに与え合う必要があるのです。
マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P30
いやいやながらとか義務とかと感じながらではなく、ひとりひとり、自分自身で決心した時のように、喜んで与えなくてはなりません。神は喜んで与える人を愛しておられるからです。神は、喜んで与える人に多くの恵みをお与えになります。あなたの奉仕の場で、ほほえみながら喜んで貧しい人たちを受け入れることが難しいと感じるなら、いつでも、こう思いなさい。神と人々にあなたが感謝を表す最善の方法は、すべてのことを喜んで受け入れるということなのだ、と。
マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P47
ある時、物乞いをしている人が私のところへ来てこう言いました。「みんな、あなたに何か差し上げています。私も何か差し上げたいんです」そして彼は10パイサのコインを差し出しました。もし私がこのコインを受け取ったら、彼は飢えることになるでしょう。けれど、もし受け取らなければ、彼はきっと悲しむでしょう。私は受け取りました。その時私は、彼からのこの贈り物はノーベル賞よりもずっとすばらしい、と感じたのです。なぜなら彼は、彼の持っているすべてを私に差し出してくれたのです。私は彼の顔にはっきりと与える喜びを見ることができました。
マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P306
パルシー教徒と結婚したヒンズー教の女性がやって来て、3歳になる口の利けない自分の息子のために私の祝福を求めました。私は彼女に尋ねました。「何か、あなたにとってとても捨て難い大事なものがありますか?」その子の母親は答えました。「ええ、噛みタバコです。それはもう私にとって、やめることのできない習慣となっています」「それを、あなたの犠牲として神にささげなさい。そして、あなたの子どもの回復を祈りなさい」と私は言いました。彼女はそのとおりにし、それから3か月後、その子は話し始めて、徐々に全く問題のない状態になりました。
7.回心
マザー・テレサ/愛するために/ドン・ボスコ社/P15
すべての人に回心が必要です。
もし彼らが自分たちの生活の中に神を迎え入れるなら
その人は回心を遂げるのです。
聖なる生活において成長することは、回心のしるしです。
キリストに似た者として成長することは、回心のしるしです。
8.信仰
マザー・テレサ/愛するために/ドン・ボスコ社/P43
信仰は神からの贈り物です。
しかし、神は信仰を強要されません。
9.愛は行い
マザー・テレサ/愛するために/ドン・ボスコ社/P96
何の働きもしない愛、そんな愛は無意味です。
愛を行動にうつさなくてはなりません。
それが奉仕です。
では神への愛をどのように行動に移せばよいのでしょうか?
それは自分の家族への忠実と
神からゆだねられた任務への忠実をとおしてです。
どんな状態であってもいいのです。
たとえ有能でも、無能でも
金持ちでも、貧乏でも。
大切なのは、どれほど多く行ったかではなく
行うにあたってどれほど多くの愛を注いだかなのです。
―生涯にわたって愛を他者と分かち合うことが求められているのです。
マザー・テレサ/愛するために/ドン・ボスコ社/P92
わたしたちは主の愛を宣べ伝えるべきです。
ことばによってではなく
わたしたち自身の模範によって、行動によって。
愛の仕事はすべて、平和の仕事です。
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P83
私たちの言葉などはどうでもいいのです。大切なのは、私たちを通して神が魂に語りかけられることだけなのです。
10.存在の理由
マザー・テレサ/愛するために/ドン・ボスコ社/P93
わたしたちが存在している真の理由は
神の愛の輝きとなること
永遠の幸福の希望となること
これがすべてです。
11.主に従う・・・苦しみ
マザー・テレサ/愛するために/ドン・ボスコ社/P86
イエスに最期まで従いたい人は皆
その苦しみにもあずからなければなりません。
勇気を持ちましょう。
苦しみを受け入れる勇気を持てるようにと祈る勇気を。
わたしたちは十分に祈らないので、人間的な面しか見ていないのです。
わたしたちは神の働かれる面を見ていません。
そのため、神を恨むのです。
今日の、苦しみについての誤解の大部分は、恨みと不満から生じているのです。
不満は、伝染しやすい病であり、
癌であり
その中に怒りが潜んでいます。
苦しみは、清くなるため
聖化するため
キリストと似た者にするためにあるのです。
マザー・テレサ/愛するために/ドン・ボスコ社/P80
クリスマスにハンセン病患者に話しをしました。
あなたたちの負っている病気は神からの贈り物なのです。
神はあなたたちを強く信頼しておられるから、その苦しみをお与えになったのです。
