聖体拝領・聖餐
聖書より/ご聖体における主の現存/礼拝の最も聖いもの/ミサ/
流入・主との連結/教会的集いの中心/聖体拝領の恩恵/聖体拝領への渇望/
日々のいけにえの廃止/パンとワインとを分離した事情/聖体訪問/
可能であれば直接口に、出来るならひざまずいて私を受けること/パン/
カトリックが改革派よりも容易に新しいエルサレムに、または新しい教会に入れられる理由/
1.聖体拝領・聖餐
@.スウェーデンボルグ
A.トマス・ア・ケンピス
B.ヴァッスーラ
C.聖母から司祭へ
D.サンダー・シング
E.ジャン・マリ・ヴィアンネ
F.ドン・ボスコの見た二本の柱の夢
G.マリア・ワルトルタ
H.ブリージ・マッケナ
I.マザー・テレサ
J.エリザベット・サント
K.テレーゼ・ノイマン
L.デボラ
M.ルイザ・ピッカレータ
N.サンドロ・ニョッキ
O.ドレックス教授
P.アグレダのマリア
2.聖体の前印
3.ミサ
4.聖餐のとき各人の視線は主のみに向けられる
5.司祭の役割
6.私は我が教会に仕える教師たちを与え、道を案内させ 聖体拝領で私を受けることが いかに大切かを教えさせている
7.宗教生活の基盤
8.聖体祭儀は個人の家庭で捧げられるようになるでしょう
9.パンとぶどう酒とを聖く受ける者たちのもとでは、それらのものを通して天界と主とに連結することが行われる
10.新しい契約の血
11.聖餐により主は主の御声を聞く者のもとに、即ち、聖言を信じる者のもとに、現存されているが、しかし聖言に従って生きる者たちと連結される
12.もし、彼らが法王崇拝から遠ざかり、聖徒たちを呼び求めることから遠ざかり、両種類の聖餐式にあずかるなら、改革派よりも容易に新しい教会へ、教えられて入れられることが出来る
マタイ26・26−30
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山で出かけた。
マルコ14・22−26
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人ために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
ルカ22・14−23
時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互に回して飲みなさい。
言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」そこで使徒たちは、自分たちのうち、一体だれが、そんなことをしようとしているのかと互に議論し始めた。
ヨハネ6・48−59
「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互に激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終りの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたとき話されたことである。
コリント1・11・23
わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
1.聖体拝領・聖餐
@.スウェーデンボルグ
天界の秘義1798[5]
たとえば、たれかが主は怒られ、罰しられ、試みられるなどと信じるとするなら、あるいは聖餐のパンとぶどう酒とが表意的なものであると信じるなら、または肉と血とは彼らから説明される何らかの方法で現存していると信じるならば―こうした事柄について考える者は僅かしかいないけれど、またはそのことについて実際考えるにしても、それが単純な心から為されさえしているなら、彼らの言うことはそれぞれ異なっているにしても、それは大したことではない、何故なら彼らはそのように教えられてきてはいるものの、それでも仁慈の中に生きているからである。これらのものはパンとぶどう酒とはその内意では全人類に対する主の愛を、この愛に属した事柄を、またその愛に反応した主と隣人とに対する人間の愛を意味していることを聞くと、すぐさまそれがそうであることを信じ、またそのことを喜びもするのである。教義的な事柄の中にはいるが、仁慈の中にいない者はそうではない、これらの者は凡ゆることについて論争し、自分らの言っているように言わない者を(彼らはその言うことを『信じる』ことだと言ってはいるが)その者はたれであろうと罪に定めるのである。このすべてからたれでも主に対する愛と隣人に対する仁慈とは教会の内なるものであることを認めることが出来よう。
天界の秘義2177[8]
これらの者は、聖餐式のパンとぶどう酒とは一種の儀式以外の何ものでもなく、その中には何ら聖いものはないと考えている者と同じように考えているものの、人間の心はその聖餐により天界の心[天界の人たちの心]と連結するといった聖さがあるのである、すなわち、その人たちがパンとぶどう酒とは主の愛を、また人間がそれに対し相互的に抱く愛を意味していることを内なる情愛から考え、かくて内的な思考と感情とから聖いものの中にいる時、(その人たちは天使たちと連結しているのである)。
天界の秘義2187[2]
ナザレ人に与えられた律法は、すなわちナザレ人はそのナザレ人である日にはぶどう酒の材料であるぶどうの実から、その種子から皮に至るまで何一つ食べてはならないという律法は(民数記6・4)、以下の理由からであった、すなわち、ナザレ人は天的な人を表象したのであり、天的な人は(第一部202、337、880番の終わり、1647番に見ることが出来るように)霊的な事柄を口にすることすらも欲しないといった者であったためであり、ぶどう酒とぶどうの実は、またぶどうの実から作られたものは何であれことごとく霊的なものを意味したため、それでナザレ人はそうしたものを食べることを、すなわち、そうしたものを伝達され、それらのものに自分自身を連結し、それらのものを自分自身のものとすることが禁じられたのである。
天界の秘義2187[3]
それに似たことがイザヤ書における『食べること』によっても意味されている―
渇く者はことごとく水に来よ、銀を持たない者は来て、買い、食べよ、しかり、来て、銀無しに、価無しにぶどう酒と乳を買えよ。パンでもないもののために何故あなたらは銀を計るのか。満たしもしないもののためになぜ労するのか。勉めてわたしに聞けよ、善いものを食べよ、あなたらの魂はあぶら身を歓ぶであろう(55・1、2)。
同じくまたヨハネの書には―
勝を得る者にはわたしは神の楽園の真中にある生命の木の実を食べさせよう(黙示録2・7)。
『生命の木』は天的なものそれ自身であり、最高の意義では主御自身であるが、それは主から天的なものがことごとく、すなわち、愛と仁慈とはことごとく発しているためである。かくて『生命の木の実を食う』ことは主を食べることと同一であり、主を食べることは愛と仁慈とを与えられ、かくて天界の生命に属したものを与えられることである、このことを主御自身ヨハネ伝に言われている―
わたしは天から降った生きたパンである、もし人がこのパンを食べるなら、その者は永遠に生きるであろう、わたしを食べるものはわたしによって生きるであろう(6・51、57)。しかし彼らは言った、これは激しい[辛い]言葉である。イエスは言われた、わたしがあなたらに話す言葉は霊であり、生命である(60、63)。
天界の秘義2187[4]
ここから聖餐で食べることにより意味されていることが明白である(マタイ26・26−28、マルコ14・22、23、ルカ22・19、20)即ち、それは伝達され、連結し、自分自身のものにすることである。ここからまた主が以下のように言われたことにより意味されていることが明らかである―
多くの者が東と西から来て、アブラハムとイサクとヤコブとともに席につくであろう(マタイ8・11)。
天界の秘義3464[2]
聖言の文字の意義から発している教義的な事柄については実情は以下のようになっている、すなわち、人間はその教義的な事柄の中にいると同時にそれに従った生命[生活]の中にいる時、彼は彼自身の中にそれに相応したものを得るのである、なぜなら彼と共にいる天使たちは内的な諸真理の中にいるが、彼は外的な真理の中におり、かくて教義的な事柄を通して天界と交流するが、しかしそれは彼の生命の善に順応しているのである。例えば、聖餐において彼はその時用いられる言葉―『これはわたしの身体であり、これはわたしの血である』―から単純に主を考えるとき、彼と共にいる天使たちは主に対する愛と隣人に対する仁慈とを考えるのである、なぜなら主に対する愛は主の身体にまたパンに相応し、隣人に対する仁慈は血にまたぶどう酒に相応しているからである(1798、2165、2177、2187番)、そしてこのような相応が在るため、天界からその天使たちを通して、その時その人間が置かれているその聖い状態の中へ情愛が流れ入り、この情愛を、彼は彼の生命の善に順応して受けるのである。
天界の秘義3464[3]
なぜなら天使たちは各々の人間のもとにその生命の情愛の中に住んでおり、かくてその者がそれに従って生きている教義的な事柄の情愛の中に住んでいるが、しかしもしその人間の生命がその教義的な事柄と一致していないなら、決してその中には住みはしないのである、なぜならもしその生命が一致していないならば、例えば、もし彼らが教義的な事柄により名誉と富とを得ることを求める情愛の中にいるなら、そのときその天使たちは退いてしまって、奈落の者らがその情愛の中に住んで、彼の中へ自己と世とのために教義的な事柄を確認することを注ぎ入れ、かくて説得的な信仰を注ぎ入れるか―この信仰はそれが他の者の心を捕らえさえするなら、事の真偽を問わないといった底のものであるが―または信仰をことごとく取り去ってしまうかして、そのときは彼の唇の教義はこれらの愛の火により焚き付けられ、また加減される音声に過ぎないのである。
天界の秘義4217
実情はこうしたものであり、このようにして人間は天界に関連づけられ、天界を通して主に関連づけられているため、パンとぶどう酒とはシンボルとなっており、生命の聖さの中にいる人間を天界に結合させ、天界を通して主に結合させるのである。
天界の秘義4724[4]
このことをまた信仰のみのために闘って、信仰の生活を送っていない者らはその者ら自身の中に消滅させてしまうのである。なぜなら彼らは主の人間的なものは純粋に人間的なものであって、他の人間の人間的なもの[人間性]に似ていなくはないと信じており、そこから彼らの多くの者はいかほど主をその唇で告白しても、主の神的なものを否定しているからである。しかし、膝ざまづいて、謙遜な心から信仰の生活を送っている者たちは主を救い主なる神として崇めており、そのときは神的な性質と人間的な性質とが区別される教義からは些かも考えはしないのであり、聖餐においてもまたそのように考えはしないのである。ここから彼らのもとでは主の神的な人間的なものが彼らの心の中に在ることが明らかである。
天界の秘義4735
天界における聖いものはすべて主の神的な人間的なものから発出しており、それで教会における聖いものもすべてそこから発出している、それで、暴行がそれに加えられないようにと、主により聖餐が定められ、その中に、パンは主の肉であり、ぶどう酒は主の血であると明らかに言われ、かくて聖いものがそのとき発してくる源泉は主の神的な人間的なものであると明らかに言われているのである。古代人のもとでは、人間的なものは肉と血から成っているため、肉と血とは人間自身のものを意味したのであり、かくて主はシモンに『あなたは祝福されている、肉と血がそれをあなたに示したのではなく、天におられるわたしの父が示されたからである』と言われたのである(マタイ16・17)。それで聖餐のパンとぶどう酒により意味されている肉と血とは主の人間的なもの自身を指示しているのである。
天界の秘義4735[3]
このことから以下のことが明らかである、すなわち主の神的な人間的なものにより、その天的な意味では、神的愛そのものが意味されており、それは、全人類を救い、彼らを永遠に祝福された、幸福なものに為し、彼らがその神的なものを受けることが出来る限り、その神的なものを彼ら自身のものに為そうと欲することにおいて、全人類に対する愛である。この愛と主に対する人間の相互的な愛とまた隣人に対する愛が聖餐に意味され、表象されているものであり―神的な天的な愛は肉またはパンにより、神的な霊的な愛は血またはぶどう酒により意味され、また表象されているのである。
天界の秘義5915
「そしてわたしはそこにあなたを支えましょう」(創世記45・11)。
これは内なる天的なものから霊的な生命が絶えず流入することを意味していることは以下から明白である。即ち、『支えること』の意義は、それが内なる天的なものを表象するヨセフにより言われているときは、内なる天的なものから発した霊的な生命の流入であり、支えることはその霊的な意義では善と真理とが天界を経て主から流入すること以外の何ものでもないのである。そこから天使たちは支えられており、またそこから人間の霊魂は(即ち、彼の内なる人が)支えられているのである。この支えられることに外なる人が食物と飲物により支えられていることが相応しており、それで『食物』により善が、『飲物』により真理が意味されているのである。そうしたものがまた相応となっているため、人間が食物をとっているときは、その人間のもとにいる天使たちは善と真理とを考えており、驚くべきことには、その考えもその食物の種類に従って異なっているのである。かくて聖餐において人間がパンとぶどう酒とを受けているとき、彼のもとにいる天使たちは愛の善と信仰の善とを考えるが(3464,3735番)、それはパンは愛の善に、ぶどう酒は信仰の善に相応しているという理由によっており、そしてそれらは相応しているため聖言ではまたそのことを意味しているのである。
天界の秘義10519
聖餐はそれにより教会が天界と連結し、かくて主と連結するために主により制定されたのである。それでそれは教会の最も聖い物である。
天界の秘義10520
しかし聖餐により連結がいかようにして行われるかは、聖言の内なる、または霊的な意義については何ごとも知っていない者らによって把握されはしない、なぜなら彼らは文字の意義であるその外なる意義を越えて考えはしないからである。聖言の内なる、または霊的な意義から、『身体』と『血』により何が意味されているかを、『パン』と『ぶどう酒』により、また『食べること』により何が意味されているかが知られるのである。
天界の秘義10521
この意義では主の『身体』、または『肉』は、『パン』と同様に愛の善を意味し、主の『血』は『ぶどう酒』と同様に信仰の善を意味し、『食べること』は己がものとすることと連結することとを意味しているのである。人間と共にいる天使たちはその人間が聖餐の礼典に列る時、その事柄をそれ以外のものとしては認めていない。なぜなら彼らは凡ゆる事柄を霊的に把握しているからである。ここからその際その人間のもとへその天使たちから、かくて主から天界を通して愛と信仰との聖い感情が流れ入って来るのである。そこから連結が生まれているのである。
天界の秘義10522
この凡てから、人間が身体であるパンをとる時、彼は主から発した主に対する愛の善を通して主と連結し、血であるぶどう酒をとる時、主から発した主に対する信仰の善を通して主と連結することが明白である。しかし聖餐の礼典を通して主と連結することは主から発した主に対する愛の善と信仰の善との中にいる者たちのもとにのみ行われることを知られたい。聖餐はこの連結の印である。
真の基督教238
聖言は、文字の意義では、その内に宝石、真珠、王冠が排列されている箱のようなものである、ある人が聖言を聖いものとして認め、生活の用に対する目的を以って、これを読むとき、その人の思考は、謂わば、このような箱を天界に向って差し出し、その箱はその上げられる時、開かれて、天使達にその内容を示し、天使達はこれを喜ぶのである。彼らの喜びはその人間に伝わり、かくして、思考の共通性が生まれる。天使達とのこの連結と主との交わりのために、聖餐が制定され、その中にパンは天界では神的善となり、葡萄酒は神的真理となり、両者とも主より発している。このような相応は創造と時を同じくしているのは、天使的な天界と、地上の教会とが、一般的に言えば、霊界と自然界とが一をなし、主は両世界との交わりに入り給わんがためである。
真の基督教264
メルキゼデクは主を表現したものであった、何故なら彼は至高者なる神の際司と呼ばれ(創世記14・18)、主はダビデによって「汝はメルキゼデクの位に従い、永遠に際司なり」(詩篇110・4)と語られているからであり、これがメルキゼデクがパンと葡萄酒とを携えてきた理由であった。パンと葡萄酒とは現今聖餐において教会の最も聖い物であるように、当時も教会の最も聖い物であった。
真の基督教567
実際の悔改めとは自らを点検し、罪を認め、承認し、自らを罪有る者として自認し、これを主の前に告白し、これに抵抗する助けと力とを懇願し、罪から遠ざかり、新しい生活を送り、その全てを自分自身によって為すかのように為すことである。このことを年に一回あるいは二回、諸君が聖餐に与る時為されよ、而してその後諸君自身に罪を犯させた欲望が再び生じた時、その時諸君自身に向って「我々はそれは神に対する罪である故、それに屈従しない」と語り給え、これが実際の悔い改めである。
真の基督教567
改革派の人々は実際の悔改めには根強い反感を持っている。それ故、彼らはその罪を点検し、これを神に告白するように自分自身を強制することが出来ないことは注目すべき事実である。彼らは単にこのような事柄を思うのみで恐怖に襲われる。私は霊界でこの事について彼らの多くの者に尋ねたが、彼らの凡てはそれは彼らの力では出来ないものであることを認めた。而して彼らはロマ・カトリック教徒はそれを実行している、すなわち、彼らは自らを点検し、自らの諸々の罪を祭司に告白していると教えられると、非常に驚き、さらに改革派の者は己が罪を秘かに神の前に告白することが聖餐の準備として彼らに等しく課せられているけれども、それを為すことが出来ないことを認めたのである。彼らの或る者はその理由を調べ、このような悔改めのない心の状態を生んだものは信仰のみの教義であることを知り、かくてキリストを崇拝して、聖徒達に祈願を捧げないロマ・カトリック教徒は救われることを納得したのである。
この後、雷が轟き、天界からこの声があった。「我々は驚いている、改革派の集会に、基督を信じ、悔改めよ、然すれば諸君は救われるであろうと告げられよ」私は告げ、さらに付け加えた、「洗礼は悔改めの礼典であり、かくして人を教会へ導き入れることであります。何故なら、名付け親たちは悪魔とその業とを斥けることを約束するからです。聖餐もまた悔改めの礼典であり、人を天界へ導き入れるものです。何故なら陪餐者はそれに与る前に悔改めるように警告されているからです。基督教会の普遍的な教義である十誡は、悔改めを教えています。何故なら、第二の板石の第六の誡命の中に、「汝はこれこれの悪を為すべからず」と、言われておりますが「汝はこれこれの善を為すべし」とは言われていないからです。これによって諸君は人は悪を棄て去り、これを避ける限り、善を欲し、善を愛し、それ以前には善についても悪についても何事も知っていないことを知られるに違いありません。」
真の基督教621
この後、その英国人たちは熱心に教えを求めて、天使たちに言った。「私たちは聖餐について種々の見解を聞いております。その真理を我々に語ってください。」天使たちは答えた。「もし人間が悔改めて主を見上げるならば、聖餐によって天界の主との交わりに入るということは、真理であります。」しかしその群れの若干の者が語った。「これは秘儀です」天使たちは答えた。「それは秘儀です。しかしそれは理解することが出来ます。パンと葡萄酒とは何ごとをも為しません。何故なら、そのものからは聖い物は何一つ生じないからです。しかし物質的なパンと葡萄酒とは、霊的なパンと葡萄酒とに相応しています。霊的なパンは愛の聖さであり、霊的な葡萄酒は信仰の聖さであり、各々主から発し、じつに主であります。ここから物質的なパンと葡萄酒によってでなく、悔改める者の愛と信仰とによって、主と人間との、人間と主との交わりが生まれ、而して主との交わりはまた天界へ導き入れます」天使たちが相応に関し若干彼らに教えた後、英国人たちは語った。「今や始めてこの事もまた理解しました。」かく語ると、視よ! 天界から降る一条の輝ける焔は彼らを天使たちと相互的な愛の中に結合したのである。
