外なる礼拝

 

外なる教会

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.マリア・ワルトルタ

3.アグレダのマリア

4.グリニョン・ド・モンフォール

5.教会堂は礼拝、説教、教訓、敬虔な瞑想のために強固でなくてはならない

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

仁慈の教義177

 

こうしたものが礼拝の外なるものであり、礼拝の外なるものは仁慈のしるしであることは以下の順序で認められるであろう―

(1)仁慈そのものは内なる人の中に在り、そのしるしは外なる人の中に在る。

(2)仁慈が内なる人の中に在って、それを構成すると、そのときは外なるものの中に遂行される礼拝の行為は凡てそのしるしである。

(3)内なる人における仁慈から発出している外なる人における礼拝は天使たちには旗を手にした旗手として現れている。しかし内なる人における仁慈から発出していない外なる人における礼拝は天使たちにはたいまつを手にした役者[俳優]として現れている。

 

 

 

仁慈の教義183

 

 内なるものはことごとくそのしるしとなるものを、それを示すものを持っている。もし仁慈が内なる人の中に、または霊の中に在り、それが外なる人と肉とに反抗して戦わないなら、そのときは仁慈は消滅してしまうのである。それは純粋な水の泉のようなものであり、もし出口がないなら、それはよどんでしまい、かくてそれは流れなくなるか、またはよどんでその水は腐敗してしまうか、その何れかである。他の所にこれらの事柄を聖言から多く確認しよう。

 

 

 

天界の秘義1083

 

『セム』により内なる教会が、『ヤペテ』により内なる教会に相応した外なる教会が意味されていることは前に述べたところである。教会が存在しているところには必然的に内なるものと外なるものとが存在しなくてはならない、なぜなら教会である人間は内なるものであり、また外なるものであるからである。人間が教会となる以前、即ち、彼が再生する以前は、人間は外なるものの中にいるが、再生しつつある時は(すでに述べられ、また示されたように)外なるものから、否、外なるものにより、内なるものへ導かれるのであり、その後、彼が再生すると、内なる人の凡てのものは外なるものの中に終結するのである。このように、古代教会がそうであったように、また現今基督教会がそうであるように、必然的に教会各々は内なるものであり、また外なるものでなくてはならないのである。

 

 

 

 

天界の秘義1083[2]

 

古代教会の内なるものは仁慈の凡ゆるものであり、仁慈から生まれた信仰の凡ゆるものであり―卑下そのものであり、仁慈から主を崇拝することそのものであり、隣人に対する善い情愛そのものであり、また他のそういったものであった。古代教会の外なるものは生けにえ、灌祭、その他多くの物であって、その凡ては表象により主に関わりを持ち、主を目標としていたのである。ここから外なるものの中に内なるものがあり、それらは一つの教会を作ったのである。基督教会の内なるものは古代教会の内なるものに正確に類似しているが、しかし他の外なるものがそれに代わって続いて起こったのである。即ち、生贄とそれに類したものに代わって、礼典が起ったのであるが、そこからも同じように主が目標とされているのであって、かくて、再び内なるものと外なるものとは一つのものとなっているのである。

 

 

 

天界の秘義1083[3]

 

古代教会は内なるものについては基督教会からは些かも相違しなかったのであり、ただ外なるものについてのみ相違していたのである。仁慈から発した主礼拝は、外なるものはいかほど変化していようとも、決して相違することは出来ない。そしてすでに言ったように、内なるもののみでなく外なるものも存在しない限り、教会は在り得ないからには、内なるものが何か外なるものの中に終結しない限り、外なるもののない内なるものは不確定なものとなるであろう。なぜなら人間は大半内なる人の何であるかを、また何が内なる人に属しているかを知っていない底のものであり、それ故外なる礼拝がない限り、彼は聖いものについては何であれ如何ようなことも知らないからである。こうした人間が仁慈とそこから派生している良心とを持つ時、彼らは外なる礼拝の中に彼ら自身の内にある内なる礼拝を持つのである。なぜなら主は彼らの中に、即ち仁慈の中に、また良心の中に働かれ、彼らの礼拝の凡てに内なるものを得させられるからである。仁慈を持っていない者は、また仁慈から生まれてくる良心を持っていない者はそうではない。彼らは外なるものにおける礼拝を持ってはいようが、しかし彼らは仁慈から分離した信仰を持っているように、内なる礼拝から分離した外なるものにおける礼拝を持っているのである。こうした礼拝は『カナン』であり、こうした信仰は『ハム』と呼ばれている。そしてこの礼拝は分離した信仰から発しているため、ハムは『カナンの父』と呼ばれている。

