食物

 

われらの日用の糧を 今日われらに与え給え

人はパンのみにて生くるにあらず(マタイ4・4)

 

 

 

 

1.聖書

2.天的な食物

3.霊的な食物

4.自然的な食物

5.少年の差し出した大麦パンと魚

6.主の食べ物・使命を果たすこと

7.飢饉・飢え

8.「我は天より降りし活けるパンなり、人は、このパンを食はば永遠に活くべし」(ヨハネ6・51)

9.豆

10.肉食

11.愛という食物

12.苦しみ、迫害

13.食物の祝福

14.かれらの朝にあたるときは、善が供えられ、昼であるときは、真理が供えられる

15.乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません

16.何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです

17.怠け者には(食べ物は)少しも与えられはしない

 

 

 

 

1.聖書

 

ヨハネ4・27−34

 

ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。

「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」

 

 

 

 

2.天的な食物

 

 

天界の秘義56

 

29節、「神は言われた、見よ、わたしはあなたに凡ての地の面に在る種子を生む凡ての草を、果実を持つ凡ての木を、種子を生む木を与えよう。それをあなたの食物としなくてはならない。」

 天的な人は天的な物のみを喜び、それは彼の生命に適合しているため、天的な食物と呼ばれている。霊的な人は霊的な物を喜び、これは彼の生命に適合しているため、霊的な食物と呼ばれている。自然的な人も同様に自然的な物を喜び、それは彼の生命に属していて、食物と呼ばれ、主として記憶知から成っている。ここでは霊的な人が取り扱われているため、その霊的な食物は表象的なものにより記されており、例えば『種子を生む草』により記され、また全般的に『種子を生む木』と呼ばれる『果実のなる木』により記されている。彼の自然的な食物は次の節に記されている。

 

 

 

 

3.霊的な食物

 

 

天界の秘義57

 

『種子を生む草』は用を目的とした真理の各々であり、『果実のなる木』は信仰の善であり、『果実』は主が天的な人に与えられるものであるが、しかし『果実を生む種子』は主が霊的な人に与えられるものであり、それで『種子を生む木をあなたの[食物としなくてはならない]』と言われている。天的な食物は木からとった果実と呼ばれることは、天的な人を取扱っている次章から明白である。このことを確認するために私たちはエゼキエル書から主の以下の御言葉のみをここに引用しよう―

 

 川の傍に、その岸のこの側に凡ゆる食物の木が生え、その葉は色あせず、その果も食い尽くされず、その月にそれは再び生まれるであろう。その水は聖所から流れ出るからであり、その果は食物となり、その葉は薬となるであろう(エゼキエル47・12)。

 

『聖所から流れ出る水』は聖所である主の生命と慈悲とを意味している。『果実』は彼らの食物となる知恵であり、『葉』は彼らに役立つ理知であり、この役立つことが『薬』である。しかし霊的な食物は『草』と呼ばれていることは詩篇に明らかである―

 

 わが牧者、わたしは乏しくはならないであろう、あなたは草の牧地にわたしを伏させ給う(詩篇23・1、2)。

 

 

 

 

天界の秘義677

 

 再生することができる人間の食物については、事情は以下の如くである、すなわち、人間は再生することができる以前は手段として役立つことができる凡ゆるものを供えられる必要があるのである、すなわち、意志に対する手段としてはいくたの情愛のいくたの善と歓喜とを、また理解に対する手段としては主の聖言から発しているいくたの真理とまた他の源から発している確認させる事柄とを供えられる必要があるのである。人間がこのようなものを供えられないうちは再生することはできない、すなわち、これらのものが食物となるのである。このことが人間は成人期に達しない中は再生しない理由である。しかし人間各々にはその人に特有の、またいわばその人自身の食物があり、それがその者が再生する以前に主によりその者に供えられるのである。

 

 

天界の秘義680

 