真の基督教 第13章 聖餐
[T]自然的な物と霊的な物との間の相応に関する知識無くしては何人も聖餐の用を理解することは出来ない。
真の基督教698
これは部分的に洗礼に関する章に説明した。そこでは、聖言の霊的な意義に関する知識無くしては洗礼と聖餐の用を理解することは不可能であることが示されている。(667―669番)ここでは我々は「自然的な物と霊的な物との間に相応に関する知識無くしては」と語るのである。これは同一の事柄である。それは相応によって聖言の自然的な意義は天界の霊的な意義に変わり、ここからその二つの意義の相応が生まれるからである。それ故、相応を知る者は凡て聖言の霊的な意義を知ることが出来よう(聖書及び十誡に関する章また「黙示録の啓示」参照)。
真の基督教699
凡て真の基督教徒は洗礼と聖餐は礼拝の最も聖なる物であることを認める。しかし、何人もその聖さは何に在るかを知らない。自然的な意義における聖餐の制度によっては、我々は基督の肉が我々に食物として与えられ、その血が飲物として与えられることとパンと葡萄酒とがその代わりに用いられているということ以外には何事も知らない。このことから、それは主によって命ぜられたものである故に、聖いものであるという事実以上のことを何人が認めることが出来るであろうか。従って、基督教会の或る巧みな著者達は、聖言がその要素に附加される時、それは秘蹟になると教えたのである。しかし、その聖らかさの起原は理解に訴えないし、またパンと葡萄酒の中にもその聖さを示すものは何一つないのである。それ故、或る者は罪はこれによって赦されるとの信頼を以て、或る者はそれは潔めると信ずる故、また或る者はそれは信仰を強め、救いを促す故に聖餐に列するのである。これを軽んずる者達は、単に幼少の頃から常にこれに列席してきたために列席するに過ぎず、さらに他の者はその内に何の意義も認めず、これを等閑に附している。しかし、不敬虔な者はこれを避けて、自らに「それは教職連の権威により聖らかさを着せられた儀式以外の何であるか、何故ならその中にはパンと葡萄酒以外の何があるか。十字架に懸かった基督の身体とその時流されたその血とが、陪餐者にパンと葡萄酒と共に与えられるということは作り事に過ぎない」等と語るのである。
真の基督教700
このような考えが現今基督教国に遍く抱かれているのは、偏にそれが聖言の文字的な意義に一致し、而して霊的な意義が―その意義においてのみ聖餐の用がその真の光の中に見られるのである―現今まで明らかにされなかったためである。この意義がいまや初めて明らかにされたのである。それは基督教は現今に至るまで名前以外のものではなかったからである。何故なら人々は内に神的三一性を宿す唯一の神として直接主に近づかず、また彼を礼拝せず、単に間接的に彼に近づき礼拝したに過ぎないからである。これは主に近づき主を礼拝することではなく、単に主を人間に対する救いの原因として尊崇することに過ぎない。これは本質的な原因ではなく媒介的な原因であり、本質的な原因の下位にあり、その外部に在る。しかし真の基督教は明け初めている。而して黙示録の新エルサレムによって象徴され、父なる神、子、聖霊はそれが一人格の中に在るが故に一つとして認められている新しい教会を、いまや主は設立し給いつつあるのである。それ故、この教会は洗礼と聖餐なる二つの秘蹟の真の用と益とを受けるために、主は聖言の霊的な意義を示すことをよしとし給うた。この用と益とは人が理解を以てまたは霊の眼を以てその中に含まれている聖さを認め、これを主がその聖言に於て教え給うたように受ける時、受けられるであろう。
真の基督教701
この聖さは、聖言の霊的な意義に関する、または自然的な物と霊的な物との間の相応に関する知識が無くては宝物が畠に隠れているように隠れているのである。畠に宝物が在ることが発見されない中はその畠は特に価値あるものと思われないが、それが発見された時、特にその宝物は金よりも貴いものである事が判明した時、これを購入した者は豊かになるのである。この秘蹟はその霊的な意義を離れては、宝石と宝物とが一杯入っているが閉じられていて特別な注意を惹かない家のようなものである。しかし、教職者達がその壁を大理石で覆い、その屋根に金の板を着せるとき、それは道行く人の眼を奪い、称賛を得、而してその家が開かれるとき、凡ゆる者はその中に入り、その位階に応じ、その監視人から賜物または貸与を受けることが自由に許されている。何故ならその内の宝物は無尽蔵であり、絶えず新たにされるからである。聖言の霊的な内容と秘蹟の天的な内容は正しくそのようなものである。
聖餐はその内的な聖さの啓示なくしては、非常に豊富な砂金を含んだ土砂のようなものであるが、その聖さが示される時、それはその土砂から集められ、溶解され、美しい形に造り上げられる金のようなものである。この秘蹟はその聖さが発見されない中は、普通の木で造られているが、中には金剛石、紅玉及び他の宝石が順序正しく排列されている箱のようなものである。その内容を眺め、しかもそれは自由に分配さるべきものであると告げられる時、何人がその箱を尊重しないであろうか。この秘蹟は、それに相応する天的な物の啓示が無ければ、普通の衣服に身をやつして、何人にも気付かれぬままに通り過ぎて行く天使のようなものである。もしかれが天使的な知恵を語り、驚くべき業を果す天使として認められるならば、事情は異るであろう。
単に聖さを主張することとそれを証示することの相違は、霊界に於ける下記の事件によって説明することが出来よう。パウロが世に居た時に書いたものではあるが、彼の作とは知られていなかった一つの書簡が読まれた。最初、この書簡は聞く者達に軽んぜられた。しかしそれがパウロの書簡の一つであることが発見された時、喜びを以て受け入れられ、その内容は尊ばれた。これは高位高官に在る教職者達が単に聖言と秘蹟に聖さを帰することによって、実際聖さの印がその聖言と秘蹟とに与えられるものであることを示したのである。しかし、その効果はその聖さそのものがその霊的な意義の啓示により露わされ、明らかにされる時、さらに大いに高められるのである。何故ならかくして聖さは外的なものではなく、内的なものとなり、他の者達の権威に於いて受け入れられるのでなく、明白に認められるからである。聖餐の秘蹟の聖さも同様である。
[U]「相応に通暁することによって、主の肉とパンとは主の愛の神的善とまた仁慈の善とを意味し、主の血と葡萄酒とは主の智恵の神的真理とまた信仰の真理を意味し、食することは己がものとすることを意味していることが示される。」
真の基督教702
聖言の霊的な意義は現今相応の啓示によって明らかにされた。それ故、聖餐における肉と血、パンと葡萄酒の意義を明らかに示す記事を聖言から引用することが必要であるのみである。しかしこれらの記事に先立ってこの秘蹟の制度に関しまた主の肉と血、パンと葡萄酒に関する主の言を記してみよう。
真の基督教703
(1)主による聖餐の設定。イエスはその弟子達と共に過越節を守り給うた。その夕が来た時イエスは彼らと共に座り給うた。「彼ら食しおる時、イエス パンを取り、祝してさき、弟子達に与えて言い給う、取りて食え、これは我が体なり。また酒杯を取りて謝し、彼らに与えて言い給う、なんじらは皆この酒杯より飲め。これは新しき契約のわが血なり、多くの人の為に流す所のものなり」(マタイ26・26−28。マルコ14・22−24。ルカ22・19、)20)
(2)主の肉と血またパンと葡萄酒に関する主の教義。
「朽つる糧の為ならで、人の子が汝らに与えんとする永遠の生命にまで至る糧の為に働け。まことに、誠に、汝らに告ぐ、モーゼは天よりのパンを汝らに与えしにあらず、然れど我が父は天よりの真のパンを与えたまう。神のパンは天より降りて生命を世に与ふるものなり。我は生命のパンなり。我に来る者は飢えず、我を信ずる者はいつまでも渇くことなからん。我は天より降りしパンなり。まことに、誠に、汝らに告ぐ、我を信ずる者は永遠の生命をもつ、我は生命のパンなり。汝らの先祖は荒野にてマナを食いしが死にたり。天より下るパンは、食う者をして死ぬることなからしむるなり。我は天より降りし活けるパンなり。人このパンを食はば、永遠に活くべし。我が与えるパンは我が肉なり、世の生命のためにこれを与へん、まことに誠に汝らに告ぐ、人の子の肉を食わず、その血を飲まずば、汝らに生命なし。我が肉をくらい、我が血を飲む者は永遠の生命をもつ。われは終わりの日にこれを甦らすべし。夫わが肉は真の食物、わが血は真の飲物なり。我が肉をくらひ、我が血をのむ者は我に居り、我もまた彼に居る」(ヨハネ6・27、32、33、35、41、47−51、53−56)。
真の基督教704
天界から照示を受ける者はすべてここの肉と血とは、その自然的な意義においてすら、彼らの記憶に留めねばならぬ十字架上の苦難を意味するものであることを理解し得るであろう。それ故、主はこのユダヤ教的な過越節の最後の晩餐と基督教的な過越節の最初の晩餐を定め給うた時、「我が記念としてこれを行え」(ルカ22・19.コリント前11・24、25)と語り給うたのである。同様にパンと葡萄酒とはその自然的な意義においてすら、また主の十字架上の苦難を意味している。何故なら、我々はイエスはパンを裂き、これを弟子達に与え、「これは我が身体なり。」と語り、また「杯を取り、これを彼らに与えて、これは我が血なりと語り給へり」(マタイ26.マルコ14。ルカ22)という記事を読むからである。彼はまた十字架上の苦難を酒杯と呼び給うた(マルコ14・36.ヨハネ18・11)。
真の基督教705
肉、血、パン、葡萄酒はその言葉が記されている聖言の記事から明らかであるように、それに相応している霊的な意義と天的な意義とを意味している。以下の記事を参照されよ。「いざ神の大いなる宴席に集いきたりて、主たちの肉、将校の肉、強き者の肉、馬とこれに乗る者との肉、すべての自主および奴隷、小なる者大なる者の肉を食え」(黙示録19・17、18)。而してエゼキエル書には、「我が汝らのためにささげし犠牲に、イスラエルの山々の上なる大いなる犠牲に、汝ら四方より集まれ。肉を食い、血を飲め。汝ら勇者の肉を食い、地の君達の血を飲め。汝らは我が犠牲より飽くまで脂を食い、酔うまで血を飲むべし。汝らは我が席につきて、馬と戦車と勇士と諸々の軍人に飽かん、而して我わが栄光を国々の民に示さん」(39・17−21)。これらの記事では、肉と血とはこれに相応する霊的な意義と天的な意義とを明らかに意味している。何故なら、そうでなければ、彼らは王達、将校達、勇士達の馬、これに乗る者達の肉を食い、彼の食卓に於いて馬と戦車、勇士、凡ゆる戦士に飽き、地の君達の血を飲み、酔うまでも血を飲むというこの奇妙な表現には、何らの意義も有り得ないであろう。これらの表現は主の聖餐に関連していることは明白である。何故なら、大いなる神の晩餐および大いなる犠牲が記されているからである。扨(さて)、凡ゆる霊的な天的なものは専ら善と真理とに関係を持っている故、肉は仁慈の善を、血は信仰の真理を意味し、それらはその最高の意義においては愛の神的な善と智恵の神的な真理の方面の主を意味していることが推論される。エゼキエル書の以下の語「我かれらに一つの心を与え、汝らの衷に新しき霊を賦けん、我かれらの身の中より石の心を取去りて、肉の心を与えん」(11・19。36・26)の肉によってもまた霊的な善が意味されている。聖言では心は愛を意味し、それ故善への愛は肉の心によって意味されている。さらに、肉と血とは霊的な善と真理とを意味することは、主が自らの肉はパンであり、自らの血は杯から飲まれる葡萄酒であると語り給う記事のパンと葡萄酒との意義により更に明白である。
真の基督教706
主と聖言との神的な真理は主の血によって意味せられる。それは主の愛の神的な善は霊的に主の肉によって意味せられ、これら両者は主の中に結合されているからである。主は聖言にて在すことは良く知られており、而して聖言の凡ゆる内容に関係している二つのもの、即ち神的な善と真理が在り、それ故、聖言が主を意味すると考えられるならば、神的な善と真理とは主の肉と血によって意味されることは明白である。主または聖言の神的な真理が血によって意味せられることは、血が契約の血と呼ばれている記事によって明白である。何故なら、契約は交わりを意味し、主との交わりは主の神的な真理によって生まれるからである。ゼカリア書には、「汝の契約の血のために我かの坑より被俘人(とらわれびと)を放ち出さん」(9・11)。モーゼの書には、モーゼは律法の書を民に告げた後、「その血の半をとりて民に灌ぎて言う、是すなはちエホバがこの諸々の言につき汝と結び給える契約の血なり」(出エジプト記24・3−8)。而してイエスは「酒杯を取りて、彼らに与えて言い給う、これは新しき契約の我が血なり」(マタイ26・27、28。マルコ14・24。ルカ22・20)。
新しき契約または約定の血は、新旧契約書または新旧約定書と呼ばれる聖言の神的真理を意味する。それ故、主はその弟子達に葡萄酒を与えて、「これは我が血なり」と語り給うた。何故なら葡萄酒は神的な真理を意味し、また葡萄の血(創世記49・11、申命記32・14)と呼ばれるからである。これは以下の主の言葉により更に明白である、「まことに誠に我は汝らに告ぐ、人の子の肉を食わず、その血を飲まずば、汝らに生命なし。そはわが肉は真の食物、わが血は真の飲物なればなり。我が肉をくらひ、我が血を飲む者は我に居り、我もまた彼に居る」(ヨハネ6・53−55、56)。聖言の神的真理がここに血によって意味されていることは極めて明らかである。何故なら、飲む者は自らの内に生命を持ち、主の中に住み、主は彼の中に住みたもうと言われているからである。この結合は、教会に知られているように、神的な真理とこれに従う生活とによって行われ、聖餐がそれを確実なものにするのである。
血は新旧の真の契約、約定である主のまたは聖言の神的真理を意味する故、それはイスラエル教会の―そこでは凡ゆる物は霊的なものの自然的な相応であった―最も聖い表象であった。例えば、イスラエル人は禍いが彼らに来るのを防ぐために、過越節の血を取り、これを家の一本の即柱と上の戸の柱に塗ることを命ぜられ(出エジプト記12・7、13、23)、燔祭の血は祭壇の基とアロンとその息子等と彼らの衣服との上にふりかけられねばならなかった(出エジプト記29・12、16、20、21、レビ記1・5、15、3・2、8、13、4・25、30、34、8・15、24、17・6、民数記18・17、申命記12・27)。またそれは櫃の被覆の上に、恵みの座の上に、香壇の角の上にふりかけられねばならなかった(レビ記4・6、7、17、18、16・12−15)。黙示録の子羊の血も同じ意義をもっている。「かれらは子羊の血に己が衣を洗ひて白くしたる者なり」(7・14)。「天に戦争おこれり、ミカエルおよびその使たち龍と戦いて子羊の血と、己が証の言によりて勝ちぬ」(12・7、11)。ミカエルとその御使等とは聖言の主の神的真理以外の何等かの手段によって龍に打勝ったと想像することは出来ない。何故なら、天界の天使達は血、または主の苦難を考えず、神的真理と主の復活を考えるからである。それ故、人が主の血を考える時、天使達は主の言の神的真理を認め、主の苦難を考える時、彼等は主の栄化とその復活とを認めるからである。このことを私は長い経験によって知ることを得たのである。
血は神的な真理を意味することは、ダビデの書の以下の語により更に明白である。「神は乏しき者の霊魂を救いたまい、彼らの血はみまえに貴かるべし。彼等は生くべし、神はシバの黄金を彼らに与え給はん」(詩篇72・13−16)。神の眼前に在って貴重な乏しい者の血とは彼らのもつ神的真理を意味し、シバの血とはそこから発する智恵である。エゼキエル書にも同様に、「イスラエルの山々の上なる大いなる犠牲に集い肉を食ひ、血を飲め。汝らは地の君達の血を飲め、酔うまで飲むべし。我は我が栄光を国々の民に示さん」(39・17−21)。これは主が諸々の国民の間に建設しようとし給うた教会を述べている。ここの血は彼らの持つ聖言から発する真理を意味することは今上述した。
真の基督教707
パンは肉に類似した意義を持つことは主の言によって明白である。「イエス、パンを取り、これを裂き、彼らに与えて言いたまふ、これは我が体なり」(マタイ26・26、マルコ14・22、ルカ22・19)。更に、「我が与ふるパンは我が肉なり、世の生命の為にこれを与へん」(ヨハネ6・51)更に彼は御自らは「生命のパンなり、このパンを食うものは永遠に活きん」と語り給う(ヨハネ6・48、51、58)。以下の記事にパンと呼ばれている捧げ物によって意味されるものもまたこのパンである。「祭司はこれを祭壇の上にやくべし、それは火をもて捧げられるパンなり」(レビ記3・11、16)。「アロンの息子等はその神に対して聖くあるべく、またその神の名を汚すべからず、彼らは火をもて捧げられるエホバの捧げ物とその神のパンを捧ぐればなり。汝かれを聖者とすべし、彼は汝の神のパンを捧ぐる者なればなり。アロンの歴代の子孫の中に身に疵ある者は進みよりてその神のパンを献ぐる事をすべからず」(レビ記21・6、8、17、21)。「イスラエルの子孫に命じてこれに言え、我が礼物、またわが憩いの香りのために、火をもて捧げらるる犠牲のためのパンを、汝らその期に及んで我に献ぐることを怠るべからず」(民数記28・2)。「不潔物にふるる者はその身を水にて洗うにあらざれば、聖物を食うべからず、その後聖物を食うべし、これそのパンなればなり」(レビ記22・6、7)。聖い物を食うことは、ここにもまたパンと呼ばれている犠牲の肉を食うことであった。マラキ書(1・7)も同様である。それと同一のことが小麦粉から作られ従ってパンと呼ばれた犠牲の糧の捧物により意味された(レビ記2・1−11、6・7−14、7・9−13等)。また同一のことが幕屋の机の上に置かれた供えのパンによって意味された(出エジプト記25・30、40・23、レビ記24・5−10)。パンは以下の語により明らかであるように、自然的なパンを意味せず、天界のパンを意味している「人はパンのみにて生る者にあらず、エホバの口より出づる言によりて生くる者なり」(申命記8・3)。「我飢饉をこの国におくらん、これはパンに乏しきに非ず、水に渇くに非ず、エホバの言を聴くことの飢饉なり」(アモス8・11)。更に、パンは一般に食物を意味している(レビ記24・5−9、出エジプト記25・30、40・23、民数記4・7、列王記上7・48)。それはまた霊的な食物を意味することは以下の語によって明白である、「朽つる糧のためならで、人の子は汝らに与えんとする永遠の生命にまで至る糧のために働け」(ヨハネ6・27)。
真の基督教708
葡萄酒は血に類似した意味をもっていることは主の御言によって極めて明らかである、イエスは杯を取って、「これは我が血なり」と語り給うた(マタイ26、マルコ14、ルカ22)。またそれは以下の語によって明らかである、「彼はその上衣を葡萄酒に、その衣服を葡萄の果の血に洗う」(創世記49・11)。これは主について語られたものである。「万軍のエホバもろもろの民のために肥たるものをもて宴をもうけ、濃き葡萄酒の酒宴なり」(イザヤ25・6)。これは主によって制定さるべき聖餐の秘蹟に言及している。同様にまた、「ああ、汝ら渇ける者ことごとく水に来れ、金なき者も来りて、買い求めて食え、来れ金なくして葡萄酒を買え」(イザヤ55・1)。彼等が天国にて新しく飲もうとする葡萄の果は(マタイ26・29、マルコ14・25、ルカ22・18)、新しい教会と新しい天界との真理を意味する。それ故、聖言の多くの箇所には教会は葡萄畠と言われ(イザヤ5・1、2、4、マタイ20・1−8)、主は自らを真の葡萄の樹と呼び、主に接木された者達を枝と呼び給うた(ヨハネ15・1−6)その他。
真の基督教709
