人はパンのみにて生くるにあらず
神の口より出づる一つ一つの言によりて生く。
マタイ4・4
1.聖書
2.マザー・テレサ
3.支える・・・善と真理との流入
4.言葉・・・教義
5,『顔に汗を流してパンを食べる』(創世記3・19)ことは天的なものに反感を持つこと
1.聖書
申命記8・2−3
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたたちを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
マタイ4・1−4
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」
2.マザー・テレサ
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P166
多くの街の本当に貧しい界わいに私たちが住み、働いていて、みすぼらしい小屋に住んでいる人々と親しくなった時に、驚いたことがあります。それは、彼らが、飢えで死にかけていたり、裸で着るものがない時でさえも、彼らが第一に求めるのは、パンや衣服ではないということです。何と、彼らは、神のみ言葉、キリストについて教えてくださいと頼むのです。
人々は神を求めています。そのみ言葉を聞きたいと切望しているのです。
3.支える・・・善と真理との流入
天界の秘義5915
「そしてわたしはそこにあなたを支えましょう」(創世記45・11)。
これは内なる天的なものから霊的な生命が絶えず流入することを意味していることは以下から明白である。即ち、『支えること』の意義は、それが内なる天的なものを表象するヨセフにより言われているときは、内なる天的なものから発した霊的な生命の流入であり、支えることはその霊的な意義では善と真理とが天界を経て主から流入すること以外の何ものでもないのである。そこから天使たちは支えられており、またそこから人間の霊魂は(即ち、彼の内なる人が)支えられているのである。この支えられることに外なる人が食物と飲物により支えられていることが相応しており、それで『食物』により善が、『飲物』により真理が意味されているのである。そうしたものがまた相応となっているため、人間が食物をとっているときは、その人間のもとにいる天使たちは善と真理とを考えており、驚くべきことには、その考えもその食物の種類に従って異なっているのである。かくて聖餐において人間がパンとぶどう酒とを受けているとき、彼のもとにいる天使たちは愛の善と信仰の善とを考えるが(3464,3735番)、それはパンは愛の善に、ぶどう酒は信仰の善に相応しているという理由によっており、そしてそれらは相応しているため聖言ではまたそのことを意味しているのである。
天界の秘義5915[2]
人間の霊魂(すなわち、内なる人)は、霊的な食物と飲物により、すなわち、善と真理とにより支えられていることはモーセの書の主の御言葉から明白である―
人間はパンのみにより生きているのではなく、エホバの御口の語られる凡ての言葉により生きるのである(申命記8・3、マタイ4・4)
『エホバの御口から語られる言葉』はエホバから発している善と真理である。ヨハネ伝には―
朽ちる食物のために労苦しないで、残って永遠の生命にいたる食物のために労苦しなさい、それを人の子はあなたらに与えるのである(6・27)。
さらに―
弟子たちはイエスに願って、言った、先生、食べてください。かれは彼らに言われた、わたしにはあなたらの知らない食べる食物がある(4・31、32)。
また飲物については、同書に―
イエスは言われた、たれでももし渇くならば、わたしのもとに来て、飲みなさい。たれであれ、わたしを信じる者は、聖書が言っているように、その腹から生きた水の流れが流れ出るであろう(7・37、38)。
天界の秘義681