 諸善と諸真理とは人間の真実な食物であることは各人に明白であるに相違ない、なぜならそれらを欠いた者は生命がなくて、死んでいるからである。人間は死んでしまうと、その者の霊魂を養う食物は悪から発した歓喜と誤謬から発した愉悦であり―これは死の食物であり―また身体的な、世的な、自然的なものから発したものであって、その中にもまた何ら生命はないのである。さらに、こうした人間は霊的な天的な食物とは何であるかを知っていないため、聖言に「食物」または「パン」が記されている時は常に身体の食物が意味されていると考えるのである。例えば主の祈りの「日毎のパンを私たちに与えてください」という言葉は単に身体を支えるもののみを意味していると考えており、その考えをおしすすめる者はそれはまた衣服、財産等といった身体の必要な物を含んでいると言っている。彼らはそれ以外の何らかの食物が意味されていることを鋭く否定さえしているが、それでもその前後の言葉は単に天的な霊的なもののみを意味しており、主の王国が語られていることを明白に見ているのであって、さらに彼らは主の聖言は天的な霊的なものであることを知ろうと思えば知ることも出来るのである。

 

 

 

天界の秘義680[2]

 

こうした、また他のそれに類似した例から現今の人間は如何に形体的なものであり、ユダヤ人のように、聖言に言われている事柄を最も棹雑な物質的な意義で考える気質を持っているかが、充分に明白であるに相違ない。主御自身聖言に『食物』と『パン』の意義を教えられているのである。『食物』については主はヨハネ伝に以下のように話されている―

 

イエスは言われた。朽ちる糧(または食物)のために労苦してはならない。永遠の生命にまでもいたる糧のために労苦しなさい。それを人の子があなたたちに与えよう(6・27)。

 

そして『パン』についても主は同章に言われている―

 

あなたらの父祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。これは天から降ってくるパンである。人間はそれを食べて死ぬことがないためである。わたしは天から降った生きたパンである。もし人がこのパンを食べるなら、かれは永遠に生きるであろう(6・49−51,58)。

 

 

天界の秘義681

 

天的な霊的な食物の性質は他生で最も良く知られることができるのである。天使達と霊達の生命がこの世界に在るような食物によって支えられてはいないで、主がマタイ伝4・4に教えておられるように『主の御口から出る凡ての言葉』により支えられている。真理は主のみが凡ての者の生命で在られ、天使たちと霊たちが考え、語り、行う凡てのものは全般的にもまた個別的にも主から来ており、悪い霊らの考え、語り、行っていることもまた主から来ているということである。この後の者が悪い事柄を語りまた行っている理由は、かれらは主のものである諸善と諸真理をそのように受けて歪めてしまうということである。受容と情愛は受容体[受容する者の形]に応じている。このことは太陽の光を受ける種々の物にたとえることができよう、その或る物はその受け入れた光をその物の他の部分の形、決定、配置に応じ、不愉快な忌まわしい色彩に変えているが、他のものはそれを快い美しい色に変えるのである。全天界と霊たちの全世界は主の御口から発出している凡ゆる物によりこのようにして生きており、そこから各個人はその生命を得ており、全世界と霊達の世界のみでなく、全人類もそこからその生命を得ているのである。わたしはこうした事柄は信じられないであろうことを知っているが、それでも数年に亘る連続した経験からわたしはそれらがきわめて真実であることを主張することができるのである。霊達の世界の悪霊等はそれがそうであることを信じようとはしない、それでそのことが再三かれらに―そのありのままに―証明されたが、ついにかれらはそれが真実であることを憤怒をもって認めたのである。もし天使と霊と人間がこの食物を奪われるならば、かれらは一瞬に息が絶えてしまうであろう。

 

 

天界の秘義4792

 

 食物と栄養とは霊的な食物と栄養とに相応しているため、それで味覚はこの食物を認識することとその食物に対する情愛とに相応しているのである。霊的な食物は知識と理知と知恵である、なぜならこれらのものから霊たちと天使たちは生きていて、栄養を受けており、かれらは丁度飢えた者が食物を欲し、それに食欲を感じるように、それらのものを欲し、またそれらのものに食欲を感じているのである。ここから食欲はこの願望に相応しているのである。そして驚くべきことを言うが、かれらはこの食物から成熟するのである。なぜなら小さな子供たちは死ぬと他生では小さな子供としてしか現れないし、また理解の方面でもそのようなものではあるが、しかし理知と知恵が増し加わるにつれて、小さな子供としては現れないで、年が進んだ者として、ついには大人として現れるからである。

