パン
1.パン
2.パンを食べること・・・連結すること
3.“我らの”毎日のパンは、日々に、我らの使命を行うこと
4.種を入れないパン
5.顔のパン
6.ルイザ・ピッカレータ
7.霊的生命
8.『顔に汗を流してパンを食べる』(創世記3・19)ことは天的なものに反感を持つこと
申命記8・2−3
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたたちを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
マタイ3・1−4
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」
1.パン
天界の秘義2165[3]
ユダヤ教会におけるはん祭と生けにえとは、諸天界における主の王国の天的なもの、地上における主の王国の(すなわち教会における)天的なもの以外の何ものをも、また人間各々における主の王国または教会の天的なもの以外の何ものをも表象しなかったのであり、全般的には愛と仁慈とにぞくしたすべてのもの以外の何ものをも表象しなかったのである、なぜならこれらは天的なものであって、生けにえの各種類のものは特定的なまた特殊なものを表象したからである。このすべてのものは当時パンと呼ばれたのであり、それで生けにえが廃止されて、外なる礼拝のために他のものがそれにつづいてそれに代わったとき、パンとぶどう酒とを用いなくてはならないと命じられたのである。
天界の秘義2165[4]
このすべてからわたしたちは(聖餐における)パンが意味しているものを、すなわち、生けにえにより表象されているものをすべて今や認めることができよう、かくて内意では主御自身が表象されたもうているのである。そして『パン』は主御自身を意味しているため、それは全人類に対する愛そのものを、また愛にぞくしたものを意味しており、同じくまた主と隣人に対する人間の相互的な愛を意味しているのである。かくて『パン』は天的なものをことごとく意味しており、同じく『ぶどう酒』は主もまたヨハネ伝に明らかな言葉で教えられているように、霊的なものをことごとく意味しているのである。かれらは言った―
私たちの父祖は荒野でマナを食べました。かれは天からパンをかれらに与えて食べさせられたと記されているとおりです。イエスはかれらに言われた、まことに、まことにわたしはあなたらに言っておく、モーセは天からそのパンをあなたに与えたのではない、わたしの父が天から真のパンをあなたらに与えられるのである、なぜなら神のパンは天から降って、世に生命を与える者であるからである。かれらはかれに言った、主よ、そのパンをつねにわたしらに与えてください。イエスはかれらに言われた、わたしは生命のパンである、わたしのもとへ来る者は決して飢えはしない、わたしを信じる者は決して渇きはしない(6・31−35)。
さらに―
まことにわたしはあなたらに言っておく、わたしを信じる者は永遠の生命を得る。わたしは生命のパンである。あなたらの父祖は荒野でマナを実際食べはしたが、死んでしまった。これは天から降ってくるパンである、人がこれを食べて、死なないためである。わたしは天から降った生きたパンである、たれでもこのパンを食べるなら永遠に生きるであろう(6・31−35)。
2.パンを食べること・・・連結すること
天界の秘義5405
このことの理由は、古代教会ではパンが他の者に与えられるときはそれが裂かれ、そのことにより自分自身のものから善を伝えることが意味されると同時にそれを自分自身のものから自分のものとし、かくして愛を相互的なものとすることが意味されたということである。なぜならパンが裂かれて他の者に与えられるとき、それが自分自身のものから伝えられ、またはパンが数人の者の間に裂かれると、そのときは一片のパンは相互に所有されるものとなり、従って仁慈を通して連結が生まれるからである。このことからパンをさくことは相互愛を意味したことが明らかである。
天界の秘義5701
『パンを食べること』の意義は連結することであり(そのことについてはまた前の5698番を参照)、
(『パン』は天的な愛であることは前の276、680、2165、2177、2187、3464、3478、3735、4211、4217、4735、4976番に見ることが出来よう)。
3.“我らの”毎日のパンは、日々に、我らの使命を行うこと
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P330(天使館版44・13)
最初の“主の祈り”は、ナザレトの庭の中で唱えられた。マリアの悲しみを慰めるために、“私たちの”意志を永遠なるお方にささげるために、この“意志”にとって、大きくなるばかりの犠牲の時期が始まり、私にとって命をささげる、マリアにとって子供をささげるという頂上に至る、ちょうどその時に唱えられたのである。
私たちには、御父にゆるしてもらいたいことは“何も”なかったにしても、罪のない私たち二人は、謙遜のために、私たちの使命をふさわしく迎えるために、どんな小さな欠点の影でもゆるされるように、父のゆるしを願ったのである。これは、神と一致して神の聖寵を豊かに持てば持つほどその使命は祝福され、豊かな実を結ぶことをあなたたちに教えるため、神への尊敬と謙遜とを教えるためであった。神なる父のみ前に“男”と“女”としての、わたしたちの完全ささえも空しく感じ、そして、ゆるしを請うた。“毎日のパン”を願うのと同じように。
“我らのパン”とは何か。おお、それは、マリアの清い手がこね、私がそのたびに薪の束を運んだ、あの小さなかまどで焼いたパンのことではない。それも、この世にいる間は必要ではあるが、“我らの”毎日のパンは、日々に、我らの使命を行うことであった。私は、それを毎日くださるように祈った。なぜなら、神が与える使命を果たすこと、これは“我らの”日々の喜びである。そうでしょう、小さなヨハネ(マリア・ワルトルタのこと)。主の慈悲があなたに、その日々の苦しみの使命の部分を与えてくださらないならば、その日は空白である、とあなたも言うではないか。