 

 

 

天界の秘義1150

 

 「ヤペテの息子たち」。これらは内なる礼拝に相応した外なる礼拝を持っていた者たちを意味していることは前に説明した。外なる礼拝はその礼拝の中に本質的なものが存在していると言われている。この本質的なものとは心から主を礼拝することであり、それは仁慈または隣人に対する愛が存在しない限り決してありえないのである。仁慈または隣人に対する愛の中に主は現存されており、その時主は心から崇拝され給うことが出来るのである。かくて崇拝は主から発している、なぜなら主は崇拝における能力そのものと存在そのものを与えられるからである。ここから人間の仁慈の如何にその者の崇拝がまたは礼拝が応じていることが生まれている。礼拝は凡て崇拝であるが、それは礼拝が礼拝となるためにはその中に主を崇拝することが存在しなくてはならぬからである。ヤペテの息子たちは、または『ヤペテの息子たち』と呼ばれた諸国民と諸民族とは互に相互的な仁慈の中に、友情の中に、礼儀の中に、単純の中に生き、それで主は彼らの礼拝の中に現存されたのである。なぜなら主が外なる礼拝の中に現存される時、外なる礼拝の中には内なる礼拝が在り、即ち、内なる礼拝に相応した外なる礼拝が在るからである。以前このような国民が極めて多くいたのである。そして現今でもまた礼拝を外なるものから成立させて、内なる礼拝の何であるかを知っておらず、またはそれを知るにしてもそのようなものについては考えはしない者が居るのである。もしこうした人物が主を承認して、隣人を愛するならば、主はその者らの礼拝の中に現れるのであって、彼らはヤペテの息子たちとなるのである。しかしもし彼らが主を否定し、自分自身のみを愛し、隣人を意に介しないならば、特にもし彼らがかれに憎悪を抱くならば、その礼拝は内なる礼拝から分離した外なる礼拝であり、彼らはカナンの息子らとなり、またはカナン人となるのである。

 

 

 

天界の秘義1175番

 

『ニムロデ』により内なる礼拝を外的なものとした者たちが意味され、かくて『ニムロデ』はそうした外なる礼拝を意味していることは以下の記事から認めることが出来よう。内なる礼拝を外なるものにすることにより意味されていることを前以て述べなくてはならない。

内なる礼拝は、愛と仁慈から発していて、礼拝そのものであり、この内なる礼拝を欠いた外なる礼拝は礼拝ではないことは前にも言いもしまた示しもした。内なる礼拝を外なるものにすることは内なる礼拝よりも寧ろ外なる礼拝を本質的なものにすることであって、前のものを転倒させることであり、それは真理が内なる礼拝を欠いた外なる礼拝は礼拝ではないということであるに反し、外なる礼拝を欠いた内なる礼拝は礼拝ではないと言うようなものである。

こうしたものが信仰に属した事柄を仁慈に属した事柄に優先させ、または信仰の知識に属した事柄を生命に属した事柄に優先させ、かくて形式的な事柄を本質的な事柄に優先させることにより、信仰を仁慈から分離させる者らの宗教である。外なる礼拝はことごとく内なる礼拝の形式的なものである、なぜなら内なる礼拝こそ本質そのものであるからであり、礼拝を本質的なものを欠いた形式的なものから成立させることは内なる礼拝を外なるものにするということである。

例えば、もし人が万が一教会のない、説教のない、礼典のない、祭司階級のないところに生活するならば、その者は救われることは出来ない、礼拝を持つことが出来ないと主張するといったものであるが、それでも人間は主を内なるものから拝することが出来るのである。しかしこのことから外なる礼拝があってはならないということは生まれはしないのである。