 

 

天界の秘義5147[3]

 

『食物』が天的な善を意味していることは、天使たちの食物は愛と仁慈との善であり、その善によりかれらは生かされるのみでなく、また活気づけられているためである。行為となったこれらの善が、またはそれらの善を実践することが、それが天使たちの望んでいるものであるため、とくにかれらを爽やかにすることに役立っており、その願っていることが行為となって実現されるとき、それが活気と生命とを与えることは知られている。このようなものが人間の霊に栄養を与える一方では、物質的な食物はその身体に栄養を与えることもまた、食物は歓喜がなくてはほとんど栄養に役立ちはしないが、歓喜とともになると、栄養を与えるという事実からもまた知ることができよう。食物を受け入れて、それを血液に運ぶ通路または輸送管を開くものは歓喜であるに反し、歓ばしくない物はそれらを閉じてしまうのである。天使たちのもとではこれらの歓喜は愛と仁慈との善であり、このことからその善は地上の食物に相応した霊的な食物であることが推定されることができよう。善は食物であるように、真理は飲物である。

 

 

天界の秘義6078

 

「あなたの僕たちの羊には草地がないからです」。これは、真理の諸善を宿した記憶知が欠けていることを意味していることは、『羊の草地』の意義から明白であり、それは真理の諸善が宿っている記憶知であり、かくて『草地がないこと』は真理の諸善の宿っていない記憶知である。『草地』はその内意では霊的な生命を支えるものであり、とくにそれは記憶知の真理である。なぜなら人間の霊魂は身体が食物を欲するようにその真理を欲するからである。この真理が栄養を与えるのであり、それで『食べること』は教えられることを意味している(5201番を参照)。記憶知と真理とが人間の霊魂を支えていることは人間が物事を知ろうと切望することから、また食物と記憶知との相応からも非常に明白であり(1480、3114、4792、5147、5293、5340、5342、5576、5579、5915番)、その相応もまた人間の中に人間が食物をとっているとき明らかに現れているのである。なぜならもしそのことがかれが話したり、聞いたりしている中に行なわれるなら、乳びを受けるいくたの器官は開かれて、かれはただ一人いるときよりもさらに完全に栄養を与えられるのである。霊的な真理とその真理とを教えられることも人間に対しもしその人間が善の情愛をもっているなら、同じ結果を与えるであろう。真理が霊的な生命を養うことは善良な霊と天界の天使のもとではとくに明らかである。なぜなら善良な霊も天使も事物を知って賢明になろうと絶えず切望しており、この霊的な食物に欠けると荒れすさんだ気持ちになり、その生命は生気を欠き、かれらは飢えるのであり、その切望が満たされない中は、その生命の祝福へあげられはしないからである。しかし記憶知が霊魂に健全な滋養をえるためには、その中に真理の諸善から生命が存在しなくてはならない。もしこの源泉から生命が存在しないなら、記憶知は実際その人間の内的な生命を支えはするが、しかしそれはただかれの自然的な生命を支えるのみで、その霊的な生命を支えはしないのである。

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・9巻P232

‘99・1・1

 

主よ、私の意志を そして

み名にいっそうの栄光となるすべてをお捧げします。

あなたは 私の王的な宴。

 

貧しい者たちのもとに 食物を運び与えるのを 私どもは悦んでいる。我が心のそば近くにいてその鼓動に聞き入りなさい・・・・ic

 

 

聖母から司祭へ1985.3.16

 

 繰返していいます。聖書の、特にイエズスの聖福音の貴い食物で自らを養いなさい。

 現在、たくさんのやり方で天の母があなたたちにおくるメッセージを受け入れ、これに生きなさい。

 

 

 

 

4.自然的な食物

 

 

天界の秘義58

 

