だれも、二人の主人に仕えることはできない。
マタイ6・24
主を愛す/
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
・凡ての悪には善に対する憎悪がある
3.マリア・ワルトルタ
4.ジャン・マリ・ヴィアンネ
5.世を放棄することとは神を愛することであり、隣人を愛することであり、そして人間は神の戒めに従って生きる時、神は愛され、人間が用を遂行する時、隣人は愛されている
1.聖書
マタイ6・24
だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
ルカ16・13
どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義2357
「彼の後で戸を閉じた」。これは、彼らが仁慈の善に暴行を加えないように、また主の神的な人間的なものと発出している聖いものとを否定しないように、を意味していることはすでに言ったことから明白である。現在の場合『その戸を閉じる』ことは、彼らが『家』により意味されている善に入らないように、それで主の神的なものと聖いものとに入らないように、を意味しているのである。
天界の秘義2357[2]
これらの事柄にはさらに深いアルカナが含まれていて、そのアルカナの意義と観念の中へ、天使たちはこれらの言葉が読まれている時、入って来るのである、すなわち悪い生命の中にいる者は善を、また主を知ることのみしか許されないで、善を、また主を承認し、信じることは許されはしないのであり、それは彼らが悪の中にいる限り、それと同時に善の中にはいることが出来ないという理由によっている。たれ一人二人の主人に兼ね仕えることは出来ない。一度承認して、信じる、者が悪の生命に帰ると、その者は善い、聖いものを冒涜するが、しかし承認はしないし、信じもしない者は冒涜することは出来ないのである。それで人間は心情の承認と信仰そのものの中へは、その者が後で留め置かれていることが出来る辺りより先へは入れられないように、主の神的な摂理により配慮が払われているが、そのことは冒涜の刑罰のためであって、その刑罰は地獄における最も痛ましいものである。
天界の秘義2357[3]
これが現今愛と仁慈との善は人間における天界であり、神的なものはすべて主の中にあることを心から信じることが極めて僅かな者にしか与えられていない理由となっている、なぜなら現今人間は悪の生命の中にいるからである。それでこのことがロトが彼の後で戸を閉じたことにより更に内的に意味されていることである。なぜならこの戸は内側の戸であってそこを通って天使たちがいた家そのものに、すなわち、主がその中におられる善の中へ入ることが出来たからである。
天界の秘義5433[3]
この間の実情のいかようなものであるかはすぐ前に(5432番)言われたことから明らかである、すなわち、真理を真理と生命のために学ぶのではなく、利得のために学ぶ者らは、教会の真理は真理ではないとその者ら自身の中に考えないわけにはいかないのである。その理由は利得を求める情愛は地的な情愛であり、真理を求める情愛は霊的な情愛であるということである。その何れかが主権を持たなくてはならないのである、なぜならたれ一人二人の主人には仕えることは出来ないからである。それでその何れか一方の情愛が存在している所には、他方の情愛は存在しないのであり、かくて真理を求める情愛の在る所には、利得を求める情愛はないのであり、利得を求める情愛の在る所には、真理を求める情愛はないのである。
従って、もし利得の情愛が主権を得ているなら、必然的に真理が真理であってはならないのであり、それが他の者によっては真理であると信じられなくてはならないことが何ものにもまさって望まれるのである、なぜならもし内なる人が下にある地的な物を眺めて、その中に一切の物を与えるなら、彼には上を見上げて、天的な物に何かを与えることは不可能であるからである、なぜなら地的なものは天界的なものを完全に吸いとって、窒息させてしまうからである。