 

 

 

天界の秘義1175番 []

 

尚問題をさらに明白にするために、さらに一例として、教会に足繁く出入りし、聖典に与り、説教を聞き、祈り、祝祭を守り、またその他外なる儀式的なものを守ることを多くの礼拝の本質そのものとしてうち立てて、信仰について語るときは、こうしたことで充分であると自分自身に説きつけもしている人間の場合を考えてみられよ、その凡ては礼拝の形式的な事柄である。

愛と仁慈から発した礼拝を本質的なものにする者も同じようにふるまっていることは全く真である、即ち、彼らも頻繁に教会に出入りし、礼典に列し、説教を聞き、祈り、祝祭といったものを守り、しかもそれを非常に熱心にまた勤勉に行っているのであるが、しかし彼らは礼拝の本質的なものをこうした事柄から成立させてはいないのである。

こうした人たちの外なる礼拝の中には内なる礼拝があるため、その中には聖い生きたものがあるが、しかし前に言及した人々の外なる礼拝の中には聖いものはなく、また生きたものもないのである。

なぜなら本質的なものそれ自身は形式的なものをまたは儀式的なものを潔め生かすものであるが、しかし仁慈から分離した信仰は、本質と生命とが欠如しているため礼拝を聖めはしないし、生かすこともできないからである。こうした礼拝は『ニムロデ』と呼ばれ、それは『クシ』である知識から生まれるのであり、それはその知識が仁慈から分離した信仰から生まれるのに似ていて、仁慈から分離した信仰は『ハム』である。『ハム』からは、または、分離した信仰からは分離した信仰にぞくした知識を通して、他のいかような礼拝も到底生まれることはできないのである。これらが『ニムロデ』により意味されている事柄である。

 

 

 

天界の秘義1182

 

 約言すれば、この外なる礼拝の中にいる人間の中に世と自己を求める愛が存在するに応じ、益々その礼拝の中には生きた聖いものが少なくなり、自分自身と世を求めるその愛の中に隣人に対する憎悪が存在するに応じて、益々その礼拝には冒瀆が宿り、その憎悪の中に悪意が存在するに応じてさらに益々彼の礼拝の中には冒瀆が宿り、その悪意の中に詐欺が存在するに応じて、更に尚益々その礼拝の中には冒瀆が宿るからである。それらの愛とこれらの悪とが『バベル』により意味されている外なる礼拝の内部であり、そのことについては次章に述べよう。

 

 

 

天界の秘義1618

 

「そしてそこで彼はエホバに祭壇を築いた」(創世記13・18)。

 

これはその状態から発した礼拝を意味していることは『祭壇』の意義が全般的に凡ゆる礼拝を表象しているものであることから明白である(それについては921番に説明した)。礼拝により、内意では、愛と仁慈とを通して連結することがことごとく意味されている。人間は愛と仁慈との中にいる時は、絶えず礼拝(の状態)の中にいるのであって、外なる礼拝は単にその結果に過ぎない。天使たちはこうした礼拝の中におり、それで彼らのもとには不断の安息日があり、このことから安息日はその内意では主の王国を意味している。しかし人間は、世にいる間は、必ず外なる礼拝をもまた守らなくてはならないのである。なぜなら外なる礼拝により内なるものが刺激され、外なる礼拝によって内なるものが聖く保たれ、かくして内なるものがその中へ流れ入ることが出来るからである。更に人間はこのようにして知識を与えられて、天的なものを受ける備えをしており、また例え人間はそのことに気づかないにしても、聖い状態を与えられ、この聖い状態は永遠の生命に役立つために主により彼に保存されるのである、なぜなら他生では人間の生活の凡ゆる状態が帰ってくるからである。

 

 

 

 

パン

 

 

天界の秘義2165[]

 