30節。「そして地の凡ての野生の動物に、天の凡ての鳥に、生き物のいる地の面を這う凡ての物に青草は凡て食物となるであろう、と。そのようになった。」

 同じ人間の自然的な食物がここに記されている。彼の自然的なものは『地の野生の動物』と『天の鳥』により意味され、これに食物として野菜と青草とが与えられている。彼の自然的な食物と霊的な食物とはダビデの書に、以下のように記されている―

 

 エホバは草を生えさせて獣に与え、青草[草]を生えさせて

人に役立たせまい、かくて人は地からパンを生み出す(詩篇104・14)。

 

ここの『獣』の語は同じ詩篇の11節と12節に記されている地の野生の動物と空の鳥とを表現するために用いられている。

 

 

 

天界の秘義59

 

『野菜と青草』のみが自然的な人の食物としてここに記されている理由は以下のごとくである。人間が霊的なものにされつつある再生の経過では、彼は絶えず争闘に携わっていて、そのため主の教会は『戦闘的』教会と呼ばれている。なぜなら再生以前は人間全体は全く諸々の欲念とそこから発している諸々の誤謬とから成っているため、その諸々の欲念に支配されているからである。再生の間にこれらの欲念と誤謬とは瞬時に廃棄されることは出来ない。なぜならそれらは彼が獲得した唯一の生命であるため、そのようなことは、その人間全体を破壊してしまうからである。それで悪霊等は長い間彼の許に止まっていることを許されているが、それは彼らが彼の諸々の欲念を刺激して、その諸々の欲念が、主により善に向けられ、かくてその人間が改良される程になる迄も、無数の方法をもってゆるめられるためである。争闘の時には、凡て善で真のものに、即ち、主に対する愛と信仰とに属した凡てのものに―このもののみがその中に永遠の生命を持っているために、善であり、真理であるが―極度の憎悪を抱いている悪霊らは人間に食物として野菜と青草とに譬えられているものを除いては何ものも残さないが、それでも主は種子のなる草と果実をもった木とに譬えられる食物をまた与えられるのであり、その種子のなる草と果実のなる木とは楽しさと歓びとを持った静謐と平安との状態であり、この食物を主はその人間に時折与えられるのである。

 

 

 

 

 

5.少年の差し出した大麦パンと魚

 

 

ヨハネ6.9/サンダー・シング/インド永遠の書/P236

 

「あのとき、わたしに仕えたのは、中風から癒された一人の少年だった。わたしの話をききたい一心で、彼はわたしに付いてゆく決心をしたのだ。貧しかった少年の母は、ニ、三日分の食糧にと、何枚かの大麦パンと乾し魚二匹を布にくるんでもたせた。群集に食べさせる食糧探しが始まったときに、この少年は自分のもっているものすべてをすぐさま差し出し、弟子たちの足元にこれを広げたのである。小麦パンのようなはるかに質のよい食物を携える裕福な者たちもいたが、彼らは自分の食物を放棄しようとはしなかった。そこで、この少年の大麦パンとわたし自身の祝福によって、五千人の群集は最善の食糧を得たのである。」

 

 

 

 

6.主の食べ物・・・使命を果たすこと

 

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義5147(3)

 

 「食物」が天的な善を意味していることは、天使たちの食物は愛と仁慈との善であり、その善によりかれらは生かされるのみでなく、また活気づけられているためである。行為となったこれらの善が、またはそれらの善を実践することが、それが天使たちの望んでいるものであるため、とくに彼らを爽やかにすることに役立っており、その願っていることが行為となって実現されるとき、それが活気と生命とを与えることは知られている。このようなものが人間の霊に栄養を与える一方では、物質的な食物はその身体に栄養を与えることもまた、食物は歓喜がなくてはほとんど栄養に役立ちはしないが、歓喜とともになると、栄養を与えるという事実からもまた知ることができよう。

 

 食物を受け入れて、それを血液に運ぶ通路または輸送管を開くものは歓喜であるに反し、歓ばしくない物はそれらを閉じてしまうのである。天使たちのもとではこれらの歓喜は愛と仁慈との善であり、このことからその善は地上の食物に相応した霊的な食物であることが推定されることができよう。善は食物であるように、真理は飲みものである。

