カトリックが改革派よりも容易に

新しいエルサレムに、または新しい教会に

入れられる理由

 

カトリック法王派プロテスタント

悔い改め

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.ルイザ・ピッカレータ

2.マリア・シンマ

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

スエデンボルグ/新しい教会の教義の簡潔な解説108/静思社

 

 ロマ カトリックが改革派よりも容易に新しいエルサレムに、または新しい教会に入れられる第一の理由は、キリストの功績の転嫁による義認の信仰は―それは過った信仰であって、新しい教会の信仰と共になることのできないものであるが(102−104番)―彼らの許では抹消されており、実にことごとく抹消されねばならないが、しかしそれは、それが改革派教会の主要な教条であるため、改革派にはいわば彫りつけられているためである。第二の理由は、ロマ カトリックは、彼らが聖体を極めて恭々しく尊崇していることから明白なように、改革派よりも、主の人間的なものにおける神の威厳を考えているためである。第三の理由は、彼らは仁慈、善い業、悔改め、生活の改善に向けられた注意を救いの本質的なものであると考えていて、それがまた新しい教会の本質的なものであるが、しかし信仰のみを確認している改革派では事情は異なっており、これらの者のもとでは右記のものは信仰に属した本質的なものとしても、形式としても認められておらず、従ってそれらは救いには何ら貢献しないためである。これらが、ロマ カトリックが、もし間接でなしに、直接に救い主ご自身である神に近づき、同じく両種類の聖さんを施行するならば、改革派よりも容易に、死んだ信仰に代って生きた信仰を受け入れ、主からつかわされた天使により新しいエルサレム、または新しい教会の門へ連れて行かれ、喜びと叫びとをもってその中へ入れられることができる三つの理由である。

 

 

 

スエデンボルグ/新しい教会の教義の簡潔な解説105

 

 「現在のロマ カトリック教徒は、その教会が前に教えられたキリストの功績の転嫁とそれを信じる信仰による義認については、それが数多くの彼らの礼拝の外なるものの中に全く隠れているため、何ごとも知っていない、それで、そうした理由からもし彼らが単にその礼拝の外なるものから部分的に退いて、直接にイエス キリスト、救い主、神に近づいて、両種類の聖餐を施行しさえするなら、改革派よりも容易に、新しいエルサレムに、すなわち主の新しい教会へ入れられるであろう」。

 

 

 

スエデンボルグ/新しい教会の教義の簡潔な解説106

 

 ロマ教会の主教と指導者らとはその聖職に就任するに際してトレント会議の教令を遵守することを誓うことは、ロマ法王ピウス四世の教書から明らかであって、そこに、1564年11月18日付けの、その信仰告白の宣誓の式文の中に以下の言葉が見られる、『私は聖なるロマ教会により用いられた信条の中に含まれた一切の物を堅く信じ、また告白する、また私はその聖なる経典の中に、全体会議の中に、特にいとも聖なるトレント会議により主張され、布告された凡てのものを受け入れる、されば神よ、私を助け給え。』彼らがキリストの功績の転嫁とそれを信じる信仰による義認についてトレント会議で堅く定められたものを信じ、告白するように宣誓により彼ら自身を束縛することは、その教書の中の以下の言葉から明白である、『私は原罪と義認についてトレントのいとも聖なる会議で決定され、布告された一切の物をかき抱き、且つ受け入れる。』その一切の物とは何であるかはその会議の抜粋文から見ることが出来よう、前を参照されたい(3−8番)。その会議に樹立された、これらの原理から以下の結論が引き出されたのである、すなわち、『改革以前のロマ カトリックは、キリストの功績の転嫁とそれを信じる信仰による義認については、改革以後、改革派が抱いた教義と正確に同一のものを抱いたが、ただ彼らがその同じ信仰に仁慈と善い業とを連結したことのみが(改革派から)相違していたのである。』前を参照されたい(19、20番)。また『指導的な改革者であるルーテル、メランヒトン、カルビンはキリストの功績の転嫁と信仰による義認にかかわる凡ての教理を、それらが丁度その時ロマ カトリックのもとに在ったままに保有したが、しかし彼らは信仰と仁慈である教会の本質的なものそのものについては、ロマ カトリックから分離しようとの意図の下に、仁慈と善い業とを信仰から分離し、それらには何ら救いの効果はないと宣言したのである。』前を参照されたい(21−23番)。さらに、『それにも拘らず、前に述べた改革派はその信仰に善い業を接合させ、それを連結さえもしたが、しかしそれを受動的な主体としての人間の中に連結したのである、しかしロマ カトリックはそれを能動的な主体としての人間の中に連結している。にも拘らず、信仰、業、功績については、両者の間には、事実上感情の一致が存在している。』前を参照されたい(24−29番)。それで、これまでに述べたことから、この信仰がロマ カトリックが改革派と等しく遵守することを誓っている信仰であることが明白である。