ユダヤ教会におけるはん祭と生けにえとは、諸天界における主の王国の天的なもの、地上における主の王国の(すなわち教会における)天的なもの以外の何ものをも、また人間各々における主の王国または教会の天的なもの以外の何ものをも表象しなかったのであり、全般的には愛と仁慈とにぞくしたすべてのもの以外の何ものをも表象しなかったのである、なぜならこれらは天的なものであって、生けにえの各種類のものは特定的なまた特殊なものを表象したからである。

 

このすべてのものは当時パンと呼ばれたのであり、それで生けにえが廃止されて、外なる礼拝のために他のものがそれにつづいてそれに代わったとき、パンとぶどう酒とを用いなくてはならないと命じられたのである。

 

 

天界の秘義2165[]

 

このすべてからわたしたちは(聖餐における)パンが意味しているものを、すなわち、生けにえにより表象されているものをすべて今や認めることができよう、かくて内意では主御自身が表象されたもうているのである。そして『パン』は主御自身を意味しているため、それは全人類に対する愛そのものを、また愛にぞくしたものを意味しており、同じくまた主と隣人に対する人間の相互的な愛を意味しているのである。かくて『パン』は天的なものをことごとく意味しており、同じく『ぶどう酒』は主もまたヨハネ伝に明らかな言葉で教えられているように、霊的なものをことごとく意味しているのである。かれらは言った―

 

 私たちの父祖は荒野でマナを食べました。かれは天からパンをかれらに与えて食べさせられたと記されているとおりです。イエスはかれらに言われた、まことに、まことにわたしはあなたらに言っておく、モーセは天からそのパンをあなたに与えたのではない、わたしの父が天から真のパンをあなたらに与えられるのである、なぜなら神のパンは天から降って、世に生命を与える者であるからである。かれらはかれに言った、主よ、そのパンをつねにわたしらに与えてください。イエスはかれらに言われた、わたしは生命のパンである、わたしのもとへ来る者は決して飢えはしない、わたしを信じる者は決して渇きはしない(6・31−35)。

 

さらに―

 

まことにわたしはあなたらに言っておく、わたしを信じる者は永遠の生命を得る。わたしは生命のパンである。あなたらの父祖は荒野でマナを実際食べはしたが、死んでしまった。これは天から降ってくるパンである、人がこれを食べて、死なないためである。わたしは天から降った生きたパンである、たれでもこのパンを食べるなら永遠に生きるであろう(6・31−35)。

 

 

 

天界の秘義5701

 

『パンを食べること』の意義は連結することであり(そのことについてはまた前の5698番を参照)、

 

 

(『パン』は天的な愛であることは前の276、680、2165、2177、2187、3464、3478、3735、4211、4217、47354976番に見ることが出来よう)。

 

 

 

天界の秘義2334[2]

 

『ロト』により、ここでは、仁慈の善の中にいるが、しかし外なる礼拝の中にいる教会の最初の状態がとり扱われているからには、また人間がこの状態へ入る以前に改良されねばならず、そのこともまた一種の試練により行われるからには、(しかし外なる礼拝の中にいる者は軽微な試練をうけるにすぎないのである)それで多少の試練を意味しているこうした事柄が言われたのである、すなわち最初天使たちは街路に夜を過ごそうと言ったが、ロトは彼らを強いたため、彼らは彼の方に身を向けて、彼の家に入ってきたのである。

 

 

 

天界の秘義6587[2]

 

 この間の実情は以下の如くである。教会が存在するためにはそれは内なるものであり、また外なるものでなくてはならない、なぜなら教会の内なるものの中にいる者とその外なるものの中にいる者とがいるからである。前の者は少数であるが、後の者は非常に多数である。にも拘らずそのもとに内なる教会が存在している者たちのもとにもまた外なるものが存在しなくてはならないのである、なぜなら教会の内なるものはその外なるものから分離されることは出来ないからである。またそのもとに外なる教会が存在している者たちのもとにも内なるものが存在しなくてはならないが、しかしこれらの者のもとでは内なるものは明確なものではないのである。

 

 

 

天界の秘義6587[3]

 

