可能であれば直接口に、
出来るならひざまずいて私を受けること
1.可能であれば直接口に、出来るならひざまずいて私を受けること
2.ひざをまげること・・・崇拝
3.なぜ多くの人々は私の体を手で受けることによりご聖体に対する崇敬を失っているのであろうか?
1.可能であれば直接口に、出来るならひざまずいて私を受けること
デボラ/生ける神よりあかされた英知/世のひかり社/3巻上P94〜97
もし可能であれば、人は、私の聖職者の手から直接口に、捧げるべき尊敬の全てをもって、それにふさわしく私を受けるように。
そのあとにあなたがたの心の中で、私に正当な歓迎を与えなさい。私はあなたがたの間にいることを望むが、私はあなたがたのうちの一人ではない、ということを忘れてはならない。私は受肉した神であり、単に神聖化された人間ではないのである。多くの私の友が到達し得ず、触れることができず、洞察することのできない私の聖体のために、その命までも与えたという事実を思い起こしなさい。
第三番目は、ひざまずいて、出来るならひざまずいて私を受けることである!
あなたがたのうちの何びとといえども、このように神聖なる尊厳そのものを、立ったままで受けてはならない。少なくとも私を王として、そして救い主として敬うしるしとして、その前にいったん片膝をつくべきである。あなたは、少なくともあなたは、完全な生徒としてこの模範を示しなさい。
聖母から司祭へ1989年6月13日
ファティマ第二のご出現の記念日 ドンゴ(コモ県)
フリーメーソンは、晩餐の面だけを目立たせて、その犠牲(いけにえ)としての価値を最小限とし、聖別されたホスチアにおけるイエズスの、実際上の位格的現存を否定しようと努力します。
このために、ご聖体におけるイエズスの、実際の現存に対する信仰を示す全ての外部的なしるしを、少しずつ取り消してしまったのです。しるしとは、ひざまずくこと、公式礼拝の聖時間、聖櫃を灯明と花で飾る聖なる習慣などのことです。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/4・14
[1]「ああ主よ、主を畏れる者のためにたくわえておおきになる、主の甘美はいかに大きいでしょう!」(詩篇30・20)
私は、主の秘跡にこの上ない敬虔と愛情とをもって近づく信仰厚い人々のあることを思いますと、心から恥じ入って赤面することがしばしばあります。私が主の祭壇、聖体拝領台に近づくのは、いかにも生ぬるく、冷ややかだからであります。
ああ私の神よ、私はいつも実に冷淡無情で、主のみ前に出ても一向心が燃え立たず、また多くの敬虔な人々のごとく一途にそれに引きつけられて感激させられるということもありません。
かれらは聖体拝領をしたいという激しい望みと、心に愛を感ずるあまり、涙さえとどめあえず、心とからだと両方の口を開いて、ああ神よ、生命の泉なる主を、魂の底から喘ぎ慕い、喜びと霊的熱望とに満ちあふれて主の聖体を拝領しないうちは、とうていその飢えをやわらげたり満たしたりすることができないのであります。
2.ひざをまげること・・・崇拝
天界の秘義5323
「彼らは彼の前にアブレヒと叫んだ」。(創世記41・43)
これは信仰を通して承認し、崇拝することを意味していることは以下から明白である、すなわち、『叫ぶこと』の意義は信仰を通して承認することであり(そのことについては後に述べよう)、『アブレヒ』の意義は崇拝である、なぜなら原語では『アブレヒ』は『膝を曲げよ』を意味し、膝を曲げることは崇拝であるからである。
なぜなら意志のものであり、かくて愛または情愛のものであり、従って生命のものである内的な努力はすべてそれに相応した外的な行為または動作を持っており、その行為または動作は外なる物の内なる物との相応そのものから流れ出ているのである。
聖い恐怖はそこから生まれてくる卑下とともに(それゆえ崇拝とともに)、それ自身に相応した行為または動作を伴っている、すなわち、膝を曲げること、膝の上に倒れること、また身体を地面にまでもひれ伏させることを伴っているのである。この状態にあっては、もしその崇拝が純粋な卑下から発しているなら、またはその卑下が純粋な聖い恐怖から発しているなら、息が阻喪し、そこから、霊的なものが自然的なものと連結し、かくて膝が在る境目または中間の領域で、関節が緩むのである、なぜなら下の部分は自然的な物に相応し、上の部分は霊的な物に相応しているからである。
そこから膝を曲げることは崇拝を表象するしるしとなっている。天的な人間にあってはこの行為は自発的なものであるが、霊的な人間にあっては意志の結果である。
天界の秘義4724
このことをまた信仰のみのために戦って、信仰の生活を送っていない者らはその者ら自身の中に消滅させてしまうのである。なぜなら彼らは主の人間的なものは純粋に人間的なものであって、他の人間の人間的なもの[人間性]に似ていなくはないと信じており、そこから彼らの多くの者はいかほど主をその唇で告白しても、主の神的なものを否定しているからである。しかし、跪いて、謙遜な心から信仰の生活を送っている者たちは主を救い主なる神として崇めており、そのときは神的な性質と人間的な性質とが区別される教義からは些かも考えはしないのであり、聖餐においてもまたそのように考えはしないのである。ここから彼らのもとでは主の神的な人間的なものが彼らの心の中に在ることが明らかである。
3.なぜ多くの人々は私の体を手で受けることによりご聖体に対する崇敬を失っているのであろうか?
天使館/天使のパン15号P47
ドレックス教授への救い主の御言葉 1972年9月1日早朝の主の御言葉
聖体祭儀における私の現存の神秘と犠牲を信じているかどうかが、正真正銘の本当のキリスト信者であることの試金石となるであろう。至聖なる御者が、唯一にして真の贖い主としての私への愛と崇敬、忠実さの証人となるであろう。
かつて私は、「私の喜びは人の子と共に居ることである」と語ったことがある。この喜びから、私の愛がご聖体の奇跡を生み出し、それを祝し、また信者たちがご聖体を拝領し、崇めるよう司祭たちに託したのである。
しかし、幾人からの司祭によって誤って導かれた信者や、真の教会の息子や娘たちの多くが至聖所を汚し、私の愛の神秘的犠牲は不信仰と不敬によって日常のありきたりの動作に貶められてしまっている。この罪に禍あれ!
ますます多くの司祭たちにとって、この神の祭儀はサタンの祭儀となっている。彼らは罪を信じていないので、贖いを信じることは不必要だと考えている。全ての罪の中で、ミサ聖祭に奉献された者たちに与えられた恵みを拒否し、不滅の霊魂を裏切る者となる罪は最悪である。
次のことを理解しなさい。神の愛の測りは、私の聖体の現存の神秘への崇敬とミサ聖祭への愛の深さによって測られる。ミサ聖祭とは、十字架上で流された、たった一回の血の犠牲をご聖体の神秘による無血の真の再現であり、記念の秘跡である。私のこの叫びを聞きなさい。ご聖体はもはや普通のパンではなく、私の体、即ち肉と血であること、つまりそれは無血の私の現存であることに気付いていない信者たちの間で、ご聖体を普通のパンのように手で受ける冒涜が増し加わっている。この罪に禍あれ!
私の偉大な使徒パウロは次のように言っている、「主の体のことをわきまえずに食べたり飲んだりする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(−コリント人への手紙(T)11:29)
なぜ多くの人々は私の体を手で受けることによりご聖体に対する崇敬を失っているのであろうか?
聖母マリアが私の神性と人性への崇敬と愛の完全な模範であることを、多くの人々は忘れてはならない。
*引用の聖書は「フランシスコ会」訳による。