 

 

 

スエデンボルグ/新しい教会の教義の簡潔な解説107

 

 にも拘らずこの信仰は現在ロマ カトリックのもとでは、それについては何ごとも殆ど知られていないほどに抹殺されているが、それはそれが法王の法令により非認されているのではなくて、全般的にキリストの代理者を崇拝し、聖徒に祈願し、像を尊崇することである礼拝の外なるものにより、さらに聖いものとしてみなされることから感覚に訴えるものにより、例えば知らない言語で唱えられるミサ、衣裳、燈、香、華麗な行列といったものにより、また聖餐にかかわる秘義により隠されているためである。こうした物により、また他のそれに似た性質のものにより、キリストの功績の転嫁により義とする信仰は、それはロマ教会の原始的な教目ではあるけれど、視界から遠ざけられ、記憶から除かれて、地面に埋められ、石でおおわれ、修道僧から見張りをつけられて、掘り上げられ、回想されないようにされてしまっている物のようになっている、なぜならもしそれが回想されるなら、彼らが罪を赦し、かくて義とし、聖め、救う超自然的な力をもっているという信念も止んで、それとともに彼らの神聖さ、卓越、莫大な利得の凡てが失われるからである。

 

 

 

真の基督教111(8)

 

 最後に、質問者達はロマカトリック教徒に向って語った。「恐らく貴方がたは神的人間性を語ることが出来るでしょう。何故なら、貴方がたはその聖餐に於てキリストはパンと葡萄酒の中に、その各部の中に、全的に、在し給うことを信じ、また貴方がたは聖体を示し、之を持ち回る時、彼を最も聖い神として礼拝し、またマリヤをデイパラ即ち神の母と呼び、従って貴方がたは彼女は神を、即ち神的人間性を生んだということを認めておられるからであります」 彼らはそこでその言葉を出そうと試みた。然しキリストの人間性はその神性から分離されており、またそれは実際、法皇にはキリストの神的な力は委譲されておらず単にその人間的権能が委譲されているに過ぎない故、法皇の許では分割されているという信念と共に、キリストの血と身体に関わる物質的な考えがその時生まれて来たために、彼らはその言葉を発することが出来なかった。すると修道僧の一人が立ち上がり、私は最も聖い処女マリヤとまた私の修道院の一人の聖人の神的な人間性を考えることが出来ますと語った。他の一人の修道僧が進み出て語った。「私が今抱いている考えによりますと、私は神的人間性という語をキリストに対して発するよりも、神聖法皇に対して発することが出来ます」 然し法皇派の中には彼を引き戻して「恥を知れ」と叫んだ者があった。この後、天界が開け、其処に、謂わば、火の舌のようなものが、会衆の或る者の上に降り、そこに止まるのが見えた。するとその者らは主の神的人間性を讃え始めて、語った。「三人の神の観念を斥けられよ。而して、主の中には神性の完全性は尽く身体をなして宿り、彼と父とは霊魂と身体とが一つであるように一つであり、神は空気或はエーテルのようなものではなくて人間であり給うことを信ぜられよ。然すれば貴方方は天界に結合せられ、主は貴方方にイエスと呼び、且つ神的人間性と語ることを得させ給うでありましょう」