凡てこのことから主の肉と血およびパンと葡萄酒は自然的意義、霊的意義、天的意義の三重の意義において何を意味しているか明らかであろう。凡て敬虔なる基督教徒は、自然的な滋養と霊的な滋養とがあって自然的な滋養は身体のために存在し、霊的な意義は霊魂のために存在することを知っている。何故なら、主エホバはモーセの書において「人はパンのみにて生くるにあらず、エホバの口より出づる言によりて生くる者なり」(申命記8・3)と語り給うからである。扨(さて)、身体は死し、霊魂は死後生くる、それ故、霊的な滋養は永遠の救いの為であることが推論される。この二種の滋養は混同されてはならない。もし何者かがこれを混同する時、主の肉と血、パンと葡萄酒に関する彼の観念は物質的、形体的、肉欲的となり、それはこの最も聖い聖餐に関する霊的な凡ゆる観念を窒息させるに相違ない。しかし眼で見る物を除いては、何物をも考えることが出来ない程に単純な人があるならば、私はその人に忠告したい、その人がパンと葡萄酒に与り、それが基督の身体と血であると呼ばれるのを聞く時、自分に向ってこれは礼拝の最も聖い行為であると語り、基督の受苦と人間の救いに対するその愛とを憶わねばならないと。何故ならかく主は語り給うから、「これを我が記念としてなせ」(ルカ22・19)。また「人の子は多くの人の贖いとしてその生命を与えんために来たれり」(マタイ20・28、マルコ10・45)。「我は我が生命を羊のために捨つ」(ヨハネ10・15、17、15・13)。
真の基督教710
これはまた比較によって説明することが出来よう。国に対する純粋な愛から国の敵と戦い、これを奴隷状態から救うために自らの生命を犠牲とする人間を憶えて、これを愛さない者がいようか。餓死しようとしている同胞に対する憐れみによって自らの金銀の全部を分ち与える人間を憶えてこれを愛さない者がいようか。更に純粋な愛と友情から己が只一匹の子羊を犠牲にして、これを客人の前に提供する者を憶えて、これを愛さない者がいようか、その他。
[V]「すべてこのことが理解される時、聖餐は教会と天界との凡ゆる物を全般的にまた個別的に含んでいることが理解され得るであろう。」
真の基督教711
前項に主御自身は聖餐の中に在し、肉とパンはその愛の神的善の方面の主であり、血と葡萄酒はその智恵の神的真理の方面の主であることが示された。かくして聖餐は三つの普遍的なもの、即ち、主とその神的善と神的真理とを含んでいる。かく聖餐はその内にこの三つのものを包含している故、それはまた天界と教会の普遍的な物を包含していることが推論される。丁度内容がこれを包含するものに依存するように凡て個別的な物は普遍的な物に依存する故、聖餐は天界と教会の凡ゆる個別的な物を包含していることが推論される。神的善と真理とは共に主から発し、共に主であり、主の肉と血によりまたパンと葡萄酒により意味されている故、聖餐は明らかに、全般的にまた個別的に、天界と教会の凡ゆる物を包含している。
真の基督教712
教会の三つの本質的なものは神、仁慈、信仰であり、教会の凡ゆるものはこの三つの普遍的なものに関わりを持つことは良く知られている。これは今述べた事柄と一致している。何故なら、聖餐における神は主であり、仁慈は神的善であり、信仰は神的真理であるから。仁慈とは人間が主によって行う善以外の何であろうか。また信仰とは人間が主によって信ずる真理以外の何であろうか。ここから内なる人には三つの本質的なもの、即ち霊魂または心と意志と理解とがある。この三つは上述の普遍的なものを受容する器である。即ち、霊魂または心は主を受容する器であり、主によって生き、意志は愛または善を受容する器であり、理解は智恵または真理を受容する器である。それ故、霊魂または心の凡ゆる物は天界と教会のその三つの普遍的なものに関係をもつのみでなく、それらのものから発している。何故なら、人間から発する凡ゆる物は心、意志、理解を含み、その三つの中の何か一つが取り去られると、人間は存在しなくなるからである。同様に、外なる人の中にも三つのもの(これに他の凡ての物が関わりを持ち、且つ依存している)、即ち身体、心臓、肺臓が在る。この三つはまた前の三つに相応している。即ち、身体は心または霊魂に、心臓は意志に、肺臓または呼吸は理解に相応している。こうした相応のあることは既に詳細に上述した。それ故、このように人間の凡ゆるものは全般的にまた個別的に天界と教会の三つの普遍的なものを受容する器となるように形作られている。これは人間は主の中に在り、主は人間の中に在し給うために神の像と似姿として創造された為である。
真の基督教713
他方、この普遍的なものに相反する三つのもの、即ち悪魔、悪、虚偽がある。悪魔は―これによって地獄が意味される―主に、悪は善に、虚偽は真理に正反対のものであり、この三つは一つのものを構成している、何故なら悪魔の在る所には悪と虚偽もまたあるからである。この三つのものもまた全般的に個別的に地獄と世の凡ゆるものを含み、これらは天界と教会に相反している。これらは相反したものである故、全く分離している。それにも拘らず、これらは天界に対する地獄の、善に対する悪の、真理に対する虚偽の驚嘆すべき従属によって連なっている。この従属は「天界と地獄」(536−544、554番)に説明されている。
真の基督教714
個別的なものがその秩序と関連性とを以て保持されるためには、その個別的なものが、それによって存在し、その中に生存する所の普遍的なものが存在しなくてはならない。而してその個別的なものはその普遍的なものに或る類似を持つことが必要である。そうでなければ、全体はその部分と共に滅びるであろう。宇宙の凡ゆる物が創造の最初の日から現今まで、その完全な状態に維持され、且つ将来も維持され続けるのはこの関係によるのである。宇宙における凡ゆる物は、神によって智恵の神的真理を手段として、愛の神的な善により創造された故に、善と真理とに関係を持っていることは知られている。例えば、諸君の欲する物を何なりと、動物を潅木を或は石を考えられよ。諸君はそれがその三つの普遍的なものの印を帯びていることを見出されるであろう。
真の基督教715
神的善と真理とは天界と教会の凡ゆる物の最も普遍的なものである故、主を表したメルキゼデクはアブラハムの許へパンと葡萄酒とを携えて来て彼を祝福した。メルキゼデクについては以下の如く記されている。「サレムの王メルキゼデク、パンと葡萄酒をアブラハムの許へ携え来れり。彼はいと高き神の祭司なりき。彼アブラハムを祝せり」(創世記14・18、19)。ダビデの書の以下の語により明白であるように、メルキゼデクは主を表したのである。「汝はメルキゼデクの状にひとしく永遠に祭司たり」(詩篇110・4)。これらの語は主に関係していることは、ヘブル書に見ることが出来よう(5・6、10、6・20、7・1、10、11、15、17、21)。メルキゼデクがパンと葡萄酒とを持ってきたのは、その二つは聖餐におけるごとく、天界の、教会の、また祝福の凡ゆる物を含んでいた為であった。
[W]聖餐において主は自らの贖いの全てをもって全的に臨在し給う。
真の基督教716
主御自身の言葉によって明白であるように、主はその栄化し給うた人間性と主の人間性が由って以て発した神性をもって聖餐の中に全的に臨在し給う。主の人間性は聖餐の中に臨在することは以下の語により明白である。「イエス パンを取り、これを裂き、弟子達に与えて言い給う、これは我が体なり、また酒杯を取り、これを彼等に与えて言い給う、これは我が血なり」(マタイ26・26−28、マルコ14・22−24、ルカ22・19、20)。更に、「我は生命のパンなり、人このパンを食はば永遠に活くべし。我が与ふるパンは我が肉なり。まことに、誠に、我汝らに告ぐ、わが肉を食い、我が血を飲む者は、永遠の生命を持ち、我に居り、我もまた彼に居る」(ヨハネ6・51、56)。ここから主はその栄化した人間性をもって聖餐の中に臨在し給うことが明白である。主はまたその本質的な神性をもって全的に臨在し給うことは、かれは天界より降ったパンであることによって明白である(ヨハネ6・51)。彼はその本質的な神性を以て天界から降り給うた。何故なら、以下の如く言われているからである。「言は神とともにあり、神は言なりき。万の物これによりて成りたり。言は肉体となり給えり」(1・1、3・14)。さらに、彼と父とは一つなり(10・30)、父の持ち給う凡ゆる物は彼のものなり(3・35、16・15)。彼は父の中に在し、父は彼の中に在し給う(14・10、11)等と語られている。更に、彼の神性は霊魂が身体から分離することが出来ないように彼の人間性から分離することは出来ない。それ故、主はその人間性をもって全的に聖餐の中に臨在し給うと語られる時、彼の本質的な神性もまた臨在することが推論される。さて、主の肉は主の愛の神的善を、主の血は主の智恵の神的真理を意味する故、主はその本質的な神性とその栄化した人間性をもって聖餐の中に臨在し給い、従ってこれは霊的な食物であることが明白である。
真の基督教717
主の贖いの全てもまた聖餐の中に在ることが推論される。何故なら、主が全的に臨在し給う所には主の贖いの全てもまた臨在するからである。何故なら彼はその人間性において贖罪者であり、従ってまた贖いであり、而して主が御自ら全的に臨在し給う所には、贖いの如何なる物も欠け得る筈はないからであるこれが聖餐に正当に列する者は凡て贖われる者となる理由である。而して贖いは地獄からの救い、主との交わり、救いを(それらに関しては本章の後を参照し、さらに詳細のことは贖いに関する章を参照されよ)意味する故、それらのものの益は聖餐に於いて人間により受け入れられる。実にそれは主によって欲せられる程度に受け入れられるのではなく―何故なら主の神的愛は制限を知らないから―人間の受容し得る程度に受け入れられるのである。かくて主の贖いの益は聖餐に正当に与る者達によって受けられることが明白である。
真の基督教718
健全な心を持っている各人の中には、主から智恵を受ける能力が在る。即ち、智恵を生み出だす諸真理を永遠に増大させる能力が在る。また愛を受ける能力、即ち、愛を生み出だす諸善を永遠に生み出す能力が在るのである。この善と愛、真理と智恵の不断の増加は天使達に、また天使と成る人間達に与えられている。而して主は愛そのもの、また智恵そのものにて在す故、人間は永遠に主との交わりに入ることが出来る。それにも拘らず、人間は有限である故、彼は主の神性に接触することは出来るが、これと連結することが出来ない。それは目と耳は光と音の波に接触するけれど、連結することの出来ないのと同様である。主のみがその人間性に於いてすら、生命そのものにて在し給う(ヨハネ5・26)。然し人間は単に生命の受容器官に過ぎず、彼は生命そのものと接触するけれど、これと連結することは出来ない。これらの考察は如何にして主はその贖いと共に全的に聖餐に臨在し給うかを理解する上に恐らく読者を助けるであろう。
[X]主は聖餐に正当に近づく者達に臨在し、これに天界を開き給う。かれはまたこれに不当に近づく者達にも臨在し給うが、彼等には天界を開き給わない。従って、洗礼は教会へ導き入れるように、聖餐は天界へ導き入れるのである。
真の基督教719
下記の二つの項目は聖餐に正当に近づく者は誰であるかを、またこれと対照して聖餐に不当に近づく者は誰であるかを説明するであろう。主は天界と地獄の中にまた世の中にそれ故善き者の許にも悪しき者の許にも臨在し給う故、正当な者の許にも、不当な者の許にも臨在し給うのである。然し彼は普遍的にまた個別的に善良な者または再生した者の許に臨在し給う。何故なら主は彼等の中に、彼等は主の中に在り、而して彼の在す所そこに天界が在るからである。天界はまた主の身体を構成する、それ故主の身体の中に在ることは天界の中に在ることである。
然し不当に近づく者等に於ける主の臨在は、普遍的であるが個別的ではない。換言すれば、それは外的であって内的ではない。主の普遍的、即ち外的な臨在は、人間に知り、理解し、理解によって合理的に語る能力を与えている。何故なら、人間は霊的であり、天界の為に生れ、それ故単に自然的な獣とは異なっているからである。彼はまたその理解によって合理的に考える物を凡て欲し且つ為すことが出来る。然し、意志が本質的には霊的であるこれらの合理的な概念を斥けるならば、その人間は外的なものとなる。
それ故、真理であり、善である物を単に理解するに過ぎない者達にあっては、主の臨在は普遍的である。然し、真理であり善であるものを求め、これを行う者にあっては、それは普遍的であり、個別的であり、内的であり、また外的である。真理と善を理解し、それについて語るに過ぎない者等は燈を持ってはいたが油を携えていなかった愚かな処女達に似ているが、それをまた求め、行う者達は、前の者が戸を叩きつつ立っていたが婚礼の式場へ入ることを許されなかったのに反し、これを許された賢明な処女達に似ている(マタイ25・1−12)。それ故、主は聖餐に正当に近づく者達に臨在し、天界を開き給い、不当に近づく者達には臨在し給うが、天界は開き給わないのである。
真の基督教720
主は不当に近づく者等に対して天界を閉じたもうと想像してはならない。これは何人に対してもその生涯の終に至るまで決して行い給わない。事実は人間が信仰を斥け悪しき生涯を送ることによって自ら天界を閉じるのである。それにも拘らず、彼は悔改と回心の可能性の中に維持されている。何故なら、主は絶えず凡ゆる人間の許に臨在し、「視よ、われ戸の外に立ちて叩く、人もし我が声を聞きて戸を開かば、我その内に入りて、彼と共に食し、彼もまた我とともに食せん」(黙示録3・20)と語り給いつつ受け入れられることを切に求め給うからである。それ故戸を開かないその責めは人間自身にある。然し、死後事情は異なる。その時天界は生涯の終わりまで不当に聖なる食卓に近づいた者等には閉ざされて、開かれることは出来ない。何故なら、その時彼らの内的な心は固定し、変更され得ないからである。
真の基督教721
洗礼は教会へ導き入れるものであることは上述した。而していまや、聖餐は天界へ導き入れるものであることは明白である。この二つの秘跡は永遠の生命に至る二つの門に似ている。洗礼は第一の門であり、凡ゆるキリスト教徒はこれを通して、教会が未来の生活に関し聖書から教えている物に導き入れられ、この教えは天界に至る準備として意図されているのである。他の門は聖餐であり、主の導きに従った凡ゆる者は天界へ入れられる。これらは唯一の普遍的な門である。
この二つの秘蹟は王位を継承する王子の教育と戴冠式とに譬えることが出来よう。彼は先ず政治の原理を教えられ、次いで王冠を授けられ、政治その物に入れられる。或は先ず財産の正しい管理を教えられ、後これを管理するところの莫大な資産の後継者を考えられよ。洗礼と聖餐はまた家を建て、その中に住むことに譬えることが出来よう、また人間が教育されて、遂に分別のある年頃に達し、その合理的な、霊的な生活に至ることに比較することが出来よう。他の時期が続く為には一つの時期が先行しなくてはならない。何故なら後者は前者に由らない限り、到達することは出来ないからである。それ故、洗礼と聖餐は人間がそこを通って永遠の生命へ導き入れられる二つの門に似ている。第一の門は平原に導き、人はこの上を通り過ぎなくてはならない。第二の門はゴールであり、そこに彼がこれを得ようとして努め励んだ賞品がある。何故なら棕櫚の葉は闘の後でなければ与えられず、賞品もまた勝利を得なければ与えられないからである。
[Y]主に対する信仰と隣人に対する仁慈をもつ者、即ち再生した者達は正当に聖餐に近づくものである。
真の基督教722
聖言を学ぶ基督教徒は凡て、神、仁慈、信仰は救いの普遍的な手段である為、教会の三つの普遍的なものであることを知っている。理性それ自身は、その中に霊的な何物かがあるならば、宗教と教会とが現実のものとなるためには神が承認されねばならぬことを認める。それ故聖餐に近づくが、神を承認しない者は何人であれ、これを汚辱する者である。何故なら、彼はパンと葡萄酒を見て、これを味わう時、これは単なる儀式以外の何物であろうか、これはいかなる点で私自身の食卓のパンと葡萄酒と異なっているのか、然し、私は教職者と人々から無神論者としての烙印を押される恐れがあるから、これに与るに過ぎないと考えるからである。
神を承認することに次いで、仁慈は人を聖餐に近づくに適しいものとする第二の物である。これは聖言および基督教世界に遍く聖餐の前に読まれる勧告によって明白である。
それは聖言によって明らかである。それは、第一の且つ大いなる誡命は神を凡ゆる物に優って愛し、隣人を己の如くに愛することであり(マタイ22・34−39、ルカ10・25−28)、而してパウロは救いには三つの物が益があり、「その中最も大なるは仁慈なり」(コリント前13・13)と述べているからである。更に「神は罪人に聞き給はねど、神を拝してその御意をおこなう人に聞き給うことを我らは知る」(ヨハネ9・31)而して「良き果を結ばぬ樹は凡て切られて火に投げ入れらる」(マタイ7・19、20、ルカ3・8、9)。
それはまたあらゆる基督教会に聖餐の前に読まれる勧告によって明白である。何故なら、その勧告の中に人々は和解と悔改めとによって互に仁慈の中に在るように熱心に警告されているからである。私は英国教会に読まれる勧告から以下の記事を引用するに止めよう。「聖餐に正当に与る者となる道と方法は、先ず汝の生活と会話を神の誡命の規定によって点検し、如何なるものであれ、汝が意志、言葉または行為によって罪を犯したと認めた点に於て、己が罪深きを嘆き、生活を改善しようとの全き決意を以て、全能なる神に自らを告白することである。而してもし汝の罪過は只に神に対してのみでなく、汝の隣人に対して為されたものであることを認めるならば、これと和解し、凡ての損害と非行とに対し、進んで力の及ぶ限り償い、弁償し、さらに汝が汝の罪咎が神の御手から赦されんことを願うように、汝に罪咎を犯した者等を進んで赦さなくてはならない。もし赦さないならば聖体を受けても只汝の堕地獄を増大するに過ぎないであろう、それ故、汝らの中何人かが神を冒涜する者、その聖言を妨害し、誹謗する者、姦淫を犯す者であるならば、或は悪意、或は嫉妬、或は他の重罪の中に在る者であるならば、その罪を悔改められよ、悔改めないならばこの聖い食卓に近づいてはならない、それはその聖い秘蹟に与った後、悪魔が嘗てユダに入ったように、汝に凡ての不正を満たし、汝を身体と霊魂の破滅へもたらさないためである」。
主に対する信仰は聖餐に正当に与る第三の方法である。それは仁慈と信仰は凡ゆる木の生命を更新する春の熱と光のように一を成しているからである。仁慈なる霊的な熱と、信仰の真理なる霊的な光は、凡ゆる人間の生命を更新する。以下の記事を参照されよ。「我を信ずる者は必ず死なじ、生くべし」(ヨハネ11・25、26)。「わが父の御意は、すべて子を信ずる者の永遠の生命を得る是なり」(6・39、40)。「神その独子を賜うほどに世を愛し給えり、すべて彼を信ずる者の亡びずして永遠の生命を得んためなり」(3・16)。「御子を信ずる者は永遠の生命を持ち、御子を信ぜぬ者は生命を見ず、返って神の怒りはその上に止まるなり」(3・36)。「我らは真の者に居り、その子イエス・キリストの中に居るなり。彼は真の神にして永遠の生命なり」(ヨハネ第一書5・20)。
真の基督教723
改良と再生に関する章に人間は主、仁慈、信仰の結合した働きによって再生し、再生しない限り天界に入ることは出来ないおとが示された。それ故、主は再生した者を除いて何人も天界を開き給うことは出来ず、また死後再生した者を除き何人も天界へ入ることを許されない。正当に聖餐に近づく者により、教会と天界の三つの本質的なものが内的な現実となっている者が意味される。何故ならそれ以外の他の者は唇を以て主を告白するが霊魂を以て告白せず、手を以て隣人に仁慈を行うが、心を以て行わないからである。このような者は主の言葉に従えば、凡て不法を行う者である。「その時、汝らは語り始めん、主よ、われらは御前にて飲食したり。然れど我は汝らに告げん、われ汝らが何処の者なるかを知らず、悪をなす者どもよ、我を離れ去れ」(ルカ13・26、27)。
真の基督教724