その理由は天界の天使たちは地的な物の中にいる人間のもとにいることは出来ないのであり、それで退いてしまうが、そのとき(代って)人間の天界的なものの中にいることの出来ない奈落の霊らが近づいてくるということである。その結果天界的なものは彼には無意味なものとなって、地的なものが一切のものとなり、地的なものが彼の一切のものとなると、彼は教会の真理は単純な者のために在るのだと心に言って、その真理を自分自身に否定してしまうことにより、自分は他のたれよりも学問があり、また賢明であると信じるのである、なぜなら彼は天界の天使たちと奈落の者たちのもとに同時にいることは出来ないからである、なぜならもし同時に彼らのもとにいるなら、彼は天界と地獄との間にぶら下がってしまうからである。
しかしもし彼が真理のために、すなわち、神的な真理が存在する主の王国のために、かくて主御自身のために真理を愛すると、その時は、彼は天使たちの間におり、またそのときは彼は利得を、それが彼の世における生活のために有益なものである限り、軽蔑もしないのであり、利得を目的とはしないで、利得から生まれる用を目的としており、その用を彼は終局の天界的な目的に対する間接的な目的として認め、かくしてその心を決して利得に置きはしないのである。
天界の秘義6138
「私たちも、私たちの土地もパロの僕として生きましょう」(出エジプト47・19)。
これは全的な服従を意味していることは以下から明白である。すなわち、『私たちと私たちの土地』の意義は(すぐ前にように、6135−6137番を参照)善と真理との容器であり、『僕』の意義は人間自身のものから発している自由を持たないことであり(5760,5763番を参照)、かくて全的な服従である。容器により人間の形そのものが意味されている。なぜなら人間は主から生命を受ける形以外の何ものでもなく、この形は遺伝と実際の生活とによって、主から発している霊的な生命を容認することを拒絶するといったものとなっている。しかしこれらの容器が最早その人間自身のものから発している自由を何ら持たなくなるほどにも放棄された時、そこに全的な服従が生まれるのである。再生しつつある人間は、荒廃することと支えられることとが再三繰り返されることによって遂には最早自分が自分自身のものであることを欲しなくなって、主のものとなることを欲するようになり、そして彼が主のものとなったとき、彼は自分が自己に放任される時、悲しみ、不安に襲われるような性質の状態に入り、この自己の状態から解放されると、幸福と祝福の中へ帰ってくるのである。天使たちは凡てこうした状態の中にいるのである。
天界の秘義6138[2]
主は人間を祝福し、幸福にされるために、全的な服従を望まれるのである。即ち、人間が一部分は、その人間自身のものであり、一部分が主のものであることがないように望まれているのである。なぜならその時は二人の主人がいて、何人も同時にこの二人の主人には兼ね仕えることは出来ないからである(マタイ6・24)。全的な服従はまたマタイ伝の主の御言葉により意味されている―
わたしよりも父と母とを愛する者はわたしにふさわしくない、わたしよりも息子と娘を愛する者はわたしにふさわしくない(マタイ10・37)。
ここでは『父と母』により遺伝から人間自身のものとなっているものが全般的に意味され、『息子と娘』により実際の生活から人間自身のものとなっているものが意味されているのである。人間自身のものはまたヨハネ伝の『魂』により意味されている―
自分の魂を愛する者はそれを失うであろう、しかしこの世で自分の魂を憎む者はそれを保って永遠の生命を得るであろう。たれでもわたしに仕えようと欲するなら、わたしに従わなくてはならない、わたしのいるところに、わたしの僕もまたいるのである(ヨハネ12・25,26)。
全的な服従がまたマタイ伝の主の御言葉により意味されている―
他の一人の弟子が言った、主よ、わたしに先ず父を葬りに行かせてください。しかしイエスはかれに言われた、死んだ者にその死んだ者を葬らせなさい(マタイ8・21,22)。
天界の秘義6138[3]
服従は全的なものでなくてはならないことは教会の最初の誡命から非常に明白である―