4.種を入れないパン
天界の秘義2177〔5〕
それに『種を入れない』ことは、またはそれを醗酵させないことは、それが誠実なものでなくてはならないことを、かくて誠実な心から発して、不潔なものであってはならないことを意味している。
5.顔のパン
天界の秘義2177〔7〕
菓子に作られた細かい粉は全般的には、前に引用した記事から明白であるようにパンと同じことを、すなわち、愛の天的なものを表象し、ひき粉〔あら粉〕は愛の霊的なものを表象したのである。『顔のパン』または『供えのパン』と呼ばれた『パン』(またはパンのかたまり)は細かい粉から作られたが、この粉は菓子の中に調製されて、机の上に置かれたが、それは愛を、すなわち人類に対する主の慈悲を、またそれに対する人間の相互的な働きを絶えず表象するものであったのである。
6.ルイザ・ピッカレータ
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P149
それから主は、私が見つけたあのパンがあればこそ、忍耐でき、あの血生臭い戦いの時を耐えられたのだと理解させてくれた。つまり、誘惑の時に、忍耐、へり下り、神への捧げものとしてさし出したその苦しみこそ、私たちが主に捧げる本物のパンであり、主がそのパンをおいしく味わうのです。
7.霊的生命
天界の秘義6118
「言った、わたしたちにパンを与えてください」。これは霊的な生命を支えるために懇願することを意味していることは以下から明白である、すなわち、『与えること』の意義は、それがパンについて述べられているときは、支えることであり、『パン』の意義は霊的な生命である。なぜなら『パン』により特定的には愛と仁慈との善が意味されているが、しかし全般的には霊的な生命が意味されるからである。なぜならこの場合『パン』により(前に示されたように、2165番を参照)凡ゆる食物が意味されるからである。なぜなら霊的な意義では全般的に食物は愛の凡ゆる善とまた信仰の凡ゆる真理であり、この二つのものが霊的な生命を作るものであるからである。
天界の秘義6119
真理が欠けるとき、霊的な死が起るという事実については、実情は以下の如くである。霊的な生命は真理に従った活動に在り、従って用に在るのである。なぜなら霊的な生命にいる者たちは、生命を目指して、すなわち、真理に従って生きるために、かくて用を目指して、真理に対する欲求と渇望とを持っているのである。それでかれらはいくたの真理を―それに応じて用が為されることができるのであるが、そうした真理を―受けることができるに応じて、霊的な生命を得るのである、なぜならかれらはそれに応じて理知と知恵の光に浴するからである。それで真理がつきると―それは、聖言で『夕』により意味されている蔭の状態が来るとき起ってくるのであるが(6110番)―霊的な生命は苦しむのである、なぜなら(そのとき)蔭、すなわち、霊的な死にぞくしているようなものが現れてくるからである。なぜならその場合かれらは以前のように光の中に留め置かれないで、部分的にかれら自身のものの中へ連れ戻され、かくてその蔭から霊的な死、すなわち、堕地獄の映像が起ってくるからである。
8.『顔に汗を流してパンを食べる』(創世記3・19)ことは天的なものに反感を持つこと
『顔に汗を流してパンを食べる』(創世記3・19)ことは天的なものに反感を持つことであることは『パン』の意味から明らかである。『パン』により霊的な天的なものがことごとく意味され、それは天使たちの食物であって、それを奪われると、彼らはパンまたは食物を奪われた人間のように死んでしまうのである。天界の霊的な天的なものはまた地上のパンに相応していて、更にそれにより表象されているが、そのことは聖言の多くの記事により示されている。天的な霊的な霊的なものはことごとく主から発生しているため、主はパンであられることを、主御自身ヨハネ伝に教えられている―
これは天からくだるパンである、このパンを食う者は永遠に生きるであろう(ヨハネ6・58)
それ故またパンと葡萄酒とは聖餐に用いられているシンボルである。この天的なものはまたマナにより表象されている。天的な霊的なものは天使たちの食物となっていることは、主の御言葉から明らかである―
人はパンのみによって生きない、神の御口から発する凡ての言葉によって生きる(マタイ4・4)。
即ち、天的な霊的なもののことごとくが発してくる源の主の生命から生きるのである。
天界の秘義276[2]
洪水のすぐ前にいて、ここに取扱われている最古代教会の最後の子孫は徹底的に堕落して、感覚的な身体的な物の中に溺れ、もはや信仰の真理とは何か、主とは何か、または主は来られて彼らを救われることを聞こうとはしなくなり、このようなことが言われると、面を反けたのである。こうした反感が『顔に汗を流してパンを食うこと』により記されているのである。同様にユダヤ人もまた天界的なものの存在を認めないで、単に世的なメシヤを欲するといった性格を持っていた結果、マナに対してはそれが主を表象していたため反感を覚えないわけにはいかないで、それを『くだらないパン』と呼んだため、火の蛇が彼らの間に送られたのである(民数記21・5、6)。更に彼らが涙にくれた逆境と悲惨の状態の中に在って彼らに与えられた天界的なものは彼らにより『逆境のパン』『悲惨なパン』『涙のパン』と呼ばれた。私たちが今取り扱っているこの記事では、反感をもって受け取られたものは『顔の汗のパン』と呼ばれている。
天界の秘義277
これが内なる意義である。文字に固執する者は人間は勤労によって、または顔に汗を流して土地から自分のためにパンを得なければならないとしか理解しない。しかし『人間』はここでは誰か一人の人間を意味しているのでなく、最古代教会を意味しており、『土地』も土地を、『パン』もパンを、『庭園』も庭園を意味しているのではなく、既に充分に示したように、天的な霊的なものを意味しているのである。