わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る

(ヨハネ14・23)

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.ヴァッスーラ

 

 

 

1.聖書

 

 

ヨハネ14・23−24

 

わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。

 

 

 

ヨハネ14・21

 

 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現わす。

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

新エルサレムの教義310

 

 主を真に承認し、真に礼拝することは、その戒めを行うことである、(そのことが)聖言から示されている(10143、10153、10578、10645、10829番)。

 

 

 

真の基督教359

 

(4)「にも拘らず、信仰、仁慈、および両者の生命は人間から発しないで、凡て主から発する。」

「人は天より与へられずば、何をも受くること能はず」(ヨハネ3・27)と記されている。またイエスは語り給うた。「人もし我にをり、我また彼にをらば、多くの果を結ぶべし。汝ら我を離れては何ごとをも為し能はず」(ヨハネ15・5)。然し、これらの記事は次の様に解釈されねばならぬ。人間は自らにては或る著名な神学者の権威に基づいて抱かれる信念である自然的な信仰以外には、何物をも得ることは出来ないし、また自らにては単に或る報酬の為にのみ為される自然的な仁慈以外には何物をも得ることは出来ない。かかる信仰と仁慈とは人間の自己性を含み、未だ主から発する何らの生命をも含んでいない。併し、この両者によって人間は主の器となる備えをなし、而してその備えを為すに応じて、主は入り、彼の自然的信仰と仁慈とを霊的な生きたものになし給うが、これは人間が主に天地の神として近づく時に為されるのである。人間は神の像として、それ故神の住居として造られた。それ故、主は語り給う。「我が誡命を保ちてこれを守る者は、即ち我を愛する者なり。我も之を愛し、その許に来りて、住処を之と共にせん」(ヨハネ14・21、23)。更に、「視よ、われ戸の外に立ちて叩く、人もし我が声を聞きて戸を開かば、我その内に入りて彼と共に食し、彼もまた我と共に食せん」(黙示録3・20)。従って、人間が主を受け入れるために、自然的な方法によって備えを為すに応じ主は入り、彼の内なる凡ゆる物を霊的に、活きたものになし給うのである。併し、他方、人間はこのような備えをしない時、主を斥け、自らによって凡ゆる事柄を為し、而して人間が自らによって為すものは尽く死んだものである。然し、この主題は改良と再生に関する章によって更に明らかにされるであろう。

 

 

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P67

 

 私は聖なる知恵をもって彼らを教え導いた そして知恵とは まさに掟を果すことに尽きる。