この主題もまた比較或は相応によって説明することが出来よう。例えば、位と身分の高い者のみが皇帝または王の食卓に就くことを許され、彼等ですらその許しの前には、適当な衣服を着、相当の装飾をつけて現れ、優渥な好意ある招待に応じなくてはならない。まして凡ての者が「主の主、王の王」(黙示録17・14)に在す主の食卓に招かれる場合、そのために何を等閑に附して良いであろうか。霊的に価値があり、尊い衣裳を着けている者のみが、食卓から立ち上がった後、天界の宮殿とその歓喜とに入れられるのである。そこに彼等は偉大なる王の子である為に君として尊ばれ、後日々アブラハム、イサク、ヤコブと共に席に就くのである(マタイ8・11)―アブラハム、イサク、ヤコブは主の神的天的なもの、神的霊的なもの、神的自然的なものを意味している―或は単に花婿と花嫁の親戚、縁故、友のみが招待されている地上の結婚を考えられよ。もしその場合誰か他の者がその会場へ入るにしても、実際入ることは許されはするが、食卓には座席が宛てられていないために、立ち去らざるを得ないであろう。このように花婿としての主と花嫁としての教会との結婚に招かれている者達はその共通の起原を再生によって主から得ている縁故、親類、友である。更に、人は自分に心から忠実であり自分と共に悦んで行動する者達を友として選び、これらを友と呼び、自分の持つ凡ゆる物をこれに委託するのである。
[Z]正当に聖餐に近づく者達は主の中に在り、主はまた彼等の中に在し給う、従って主との交わりは聖餐によって行われる。
真の基督教725
主に対する信仰を持ち、隣人に仁慈を行う者達は正当に聖餐に近づき、信仰の諸真理は主の臨在を生み、仁慈の諸善は信仰と合して、交わりを齎(もたら)すことは既に証示したところである。それ故、正当に聖餐に近づく者達は主との交わりの中に在り、彼等は主の中に在り、主は彼等の中に在し給うことが推論される。これを主自ら以下の語に教え給う「我が肉をくらい、我が血をのむ者は我が中に居り、我もまた彼に居る」(ヨハネ6・56)。「我に居れ、さらば我汝らに居らん。人もし我に居り、我また彼に居らば、多くの実を結ぶべし」(ヨハネ15・4、5及び黙示録3・20)。主との交わりに在ることは主の身体の中に在る者達の間に在る事であり、而して信じ主の意志を行う者達は主の身体を形成するのである。主の意志を行うことは信仰の諸々の真理に従って仁慈を行う事である。
真の基督教726
主は永遠の生命と救いに在す故、主との交わりなくして永遠の生命と救いに到達することは出来ない。主は永遠の生命にて在し給うことは聖言の多くの記事によって、特にヨハネ伝の以下の語、「イエス・キリストは真の神、永遠の生命なり」(第一書5・20)によって明白である。救いと永遠の生命は一つのものである故、主は救いであることも同様に明らかである。名前のイエスもまた救いを意味し、それ故、全基督教会に亘り主は救い主と呼ばれ給う。聖餐には主との内的な交わりの中に在る者達のみが正当に近づき、而して彼等は再生せる者である。彼らについては改良と再生に関わる章に述べておいた。
主を信ずると明言し、隣人に善を為す多くの者が在る。然し、彼等は隣人への愛と主に対する信仰とによって行動しない限り、再生していない。何故なら、彼等は隣人の為ではなく、世俗的なまたは利己的な理由の為に隣人に善を為すからである。彼等は唇を以て主を告白するものの、その心は遠く主から離れている為、その業は単に自然的なものに過ぎず、内的には霊的な凡ゆる物を欠いている。隣人への愛と信仰は主のみから来り、而してこの二つは人間が自由意志から隣人へ自然的に善を為し、諸真理を合理的に信じ、主を見上げる時、即ちこの三つの事をそれが聖言の中に命ぜられている故に為す時、人間に与えられる。その時主は彼の心に仁慈と信仰とを植えつけ、それらを霊的なものに為し給い、かくして主は人間との交わりに入り、人間は主との交わりに入るのである。何故なら相互的でない交わりは存在しないからである。然し、凡てこの事は仁慈、信仰、自由意志、再生に関する章に詳細に説明されている。
真の基督教727
友情は人がその友を或る世俗的な目的の為に食卓へ招く時、時には増大するが、客を霊的な目的の為に招く時は更に増大する。古代教会と原始基督教会とには仁慈の祝宴があった。これらの場合客は互に主の礼拝を確乎として持続することを励まし合った。イスラエルの子孫の間では、犠牲の肉を食うことはエホバ礼拝に於ける一致を意味し、その肉は犠牲の一部であった為、聖と呼ばれた(エレミア記11・15、ハガイ2・12等)。まして御自らを全世界の罪に対する犠牲として捧げ給うた主の晩餐の過越の肉、パンと葡萄酒は聖くないであろうか。
聖餐による主との交わりは一人の共通の祖先から生れている諸々の家族の繋がりによって説明することが出来よう。何故なら、彼の孫は凡てその始めの幹から或る物を取得しているからである。彼等はもちろん彼の肉と血を受けつぎはしないが、しかし彼から己が霊魂を同じような物を好む傾向と共に取得し、これが彼らの間の結合の絆となっている。その共通の起原は彼らの顔と習慣の中に認められることが出来、それ故彼等は一人の人間と呼ばれている(創世記29・14、37・27、サムエル記後5・1、19・12、13等)。
忠実なる者、祝福された者の凡ての父なる主との交わりも同様である。主との交わりは愛と信仰によって生じ、それ故、二人は一人の人間と呼ばれる。それ故、主は「我が肉を食い、我が血を飲む者は我に居り、我もまた彼に居る」と語り給うた。これはパンと葡萄酒によって行われるのではなく、それに相応するところの、主自らのものであり主のみから伝えられる愛の善と信仰の真理とによって行われるのである。凡ゆる交わりは愛によって行われ、而して愛は信頼無くしては愛ではない。パンは肉であり、葡萄酒は血であると信じ、それ以上に高く己が思いを高揚させることの出来ない者達はその信念に止まられよ。然しまたパンと葡萄酒の中には極めて聖なる主との交わりを生む物が在り、これは絶えず主のものであるけれど、人間自らのものとして人間に伝えられ、人間によって所有されることを信ぜられよ。
[[]「聖餐はこれに正当に近づく者達には、その人達は神の子であるということを証する署名、封印の如きものである」。
真の基督教728
これは、主は聖餐の中に臨在し、主によって生まれた者達即ち再生した者達を天界に導き入れ給う故である。聖餐がこの事を為すのは、主はその時、御自らの神的人間性をもって臨在し給う故である。何故なら、前に示された如く、主はその贖いと共に、全的に聖餐の中に臨在し給うからである。それ故主はパンについては「これは我が身体なり」、葡萄酒については「これは我が血なり」と語り給い、従って天界と教会から形成されている主の身体へ再生した者を入れ給うのである。
人間は再生しつつある時、主は実に臨在し、その神的な働きにより彼に天界へ至る備えをなさせ給う。然し、人間は入る為には自らを実際主の前に提供しなくてはならない。而して主は御自らを人間に提供したもう時、人間もまた主を十字架に懸かり給うた者としてではなく、その栄化せる人間性の中に在し給う者として受け入れなくてはならない。その身体は神的善であり、その血は神的真理であり、両者は人間に与えられており、これによって人間は再生し、主の中に在り、主は彼の中に在し給うのである。何故なら上述したように、聖餐は霊的な食物であるから。それ故、聖餐は正当にこれに近づく者達は神の子であることを証する署名、封印の如きものである。
真の基督教729
聖餐に与るに足る程成長しない中に他界する者は洗礼を通し主によって天界に入れられる。何故なら上述したように、洗礼は基督教会へ導き入れることであり、霊界の基督教徒とつらなる手段であるから。霊界では教会と天界とは同一の物である。それ故かの世界で教会へ入れられることはまた天界へ入れられることである。幼児または少児の頃他界した者達は主の特別の配慮の下に教育され、再生し、かくして主の子等となるのである、何故なら彼らは他の如何なる父をも知らないからである。
基督教会の外に生まれた嬰児と少児達は、主に対する信仰を受け入れた後、彼らの宗教を奉じている人々に宛てられている天界へ、洗礼以外の手段によって入れられ、基督教天界に在る者と混入しない。実に、凡ゆる国人は、もし、神を認め、正しく生活するならば、救われるのである。何故なら、凡ゆる人は霊的に生まれ、それ故贖いの益を受けることが出来、主は彼等凡てを贖い給うたからである。主を受ける者達、即ち、主に対する信仰をもち、悪を避ける者達は「神の子」「神より生まれし者」(ヨハネ1・12、13、11・52)と呼ばれ、また「御国の子」(マタイ13・38)「後継者」(マタイ19・29、25・34)と呼ばれている。主の弟子達はまた「子達」(ヨハネ13・33)と呼ばれ、凡ての天使もそのように呼ばれているのである(ヨブ1・6、2・1)。
真の基督教730
聖餐は最後に署名され封印された契約に似ている。主の血は契約であることを主は自ら教え給う、何故なら、主は杯を取りこれを弟子達に与え給うた時、「汝ら凡てこの杯より飲め、これは新しき契約の我が血なり」(マタイ26・27、28、マルコ14・24、ルカ21・20)と語り給うたからである。新しい約束は新契約である。それ故、主の来り給う前に予言者達によって書かれた聖言は旧約および旧契約と呼ばれ、その来り給うた後に後に福音書記者および使徒達によって書かれた聖言は新約および新契約と呼ばれている。聖言の神的真理は血および葡萄酒によって意味されていることは、前に見ることが出来よう(706、708番)。而して聖言は主が人間と結び給い、人間が主と結ぶ契約そのものである。何故なら、主は聖言として即ち、神的真理として降り給い、而して神的真理は主の血である故、基督教会を表象するイスラエル教会には、血は契約の血と呼ばれ(出エジプト記24・8、ゼカリア9・11)、主は民の契約と呼ばれ給うたからである(イザヤ42・6、49・8、エレミヤ記31・31、34、詩篇111・9)
この世では、契約が確実であり、拘束的なものとなるためには、これに署名しなくてはならないことが秩序にかなっている。署名のない任命、または遺言は何であろうか。法律上の決定はその判決が署名され批准されない限り何であろうか。王国の高位も保証無くしては何であろう。批准無くしては昇進も何であろう。売却証書無くしては家の所有は何であろう。賞品は与えられるという保証なくしてはその賞品目当ての競争は何であろう。これらの説明は聖餐は署名、封印、または他の法律の証拠の如きものであることを恐らく単純な人達にすらも納得させるであろう。それはそれに正当に近づく者達は神の子であるという、天使達の前に与えられた保証であり、彼等が永遠に住む天界の家を開く鍵であろう。
黙示録講解1054
例として主により制定された聖餐式に対し行なわれたことを考えられよ、彼らはパンとぶどう酒とを分離してしまって、パンを人々に与え、ぶどう酒を彼ら自身が飲むのである。なぜなら「パン」は主に対する愛の善を意味し、「ぶどう酒」は主における信仰の真理を意味し、真理から分離した善は善ではなく、善から分離した真理も真理ではないからである。なぜなら真理は善から真理であり、善は真理の中で善であるからである。
聖餐は、そのことによって教会が天界と連結し、かくて主と連結するために主により制定された。それでそれは礼拝の最も聖いものである。
新しいエルサレムの教義211
しかしいかようにして連結がそれによって行われるかは、聖言の内なるまたは霊的な意義を知らない者らによっては理解されない、なぜならかれらは文字の意義である外なる意義を超越して考えないからである。聖言の内なるまたは霊的な意義から、『身体』と『血』、『パン』と『ぶどう酒』の意義が、また『食うこと』の意義が知られるのである。
新しいエルサレムの教義212
霊的な意義では、主の『身体』または『肉』、『パン』は愛の善を意味し、主の『血』と『ぶどう酒』は信仰の善を意味し、『食べること』は己がものとすることと連結することを意味している。聖餐の礼典に赴く人間のもとにいる天使たちはその事柄をそれ以外の意味で理解していない、なぜなら彼らは凡ゆる物を霊的に認めるからである。ここから愛の聖さと信仰の聖さとはそのとき天使たちから人間のもとへ流れ入り、かくて天界を経て主から流れ入り、そこから連結が行なわれている。
新しいエルサレムの教義213
これらの事柄から、人間が身体であるパンに与るとき、主から発している主に対する愛の善によって主に連結し、血であるぶどう酒に与るとき、主から発している主に対する信仰の善により主に連結することが明白である。しかし、聖餐の礼典によって主と連結することは、主から発している主に対する愛と信仰との善にいる者たちのもとにのみ行われることを知らなくてはならない。これらの者のもとには聖餐による(主との)連結はあるが、他の者のもとには(主の)臨在はあるが、(主との)連結はない。
新しいエルサレムの教義214
他に、聖餐はイスラエル教会に制定された神礼拝の全部を含み包含している。なぜならその教会の礼拝を主として成立させたはん祭と生贄とは一言で『パン』と呼ばれたからであり、ここからまた聖餐はそれを完成させるものとなっている。
新しいエルサレムの教義222
(前略)霊的な人間でない者はこのことを悟らない、それでそうした者は、聖餐と聖言は主から発しているため、その中には聖いものが在ることのみは信じて―たとえその聖いものは何処にあるかは知らなくとも―そうした者自身の信仰に止まられよ。が、他方、内的な認識を与えられている者たちは、以下の記事で「肉」は肉を、「血」は血を意味しているか、否かを考察されよ、「黙示録」に―
私は一人の天使が陽の中に立っているのを見た、彼は大声で叫んで、天の真中を飛んでいる凡ての鳥に向かって言った、来て、大いなる神の晩餐に集まり、王たちの肉と数千の者の指揮者の肉と力ある者の肉と馬とそれに乗っている者との肉と、自由な者と奴隷、大きな者と小さな者の凡ての者の肉を食べよ(19・17,18)。
天界の秘義3735[2]
かくて人間が聖い状態の中にいてパンのことを考えると、たとえば聖餐のパンのことを、主の祈りの中の『日毎のパン』のことを考えると、その時その人間がパンに抱く思いは彼のもとにいる天使たちには主から発している愛の善について考えるための客観的な表象的なものとして役立っているのである。なぜなら天使たちは人間がパンについて考える思いを何一つ把握しないで、その代わりに善について考えるからである。なぜならそうしたものが相応であるからである。同様に人間が聖い状態の中にいて着物について考えるとき、天使たちは真理について考えるのであり、そのことは聖言の他の凡てのものにも言われるのである。このことは聖言によって天と地とが連結しているということの性質のいかようなものであるかを示している、すなわち、人間が恭々しく聖言を読んでいるときは、たとえその人間は聖言の文字の意義の中に在るもののみしか考えていないにしても、このような相応によって密接に天界に連結し、天界を通して主に連結しているのである。その時その人間のもとに在る聖いものは、天使たちが持っているような、天的な霊的な思考と情愛とが流入してくることから発しているのである。
天界の秘義3735[3]
このような流入が在り、その結果人間が主と連結するために、聖餐が主により定められたのであり、そのことに関連してパンとぶどう酒とは主であると明らかに言われているのである。なぜなら主の『身体』は主の神的な愛を意味し、また天的な天使たちが抱いているような人間における相互的な愛を意味し、『血』も同じく主の神的な愛を意味し、また人間における相互的な愛を意味しているが、しかし霊的な天使たちのそれのような愛を意味しているからである。このことから聖言の凡ゆる物の中には如何に多くの神的なものが存在しているかが明白である。たとえ人間はその何であるかを、またその性質の何であるかについては全く何ごとも知らないにしても、それでも世にあって善の生命の中にいた者たちは、死後凡てこれらのものを知りもし、認識もするのである。なぜならそのとき彼らは地的な世的な物を脱ぎ捨てて、天界のものを着け、同じように天使たちの観念のような霊的な天的な観念を得るからである。
聖餐について
霊界日記5842
私は聖餐についてキリスト教徒とまたバビロンの共同体の者らと話して、あなたらはキリストの身体と血とが物質的にその場に現れていることを信じている、と語ったが、聖餐に行く者たちはそのように現れていることは信じないで、ただ聖餐の聖さのみを考えている、と言った。彼らは、たれかが聖餐に行く際、それ以外のことを考えているか、否かとたずねて、殆どたれ一人そうしたことは考えていないことが確かめられた。また、そのことは主から発していて、それはあなたらがそうした考えの中にいないようにとのためであるとも言われ、同じく、このことから、天界からは、その相応に従って、聖いもの以外には何一つ流れ入ってはいないことを知ることが出来ようとも言われた。以下のこともまた言われた、すなわち、ルーテル派の者らも―その者らのもとでは、キリストの身体と血とはそのパンとぶどう酒の中に、そのパンとぶどう酒と共に、そのパンとぶどう酒の下に存在しているという教義が述べられているのであるが―聖餐に与る時は、そのことについて決して考えはしないで、ただ聖いものについてのみ考えるに過ぎないのである、と。
聖餐とそれに関連したルーテルとについて
霊界日記5909
法王の共同体またはキリスト教の人々から来ている者がたれか、聖餐に与った際、教義に従って、主の身体と血のことを考えたか、否かと詮索されたが、凡ての者は、自分らはそうしたものを考えはしないで、ただ自分らが受けている聖いものについてのみ考えていた、と告白したのである。法皇派もまた尋ねられたが、彼らも同じことを、すなわち、自分らは聖餐の礼典に与った際は、そうした物質的な考えはもたなかった、と言ったのである。
霊界日記5910
ルーテルもまた、そうしたときあなたは、その教義に従って、すなわち、主の身体と血とはそのパンとぶどう酒の中に、それと共に、またそれの下に在る、という教義に従って考えられたか、否かと尋ねられた。彼は自分は聖いもののことを考えはしたが、教義に従って考えはしなかった、と言った。さらに、彼は以下のように述べた、すなわち、自分は教義に従って考えようと願ったが、そのように心が駆り立てられる度毎に、心に苦痛を覚え、それで、その後はそのようには決して考えはしなかったのである、と。
神の摂理122
人間は悔い改めの業では主のみを見上げねばならないことに注意しなくてはならない。もし彼は父なる神のみを見上げるならば、清められることはできない。また彼は御子のために父を見上げるならば、或いはたんに人間としての御子を見上げるにすぎないなら、清められることはできない。なぜなら「新エルサレムの主の教義」に説明されているように、一人の神がおられ、その神は主であり、その神性と人間性とは一人格であるから。人はすべて悔い改めの業を始めつつある時は主のみを見上げるように、主は聖餐を定められたのであり、それにより悔い改める者たちの罪の許しが確認されているのである。聖餐によりそれが確認されているのは、聖餐または交わりにおいて、各人の視線は主のみに向けられるからである。
主、新しい教会へ招きたもう2
『真の基督教』に説かれている教義的なものはロマ カトリック教会の人々の教義的なものと、またプロテスタント派の人々の教義的なものと一致している、なぜならかれらはキリストにおける人格の結合を承認して、キリストに近づき、聖餐における二つの要素(**)にあずかっているからである。
**「二つの要素」とは聖さん式の『パンとぶどう酒』のこと。
スヴェーデンボリ出版刊/シグステッド著/『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』P338
1945年(1745?)6月2日、スヴェーデンボリはロンドンのスウェーデン教会の礼拝に出席し、いつも通り献金し、また6月24日の「バプテスマのヨハネの祭日」でもそうしている。われわれはここで、夢の中で彼に、教会に出席し、聖餐に与ることを中止してはならないという重大な忠告が与えられたことを記しておいてよいであろう。(『夢日記』237)
A.トマス・ア・ケンピス
キリストに倣いて4・1・2
主は、私がもし主と関係(かかわり)を有したいと思うなら、信頼をもって主に近づくように、またもし永遠の生命と光栄とを得たいと思うなら、朽ちぬ糧を受けるようにと命じておいでになります。
「わたしのもとに来い、すべて労苦して重荷を負う者よ、わたしはあなたがたを休ませよう。」(マタイ11・28)と主は言っておいでになります。
ああ聖人の耳に甘美で快いお言葉ではありませんか!ああ主よ、私の神よ、主は貧しく乏しい者を主のいとも聖なるお体の拝領にお招きになるのであります。
けれどもあえて主に近づく私は何者でしょうか?