天的な霊的な食物の性質は他生で最も良く知られることが出来るのである。天使達と霊達の生命がこの世界に在るような食物によって支えられてはいないで、主がマタイ伝4・4に教えておられるように『主の御口から出る凡ての言葉』により支えられている。真理は主のみが凡ての者の生命で在られ、天使たちと霊たちが考え、語り、行う凡てのものは全般的にもまた個別的にも主から来ており、悪い霊らの考え、語り、行っていることもまた主から来ているということである。この後の者が悪い事柄を語りまた行っている理由は、彼らは主のものである諸善と諸真理をそのように受けて歪めてしまうということである。受容と情愛は受容体[受容する者の形]に応じている。このことは太陽の光を受ける種々の物にたとえることが出来よう、その或る物はその受け入れた光をその物の他の部分の形、決定、配置に応じ、不愉快な忌まわしい色彩に変えているが、他のものはそれを快い美しい色に変えるのである。全天界と霊たちの全世界は主の御口から発出している凡ゆる物によりこのようにして生きており、そこから各個人はその生命を得ており、全世界と霊達の世界のみでなく、全人類もそこからその生命を得ているのである。わたしはこうした事柄は信じられないであろうことを知っているが、それでも数年に亘る連続した経験から私はそれらが極めて真実であることを主張することが出来るのである。霊達の世界の悪霊等はそれがそうであることを信じようとはしない、それでそのことが再三彼らに―そのありのままに―証明されたが、遂に彼らはそれが真実であることを憤怒をもって認めたのである。もし天使と霊と人間がこの食物を奪われるならば、彼らは一瞬に息が絶えてしまうであろう。
4.言葉・・・教義
「彼らの言葉は一つであった」(創世記11・1)。
これは個別的にも一つの教義があったことを意味していることは前に言われたことから明白である。なぜなら『唇』は、前に示されたように、教義を全般的に意味し、『言葉』は教義を個別的に意味し、または教義の個々のものを意味しているからである。なぜなら個々のものは何物にも勝って主を愛し、自分のように隣人を愛するという一つの目的を目指しさえするなら、それは何ら一致しないものを生み出さないからである、なぜならそのときは個々のものはこれらの全般的なものの個々のもの[個別的なもの]であるからである。
天界の秘義1288 [2]
『言葉』が仁慈にかかわる凡ゆる教義とそこから派生してくる信仰とを意味し、『幾多の言葉』が教義に属した事柄を意味していることは、ダビデの書に明白である―
わたしはあなたの義の審判を学ぶとき、心を直くしてあなたに向かって告白しましょう、わたしはあなたの法令を守りましょう。何をもって子供はその道を清くしましょうか。あなたの御言葉に従って心を配ることによります。わたしはわたしの心を尽くしてあなたを求めました、あなたの教えからさまよわせないでください。わたしはあなたに向かって罪を犯さないように、あなたの御言葉を心の中に秘めました。ああ、エホバよ、あなたは祝福され給う。わたしにあなたの法令を教え給え。わたしはわたしの唇をもってあなたの御口の審判をことごとく繰り返しました。わたしはあなたの証の道にいて楽しみました。わたしはあなたの戒めの中で思いを巡らし、あなたの道を仰ぎます。わたしはあなたの法令を喜びます。わたしはあなたの御言葉を忘れません(詩篇119・7−16)。
ここの『言葉』は教義を全般的に意味している。ここには『教え』と『審判』と『証』と『戒め』と『法令』と『道』と『唇』とが区別されていて、この凡てが聖言にまたは教義に属していることが明白である。聖言では他の凡ての所でもそれらは同一の明確に区別された事柄を意味している。
天界の秘義1288 [3]
さらに―
愛の歌。わたしの心は善い言葉を欲した、わたしの舌は速やかに物を書く人のペンである。あなたは人の子らにまさってうるわしく、あなたの唇の上には恩寵[恵み]が注がれている。真理の言葉の上に、義しい優しい言葉の上に乗りたまえ、あなたの右手はあなたに驚くべき事を教えるでしょう(詩篇45・1,2,4)。
『真理の言葉の上に、義しい優しい言葉の上に乗ること』は真理と善との教義を教えることである。ここにも、聖言の他の所のように、『言葉』と『唇』と『舌』という語は明確に区別ある事柄を意味しており、それらが仁慈に関わる教義の事柄であることは明白である、なぜならそれが『愛の歌』と呼ばれているからである。この教義について人の子らに勝った恵みと驚くべき事柄を教える右手が述べられているのである。
天界の秘義1288 [4]