あなたはあなたの神、主を心[心情]をつくし、魂をつくし、心[思い]をつくし、力をつくして愛さなくてはならない、これは最初の誡命である(マルコ12・30)。
かくて主に対する愛は人間から発しないで、主御自身から来ているため、受容する器官である心の凡ては、魂の凡ては、思いの凡ては、力の凡ては主のものとならなくてはならないのであり、従って服従は全的なものでなくてはならないのである。これが『私たちも、土地もパロの僕として生きましょう』という言葉によりここに意味されている服従である。なぜならパロにより、内なる天的なものの庇護の下に在るところの自然的なものが全般的に意味され、その最高の意義では主の庇護の下に在る自然的なものが全般的に意味されており、主がその意義では『ヨセフ』であられるからである。
天界の秘義8904〔2〕
信仰が無い所には、真理に代って誤謬が在り、善に代って悪が在り、そこから姦淫が最早犯罪としては認められはしないという結果が流れ出てくるのである。なぜなら人間のもとには天界が閉じられると、そうしたものが地獄から流れ入ってくるからである。(この主題について前に述べ、また示したことを参照されたい、2727−2759、4434、4835、4837番)。
天界の秘義9093[2]
この分割がルカ伝の主の御言葉により意味されているのである―
たれ一人二人の主人に仕えることは出来ない、彼はその一方を憎んで、他方を愛するか、またはその一方を好んで他方を蔑むか、するからである。あなたらは神とマンモンとに仕えることは出来ない(16・13)
すなわち、信仰によって主に仕え、愛によって世に仕えることは出来ないのであり、かくて真理を承認して、悪を行うことは出来ないのである。こうしたことを行う者は分割された心を持ち、そこからその心は破壊されてしまうのである。
天界の秘義9167[3]
ここから旧約聖書では主は再三『主エホビ』と呼ばれ給うているが、これは祈願が捧げられている時であって、それにより『ああ、善にましますエホバよ』が意味されており(1793、2921番)、新約聖書では主は『エホバ』の代りに『主』と呼ばれ給うている(1021番)。この凡てからまたマタイ伝の以下の言葉により意味されていることを知ることが出来よう―
たれ一人、二人の主に仕えることは出来ない、その一方を憎んで、他方を愛するか、するからである(6・24)。
『二人の主人』は善と悪とを意味している、なぜなら人間は善か、または悪か、その何れかの中にいて、その二つの中に同時にいることは出来ないからである。人間はもし多くの真理が一つの善の下に秩序付けられていさえすれば、その真理の中にいることが出来るのである、なぜなら善が人間のもとに天界を作るが、しかし悪は地獄を作り、人間は天界か、地獄か、その何れかの中にいなくてはならないのであり、その両方の中にいることは出来ないし、またその両方の間にもいることは出来ないからである。それでこのことから聖言で『主[主人]』により意味されていることが明白である。
黙示録講解730ロ
聖言から引用した記事から以下のことが認め得られよう、即ち、「荒野」は善が何ら存在していないため、真理が何ら存在していない教会を、従って悪が存在しているため、誤謬が存在している教会を意味している、なぜなら真理と善とが何ら存在しない所には誤謬と悪とが存在しており、その二つのものは共存することは出来ないからであり、このことが主の御言葉、『たれ一人二人の主人に仕えることは出来ない』により意味されているのである。
黙示録講解902
「黙示録」の他の多くの記事におけるように、ここに『業』が言われここに『彼らの業が彼らと共に従う』と言われているからには―それは霊的な生命を意味しているが―いかようにしてその生命が得られるかについて、またいかようにしてそれが現今の信仰により破壊されるかについて若干述べてみよう。霊的な生命はもっぱら聖言における戒めに従った生活[生命]により取得されるのである。これらの戒めは要約して十戒に与えられている、すなわち、あなたは姦淫を犯してはならない、あなたは盗んではならない、あなたは殺してはならない、あなたは偽証してはならない、あなたは他の者の持ち物を貪ってはならない、これらの戒めは行わなくてはならない戒めである、なぜなら人間がこれらの事を行う時、その業は善であり、その生命は霊的なものとなるからであるが、それは人間が悪を避け、それを憎むに応じ、善を意志し、[欲し]、行うためである。