ごらん下さい、諸天の天も主を容れることができません、しかも主は、「あなたがたはすべてわたしのもとに来い!」と仰せになるのであります。
キリストに倣いて4・1・9
多くの人々は、いろいろなところに駆けつけて、聖人方の遺物を見、その行ったことを聞いて驚嘆します。またその聖堂の壮大な建築を仰ぎ見、絹や黄金に包まれているその聖骨に接吻します。
しかも見よ、私の神、聖中の聖、人類の創造主、諸天使のあるじである主は、私のすぐそば、この祭壇の上においでになるのであります。
前述のような物を見るのは、しばしば好奇心や目新しさに駆られたためでありまして、過ちを改め善に進む効果は、それによってほとんど得られません、人々が自分の罪をほんとうに痛悔もせずあちらこちら走りまわるときなどは、わけてもそうであります。
けれどもここの祭壇の秘跡中には、私の神であり人であるキリスト・イエズスが、そっくりそのままおいでになるのでありまして、主をふさわしく、信心をもって拝領するたびに、永遠の救いの効果も、豊かにいただかれるのであります。
そしてこれに私達が引きつけられるのは、軽率(かるはずみ)や、好奇心(ものずき)や、五官の欲によるのではなくて、固い信仰、熱烈な希望、心からの愛によるのであります。
キリストに倣いて4・1・10
ああ神よ、世界の目に見えぬ創造主よ、主が私たちに対してなさることはいかに不可思議でしょう!主がお選みになった者、この秘跡をもってご自身を授けようとなさる者のために、万事をお計らいになることは、いかに甘美と恵みとに満ちているでしょう!
なんとなれば、これはまったく人間の悟り得ぬことであって、敬虔な人々の心を特別に引きつけ、その愛を燃え立たせるからであります。
なんとなれば、真に主に忠実で、自分を改めることにその全生涯を献げる者は、このもっともとうとい秘跡によって、熱心になり徳を愛するようになる大なる恩恵をしばしば受けるからであります。
キリストに倣いて4・1・11
ああ、この秘跡のおどろくべき玄妙な恩恵よ!それはただキリストに忠実な信者だけが知っているのであって、信仰のない者や罪の奴隷である者には体験することができません。
この秘跡によってこそ、霊的恩恵は与えられ、霊魂の失われた力は回復され、その罪に損なわれた美しさももどってくるのであります。
そしてこの恩恵の偉大なことは、授けられた敬虔が溢れて、心ばかりでなく、弱い肉体までも、非常に力づくのを覚えるほどであります。
キリストに倣いて4・1・12
しかし大いに嘆かわしく、残念千万なのは、私たちが生温く怠りがちで、救われるべき者の希望も功績もすべてキリストに基づいているのに、もっと深い愛情をもってそのキリストを拝領したいと思わないこと、これであります。
なんとなれば、主は私たちの成聖と贖いと(コリント前書1・30)であり、浮世の旅路における私たちの慰めであり、諸聖人の永遠の福楽であらせられるからであります。
ですから天を喜ばせ、全世界を保つ、この救いの奥義に、これほど注意しない人が多いということは、まこに嘆かわしい次第であります。
ああ悲しいかな、かように言葉に尽くせぬ賜物を考えもせず、毎日拝領しながらそれを重んじなくなる、人の心の盲目無情はどうでしょう。
キリストに倣いて4・2・5
驚くべきことであり、信ずべくしてとうてい人の悟り得ぬことであるのは、ああ私の主なる神よ、真の神で真の人にまします主が、パンと葡萄酒との見栄えのせぬ形色のうちに、まったくおこもりになって、拝領する者がこれを食しても、尽きないということであります。
万物のあるじなる主は、何も必要となさらぬのに、わざわざこの秘跡によって私たちの中に住まおうとなさるのであります。
キリストに倣いて4・3・1−2
私の魂は主のお聖体(からだ)をしきりに望み、私の心は主と一致することをねがっております。
なにとぞご自身を私にお授け下さい、そうすればそれで十分でございます。なんとなれば主なしには、いかなる慰めも役に立たないからであります。
主なしには、私は存在することができず、主のお来訪(いで)がなければ、私は生きて行くことができません。
それゆえ、私はたびたび主のみもとに来て、主を拝領し、私の救いの妙薬としなければならないのであります。この天上の糧がなければ、おそらくは、道で倒れるでしょうから。
なんとなれば、ああいとも慈悲深きイエズスよ、主はかつて群集に説教し、さまざまの病気を治しておいでになったとき、「わたしはかれらを空腹のまま去らせたくない、おそらくは道でたおれるであろう。」(マタイ15・32)と仰せられたからであります。
なにとぞ私に対してもいま同様にしてください、主は主を信ずる者を慰めるため、この秘跡のうちにご自身を残しておかれたからであります。
と言うのは、主は魂のいとも甘美な食物であらせられ、ふさわしく主を食する者は永遠の光栄にあずかり、これを相続する者となるからであります。
キリストに倣いて4・3・3
「それは人の心が幼いときから悪にかたむいていて、」(創世記8・21)主のとうとい霊薬の助けがなければ、人はすぐ悪におちいるからであります。
ですから聖体拝領は、人を引き留めて悪におちいらせず、これを強めて善を行わせるのであります。
キリストに倣いて4・3・3
なんとなれば、忠実な霊魂にとって、主を離れてこの死すべき肉体のうちに留まっている間の主要(おも)な慰めは、しばしばその神を偲び、そのお愛しするおかたを、敬虔な心で拝領することだからです。
キリストに倣いて4・3・4
ああ主なる神よ、すべての霊を創造(つく)りこれを生かしたもうあなたが、もったいなくも哀れな霊のもとに来たまい、あなたの神性も人性もすべてをあげてその飢えを満たして下さるとは、ああ、あなたの私たちを顧みたもうおん慈しみのほどはなんとおどろくべきでしょう!
ああ、神であらせられる主を敬虔に拝領することができ、かつ主を拝領して霊的喜びに満たされることができるのは、なんという幸福な心、なんというしあわせな霊魂でしょう!
ああ、その主君としてご歓待するのはなんという偉大な方でしょう。賓客としてわが家にご案内するのはなんという愛すべき方でしょう、同僚(なかま)としてお迎えするのはなんという温厚な方でしょう、友として容(ゆる)すのはなんという忠実な方でしょう、配偶者(つれあい)として抱擁するのはなんという美しい、なんという上品な方でしょう!その方こそは、すべてに優って愛すべく、すべてに越えて慕うべきおかたなのであります。
キリストに倣いて4・4・2
このもっとも高くもっともすぐれた秘跡は、霊魂を救うもので、あらゆる霊的病気の妙薬であり、これによって私の悪は治され、私の情欲は抑えられ、誘惑は打ち勝たれまたは減じられ、いっそう大なる恩恵が注がれ、芽生えた善徳は成長し、信仰は固められ希望は強められ、愛は燃やされ広くされるのであります。
キリストに倣いて4・4・3
ああ私の神、私の魂の擁護者、人間の弱さを補い、あらゆる内的慰安をお与えになるおかたよ、主は敬虔に聖体を拝領する主のお愛しになる者に、この秘跡で多くのおん恵みをお与えくださいましたし、またいまもなおしばしばお与えくださいます。
なんとなれば主は種々の艱難に際してかれらに多くの慰めを注ぎ、失望落胆の底からこれを引き上げて主のご加護を希望させ、新たに恩恵をたれて内的にこれを力づけ照らし、聖体拝領前心配してなんの愛情も感じなかった者でも、この天上の食べ物飲み物に元気づけられたのちは、自分がよいほうに変わったと気づくようにしてくださるからであります。
主がお選みになった者に対して、かようになさるのは、かれらに自分だけではその弱さがどれほどひどいか、主のおん恵みご恩恵から得るところがいかに多いかを、真に認めさせ、明らかに体験させてくださるためなのであります。
なんとなればかれらは、自分独りだけでは、冷淡でなんの感情もわかず、不信心でありますが、主によって熱心に、快活に、信心深くされるからであります。
じつに、だれか謙遜に甘露の泉に近づいて、それから少しは甘露を得て帰らない者がありましょうか?
まただれか烈しい火のそばに立って、それから少しは熱を受けない者がありましょうか?
そして主はいつも満ちあふれる泉であり、常に燃え決しておとろえることのない火でおいでになるのであります。
キリストに倣いて4・5・1
偉大なるかな、この秘跡。また偉大なるかな、司祭の位。司祭には諸天使にさえ許されていないものが与えられているのである。
なんとなれば、教会で正式に叙階された司祭たちだけ、ミサを行い、キリストのおんからだを聖別する権を有しているからである。
キリストに倣いて4・5・2
自分に注意し、司教の按手によってどういう職務があなたに授けられたかを、よくよく考えて見よ。
見よ、あなたが司祭とされ、聖別されたのは、ミサを行うためである。だから犠牲(いけにえ)をささげるべきときには忠実敬虔にこれを神にささげ、そのふるまいにいささかも非難の余地のないよう心がけるがよい。
B.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/あなたは預言を無視しますか/P149
私たちにふりかかる懲罰は、私たちが呼び寄せたものです。神は懲罰をお好みにはなりません。私たちが、神の義を挑発しているのです。神は愛と慈悲の神であると同時に、義の神でもあることを忘れるべきではありません。時の終りは、世界の終末を意味しているわけではありません。そうではなくて、私たちを誘惑する自由がサタンに与えられている時代の終りのことです。この時の終りの時代に、イエスは聖書のダニエルの預言書の封印を解いて、明らかになさいます。というのも、それは現在起きていることだからです。そればかりか、黙示録のいくつかの章の封印もお切りになりました。ダニエルとエゼキエルの預言書と黙示録には一致する点があります。ダニエルの預言書の獣―敵である獣―は、黙示録の13章にも見られますが、現在ではイエス・キリストの教会を破壊し、とりわけ聖体拝領を廃止して、イエスは単なる預言者、賢人にしようともくろんでいる棄教者と反逆者を意味しているといえそうです。イエスはいつか私に、地上での御自分の王国は教会であり、聖体拝領は教会の生命だとおっしゃいました。イエスが三位一体の第二のペルソナであることをもはや認めないことで、これらの棄教者たちは、イエスの神性を迫害しています。彼らはイエスが神の御独り子だということ、神御自身であることを否定し、イエスの復活を否定して、それは単なる象徴的なものにすぎないと見なしています。イエスは私たちに、時の終りの時代である今、反逆は始まっているが密かに行われていて、それを制止する者は、反逆が公然と明らかになる前には、身を引いているべきだとおっしゃっています。反逆を制止する者とは、教皇のことだそうです。イエスは私たちに、毅然として、教えられてきた伝承を守るようにおっしゃってます。
ヴァッスーラ/あなたは預言を無視しますか/P169
ヴァッスーラ:イエスはメッセージの中で、教皇をご自分の教会の代理人とお呼びになっています。私はカトリックのサークルに呼びかけをする時は、主のメッセージをそのまま伝えます。イエスはカトリック信者に、教皇に盲目的に従いなさいとおっしゃっています。なぜ教皇に従わなければならないかというと、不服従は神からのものではなく、サタンから出たものだからです。ギリシャ正教徒の私が、このようなことを申し上げるものですから、びっくりなさり、なぜカトリックに改宗していないのかと尋ねにくる方もいらっしゃいます。この方々は教皇の回勅がギリシャ正教徒に対して、カトリック教徒になれなどとはまったく求めていないことに耳を傾けもしないし、それを読んだこともないのですね。教皇は東方正教の諸教会を姉妹の教会と呼んでおられます。「来て私たちと一緒になりましょう。体は一つの肺だけでは呼吸できません。二つの肺が必要なのですから」。
ネランク:それはヨハネ・パウロ2世が好んで用いる表現ですね。
ヴァッスーラ:ですから私は「教皇のおっしゃることに従いなさい」と申し上げています。私はといえば、教皇と、教会一致運動を信奉する東方正教会の総主教バルトロマイ1世がおっしゃったことに従います。イエスも、教皇と同じ言い方をなさっています。「一つの体に属する二本の手は、祈りの時のように、結ばれなければならない」。体は、二本の手で仕事をします。一方の手をないがしろにして、片手だけで働くことはできません。
ネランク:ということは、キリスト教会が統合されても、東方正教会、イギリス国教会、ルター派教会というカトリックに最も近い教会が、ローマに従属するような統合ではない。各教会は、個々の組織と典礼を保持しながらも、ローマに結ばれることになるのですね。
ヴァッスーラ:私はローマ・カトリック教会の姉妹である、東方正教会の代りにお答えすることはできます。それ以外の教会は、神聖な秘跡を執行していないからです。イエスはメッセージの中で、聖体拝領の秘跡は、教会の生命の礎だという事実に立ちもどっておられます。イエスは、教会が精彩を欠いているのは、多くの教会が永続的なミサ聖祭の典礼を廃止したからだとおっしゃっています。イエスは、まず「心の一致です」とおっしゃいます。それは一致のための外部での運動というより、むしろ内面の動きです。イエスがおっしゃりたいのは「回心において、あなたがたは一致するだろう。回心においてあなたがたは一つとなって栄えるだろう」ということです。それは機構の変化よりも、心の内面の本質的な変化です。キリスト教徒が自らの行いを悔い改めもせず、イエスを愛することもしないかぎり、全教会の一致は不可能です。最近ルンドベルク牧師からストックホルムに招かれ、聖カタリナ教会を訪れました。この方の言葉がとても印象に残っています。「私たちは聖母マリアの位置を過小評価し過ぎたという、重大な過ちを冒しました。聖母ははかり知れないほど大きな役を果たしてこられたことに、私たちは今気が付いたところです」と。ルンドベルク牧師の教会に入ると、私が講演する場所の前には、聖母マリアの像が置かれていました。教会にはルター派とカトリックの信者が大勢いらしていました。私は神からのメッセージを伝えました。証言を終えると、牧師はとても感動してくださり、皆さんの前で贈り物をしてくださいました。それは幼子イエスを抱く聖母マリアの像でした。本当に感動いたしました。そして、聖母マリアの聖像の問題にはきわめて厳格な態度をとってきたルター派の人たちが、なぜこれほど変化したのか質問してみました。集会にいらした信者の一人が、変化は信者の中から生まれたものだと答えてくださいました。強い欠乏感があり、一致を望んでいるのです。皆さんが『神のうちの真のいのち』のメッセージを通して希望を見いだしているのです。
ネランク:スイスでは、プロテスタントの信者もあなたの集会に参加していますか?
ヴァッスーラ:もちろんです。聖体拝領の中にイエスが現存されていることを信じて、カトリックやギリシャ正教の教会で聖体拝領をするプロテスタントの信者もいます。カトリック司祭に告解しているプロテスタントの信者もいますよ。
ネランク:私も、何人かの司祭から同じような話を聞きました。そうなりますと、こんな疑問も当然わきます。さまざまな宗派の信者たちが、それほどまでに教会の一致を渇望し、かつて存在した対立を一切忘れているとしたら、最後の障害はいったいどこにあるのでしょうか?
ヴァッスーラ:一般信徒は、教会の統一に障害があるとはまったく感じてはいません。イエスは私に三本の鉄棒の幻視を見せてくださいました。一致するためには、三本の棒の頭がたわまなければなりません。イエスは確かに頭の話をなさいました。鉄棒の頭たちは、たわむことを学ばなければなりません。
ネランク:その点でヴァッスーラさんのお話は、とても明白ですね。けれども、あなたが神から受けた幻視やメッセージによれば、東方正教会とプロテスタント教会は、カトリックという共通の一本の幹に戻るという印象を受けます。あなたが思い描いていらっしゃるのは、そうした状況ですか?
ヴァッスーラ:二本の棒が、あとの一本に屈服するという意味ではありません。むしろ三本が同じ方向へたわむということです。たわむというのは、謙虚な心で、愛のうちに一致するという意味です。神は私に、キリスト教徒の一致のために働いている人々は、柔軟性に欠け、鉄の棒のように固いとおっしゃっています。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P191
‘87・5・18
イエスにお頼まれしたので、御聖体をいただきに六時半のミサに出ました。そのさ中、イエスは私に話しかけ始められました。御聖体をいただくと、それは口の中で鞭打たれた時にはぎとられた肉片のように感じられたのです。昨日の感じと、今日のでは、何て違う感じがするのでしょう。不思議です! イエスは私にそれぞれ違う印象を与えておられるようでした。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P54
‘88・10・16
ロ−ザンヌにある聖公会の教会を訪問しました、ここで聖体拝領を受けるのが大好きだからです。全員が前に出て行って跪きます。司祭はまず御聖体を持って来られ、それから御血の杯を持って来られます、それを私たちは交代で飲みます。このやり方はイエスが御聖体を私たちに受けてほしいと望まれるやり方と全く同じで、完全だと思うのです。 ― けれどマリアさまを讃えないので、そこの誰にも分からない間に、「めでたし」をマリアさまに唱えます。あの教会でなされる、きっと初めての「めでたし」でしょう。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P4
‘89・9・29
あなたを拒むことは決してない ♡ 私を受けに来るたびに、我が聖心は歓びで跳ね上がる、小さな白いホスチアのうちに 自分を非常に小さくしたのです。 私を拝領するなら 私を受け入れ、このような仕方で私を受け入れるなら、真理を認めたことになる、そして私とあなたは一致し、親しく交わるのです、あなたの神 私とともに過ごす以上に悦ばしいことがあろうか? これ以上清い聖なる出逢いがあろうか? 私、あなたの神と、あなた、我が被造物とが出逢い ♡ 私、あなたの贖い主と あなた 贖われた者とが出逢う、私、イエスは、あなたを気も狂わんばかりに愛している、あなた方の誰が私の愛を疑い、この清い聖なる愛を冒涜できようか? ホスチアの我が現存をどうしてそれほど多くの者たちが疑うのか? 我が聖体は不注意に落とされたり あたかも聖でないかのように扱われるべきではない、あなた方に何を差し出し 自らのうちに迎え入れている者が誰であるかを十分理解さえしたなら、絶え間なく私を祝福しているであろうに、見なさい! 上から眺める天使たちさえもあなたに許されているこの食物を望むが、許されていない、それでいてあなた方の多くはこのすべてを十分把握していないように見える・・・私は一つ一つの聖櫃の陰であなたが訪れるのを待ちわびる愛の虜です。 いまだにこの荒野をさ迷うすべての者たちよ 近づきなさい、清く汚れない私のもとにやって来なさい、あなたを歓べるようにさせなさい、そこで悔い改め、罪を認めてさらに私を喜ばせなさい、「告解する必要があるだろうか? 聴罪師に話すことは何もない」とは言わないように、罪に対する感覚を失った者たちの一人になってはならない。 あなたは完徳からほど遠い、だがあなた方のある者は汚点がなく完徳に達したかのように振舞っている。 謙遜でありなさい、謙遜でありなさい、あなたの罪は真摯な心で祈り 見つける助けを願うなら それを容易に見い出せよう。 我が掟を守り金言に従う人びとは幸い、私の秘跡を尊びなさい。 全き信仰のうちに訪れ 私を食し 飲むすべての人は幸い ♡ 私は聖なる者 そこで霊魂を生き生きとさせる恵みを この限りなく聖なる瞬間に注げるよう私を聖なる者として扱いなさい、あなた方に富を隠してはおかない、最も小さな者たちにも自由を与える。来なさい 共にいることをどれほど望んでいることか そこで早口にせっかちな祈りをしないように。 信心を侮ってはならない、私の戒めについて反省し 黙想しなさい、姿は見えなくとも、言っておくが 私はあなた方一人ひとりに手を置いて、我が息吹をとどめながら、皆を祝福している。 一つであるように ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P151
‘90・5・12
イエス?
私です、あなたに平和、ヴァッスーラ、明日我が教会であなたの足音を聞かせてほしい。 首を長くして待っている。 ・・・あなたと一致するこのひと時のために 私ほどにあなたも待ち遠しいか? ヴァッスーラ、・・・(*)書くに任せなさい、愛している。
* イエスが、「愛している」と仰しゃいましたが、お書きになるのを止めたのです。
まだ答えをもらっていないが、どうか?