教会の内なるものは心から善を欲し、善に感動することから成っており、その外なるものはそれを為すことから成っており、しかもその為すことはその人間が善から知っている信仰の真理に従っているが、しかし教会の外なるものは儀式を敬虔に遂行し、また教会の教令に従って、仁慈の業を為すことから成っているのである。このことから教会の内なるものは意志における仁慈の善であることが明白である。それでこれが死滅すると、教会そのものもまた死滅するのである、なぜなら仁慈の善がその本質的なものであるからである。外なる礼拝はその後も前のように実際存続はしているが、しかしその時はそれは礼拝ではなくて、儀式であり、それはそのように命じられているために保存されているに過ぎないのである。しかしこの儀式は、礼拝のように見えるはするが、実のない殻のようなものである、なぜならそれはその中に内なるものが無くて残っている外なるものであるからである。教会の状態がそのようになる時、それはその終わりに達しているのである。

 

 

 

天界の秘義7038

 

『主に仕えること』は用を遂行することを意味していることは、真の礼拝は、用を遂行し、かくて仁慈を実践することにあるためである。主に仕えることは単に礼拝所に足しげく訪れ、そこで説教を聞き、祈ることから成っており、それで充分だと信じている者は非常に誤っているのである。主を礼拝することは用[役に立つこと]を遂行することであり、世における人間の生活の間では用は各々の者がその地位における義務を正しく遂行し、かくて心から自分の国に、社会に、隣人に仕え、友に誠実に振舞い、各人の性格に応じて深重に親切な務めを果たすことにあるのである。これらの用は主として仁慈の業であり、そのことによって主が主として拝されるのである。礼拝所に足しげく訪れ、説教を聞き、祈りをとなえることもまた必要ではあるが、前に掲げた用を伴わないなら、それらには何ら益がないのである、なぜならそれらは生命のものではなく、その生命からいかようなものでなくてはならないかを教えるからである。天界の天使たちは用から、また用に応じて、幸福をすべて得ており、かくて彼らには用が天界である。

 

 

 

真の基督教55

 

それによって教会が神によって打建てられた秩序は以下の通りである。即ち、神は教会の各々のもの、及びすべての中に在し、秩序がそのために存在する隣人もまたその教会の中に在るということである。この秩序の法則は聖言に含まれている諸々の真理であり、神に関連する法則は教会の頭を、隣人に関連する法則はその胴体を、儀式は衣服を形成する。何故なら、前者が秩序のある祭儀を以って装われない限りは、それは身体が衣服を剥がれて裸になり、夏の熱と冬の寒さにさらされる様なものであり、或は神殿の壁と屋根とが取り除かれ、祭壇、講壇、聖所を凡ての嵐の暴虐に露け出すようなものであるからである。

 

 

 

 

・スウェーデンボルグも外なる礼拝をしている

 

 

スヴェーデンボリ出版刊/シグステッド著/『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』P338

 

 1945年6月2日、スヴェーデンボリはロンドンのスウェーデン教会の礼拝に出席し、いつも通り献金し、また6月24日の「バプテスマのヨハネの祭日」でもそうしている。われわれはここで、夢の中で彼に、教会に出席し、聖餐に与ることを中止してはならないという重大な忠告が与えられたことを記しておいてよいであろう。(『夢日記』237番)

 

 

 

たま出版/鈴木泰之訳/スウェーデンボルグの夢日記/237

 

 その後、私は、ディドロンが彼の王から去ったことに気づいたようだ。彼は、王にあんなにもよく気に入られていたのに、デンマーク人を頼り、そこで死んだ。彼の妻は、嘘つきであり、この事を引き起こしたのだが、彼の遺体を待っていた。今すぐ聞け、彼がまた、私に呼び起こしたように、私はキリストの会衆から離れてはならない、またそこの聖餐に臨め、またこの場合私はもう一度霊的に死ぬことになる。これ以上何も理解できなかった。それゆえ、ここには神秘的な謎が隠されている。そこで私は慎んだ。聖霊に奮い起こされた、おきてに従おうという気になるときよく起こるように。

 

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ20・6/天使館1巻P161

 

聖母がマリア・ワルトルタに:

 

 