 

 

 

真の基督教567

 

改革派の人々は実際の悔改めには根強い反感を持っている。それ故、彼らはその罪を点検し、これを神に告白するように自分自身を強制することが出来ないことは注目すべき事実である。彼らは単にこのような事柄を思うのみで恐怖に襲われる。私は霊界でこの事について彼らの多くの者に尋ねたが、彼らの凡てはそれは彼らの力では出来ないものであることを認めた。而して彼らはロマ・カトリック教徒はそれを実行している、すなわち、彼らは自らを点検し、自らの諸々の罪を祭司に告白していると教えられると、非常に驚き、さらに改革派の者は己が罪を秘かに神の前に告白することが聖餐の準備として彼らに等しく課せられているけれども、それを為すことが出来ないことを認めたのである。彼らの或る者はその理由を調べ、このような悔改めのない心の状態を生んだものは信仰のみの教義であることを知り、かくてキリストを崇拝して、聖徒達に祈願を捧げないロマ・カトリック教徒は救われることを納得したのである。

 この後、雷が轟き、天界からこの声があった。「我々は驚いている、改革派の集会に、基督を信じ、悔改めよ、然すれば諸君は救われるであろうと告げられよ」私は告げ、さらに付け加えた、「洗礼は悔改めの礼典であり、かくして人を教会へ導き入れることであります。何故なら、名付け親たちは悪魔とその業とを斥けることを約束するからです。聖餐もまた悔改めの礼典であり、人を天界へ導き入れるものです。何故なら陪餐者はそれに与る前に悔改めるように警告されているからです。基督教会の普遍的な教義である十誡は、悔改めを教えています。何故なら、第二の板石の第六の誡命の中に、「汝はこれこれの悪を為すべからず」と、言われておりますが「汝はこれこれの善を為すべし」とは言われていないからです。これによって諸君は人は悪を棄て去り、これを避ける限り、善を欲し、善を愛し、それ以前には善についても悪についても何事も知っていないことを知られるに違いありません。」

 

 

 

真の基督教821

 

 世に在った際、教皇よりも神について多く考え、単純な心を以て仁慈の業を為したカトリック教徒を回心させることは容易である。彼らは自分が死後生きており、世界の救い主なる主御自身が支配し給う世に在ることを知ると、直ちに彼らの宗教の迷信を棄て去る。彼らが教皇主義から基督教へ移ることは、神殿にその戸が開け放たれている時入り、或は王の招きによってその宮殿に入り、或は天使の声が空から聞こえる時そこを眺めるように容易である。然しこの世の生活の間神について考えることは稀であり、宗教を単にその祝祭の故に尊んだ者達はこれと異なっている。彼らの回心は神殿にその戸の閉じられている時に入ろうとし、または王の命令に反して警護の間を通ってその宮殿に入ろうとするように困難である、否、それは草の中の蛇が眼を天に向けると同様に困難である。カトリック教徒は霊界では最初天界を見ることは出来ないことは注意すべきことである。彼らの上には謂わば黒雲のようなものがあり、それが彼らの視界を遮っている。しかし改宗者がその改宗者達の社会に入るや否や天界は彼に見えるようになり、時々彼は天使達を眺め、その群れの中へ準備期間の後挙げられて行くのである。

 

 

 

スエデンボルグの生涯と思想P374/静思社/柳瀬芳意著

 

 しかしながら他界ではその「簡易な解説」が世に現れたことに対し、非常な喜びが起った、と記されている。

 

『この予備的な論文(新しい教会の教義の簡潔な解説)が完成した時、全天界は、東から西まで、南から北まで、濃い緋色の美しいばらの花におおわれているようにもわたしに現れ、そのため霊たちの世界の中でわたしと共にいた者たちは凡てそのことに驚嘆したのである。このことは新しい天界が(この著作に)同意し、また(それを)歓んでいるしるしとなった』

 