はい、主よ、ギリシャ教会に参ります。けれど言葉の問題がいつもあるのです。司祭の仰しゃることに殆どついていけません。
しかし私がそこにいて 心のうちで話すのを聴いている。 話しかけるように ・・・ さあ、これを聴きなさい: 会うのをたのしみに待っている友達を 訪ねて行くとする、友人に会った時、遠くに立ったままでいるだろうか? それとも近づいて 温かくキスして挨拶するだろうか? 次に、ともに腰掛けて話すであろう? それとも座ったまま黙っているだろうか? もちろん話すに決まっている! 我が家を訪ねて来る時は 私にもこうしてほしい。 会うたびに 心はずませているのを感じたい、心をもって話すのを聞かせてほしい、あなたの神、私に話すとは祈ることです。 そうするならあなたの口もとに 耳はぴったりと引き寄せられ 一言一言を蜜の雫のように 受け取るであろう。 娘よ、さて次は私にとって偉大な瞬間が訪れる、非常に待ち焦がれている瞬間でもある、ゴルゴタで私自身をあなたに与えてた瞬間です、私が生けにえとなる聖なる時、あなたが贖われ、あなたと一致する聖なる時です。 私を食べ 私を飲むように二人を待っている(*)。 祝福を与える 我が子よ。 こうした愛のひと時、聖体拝領のひと時を拒まないでほしい ♡
* ロシア人の友達と私。
わが主よ、主を讃えます、神に栄光、主は祝福されますように!
あなたに平和 小さな者よ、私を喜ばせ 識別しなさい。 ともに過ごすこのひと時は私にとって悦びの瞬間です、渇いた土が喜び迎える雨のように。 あなたの声を聞くのがたのしい。・・・(*)
* しばらくイエスは沈黙しておられましたが、この時こうお尋ねになりました、「書きたいか?」 私は、はいと、お答えしました。
与えたものを取って読みなさい。 ・・・言いなさい、このすべての試練があっても幸せか?
はい!
花よ、花びらの一枚がちぎれたなら 必ず別の花びらが取って代るようにする。 我が光で茎を強くする、あなたをいかに護り、ていねいに扱っているかが分かったなら ・・・疲れている時は依りかかりなさい 憩わせよう ♡ 来なさい
神のうちの真のいのちX・][
御聖体が教会のいのちとなっていたがゆえ。 今日の教会に光彩がないとすれば、我が教会の多くが永遠の生けにえを廃止したからです。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P256
‘91・11・14
私の地上の王国は我が教会 そして御聖体は 私自身が与えたもの、その教会のいのち。
神のうちの真のいのち\・LZ
この聖体拝領によって私を受けるすべての人を聖化し、神とさせ 我が肉の肉、骨の骨とならせよう。私を拝領するなら、私は神聖なゆえ、あなたと私は、霊的に一致し、一つの体となる。私たちは血縁となる、私は我が特性にあなたを与らせて神々とさせられるがゆえ。我が神性を通して 私は人間を神性なものとする・・・(‘00・10・16イエスが話されて)。
神のうちの真のいのち\・XL
宗教改革の教会との関係はどうかといえば、物事はもう少し複雑です。TLIGを読んだ多くのプロテスタントの家庭で育った人びとは、彼らの自由な選択によってカトリックに改宗しましたが、御聖体に関する問題におもに原因があります。イエスは彼らの秘跡の正当性についてメッセージの中で述べていませんが、主はプロテスタントがイエスの御母を愛し、ペトロの役割を認めるように今再び促しておられます。
ヴァッスーラ、教会を一致させる時が来た。再び一つとなりなさい 愛する者たちよ、このいにしえの廃墟を立て直しに来なさい、私自身の手で打ち立てた土台 古い基を立て直しなさい。我が母を尊ぶように、みことばである私が 誰にもまして尊んでいるように。そうならば 塵と灰であるあなたが御母を 天の元后として認め、尊ぶのを私が望まないだろうか? 被造物が御母の大切さを殆ど知らないのを見て 今日私は深く悲しんでいる。 ルーテルの名のもとにある人びと そして全く自分を切り離してしまった人びとは、ペトロのもとに戻りなさい(87.12.22前掲UP79)。
他のメッセージの中で、御聖体の神秘の偉大さと、その中におられるキリストの神聖の現存を見極めることの出来ないそれらのキリスト教徒をキリストは叱責しておられます。
・・・そこで我が神秘を受け入れない聖職者たちにはこう言う:「正気を取り戻し私を真剣に探し求めなさい。一方では我が母に対する敵意も克服するように。どの民も 私の肉と血は御母に由来すると知ってほしい。そう、私のからだはまこと聖なる乙女、純粋な血に由来する。母の名は祝されるように! 私を受けにくる地上すべての貧しい者たちを救い 不滅のいのちを与えようと私はパンになり私自身を与えた。そしてこの聖体拝領を通して 私を受けるすべての者たちを聖化し、神性となり 我が肉の肉、骨の骨とさせる。(・・・)
今日の私は人に裁かれている。あなた方を覆い、荘厳に飾って、変容を遂げさせ、神となし得る衣装(*)は、我が神秘を把握できない諸教会に拒まれている・・・今日もまた天から私は叫ぶ:「兄弟たちよ、どうして我が神性を見くびるのか? 自分たちこそ何が正しいかを知っていると言うなら、どうしてその霊は 我が教会を略奪するのか?(・・・)私が真に制定した仕方でミサ聖祭をたて 神聖な神秘に与れるよう 私はあなた方を招いている(・・・)彼らは私の力を認め、その畏るべき権威を宣言し、私に賛美をうたい、我が全能と力ある不思議を承認する、だが聖体のうちなる私の神性と現存の荘厳を測るとなるや 私は躓きの石となってしまう(00.10.16にイエスが話されます)。
*キリストを表す象徴的なよび名。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち・\巻P116
主:地上にまだいる間は、私のうちにとどまって私との一致を完成させ 聖体拝領を少しでも多くたび重ね、私への愛を何倍にも増し加え、私に自らを明け渡すように。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P132
‘00・10・16
輝かしい王、あらゆる荘厳にまさる荘厳、至高者すべての上に立つ至高者である 私が、聖体の形をした、天のパン、生けるマンナを 今度こそは食べるようにと 恵みのうちに呼びかける。 そこで 我が神秘をいまだ受け入れていない教会の 司牧者には言っておく、「正気に立ち帰り 真剣に私を探し求めなさい、私の母に対する敵意も、同時に、克服しなさい。 どの人種も 私の肉と血は 母にいただいたものだと知るように。 そう、私の体は まこと聖なる乙女、清らかな血に 由来する。 母のみ名は 賛美されるように!
私を拝領しに来る 地上すべての謙虚な人びとを救い 不滅のいのちを与えようと 自らを与えるために私はパンとなった。 そしてこの聖体拝領を通して 私を受けるすべての者たちを聖化し、私の肉からの肉、骨からの骨となるように 神性を授ける。 神なる私を、拝領するなら、あなたと私は一つの体となり、霊的に一致する。 私たちは血縁となろう、私に与らせ あなた方を神々に変えることが出来るゆえ。 我が神性を通して 私は人間を神にする・・・・
聞いたであろう、「あなた方は神々、みな、いと高き者の子(*1)」と。 今の私は人に裁かれている。 あなたを覆い、荘厳に装わせ、変貌をもたらし、あなた方を神にすることが出来る長衣(*2)は、我が神秘を理解できない教会に 拒まれている・・・・
今日もふたたび 天より叫ぶ、「兄弟たちよ、なぜ 私の神性を見くびるのか? 何が正しいかを知っているのは 自分たちだと主張するなら、ではどうしてあなたの霊は 我が教会を荒らしているのか? 私と共に君臨するようにと あなたを招いている、共に治めるようにと 招いている、私とミサ聖祭を挙げ 真に制定された通りのやり方で 神性な神秘に与るようにと あなた方を招いている。」
* 1詩編82・6
* 2キリストを表す 象徴的な名。
この方がたが 聴こうとされなかったら?
尊大な者たちは これからも際限なく 私を嘲る、だがそれは 私の光から逸れてしまったため。 私は 我が聖体のうちに現存する、しかし霊的な目で私の神性を見ないなら、その人たちは、何を話そうと把握しない、うたた寝する人のようでいつづける。「なんて言われましたか? 私に話しかけていたのですか? え?」と尋ねよう。
これらの教会は 私を栄えある王として宣言する、我が力を肯定し、我が畏るべき権威を宣言して、讃美の歌をうたい、我が全能と力ある不思議を公けに認める、しかし聖体のうちなる 我が神性と現存が いかに荘厳なものかという話になるや 私は躓きの石と化す ♡
今日 造り主に拒まれた躓きの石とはこれであって それが礎の石だとは 彼らは気づかない。
C.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ/1973.11.1
幼子のように、私に導かれるがままにならなければなりません。もっと祈るようになり、イエズスをなおいっそう愛し、ご聖体の秘跡のうちにいらっしゃるイエズスを、もっとうやうやしく礼拝するようにならなければなりません。ご聖体が、彼らの全人生を照らす太陽となるようにと私は望んでいます。ご聖体の秘跡のうちに在すイエズスは、私に身を捧げた信者たちに、どれほどの喜びと、どれほど大きい愛の賜を与えてくださることでしょう!
毎日、ロザリオを唱えること。それは私への大いなるたちかえりを早めるからです。
聖母から司祭へ/1984.7.5
こんにちでは、いけにえとしてのミサ聖祭の価値をもっとはっきり目立たせる必要があります。この聖祭によって、イエズスは、カルヴァリオの山の上で行われたいけにえを血を流さない方法でしかも真実に新たにされるのです。
聖母から司祭へ/1993年11月21日
キリストの光栄ある王国は、イエズスのご聖体の王国の勝利とともに実現するでしょう。
なぜなら、清められ、聖なるものとされ、愛によって完全に新たにされた世界において、イエズスは、特に、ご聖体におけるご自分の現存の神秘をもって、御自らをお現しになるからです。
ご聖体は、そのあらゆる神的力が発揮され、新たな光となって、人々の心と霊魂、そして個人に家庭に、また諸民族の生活にも、その輝かしい光線を反射させ、こうしてすべての人を、従順で柔和な唯一の羊檻(おり)の群れとなし、イエズスは、その唯一の牧者となられるでしょう。
おいでになる主を迎える準備をさせるために、こん日、世界各地からあなたたちを集めている天の母は、この新しい天と地にあなたたちを導きます。
聖母から司祭へ
1995.4.13
これは愛の過越しです。
この日に、イエズスはご自分に贖われ、救われた人たちにご自分の体を食べ物として、ご自分の血を飲み物として与えます。愛する人のために命を与える以上の優れた愛はありません。
この賜物によって、神と人間との間に、新しい永遠の契約が成立されます。そして世の罪を取り除く神の真の子羊によって、「新しい過越」の祭儀が制定されます。
最愛の子らよ、イエズスのこの愛の偉大な賜物を感謝して受けなさい。
イエズスはあなたがたをご自分の最高、永遠の司祭職に親しく加えてくださったからです。
D.サンダー・シング
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P134
わたしはまた、聖餐と洗礼をも信じています。クリスチャンはみな、この秘跡に関して主ご自身がお定めになったことに、従わなければなりません。それらは、大きな祝福の手段となるからです。聖変化によってではありません。信仰によってです。わたしは、どの教会でも聖餐に与っています。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P219
時間があれば、聖餐に毎日でも与りたいと思う。わたしはそこから大きな益を受ける。パンとワインが実際にキリストの体と血に変化すると信じているのではないが、信じる人にとっては、まさに聖変化したと同じ効果を与えるのである。モーゼが荒野で掲げた青銅の蛇は、それ自体には何もなかったが、信じた人々は服従によって癒された。同じことが御聖体にもいえる。パンとワインとは、それ自体には何もない。しかし、戒めへの服従と信者のそれに対する態度が、全的変化を生むのである。
サンダー・シング/インドの聖者スンダル・シング/P200
わたしはまた、聖体拝領と洗礼を信じています。キリスト教徒はだれでも、こうした儀式について主の命令にしたがわねばなりません。それは大きな祝福を得る手段だからであって、聖体がキリストの真の肉体になるからでも、水やパンやブドウ酒に特別な意味があるからでもありません。ただ主への服従からそうするだけなのです。もちろん、こうしたことすべては信仰次第です。わたしはいかなる教会の聖餐式も受け入れます。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P134
わたしはまた、聖餐と洗礼をも信じています。クリスチャンはみな、この秘蹟に関して主ご自身がお定めになったことに、従わなければなりません。それらは、大きな祝福の手段となるからです。聖変化によってではありません。信仰によってです。わたしは、どの教会でも聖餐に与っています。
インドの聖者スンダル・シング/A.J.アパサミー/ミルトス/P234
わたしたちは聖体拝領について、彼がどのような実践をしているのか聞いてみた。彼はあらゆる教会の信徒の家に滞在した。あるときは毎日ミサに出席する英国高教会派のひとびとと一緒に住み、またあるときは月一回だけ聖餐式を祝う非国教会派のひとびとと住んでいた。彼は一緒に住んでいるひとびとの習慣にしたがって、聖餐式に参加していたのである。彼はわたしたちに「時間があれば、毎日でも参加したいのです。わたしにとって、それは大変ためになります」といった。しかし、活けるキリストの臨在をかれ自身が感じ取ることと、聖体拝領に彼が参加することは、まったく別物であるのは明らかだった。
Eジャン・マリ・ヴィアンネ
聖ヴィアンネの精神P288
聖体拝領の中に隠されている宝を全部理解することができるならば、これ以上に、人間の心を満足させるものを必要としないでしょう。吝嗇漢はもう財産を追い求めず、野心家は名誉を求めないでしょう。各人はこの世を去り、この世の塵をはらって、天国へと飛び行くでしょう。聖体拝領! おお、何という名誉を神様はその被造物に与えてくださるのでしょう。
神様がその被造物の舌の上に憩い、大急ぎでその口を通り、その心を王座として、その上に座し給うのです。ああ、神様! 神様! (この時、聖人は感動に充ち、涙を拭った。)
聖ヴィアンネの精神P289
聖体拝領は、よく果されるならば、一回でも、霊魂を神様への愛に燃え立たせ、この世をうとんじさせるに十分です。(中略)
ああ、聖なる聖体拝領。ただの一回でも人間のこの世を厭わせ、この世ながらに天国の歓喜を味わせるに十分です。
聖ヴィアンネの精神P289
私はわが主を手にするのです。右手に持てば、その右手にじっとしておられます。左手に持てば、左手にじっとしておられます・・・ミサ聖祭の何たるかを知れば、死んでしまうでしょう。ミサ聖祭を立てることに伴う幸福は天国でしか分からないでしょう・・・不幸にも、神様、このミサ聖祭を平凡なことのように立てる司祭は何と哀れむべきでしょう。
F.ドン・ボスコの見た二本の柱の夢
世のひかり社/天の母の警告/企画 デルコル神父 ・文 江藤きみえ /P28
1862年のいわゆる二本の柱の夢というものがあります。その予言的な夢では、教会を示す教皇の指令艦と、これに従う他の船(教皇に従う司教たちの船)が大変な嵐にあい、そのうえ、敵の艦隊に攻撃されていました。この攻撃が政治的なものでなく、精神的なものであるというしるしに、その武器として使われているのは、主として、各種の書物と印刷物でした。つまり、この攻撃は、思想上の攻撃であることが示されているのです。
夢では、教皇が討ち死にして、次の教皇が選ばれ、戦いがつづきます。そのうち2本の柱が見えはじめましたが、一本の柱の上には、無原罪のおんやどりの聖母のご像があって、その下に、「キリスト信者の助け」と書かれていました。
もう一本の柱は、これよりも、ずっと大きく、高くそびえていて、柱の上に大きなホスティアがあり、その下に、「信じる者の救い」と書かれています。
この二本の柱をあおぎ見た教皇は、指令艦をその柱の間に導き入れ、両方の柱から出ている鎖で、自分の船を安定させました。これに他の司教たちの小さな船もならったのです。すると、たちまち大混乱が起き、それまで教皇の艦隊に戦いをいどんでいた敵の船がたがいに、ぶっつかり合いはじめました。こうして、敵の船は、沈没し、そのあとには、大なぎの静けさだけがありました。これは教会をその危機から救うものは、ご聖体と聖母信心であるというしるしなのです。
Gマリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P187
ヨハンナ、心を高く上げなさい。私はあなたたちの家の中にいます。忘れてはいけません、私が去ってもあなたたちを孤児として残すことは決してありません。私の家、私の教会を残し、そこには“善い訪れ”と私の言葉、私の愛が住みます。
最後に、偉大な賜物として聖体を与えます。それはあなたたちを養い、慰め、力づける私自身です。
マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P60
私は一つだけにとどまらず、これから先も多くの奇跡を行うつもりです。その中に二つは、どんな人も考えつかないもので、主を信ずる人たちだけが認め得るものです。他の人々は、ずっと未来の世紀に至るまで“そんなことはあり得ない”と言い続けるに違いない。そして、死を越えても私は多くの人々にとって逆らいのしるしとして続きます。
マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P125
私はあなたたちに一つのこと・・・奥義を遺します。これは、私をあなたたちの中に、あなたたちを私の中に、私とあなたたちが神の国で一緒になるまで、一つにするものです。
マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P191
「古えの儀式が終わったいま、私は新しい儀式を行います。おまえたちに愛の秘蹟を約束したから、いまがこれを行う時です。このために私はこの過越祭の食事を選んだのです。これからずっと愛の絶えざる儀式によって記念されるホスチアです。私の愛する友だちよ。私はこの世での生涯にわたっておまえたちを愛し続けました。私の子らよ、おまえたちも最後まで愛するのを望みます。これ以上、偉大なるものはないということをよく覚えておきなさい。私は逝ってしまうが、いまから行う奇跡によっていつまでも一致していられるのです。」
イエズスは一つのパンをとり、これをなみなみとつがれたぶどう酒の杯の上に置き、祝福して共にささげ、それから、パンを十三に裂いて、使徒たちに一つ一つ与えて言う。
「これをとって食べなさい。これは私の体です。逝ってしまう私の形見としてこれを食べなさい」
次に杯を渡して言う。
「とって飲みなさい。これは私の血です。おまえたちのために、おまえたちの罪のゆるしのために、また、命を与えるために流される私の血における、私の血による新しい契約の杯です」
イエズスはとても悲しそうで、あらゆるほほえみ、光と色の影さえもなく、もはや臨終の顔をしている。使徒たちは気をもんでイエズスを見る。
イエズスは立って言う。
「皆、そのまま動かないで。すぐ戻ります」
パンの十三番目の切れ端と杯をとって、宴の部屋を出る。
「お母さんのところへ行くのです」と、ヨハネがささやく。
マリア・ワルトルタ/復活/P192
「新しい儀式は完成しました。これを私の形見として行いなさい。(中略)
また、私の名前のためにおまえたちを憎むであろうこの世にあって、このパンによって私の弟子である力を持つように。
マリア・ワルトルタ/復活/P196
私は望むこと、すべてができます。皆、見たとおりです。私の望みによって、父は人間の糧となるのを子にお許しになりました。この奇跡はその形と期間と本質からみて、これ以上強くて大きいものはあり得ない。これはどれほど力強く超自然的か、傲慢な人間にどんな不可解か、これを正しく理解できる人は少なく多くの人はこれを否定すると思います。そうしたら私は何を言おうか・・・そのような人を弾劾しようか。いいえ、ただあわれむと言います。
マリア・ワルトルタ/復活/P114
真の信仰者なら、聖体を主とみとめ、聖なるミサをキリストのいけにえの式と見る。
マリア・ワルトルタ/復活/P190
イエズス:
キリストは人々のために、この世界を離れる前に多くの奇跡を行い、人々のために死に至るまで人間を愛した後、さらにもう一つのある奇跡を行った。それは、私の体と私の血である。それを私の記念として行い、宗教生活の基盤とするように、私の代々の後継者にそれを行うようにと命じてある。
マリア・ワルトルタ/復活/P202
私は御父の所に戻るが、あなたたちを独りぼっちでは残さない。あなたたちに聖体、すなわち人間の糧となったあなたたちのイエズスと聖霊を残すから、聖霊があなたたちを導くであろう。
マリア・ワルトルタ/復活/P221
ヨハネは、イエズスの腕に自分をゆだねて激しいすすり泣きに全身を震わせながらも、皆の望みを直感し、イエズスに頼む。
「私たちを今、この時に強めてくださるように、あなたのパンをください」
「・・・そうであるように!」と、イエズスは答えて一片のパンを取り、それをささげて祝福し、裂いて儀式の言葉を述べる。同じようにぶどう酒に対しても行い、その言葉を繰返す。
そして言う。
「これを私の記念として行いなさい。私がこの愛の記念を残すのは、いつの日か、あなたたちが私と共に天の国にいるように、また、いつまでもあなたたちと共にいるためである。
マリア・ワルトルタ30・11/天使館1巻P257
イエズスは言われる。
きょうはわたしが語る。あなたはとても疲れているが、もう少しの辛抱です。
聖体の祝日の前日です。あなたに、聖心(みこころ)の使徒であった聖人たちについて語ったように、この度はあなたに聖体について、またこの信心の使徒となった聖人たちについて語ることもできよう。しかし、もう一つのこと、わたしの体に対する崇拝の先駆者たちである、わたしの体の礼拝者たち一群についてあなたに語りたい。それはあの羊飼いたちです。人となったロゴスの体を、最初に礼拝した人たちです。
一度、わたしはあなたに言ったことがあり、わたしの教会も言っていることだが、あの聖なる無辜の幼子たちは、キリストの最初の殉教者たちです。今、わたしはあなたに言う。あの羊飼いたちは、神の体の最初の礼拝者たちである、と。彼らには、わたしの体の礼拝者として要求されるすべての資格、聖体を礼拝するにふさわしい魂があります。
確実な信仰。彼らはあの天使を即時に、盲目的に信じます。
懐の深さ。彼らは自分たちのすべての富を主に捧げます。
謙遜。人間的にいえば、彼らは自分たちよりも貧しい人びとに近づき、相手に恥をかかせない慎みをもって、自分たちは彼らのしもべである、と言い切ります。
熱望。自分たちが与えられないものを、使徒職と労働によって得ようと全力を尽くします。
機敏な従順。マリアがザカリアにイエズスの誕生を知らせたいと望んでいることを知るや、エリヤは逸早くヘブロンへと出発します。先送りすることなく。
愛。最後に彼らは洞窟を立ち去り難く思う。あなたは彼らの思いを『後ろ髪を引かれる思い』と表現したがその通りです。
それはともかく、わたしのこの秘跡に対しても、そうあるべきではないだろうか?