黙示録講解902[2]
なぜなら人間をとり巻いている二つの対立したスフィア[霊気]が在り、一は地獄から発し、他は天界から発しており、地獄からは悪の、そこから発する誤謬のスフィアが発し、天界からは善の、そこから発する真理のスフィアが発しており、これらのスフィアは身体に働きかけているが、しかし人間の心に働きかけている、なぜならそれらは霊的なスフィアであり、かくて愛に属している情愛である。人間はそれらのスフィアの真中に置かれており、それで人間はその一方に近づくに応じて、他方のものから遠ざかるのである。このことが人間が悪を避け、悪を憎むに応じ、善を、そこから発する真理を愛する理由である、なぜなら―
たれ一人同時に二人の主人に仕えることは出来ない、人間はその一方を憎むか、または他方の者を愛するか、その何れかを行うからである(マタイ6・24)。
神の摂理18
人間は凡て死後善と同時に真理にいるか、或いは悪と同時に誤謬にいるかしなくてはならない理由は、善と悪は結合出来ず、また善と悪の誤謬も結合出来ず、悪と善の真理も結合出来ないということである。なぜならそれらは相反したものであり、相反したものは一方が他方を破壊するまでは共に戦うからである。悪と同時に善にいる者は黙示録のラオデキアの教会に対する主の言葉により意味されている、『私はおまえの業を知り、おまえが冷ややかでもなく、熱くもないことを知っている。私はおまえが冷ややかであるか、熱くあるか、どちらかであってほしい。それでおまえはなまぬるいゆえ、私はおまえを口から吐出そう』(黙示録3・15、16)更に、彼らは主の以下の言葉に意味されている、『人は二人の主にかね仕えることは出来ない、彼は一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで、他方をさげすむかするからである』(マタイ6・24)
・凡ての悪には善に対する憎悪がある
神の摂理233(イ)
さらに凡ての悪には善に対する憎悪があり、凡ての善には自分自身を悪から守って、悪を斥けようとする願いが内在しており、一は他と共存することは出来ないことが推論される。なぜならもし共存するなら、主が以下の語で教えられているように、矛盾、争闘が先ず起って、次に破滅が起るからである、『凡て分かれ争う国は滅び、分かれ争う町または家は立たない、凡て私と共にいない者は私に反抗し、私と共に集めない者は散らすのである』(マタイ12・25−30)。また他の記事では、『人間は二人の主人に同時に仕えることはできない。なぜなら彼は一方を憎んで他方を愛するか、または一方に親しんで、他方を軽蔑するかするから』(マタイ6・24)。二つの相反した物が一つの原質または形の中に共存するならば、必ずその原質または形は砕けて死滅してしまう。もし一方が他方に近づいて接近するなら、彼らは必ず二人の敵のように分離し、一人はその陣営または砦にこもり、他はその外に止まるであろう。偽善者の悪と善も同様であり、彼は悪と善にいるが、悪は内側に、善は外側に在って、その二つは分離して、混合はしていない。悪とその誤謬は、善とその真理と共に在ることの出来ないことは今や明白であるに相違ない。
天界の秘義3605[2]
『憎むこと』(創世記27・41)はその内意では反感を持つことを意味しているのは、それがエソウにより表象されている善について述べられているためであり、善は憎悪とは真っ向から対立するものであって、憎悪の何であるかを知ってさえもおらず、対立したものは同一の主体の中にありえないのであり、憎悪に代って、善は、または善の中にいる者たちは、一種の反感を感じるからである、ここからここの『憎悪』はその内意では反感を抱くことを意味している、なぜなら内意は主として天界の中にいる者たちのために存在しており、それでそれがそこから下降して、文字の意義に派生すると、そのときは、歴史的なものはそのような性質を持っているため、反感の情愛は『憎悪』という表現に落ち込んでしまうが、しかしそれでも天界にいる者たちには憎悪の観念は些かもないといった方法で落ち込むのである。