 この著作に対しかれが掲げたようなこの驚くべき主張を未だたれ一人いかような著述家も掲げはしなかった。実にスエデンボルグは記した、『この書物は聖書に予言されている主の再臨である!』『霊界ではわたしの著作の凡てに「主の再臨」と記されたのである。わたしもまたその言葉を主の御命令によりオランダで二冊の書に記した』

 

 この二冊の中一冊は発見され、英国博物館に保存されている。『この書物は主の御命令により記された主の再臨である』という文字はその表紙の内側にスエデンボルグ自身の筆跡で記されている。

 

 

 

静思社/スエデンボルグ/アタナシウス信条について/P31

 

法王派の宗教については、主を崇めて、法王を重だった祭司であるとしか承認しない者はことごとく受け入れられるのである。彼らは、真理が全く欠けているその教義から、空虚なものとなってはいるものの、父なる神をめったに拝しないし、主を父なる神から引き離しもしないため、受け入れられているのである。

 

 

 

静思社/スエデンボルグ/神学論文集P64

 

それで、もし、彼らが法王崇拝から遠ざかり、聖徒たちを呼び求めることから遠ざかり、両種類の聖餐式にあずかるなら、改革派よりも容易に新しい教会へ、教えられて入れられることが出来るのである。

 

 

 

静思社/スウェーデンボルグ/新エルサレムの教義8

 

 仁慈が存在しないため、信仰も存在しないとき、教会の終りが来る。これは「最後の審判とバビロンの滅亡」をとり扱った小著に示されている(33−39番など)。仁慈が存在しないところには信仰も存在しないにも拘らず、基督教世界の中の諸教会は単に信仰の事柄によってのみ互に分離したために、私は以下に述べる教義の序説として、古代人の仁慈の教義について若干見解を披瀝しよう。「基督教世界の中の諸教会」と言ったが、このことにより改革派または福音派の諸教会が意味されていて、教皇派のもとには基督教会は存在していないため、そのことは意味されていない。なぜなら教会が存在する所には主は崇められ、聖言は読まれはするが、それに反し教皇派のもとでは、彼ら自身が主の代わりに拝され、聖言が人々に読まれることが禁じられ、教皇〔法皇〕の教令は聖言にも匹敵し、実にそれ以上のものであるとさえ主張されているからである。

 

 

 

 

2.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国4./P249

 

今朝私は自分自身の外におりましたが、聴罪司祭がもう一人の聖なる司祭と一緒におられるのを見ました。後者の神父様が言いました。

「あなたの状態が神の御旨ではない、という考えを捨てなさい。」

 それから、このコラートのプロテスタントの人たちのことについて話されました。

「彼らはほんの少ししか、または何もできないだろう。彼らは、カトリック教会がもっておるような、人々の心を釣り上げるための真理の釣針をもっていないからだ。彼らには、霊魂を救うことができるまことの徳の船に欠けるからである。

 

 彼らにはイエス・キリストの模範と教えである帆、かい、錨、が不足している。彼らには、秘跡という、飢えを満たすためのパンも、渇きをうるおし自分を洗うための水もない。さらに悪いことには、霊魂を釣り上げようと試みることができる恩恵の海までも不足している。これら全てのことに欠けるなら、どのような進歩を遂げることができるだろうか?」

 

 

 

 

3.マリア・シンマ

 

 

シスター・エマニエル/マリア・シンマとのインタビュー 煉獄に居る霊魂の驚くべき秘訣/P42

 

マリア、お尋ねしたいのです。他宗教の方 ― たとえばユダヤ教徒 ― があなたを訪ねて来たことがありますか。

 

 はい。彼らは幸せです。信仰をよく生きる人は誰でも幸せです。でも神のもとへ行くために最も多く獲得するのはカトリックの信仰を通してです。

 

霊魂にとって悪い宗教がありますか。

 

 いいえ。しかし地上には非常に多くの宗教がありますからね! いちばん近いのはギリシャ正教とプロテスタントです。ロザリオを唱える多くのプロテスタントがいます。が、宗教的なセクトはとても有害です。宗教的なセクトから人々を引き出すためにあらゆる方法を使うべきです。