それからもう一つ、これはあなただけに言います。あの天使は、誰にまず自分を現わし、マリアの愛情の吐露を聞くに値したのは誰であったか、よく観察しなさい。それは牧童レビです。
子供のような純真さをもつ者に、神はご自分を現わし、その神秘を明かし、自分とマリアの言葉をお聞かせになる。子供のような純真さをもつ者は、『イエズスの産衣に接吻させてください』と言うレビの聖なる大胆さを持つ。彼はそれをマリアに言う。それもそのはず、あなたたちにイエズスを与えるのは、常にマリアだからです。聖体を運ぶ人は常に彼女なのです。生きた聖体容器(チボリウム)は常に彼女なのです。
マリアのもとへ行く者は、そこにわたしを見つけます。わたしを彼女に求め願う者は、彼女からわたしを受けます。わたしの母の微笑は、『もっと愛するためにイエズスをわたしにください』と誰かが言うとき、諸天を喜びの、同じく幸せの強烈な輝きで青ざめさせるのです。
だから『イエズスの産衣に接吻させてください。その御傷に接吻させてください』とわたしの母に言いなさい。さらに大胆に言いなさい。『あなたのイエズスの聖心の上にわたしの頭を凭(もた)れさせてください。至福を味わうために』と。
おいで。そして憩いなさい。イエズスとマリアの間に置かれた揺り籠で。イエズスのように」。
静思社/神学論文集P100
ベイエル博士に宛てたイマヌエル スエデンボルグの第六番目の手紙から
「かいばおけ」は、らばと馬とが聖言を理解することを意味しているため、聖言から与えられる教えを意味しており(「啓示による黙示録解説」、297番を参照)、「かいばおけ」はそれらの食物を含んでおります、宿屋に部屋が無かったことはエルサレムには教える所が無かったことを意味しており、それで、来るべき教会を意味している羊飼いたちに、「このことがあなたらに与えられるしるしとなりましょう、あなたらはかいばおけに寝かされている赤児を見つけるでしょう」(ルカ伝2・12)と言われています。ヨハネの洗礼は、神御自身がユダヤ人の間に降臨されるとき、ユダヤ人たちが存続するようにと諸天界を備えたのです。ヨハネは主と主の降臨とについて言われた旧約聖書の凡ゆる予言を意味したのであり、同じくエリアも、予言者たちの首頭であったため、そのことを意味したのです。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P223
聖母マリア:
従順は、いつも救いをもたらします。これをよく胆に銘じておきなさい。それに司祭に対しての尊敬は、いつもキリスト的なよい心のしるしです。
イエズスが言われたとおり、使徒的熱心さを失う司祭たちにろくなことはない!けれども同じように、彼らを軽蔑してもよいと考える人々も、ただではすまないでしょう。司祭たちは、天から下るまことのパンを聖別し、分配するからです。そのパンにさわることによって、彼らは自ら聖なる者でなくても、聖別された杯のように、聖とされるからです。
しかし、言うまでもなく彼らは、神のみ前に、それだけの責任を負っています。あなたたちは、彼らをそのように見なし、これ以上のことを気にしてはなりません。彼らのことばによって天から下り、その彼らの手に挙げられるわれらの主イエズス・キリストよりもきびしくしてはいけない。
そういう司祭が、盲目で耳も聞こえず、心が麻痺し、考えが病気で、自分たちの使命とあまりにも対立する罪のらい病に冒されて、墓の中のラザロのようであっても、彼らを治してよみがえらせるように、イエズスを呼びなさい。
なお、生贄となっている霊魂たちよ、あなたたちの祈りと苦しみとをもって、イエズスを呼びなさい。一人の霊魂を救うことは、前もって自分の霊魂を救うことですが、一人の司祭の霊魂を救うことは、多くの霊魂たちを救うに等しいのです。なぜなら“聖”であるすべての司祭は、霊魂たちを神へと引く網だからです。一人の司祭を救うことは、その人を“新たに聖別すること”で、今、言った神秘的な網を作ることです。その網にかかる獲物は、全てあなたたちの永遠の冠に加えられる光です。
平和に行きなさい。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P35
あるのは一つの生贄である。すなわち、わたしの生贄が神秘的に繰り返し、またパンと葡萄酒の形色の下に、あなたたちのために捧げられたわたしの体とわたしの血を与えるそれだ。この大いなる生贄に取って代わることの出来る他の体と他の血はない。
H.ブリージ・マッケナ
「祈り―恵みの泉―」/聖母文庫・聖母の騎士社
<感情ではなく信仰を>
(P152)
「人々は私のところにきて次のように言うようになりました。
『私はミサ聖祭のときに何も感じませんし、退屈です。祈りの集いは命に満ちていて、とても良い気持ちになり、ずっとたくさんのことを得ます』
私はいつもこう答えます。『信仰と感情は二つの違う事柄です。“あなたの感情によってあなたは救われる”とか、“あなたの感情によってあなたはいやされる”などとイエスが言われたという個所は、神のみ言葉のどこにもありません。イエスは人々の信仰をほめることはなさいました。その信仰とは見えないことを信じることです。イエスは、“見ないで信じる人々は祝福されている”とおっしゃいました』
これはカトリック信者である私たちにとって大きな挑戦です。御聖体は奇跡であり神秘であるため、私たちは御聖体を説明できません。大切なのは頭で理解することではなく、心で信じることなのです。感情がキリストを御聖体に現存させるのではありません。御聖体においてキリストを私たちに現存させるのは、叙階された司祭をとおして働かれる聖霊の力なのです。私は何も感じないかもしれません。しかし、イエスはそれでもそこにおられるのです。
別の面からいえば、私が祈りの奉仕に行き、パンひと切れを取って、イエスを現存させるためにあらゆることを試みたとしても、それがイエスを現存させることにはなりません。それは叙階の秘跡の力を要するのです。
御聖体の中にイエスが現存なさることを本当に信じているかどうか、時々私は自分に問いかけてみます。このパンが、ヨハネ6章の中でイエスが話しておられる賜物だということを私は信じているでしょうか?救われるためにはイエスの体を食べ、イエスの血を飲まねばならないとイエスが話されたとき、イエスの弟子たちもイエスに従ってきた人々も、信じることができなかったことを思い出してごらんなさい。
イエスが奇跡やさまざまなしるしや不思議を行なっておられるときに、イエスを受け入れることは簡単なことです。しかし、あなたが理解できないときや、自分の目で何も見ることができないときに、信じるのは難しいことです。しかし、それがクリスチャンへの挑戦です。イエスが御聖体の中におられること、そして彼が私たちを愛しておられることを信じるために、わたしたちは呼ばれています。私たちに与えられているのと全く同じ挑戦が、最初の弟子たちに与えられていました。それは彼らにとってはもっと困難なことでした。彼らは私たちの利点をもっていませんでした。つまり、イエスが死者の中からよみがえられたことや、五旬際の使途たちの証言や、二千年間の伝統などはなかったのです。
(中略)
ミサ聖祭で完全に生きておられるイエスにお会いすることを私が本当に信じるなら、二つの非常に具体的な力強い方法でイエスに会えるということを認識します。神のみ言葉の宣言をとおして、私はイエスに会うのです。福音を宣べ伝える助祭や司祭たちは、私を清め、いやし、解放してくれる生けるみ言葉を実際に私に提供しているのです。私が御聖体を拝領するとき、魂のための食物を受けるのです。主の食卓で、私は自分の人生の道の方向と案内を受けます。御聖体のうちに私は福音の中に宣言されていることを聞いて、聞いたばかりのことを生き抜くため、私に力を与えてくれる食物をうけるのです。」
<御聖体のイエスに触れて>
(P161)
この二つの方法でイエスにお会いできることを考え、イエスの衣の裾に触れた女の人の物語をもう一度思い起こして見ましょう。
この福音のテーマを描いているようなニ、三の出来事を分かち合いたいと思います。
その一つは若い司祭の話です。彼はとても心配していて、また恐れがいっぱいの状態で、私に電話をくれました。声帯に癌ができていることが発見され、三週間のうちに喉頭を取り除く手術を受けなくてはならなかったのです。彼はもう絶望だと言いました。叙階してからまだ六年しかたっていなかったのです。私は彼と祈ったとき、御聖体について彼に話すようにと、主が私に望んでおられるのを感じました。『神父様、私は今、電話であなたと祈ることができます。祈りましょう。でも、今朝あなたはイエスにお会いになりましたか? あなたはイエスに毎日お会いになるのではありませんか?』 私は全然知らなかったのですが、この司祭は毎日ミサ聖祭をささげていなかったのでした。
私はかれに言いました。『神父様、毎日あなたがミサ聖祭をささげるとき、あの聖なるホスチアをとるとき、それを食べるとき、あなたはイエスに会っているのです。聖書の中の女の人はイエスの衣の裾にただ触れただけでした。でも、あなたはイエスご自身に触れ、イエスを自分の体の中にいただくのです。あなたはイエスを食物としていただくのです。あなたは、イエスが実際にあなたの喉を通って入ってこられることに気づいていますか? あなたがいやしを求めていくのに、イエス以上に良い方はおられません。イエスにいやしてくださるようお願いしてください』 電話の向こうで彼が泣いているのが聞こえました。彼は『シスター、ありがとう、ありがとう』と言い続けていました。
三週間後に手術をするために彼は入院しました。その後電話をくれ、手術はしなかったと言いました。医者は、彼の癌は消えてしまい、声帯が真新しくなっていることを発見しました。私は彼の名前も知りませんでした。約一年後、彼の友達をとおして、彼のことを聞きました。病気になる前に、この若い司祭は日曜日以外にはミサ聖祭をささげるのをやめていたそうです。つまり、彼はミサ聖祭についてとても不真面目だったのです。神は彼の人生を変えるために、癌という病気の体験をお使いになったのです。
この司祭は完全にいやされました。そして、そのいやしは肉体だけではなかったのでした。彼は御聖体中心の司祭になりました。ヨハネ第4章の井戸の側にいた女の人のように聖体祭儀は、彼にとって生きておられるイエスに会うための機会となったのです。彼は最高の井戸、そこで飲んだら決して渇くことはないという井戸で、イエスに会うことが始まったのです。そうです。奇跡は起こるのです。
(中略)
もし、あなたがミサ聖祭に正しい態度であずかるなら、あなたの人生と生活は変わります。私たちの教会はしばしば、ミサ聖祭にあずかり、預かる前と同じ状態で帰るという人々で一杯です。(中略)退屈な司祭だとか、司祭が聖霊による刷新された人でないとか、うるさい人だとか、臆病だとか、私たちは司祭のことをいろいろ言うのですが、自分の信仰が足りないのに司祭を非難することなどできるでしょうか。本当は、司祭が問題ではないのです。本当の問題は自分の信仰にあるのです。
もし、司祭が強い信仰をもっていれば、意味ある礼拝に向かう大きなステップだということは事実です。私の司祭への奉仕において、私はいつでも司祭たちに、さらに大きい信仰へとチャレンジするのはそのためです。
ミサ聖祭の中で司祭が何を代表し、何を行なっているかを見るために自分自身や司祭の人間性を越えた向こう側を見なければなりません。カトリック信者として、ご聖体において、自分とイエスとの間に司祭を入れてはいけないのです。
教会は私たちにミサ聖祭にあずかることを義務づけています。それはイエスが私たちを必要としているためではありません。イエスご自身が言われたように、イエスを憎んでいるがゆえに私たちを憎んでいるこの世の中で生きるため、教会は、すべての良い母親と同じように、私たちには命のパンが必要だということを知っているからです。
私たちはその旅路を歩むために、力づけられる必要があります。魂のための食物と体のための食物、これがミサ聖祭の中でイエスが私たちにくださるものです。」
ブリージ・マッケナ/「祈り―恵みの泉―」P190
私は司祭たちに、イエスを私たちの祭壇に連れてくることは、彼らの出来る一番美しいことですと言います。(中略)マリアのように、彼はイエスを生むのだということを自覚しなければなりません。彼が私たちにイエスをもたらすことの出来る唯一の道は、御聖体をとおしてです。
I.マザー・テレサ
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P38
毎日、聖体拝領をする時、私は聖体の中にいますイエスに、二つの気持ちをお伝えします。
一つは、今日まで私を護ってくださったことへの感謝の気持ち。
もう一つはお願い。
「祈ることを教えてください」
J.エリザベット・サント
世のひかり社/愛心館(P49)
<イエズスの嘆き>
「親が子供に新しい洋服を買ってあげるとき、少なくともお礼ぐらいは、言ってもらえるのを期待しています。また、それが高かったので、子供に大切に着るように言います。永遠の父もあなたたちに洗礼の聖なる恵みという新しい洋服を与えました。でもあなたたちは、それを大切にしていないのです。服の最初の美しさを、もう一度あなたたちに与えるのに、わたしより苦しんだ親はいるのでしょうか。わたしは、ゆるしの秘跡も定めたのに、たちは、それを利用してはいません。これをあなたたちに与えるのに、わたしは、血の汗を流し、いばらの冠をかむり、この上ないつらい苦しみの十字架に釘づけられたのです。そして、最後には、みんながこわがらないでわたしに近づけるようにと、わたしは、布にくるんだ赤ちゃんのように、小さなホスティアに身をひそめています。新しい洋服を子どもに買ってあげるために、こんなに犠牲を払った親はいるのでしょうか。」
K.テレーゼ・ノイマン
テレーゼ・ノイマン/カール・デンライトネル著/ドン・ボスコ社/P109
「私に、かがやかしい姿の救い主が眼前に現れます。そのお姿のかがやきはたちまち火焔となって私に近づき、私の口の中に入るのです。それからあとのことは何もわかりません。私はまったく救い主のみ許にあるのです。」
L.デボラ
デボラ/生ける神よりあかされた英知/2巻下P120
娘よ、あなたが見ていることは、全ての聖体の祭儀の間に、目に見えない形で、実際に起こることである。
デボラ/生ける神よりあかされた英知/4巻上P89
あなたがたの不従順を浄めるために、無垢な者から流された血で濡れた私のからだ、すなわち聖体の秘跡が、それらの秘跡の中で太陽のように輝いている!
あなたの食卓に私を受けるとき、私は本当にあなたのうちに現存するのである! 私は昨日のように今日も、あなたがたの心の天国に座るために、私の天から戻ってくるのである!
デボラ/生ける神よりあかされた英知/3巻上P87
(ここで私は、一人の司祭が信徒たち全員の前で、両手を上げてご聖体を捧げ挙げている姿を見ました。)
さてこれこそ、聖なるミサ聖祭全体における荘厳な行為、もっとも偉大な和解の犠牲である! これがどれほど広大な奇跡的わざであるかを、あなたがたの誰が説明することができるだろうか?
また聖体の祭儀とは太陽である。それは聖なる心、恩恵である。それは私の証である。それは、『私は常にあなたがたと共に在るであろう』という私のことばの忠実性を構成するものである。私は神の愛によって形成されてこねられた、その優しさと愛のすべてをもって、この住居の中に存在しているのである。
これを超越することができるほどの奇跡はこの地上には存在しない!
その小ささのうちに、私の偉大さの全てが存在する! 私が彼らを通して、私の霊をあなたがたの上に注いでいる私の司祭たちは、聖なる杯と一致して、この『すべて』を代表している。こうしてあなたがたは私の受難に参加し、その時ごとに『小さなホスティアの子』となるのである。ああ私の司祭たち、空中の黒い天使達は、この感嘆すべき愛と救いの行為を破壊したいと望んでいる。彼らはその偉大さについて自覚しているので、それを灰と化してしまいたいと欲しているのだ。しかしこのことについて、私の司祭たちは理解しているのだろうか?
そう、或る者たちは分かっている。しかしその数はあまりにも少ない! 聖体の秘義とは、その中で私の要素の全てが永遠に生きている炎であり、全てを聖化する私の聖霊が、終わることなくその中で燃えているのである。
これこそが私の教会を、世代を経ても誤まることのできないもの。勝利の教会とするのである。この無限の太陽の力と憐れみをもって、私は世の罪を超越し、後悔の念を与えるのである! 自身を明らかに示すこのような輝きと、休むことなく更生されるこのような責め苦の前で、なぜ人間は感動しないのだろうか?
あなたに再び繰り返して言う、我が聖体の娘よ、これよりも大きな和解の犠牲は存在しない!
デボラ/生ける神よりあかされた英知/3巻上P94〜97
もし可能であれば、人は、私の聖職者の手から直接口に、捧げるべき尊敬の全てをもって、それにふさわしく私を受けるように。
そのあとにあなたがたの心の中で、私に正当な歓迎を与えなさい。私はあなたがたの間にいることを望むが、私はあなたがたのうちの一人ではない、ということを忘れてはならない。私は受肉した神であり、単に神聖化された人間ではないのである。多くの私の友が到達し得ず、触れることができず、洞察することのできない私の聖体のために、その命までも与えたという事実を思い起こしなさい。
第三番目は、ひざまずいて、出来るならひざまずいて私を受けることである!