こうした実情は『わたしたちを試練にあわせないで、悪から救い出してください』という主の祈りの言葉について、第一部に経験から述べられたことに似ているのであり(1875番を参照)、すなわち、純粋に天使的なものが、すなわち、善が、試練と悪とが些かも考えられなくなって残るまでも、試練と悪とは斥けられてしまい、しかもそれには主が考えられるとき、悪が考えられることについては一種の憤りと反感とが添加される[接合される]のである。
3.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P44
おまえたちは、神からの召し出しの忠実な配偶者でありなさい。おまえたちは二人の主人に仕えることはできない。同時に神とサタンと床をともにすることはできない。黄金の飢えと同じように肉体の飢えを避けよ。肉体の飢えと同じように権力の飢えを避けよ。サタンはもっぱらこれを提供する。おお、彼の富は何と偽りのものか! 栄光、名誉、出世、権勢、財産、これはおまえたちの魂という貨幣をもって買える猥褻な取引きである。小さいことで満足せよ。神は、おまえたちに必要であるものを与える。これで足りる。空の鳥にこれを保障しているように、おまえたちにもこれを保障する。そして、おまえたちは空の鳥よりもずっと偉大なものだ。しかし、神は、おまえたちから信頼と清さとを望む。おまえたちに信頼があったら、神はおまえたちを幻滅させない。おまえたちに清さがあれば神の毎日の贈り物で足りる。
4.ジャン・マリ・ヴィアンネ
聖ヴィアンネの精神P65
愛によって創造られた人間は愛がなくては生きることができません。神様を愛するか、自分を愛するか、世俗を愛するかであります。皆さん、信仰が欠けているのです・・・信仰がない時、目が見えなくなります。目の見えない者は知ることができません。神様を愛しない者は、自分自身を愛し、同時に、快楽を好みます。その心は、煙のように瞬く間に過ぎ去るものに執着するのです。真理もどのような善も認識することができません。偽りしか認識できないのです。知恵の光りを持たないからです。やがて、自分の愛するすべてのものが与えてくれるものは、永遠の死でしかないことをよく悟るでしょう。まさに、この世ながらに地獄を味わうのです。(中略)
このような人々は余りに自分を愛しすぎるのです。しかし、自分を愛するといっても、その愛は筋の通った愛ではありません。神様よりも自分を求め、自己愛や世俗への愛によって、自分を愛するのです。ですから決して満足することもなく、また決して安穏でもありません。いつも不安であり、いつも悩み、いつも惑乱の憂き目にあうのです。
5.世を放棄することとは神を愛することであり、隣人を愛することであり、そして人間は神の戒めに従って生きる時、神は愛され、人間が用を遂行する時、隣人は愛されている
新しいエルサレムの教義126
しかし世の放棄に関する事柄について述べよう。世を放棄し、霊に生きて、肉に生きないことは、富と名誉を主とした世的な物を斥けることであり、絶えず、神、救い、永生に関係した敬虔な瞑想にふけることであり、祈りに、聖言と敬虔な書物をひもどくことに日々を送ることであり、また自分自身を苦しめることであると多くの者から信じられているが、しかしこれは世を放棄することではなく、世を放棄することとは神を愛することであり、隣人を愛することであり、そして人間は神の戒めに従って生きる時、神は愛され、人間が用を遂行する時、隣人は愛されているのである。それで人間は天界の光を受けるためには、世に生き、世で業務に生きねばならないことが全く必要である。世的なものから引き出された生活は愛と仁慈の生活から分離した思考と信仰の生活であり、その生活の中では善の意志と隣人に善を行うこととは死滅してしまうのである。そしてこれが死滅すると、霊的生活は、基礎が無くて、次第に沈下するか、または割れ目や裂け目が一杯になり、または揺れ動いて、遂には倒れてしまう家のようなものになる。