イザヤ書には―
エホバはヤコブに言葉をつかわされた、それはイスラエルに止まった(9・8)。
『言葉』は内なる礼拝と外なる礼拝との教義を意味し、ここの『ヤコブ』は外なる礼拝を、『イスラエル』は内なる礼拝を意味している。
マタイ伝には―
イエスは言われた、人間はパンのみによって生きはしない、神の御口から出る凡ての言葉によって生きる(4・4)。
さらに―
たれでも王国の言葉を聞いて、それに心をとめない時は、悪い者が来て、その心にまかれたものを奪い去ってしまう(13・19)。
また同章の20節から23節までに記された『言葉』を参照されたい。さらに―
天と地は過ぎ去るであろう、しかしわたしの幾多の言葉は過ぎ去りはしない(24・35)。
これらの記事では『言葉』は主の教義を意味し『幾多の言葉』は主の教義に属した事柄を意味している。
天界の秘義1288 [5]
『幾多の言葉』は教義の凡ゆる事柄を意味しているため、モーセの書には、十戒の戒めは『幾多の言葉』と呼ばれた―
エホバは板石の上に契約の幾多の言葉を、十の言葉を書かれた(出エジプト34・28)。
さらに―
かれはその契約をあなたらに布れられ、それらを、すなわち十の言葉を行うようにあなたらに命じられた、かれはそれらを二枚の板石の上に書かれた(申命記4・13、10・4)。
さらに―
自分自身に心をくばり、あなたの魂を勤勉に守りなさい、あなたがあなたの目でながめたいくたの言葉を忘れないためである(4・9)。
その他。
5.『顔に汗を流してパンを食べる』(創世記3・19)ことは天的なものに反感を持つこと
『顔に汗を流してパンを食べる』(創世記3・19)ことは天的なものに反感を持つことであることは『パン』の意味から明らかである。『パン』により霊的な天的なものがことごとく意味され、それは天使たちの食物であって、それを奪われると、彼らはパンまたは食物を奪われた人間のように死んでしまうのである。天界の霊的な天的なものはまた地上のパンに相応していて、更にそれにより表象されているが、そのことは聖言の多くの記事により示されている。天的な霊的な霊的なものはことごとく主から発生しているため、主はパンであられることを、主御自身ヨハネ伝に教えられている―
これは天からくだるパンである、このパンを食う者は永遠に生きるであろう(ヨハネ6・58)
それ故またパンと葡萄酒とは聖餐に用いられているシンボルである。この天的なものはまたマナにより表象されている。天的な霊的なものは天使たちの食物となっていることは、主の御言葉から明らかである―
人はパンのみによって生きない、神の御口から発する凡ての言葉によって生きる(マタイ4・4)。
即ち、天的な霊的なもののことごとくが発してくる源の主の生命から生きるのである。
天界の秘義276[2]
洪水のすぐ前にいて、ここに取扱われている最古代教会の最後の子孫は徹底的に堕落して、感覚的な身体的な物の中に溺れ、もはや信仰の真理とは何か、主とは何か、または主は来られて彼らを救われることを聞こうとはしなくなり、このようなことが言われると、面を反けたのである。こうした反感が『顔に汗を流してパンを食うこと』により記されているのである。同様にユダヤ人もまた天界的なものの存在を認めないで、単に世的なメシヤを欲するといった性格を持っていた結果、マナに対してはそれが主を表象していたため反感を覚えないわけにはいかないで、それを『くだらないパン』と呼んだため、火の蛇が彼らの間に送られたのである(民数記21・5、6)。更に彼らが涙にくれた逆境と悲惨の状態の中に在って彼らに与えられた天界的なものは彼らにより『逆境のパン』『悲惨なパン』『涙のパン』と呼ばれた。私たちが今取り扱っているこの記事では、反感をもって受け取られたものは『顔の汗のパン』と呼ばれている。
天界の秘義277
これが内なる意義である。文字に固執する者は人間は勤労によって、または顔に汗を流して土地から自分のためにパンを得なければならないとしか理解しない。しかし『人間』はここでは誰か一人の人間を意味しているのでなく、最古代教会を意味しており、『土地』も土地を、『パン』もパンを、『庭園』も庭園を意味しているのではなく、既に充分に示したように、天的な霊的なものを意味しているのである。