あなたがたのうちの何びとといえども、このように神聖なる尊厳そのものを、立ったままで受けてはならない。少なくとも私を王として、そして救い主として敬うしるしとして、その前にいったん片膝をつくべきである。あなたは、少なくともあなたは、完全な生徒としてこの模範を示しなさい。
M.ルイザ・ピッカレータ
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P258
「我が娘よ、聖三位一体の特別会議において、人類を救うために受肉の神秘が発令されたときにも同じことが起こった。私は彼らの意志に一致してそれを受託し、人間のために自分をいけにえとして捧げた。すべては三位のあいだの一致によって、一緒に案出されたのであった。
私がこのわざの実践にかかり、被造物の悪行のすべてを負って苦悩と屈辱の環境に自分を見いだす瞬間に達したとき、私は孤独のうちに、皆から、はては私の父からさえも棄てられた。私はこのような苦悩のすべてを負っていたので、現在と未来の人類すべての救いのための犠牲を私に続けさせてくださり、それを受け入れてくださるように、全能なる方に強いなければならなかった。そして私は、それを獲得した。しかも犠牲はまだ続き、それはすべて愛の努力であるとはいえ、その努力は未だに絶えることがない。ところでこの犠牲がどこで行なわれ、どのように行なわれているか知りたいか? それは聖体の秘跡の中においてである。そこで行なわれる犠牲は絶えることがなく、三位一体の愛を得るために、被造物とその霊魂に憐れみを用いていただくために、おん父にそれを強いる努力も恒久的である。私の死のすべては愛の死であるとはいえ、聖体のうちの私は絶え間ない対立のうちにある。私の命そのものの周期に参加することで、あなたは満足ではないのか?」
Nサンドロ・ニョッキ
サンドロ・ニョッキ/神さまの声が聞こえる/P97
「聖体拝領は秘蹟であり、霊の一致や意志の一致へ人を到達させる手段です。もしあなたが、このような一致に到達しないとしたら、聖体拝領に何の意味があるというのでしょう。それは一つの手段、一つの目的なのです。もし何度も受けたいと思うのなら、いつでも何度でもあなたが望むように受けてよいのです。
主と絶え間ない一致を実現するには、聖体拝領を上手に利用することを私たちが知ることであり、それを主は深く望まれているということがすぐに私にはわかりました。主との一致が、主の一番喜ばれる一致なのです。その目的のために、聖体拝領の聖体が定められたのです。そのとき主の言葉を思い出しました。
「私たち皆が、ただ一つとなるように。」
主の言葉は、いつものようにこの上ない平安をもたらしました。その言葉は、私に歩む道を示し、以前私が抱いていた秘蹟の聖体拝領に対して、約束や形式にとらわれるのではなく、主と一致する喜びを私に与えられたのです。それはより完全で、より内密な一致のために非常に効果的な方法となりました。
心の中に平安と喜びが押し寄せてきました。主のみ旨を実行するのに、私を助けてくださるようにと、感謝しながら祈りました。主がお気にいる方法で自分をなくし、主を第一とし、主にゆずり、主に行いを委ね、主といつも一緒に一致しているように祈りました。
O.ドレックス教授
天使館/天使のパン14号P39
『信仰は従順より重要である』ドレックス教授への救い主の御言葉
1970年9月4日早朝の主の御言葉
しかし、混乱は教会に侵入し、信者は迫害に苦しむであろう。信者の数は少なくなるが、信者の勇敢な信仰告白は世の光となって輝くであろう。そして、三位一体の神の力と恩寵によって祝福されるであろう。
聖体祭儀は個人の家庭で捧げられるようになるでしょう。しかし、それまで不忠実な人間によって中傷され、見捨てられていた童貞聖母マリアが忠実な信者を特別な御保護の下に置き、勝利へと導くであろうことを覚えておきなさい。
天使館/天使のパン14号P42
『信仰は従順より重要である』ドレックス教授への救い主の御言葉
1970年12月4日早朝の主の御言葉
新しい火が祭壇から、また私の現存から広がり、白いホスチアの中の私の現存は、わが教会と信仰、更には唯一真の宗教の中心となるであろう。
天使館/天使のパン15号P47
『信仰は従順より重要である』ドレックス教授への救い主の御言葉
1972年9月1日早朝の主の御言葉
聖体祭儀における私の現存の神秘と犠牲を信じているかどうかが、正真正銘の本当のキリスト信者であることの試金石となるであろう。至聖なる御者が、唯一にして真の贖い主としての私への愛と崇敬、忠実さの証人となるであろう。
かつて私は、「私の喜びは人の子と共に居ることである」と語ったことがある。この喜びから、私の愛がご聖体の奇跡を生み出し、それを祝し、また信者たちがご聖体を拝領し、崇めるよう司祭たちに託したのである。
しかし、幾人からの司祭によって誤って導かれた信者や、真の教会の息子や娘たちの多くが至聖所を汚し、私の愛の神秘的犠牲は不信仰と不敬によって日常のありきたりの動作に貶められてしまっている。この罪に禍あれ!
ますます多くの司祭たちにとって、この神の祭儀はサタンの祭儀となっている。彼らは罪を信じていないので、贖いを信じることは不必要だと考えている。全ての罪の中で、ミサ聖祭に奉献された者たちに与えられた恵みを拒否し、不滅の霊魂を裏切る者となる罪は最悪である。
次のことを理解しなさい。神の愛の測りは、私の聖体の現存の神秘への崇敬とミサ聖祭への愛の深さによって測られる。ミサ聖祭とは、十字架上で流された、たった一回の血の犠牲をご聖体の神秘による無血の真の再現であり、記念の秘跡である。私のこの叫びを聞きなさい。ご聖体はもはや普通のパンではなく、私の体、即ち肉と血であること、つまりそれは無血の私の現存であることに気付いていない信者たちの間で、ご聖体を普通のパンのように手で受ける冒涜が増し加わっている。この罪に禍あれ!
私の偉大な使徒パウロは次のように言っている、「主の体のことをわきまえずに食べたり飲んだりする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(−コリント人への手紙(T)11:29)
なぜ多くの人々は私の体を手で受けることによりご聖体に対する崇敬を失っているのであろうか?
聖母マリアが私の神性と人性への崇敬と愛の完全な模範であることを、多くの人々は忘れてはならない。
*引用の聖書は「フランシスコ会」訳による。
天使館/天使のパン16号P40
『信仰は従順より偉大である』ドレックス教授への救い主の御言葉
1973年7月6日早朝の主の御言葉
私の教会がこれから直面しようとしている時代は、苦難の時代となるであろう。その理由は、叙階されていても祭壇上で価値のない僕となり、信仰の最も聖なる神秘であるミサ聖祭を人間的に、世俗的にしてしまった司祭たちのせいである。何千という数の司祭たちが毎日冒涜の罪を犯している。この事はヨーロッパだけに限らない。この冒涜の罪は否定されたり、或は無害であるとさえ宣言されている。
天使館/天使のパン16号P41
『信仰は従順より偉大である』ドレックス教授への救い主の御言葉
1973年8月3日早朝の主の御言葉
まず第一に、私の現存の神秘と奇跡は御聖体の中に留まっている。私の真の教会に降りかかっている災害の深い理由は、益々多くの司祭がこの御聖体を離れ、それを失い、この最大の恵みの真価をもはや認めなくなって来たことにより裏切り者となっているためである。
まず、このような司祭たちは私の現存を否定し、次に御聖体の前での尊崇の態度を示さず、次にミサでの聖なるいけにえの奉献の時に心が冷たくなっている。このような司祭たちはミサを“食事”として語り、もはや“いけにえ”について語ろうとしない理由はまさにここから来ている。そして、彼らは崇敬の心も失い、もはや跪こうとしない。この様にして、ミサの聖なるいけにえの奉献は一つの負担となり、単なる義務となり、愛が無いのに祭壇の私に近づくか、或は私から離れようとしている。真に、私は信徒の群集に同情している。このような司祭たちが自らに背負っている責任は、口にすることも出来ないほど恐ろしくも忌まわしいものである。
しかし、私は神の真の僕であり、聖なる神秘を守っている司祭たちに対しては、私の愛の祝福を与える。また真の信者たちに対しても祝福を与える。この者たちにとって私の愛の秘跡は聖なるものとされている。
P.アグレダのマリア
アグレダのマリア/神の都市/P206
元后の御言葉
私の娘よ、人々が聖体拝領を度々頂くのを嫌がり、怠り、準備も、熱い信心もなく御聖体に近づくことは、主にとり、私にとり、諸聖人にとり、何という恐ろしい犯罪であるかを考えなさい。聖なる秘蹟にこもられる御子を頂くために、何年間も私は準備しました。私はそれを妨害する罪は全くなく、恩寵に満ちているにも関わらず、愛、謙遜と感謝の徳を熱心に積み、聖体拝領にあずかれる身にしようとしました。御子の人性のまします御聖体を頂くため、ふさわしくなれるように毎日、いつも自分の罪を批難しなさい。
アグレダのマリア/神の都市/P318
元后の御言葉
私の娘よ、悪霊たちは私の胸の中にこもっておられる御聖体を感知して、大変な恐怖に襲われたことをあなたは書き記しました。あらゆる秘蹟は、悪霊たちを怖がらせるための最強の手段です。特に御聖体の秘蹟がそうです。信心と敬虔をもって秘蹟に度々あずかる者は悪霊たちを支配します。秘蹟の中の神の火は純粋な霊魂の中で霊魂と同化します。私の中で神の火は、単なる被造物としての可能性の極限までとても活発です。
アグレダのマリア/神の都市/P326
聖母はこの徳業において、御聖体の秘蹟を特に祝うように強く望まれました。主を崇め奉る聖母に、守護の天使たちや最高天の天使たちが参加するようにお望みになりました。いと高き御方は天使の大軍をお遣わしになり、キリストが聖母の中に秘蹟的に留まり給う不思議をお見せになります。聖母の中にキリストがおられるため、聖母はどの天使よりも、セラフィムよりもっと純粋でもっと聖であることがわかり、天使たちは光栄と讃美を神に唱えます。
2.聖体の前印
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P61
あなた方の先祖は砂漠でマンナを食べた。 そして私は群集に聖体の前印として、パンを増やして養った、いのちを与える我が聖体であなた方を養っているように、私は魚も増やした、そして魚とは 我が名の象徴、あなた方―を―養う―者の象徴、我が名:イエス キリスト、神の御子 救い主を意味する象徴的しるし:ix_yzを現している。
(ギリシャ文字でイエズス)
天界の秘義1727
「パンとぶどう酒とをもってきた」。『パンをもってくる』ことは天的なものとそこから発してくる爽快さとを意味し、『ぶどう酒をもってくる』ことは霊的なものとそこから発してくる爽快さとを意味していることは、『パン』の意義が(276、680番に語られた)天的なものであり、『ぶどう酒』の、また『ぶどう』と『ぶどう園』の意義が(1069、1071番に説明された)霊的なものであることから明白である。そして『パン』は天的なものを、『ぶどう酒』は霊的なものを意味しているため、それらはまた聖さんにおけるシンボルとされたのである。メルキゼデクがパンとぶどう酒とをもってきたこともここに類似の意義をもっているのである、なぜなら古代教会ではパンは天的なものの凡てを表象するものであり、ぶどう酒は霊的なものの凡てを表象するものであって、かくてここでは主御自身を表象するものであったからである、なぜなら主から凡て天的なものと凡て霊的なものとが発しているからである。
3.ミサ
マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P16
神も私のカルワリオに母がいるのを望んでおられます。処女の涙の水を神の血のぶどう酒に混ぜて、最初のミサをたてるために。ミサは、生きている人々と煉獄にいる人々とに、私の死の功徳が及ぼされるためのものです。
4.聖餐のとき各人の視線は主のみに向けられる
神の摂理122
しかし人間は悔い改めの業では主のみを見上げねばならないことに注意しなくてはならない。もし彼は父なる神のみを見上げるならば、清められることはできない。また彼は御子のために父を見上げるならば、或いは単に人間としての御子を見上げるに過ぎないなら、清められることは出来ない。なぜなら「新エルサレムの主の教義」に説明されているように、一人の神がおられ、その神は主であり、その神性と人間性とは一人格であるから。人はすべて悔い改めの業を始めつつある時は主のみを見上げるように、主は聖餐を定められたのであり、それにより悔い改める者たちの罪の許しが確認されているのである。聖餐によりそれが確認されているのは、聖餐または交わりにおいて、各人の視線は主のみに向けられるからである。
天界の秘義4724
しかしひざまづいて、謙遜な心から信仰の生活を送っている者たちは主を救い主なる神として崇めており、そのときは神的な性質と人間的な性質とが区別される教義からは些かも考えはしないのであり、聖餐においてもまたそのようには考えはしないのである。ここから彼らのもとでは主の神的な人間的なものが彼らの心の中に在ることが明らかである。
静思社/スウェーデンボルグ/神学論文集P64
それで、もし、彼らが法王崇拝から遠ざかり、聖徒たちを呼び求めることから遠ざかり、両種類の聖餐式にあずかるなら、改革派よりも容易に新しい教会へ、教えられて入れられることができるのである。
5.司祭の役割
キリストに倣いて4・5・2
自分に注意し、司教の按手によってどういう職務があなたに授けられたかを、よくよく考えて見よ。
見よ、あなたが司祭とされ、聖別されたのは、ミサを行うためである。だから犠牲(いけにえ)をささげるべきときには忠実敬虔にこれを神にささげ、そのふるまいにいささかも非難の余地のないよう心がけるがよい。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/4・5・2
見よ、あなたが司祭とされ、聖別されたのは、ミサを行うためである。
ブリージ・マッケナ/「祈り―恵みの泉―」P190
私は司祭たちに、イエスを私たちの祭壇に連れてくることは、彼らの出来る一番美しいことですと言います。(中略)マリアのように、彼はイエスを生むのだということを自覚しなければなりません。彼が私たちにイエスをもたらすことの出来る唯一の道は、御聖体をとおしてです。
6.私は我が教会に仕える教師たちを与え、道を案内させ 聖体拝領で私を受けることが いかに大切かを教えさせている
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P41
‘88・9・29
主よ?
私です、覚えておくように、あなたの周りは荒れ野です。 ヴァッスーラ、悔い改め 私に罪を告白しなさい、耳を傾けている(*)、すっかり赦す、霊魂の染みとなっていた あなたの罪を赦す、平安でいなさい、今しがたのことを 全ての被造物に強く伝えたい。 私は皆に掟を与えた、皆はこの掟を守るように、私は我が教会に仕える教師たちを与え、道を案内させ 聖体拝領で私を受けることが いかに大切かを教えさせている。 我が血と我がからだを 受けなさい。 私は意味なく川のように 血を流したのではない、あなたに飲ませようと それは流された。 私に仕えるこの者たちは 我が血をあなたから遠ざけてはならない、我が血は あなたの救いのために流された、我が血も飲むように、さあ 来て飲みなさい もっとほしいと望むようになる。 私の最後の晩餐の言葉を守るように、そして私のもとに来る時は、その前に、私をどう受けるかに注意し、自らを調べ、気を落ちつかせ、悔い改めて しばしば告解し 私を尊びなさい。 あなた方に聴罪師を与えた、愛する者よ、彼に告解していても 私に告解しているにすぎない、あなたが告解している相手は私です。 契約の血を 聖でないかのように扱ってはならない ♡♡ 我が聖なる現存を忘れないでほしい、「私たち」、
はい「私たち」
*神に告白しました。
7.宗教生活の基盤
マリア・ワルトルタ/復活/P190
イエズス:
キリストは人々のために、この世界を離れる前に多くの奇跡を行い、人々のために死に至るまで人間を愛した後、さらにもう一つのある奇跡を行った。それは、私の体と私の血である。それを私の記念として行い、宗教生活の基盤とするように、私の代々の後継者にそれを行うようにと命じてある。
8.聖体祭儀は個人の家庭で捧げられるようになるでしょう
天使館/天使のパン14号P39
ドレックス教授への救い主の御言葉
1970年9月4日早朝の主の御言葉
(前略)
しかし、混乱は教会に侵入し、信者は迫害に苦しむであろう。信者の数は少なくなるが、信者の勇敢な信仰告白は世の光となって輝くであろう。そして、三位一体の神の力と恩寵によって祝福されるであろう。
聖体祭儀は個人の家庭で捧げられるようになるでしょう。しかし、それまで不忠実な人間によって中傷され、見捨てられていた童貞聖母マリアが忠実な信者を特別な御保護の下に置き、勝利へと導くであろうことを覚えておきなさい。
9.パンとぶどう酒とを聖く受ける者たちのもとでは、それらのものを通して天界と主とに連結することが行われる
天界の秘義6789〔3〕
他の例として聖餐を考えられたい。その中の『パン』は全人類に対する主の愛を意味し、また人間の相互作用を意味しており、『ぶどう酒』は仁慈を意味していることは殆どたれも知ってはいないのである。にも拘らず、パンとぶどう酒とを聖く受ける者たちのもとでは、それらのものを通して天界と主とに連結することが行われるのであり、愛と仁慈との諸善が天使たちを通して流れ入ってくるのである、なぜなら天使たちはその時パンとぶどう酒のことを考えはしないで、愛と仁慈のことを考えるからである(3464、3735、5915番)。ここからその人間が善の中にいる時は、その人間に知られぬままに、外なる真理が内なる真理と連結することが明白である。
10.新しい契約の血
天界の秘義6804〔11〕
「契約のしるしもまた表象的な教会の中に存在したのであり」、連結を思い出させるものであった。割礼はそうしたしるしであったのである(創世記17・11)。なぜなら『割礼』は汚れた愛から清められることを意味し、それが除かれると、天界的な愛が徐々に注がれて、その愛を通して連結が生れるからである。安息日もまた『永遠の契約』と呼ばれているのである(出エジプト記31・16)。供えのパンをイスラエルの子孫は永遠の契約としなくてはならない(レビ24・8)とも言われ、特に以下の記事から明白なように、『血』もその契約としなくてはならないとも言われているのである―
モーセは契約の書を取って、民の耳に聞える辺りで読んだ、民は言った、エホバが語られたことは凡て私たちは為し、また聞きましょう、と。次にモーセは平安の生贄の血を取り、民に振り掛けて、言った、見なさい、エホバがこの凡ての言葉についてあなたらと結ばれた契約の血を(出エジプト記24・7、8)。
あなたの契約の血によりわたしは水の無い坑から囚われた者を解き放ちましょう(ゼカリア9・11)。
血は契約であり、また契約のしるしであった、なぜならそれは霊的な愛を通して、即ち、隣人に対する仁慈を通して連結することを意味したからである、それで主は聖餐を制定された時、その血を『新しい契約の血』と呼ばれたのである(マタイ26・28)。この凡てから聖言の『契約』によりその内意に意味されていることを今や認めることが出来よう。
11.聖餐により主は主の御声を聞く者のもとに、即ち、聖言を信じる者のもとに、現存されているが、しかし聖言に従って生きる者たちと連結される
啓示による黙示録解説219
連結することが『入って来て、食事をすること』により意味されていることは、主の制定された聖餐から明らかであり、その聖餐により主は主の御声を聞く者のもとに、即ち、聖言を信じる者のもとに、現存されているが、しかし聖言に従って生きる者たちと連結されるのである。聖言に従って生きることは悔改めの業を行って、主を信じることである。
12.もし、彼らが法王崇拝から遠ざかり、聖徒たちを呼び求めることから遠ざかり、両種類の聖餐式にあずかるなら、改革派よりも容易に新しい教会へ、教えられて入れられることが出来る
静思社/スエデンボルグ/神学論文集P64
それで、もし、彼らが法王崇拝から遠ざかり、聖徒たちを呼び求めることから遠ざかり、両種類の聖餐式にあずかるなら、改革派よりも容易に新しい教会へ、教えられて入れられることが出来るのである。