あなたたちが味わっている孤独感は、イエスがこの世に来られたときに味わられたものと同じなのです。
イエスは人間として父のもとを離れておられたので、人として生きられたので孤独になられたのです。
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P151
苦しみのない人生など決してあり得ません。信仰をもってその苦しみを受け入れる時、それは、イエスの受難に与り、彼への愛を示す機会となるのです。
ある日のこと、癌も末期で、それはひどい痛みに苦しんでいる女性を訪問した時のことです。
「この痛みはイエスの接吻なのですよ。あなたは今、十字架にかかっているイエスが接吻できるほどそのごく近くにいるのですよ」と、私は語りかけました。
すると彼女は手を合わせ、マザー、イエスさまに、接吻し続けてくださるよう祈ってくださいね」と言いました。
12.祈り
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P30
生活の中に色々のことが入り込むので祈れない、という言い訳をする人たちがいます。
そんなことはあり得ません。
祈るために、仕事を中断する必要はないのです。仕事を祈りであるかのようにし続ければよいのです。
黙想をいつもしている必要もなければ、神と語っていることを意識することも必要ではありません―どれほどそれがすばらしい体験であるにせよ、大切なのは、神と共にあり、神と共に生き、神のみこころを自分のものとして行うことなのです。清い心で人々を愛し、すべての人、特に貧しい人々を愛することが、間断ない祈りになるのです。
13.「メモラレ」
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P120
慈悲深き童貞マリア、御保護によりすがりて御助けを求め、
あえて御取次を願える者、一人として捨てられしこと、
いにしえより今にいたるまで、世に聞こえざるを思い給え。
ああ童貞中の童貞なる御母、われこれによりて頼もしく思いて
走せ来り、罪人の身をもって、御前になげき奉る。
ああみ言葉の御母、わが祈りを軽んじ給わず、御あわれみをたれて、
これを聴き給え、これを聴き入れ給え。アーメン。
14.招命
ナヴィン・チャウラ/マザー・テレサ 愛の軌跡/日本教文社/P44
なぜロレットを離れる気持ちになったのかと、わたしはマザー・テレサに訊ねた。
「内なる呼びかけの声です。ロレットでの生活は、幸せでした。しかし、それを捨てて、路上で暮らす貧しい人々のために働くようにという声が聞こえたのです」
マザーは、1946年9月10日にはっきりと「呼びかけ」を聞いた、と答えた。黙想を行うため、ダージリンに向かう汽車の中だった。ダージリンで黙想を行う間も、声は頭に響いていた。
「呼びかけが意味する内容は、とても単純なことでした。わたしに修道院を去ることを命じていました。神はわたしにもっと何かを求めている。わたしにもっと貧しくなること、そして神の姿そのものである貧しい人々を愛することを求めていると感じたのです」
15.その他
「聖母マリアの出現」/ローン・ジェンセン著/長澤育子訳/天使館
(訳者あとがきより)
訳者の役業が終わりに近づいた頃、ヴァッスーラ・ライデンさんの講演会が開かれました。この方はすでに十年をこえてキリストからのメッセージを頂いているギリシャ人とのことで、その本は今、31ヶ国語で出版され、つい先頃日本語版も二冊目が訳出されました。講演後、ヴァッスーラさんは十字架による祝福と按手を希望者にして下さることになりました。額に按手して頂くと、聖霊の力によって倒れる人もいるが、ガマンして立っていると頭痛がするので抵抗せず倒れてください、後ろで支える人がいるから心配はいらないということでした。
私はそれを見て、これは一種の集団ヒステリーではないかと疑いつつ列に並びました。そしてなんと、私も、額を圧される力に抗しかねて倒れてしまったのでした。こんな所で倒れているのは恥ずかしいと思い、私は急いで立ち上がり、自分の席に戻ろうとしました。立ち上がろうとすると頭がガンガン痛み、自席で私はしばらく頭を抱えていました。隣に座っていた人も頭や胸が痛いと言っていますので、声をかけてみますと、その方はマザー・テレサのもとで奉仕活動をされていた方でした。その方はマザー・テレサとの関わりや、マザーハウスで体験したキリストやマリアのご出現の話をしてくれました。
私はびっくりしました。今までそうした体験をしたこともなく、また体験した人の話を直に聞いたことがありませんでしたから。それは私がこのマリア出現の本を訳しながら、本当かな? 本当かな? と思っていたことに対し、聖母マリアが『本当なのよ』とその方の口を通して答えて下さったかのように思えました。聖母マリアは今、宗派を問わず、さまざまな場所に出現されては平和と一致をくり返し訴えられています。この本の読者の心の中に聖母のメッセージが届きますようにと、願わずにはいられません。」
以上