をわが身に宿したわたしは、もはや一人ではなく、聖人中の聖者を礼拝するには自分の内部を見つめるだけで足りましたが、ヨセフも祈るときはと一致していることを感じていました。わたしたちの祈りは、を崇め、に抱かれつつと溶け合う、全存在をあげた真の礼拝でしたから。

 

 そしてごらんなさい。永遠なる御者を自分のうちに宿しているこのわたしでさえ、神殿での恭しい主従の礼から免除されているとは感じていませんでした。最高の成聖は、のみ前で自分を無と感じることも、この無を卑下することも免除しているわけではないのです。彼は、その栄光への絶え間ない讃美の叫びのうちにそれを許しておられるのですから。

 

 

 

3.アグレダのマリア

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P67

元后の御言葉

 

 私の娘よ、人性は不完全で、注意深くなく、徳行を怠ります。人間はいつも休もうとし、仕事をしないようにします。霊魂が肉体の言うことを聞くと、肉体に支配され、肉体の奴隷になるでしょう。この秩序の欠損は嫌悪すべきことであり、神の最も嫌われることです。人間は霊戦に於て不注意で、しばしば負けると身動きできなくなり(脳卒中患者のように)、偽の保証を勝手に作り上げ、易しい徳行をするだけで過信するのです。悪魔たちは他の誘惑もしてきます。自信過剰にさせ、真の徳を見失わせます。この過ちに陥らないように私は切望します。一つの不完全さに不注意であると、他の諸欠点も出てきます。小罪を犯すようになり、小罪は大罪へと汝を導くことになります。奈落の底に落ち込みます。この不幸に遭わないために、聖務や秘蹟(祭式)に参加しなさい。どんな小さな聖務でも、悪魔を寄せつけない要塞となります。要塞がないと悪魔は内部に侵入し、霊魂を滅ぼそうとします。聖寵の力なしには、霊魂は悪行や悪習慣で弱くなり、堅忍を失い、悪魔に抵抗できなくなります。

 

 

 

4.グリニョン・ド・モンフォール

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/226/P264

 

第Z章 この信心の実行的方面

第一節      外面的実行

 

226

この信心の本質はあくまで、内面にあるのですが、それでも、おろそかにしてはいけない幾つかの、外面的実行も除外してはいません。「これこそ、しなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません」(マタイ23・23)。外面的信心業がホンモノであるとき、それは内面的信心への有力な支援となるからです。またそれはいつも感覚の圧制のもとに行動している人に、自分がしたこと、またこれからしなければならないことを反省させ、熟慮さすよすがともなるからです。さらにまた、外面的信心業は、それを見る人に、よい感化を与えるからです。これは、純すいな内面的信心にはとうていできないことなのです。

 世間の人や、よろず批判家たちはよく、まことの信心は心の中にあるのだから、外面的な信心は断固排斥すべきだ、といっているのですが、こうした言い分に気をとがめてはいけません。

 かれらの言いぶんに対して、わたしはキリストとともに、あえて宣言したい。「あなたがたの光を、人びとの前でかがやかせ、人びとがあなたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5・16)。もちろん、大聖グレゴリオ教皇が言っているとおり、人びとの気に入るためとか、または人びとから称賛をえるために良い行いや外面的信心業を“人びとの前”でしてはいけません。それは虚栄というものです。

 とはいえ、ときとしては、人びとの前でそれをすることもあるのです。しかし、目的はいつも、神のみこころを喜ばせることです。神の栄光をあらわすことです。人からの軽蔑や称賛など全然念頭にありません。

 以下いくつかの外面的信心業を簡単に列挙しましょう。内面的信心がともなっていないから、外面的信心業と呼んでいるのではありません。内面的信心業とずいぶんかかわりがあるから、純すいの内面的信心と区別するためにこそ、そう呼んでいるのです。

 

 

 

 

5.教会堂は礼拝、説教、教訓、敬虔な瞑想のために強固でなくてはならない

 

 

神の摂理190

 

人間の種々の活動が家に行われるためには、家は強固な建物でなくてはならないではないか。教会堂は礼拝、説教、教訓、敬虔な瞑想のために強固でなくてはならぬではないか。