 

 

 

ヨハネ4.31−34

 

 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。

 

 

天界の秘義5147(6)

 

 「父の意志を行い、その御業を完成すること」は行為となった、または実践された神的な善[神の善]であり、それが、前に言ったように、その純粋な意義では「食物」である。

 

 

天界の秘義5293

 

「かれらに食物を凡て集めさせてください」(創世記41・35)

 

これは有用な凡ゆる物を意味していることは以下から明白である、すなわち、『集めること』の意義は共に集めて保存することであり、『食物』の意義は有用なものである。内意では『食物』は元来、人間の霊魂を養うものを、すなわち、死後人間を養うものを意味している、なぜならかれはそのとき霊魂または霊として生き、もはや物質的な食物を必要としないで、有用な凡ゆるものから、また役立つようになる凡ゆるものから成り立っている霊的な食物を必要とするからである。役立つようになるものとは善い真のものを知ることである、役立つものとは善い真のものを意志し[欲し]行うことである。これらが天使たちを養うものであって、それで霊的な天界的な食物と呼ばれている。人間の内的な理解と内的な意志とを、または人間の意図または目的を内に宿している人間の心は、人間が身体の中で生きている間さえも他のいかような食物によっても養われはしないのであり、物質的な食物は心には浸透しないで、ただ身体の物にのみ浸透するにすぎず、その身体をその食物が維持するのは、身体がその食物を楽しんでいる間にこの心が心の食物を楽しむためであり、すなわち、この心は健全な身体の中で健全になるためである。

 

 

天界の秘義5293[]

 

『食物』が霊的な意味では有用な凡ゆるものを意味していることは、人間の知ることはすべて、またその理解して、賢くなることはすべて、それゆえ、その意志する[欲する]ことはすべて、用をその目的としなくてはならないのであり、そこから人間の生命の性質はその用の性質に従っているためである。『食物』はその内意では有用なものをすべて意味していることは主の以下の御言葉から明らかである―

 

イエスは弟子たちに言われた、わたしにはあなたたちの知らない食物があります。それで弟子たちは互いに言った、たれがかれ[先生]に何か食べものを持ってきたのですか。イエスはかれらに言われる、わたしの食物はわたしをつかわされた方の御意志を為し、その御業を完成することであります(ヨハネ4・32−34)

 

また他の所には―

朽ちる食物のために労しないで、残って永遠の生命にいたる食物のために労しなさい、それを人の子はあなた方に与えましょう、父なる神はかれを保証されたからである(ヨハネ6・27)。

 

 

天界の秘義5576(5)

 

 それで、「食物」はその最高の意義では、それが主について述べられているときは、人類を救おうとする神的な愛の善である。この食物がヨハネ伝の主の御言葉により意味されているものである。

 

 イエスはその弟子たちに言われた、わたしにはあなたらの知らない糧がある。わたしの糧はわたしをつかわされた者の御意志を為して、その御業を完成することである(ヨハネ4・32、34)。

 

『かれをつかわされた者の御意志を為し、その御業を為すこと』は人類を救うことであり、このことが為される源泉である神的なものは神的な愛[神の愛]である。この凡てから今や『飢饉』によりその霊的な意義において意味されていることが明らかである。

 

 

十字架の聖ヨハネ/カルメル山登攀/ドン・ボスコ社/P81

 

 第二には、これをりっぱに行うことができるために、感覚を楽しませるものはどんなものでも、それが純粋に神の名誉と光栄のためでないのなら、それらをしりぞけて、イエズス・キリストの愛ゆえに、そうしたものに全く無関心でいなくてはならない。

 というのは、キリストご自身、御父のみ旨をなす以外に、何のたのしみも望みもなく、御父のみ旨をなすことが、自分の食物であり糧であると言われたのであるから。

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P331(天使館版44・13)

 

“我らのパン”とは何か。おお、それは、マリアの清い手がこね、私がそのたびに薪の束を運んだ、あの小さなかまどで焼いたパンのことではない。それも、この世にいる間は必要ではあるが、“我らの”毎日のパンは、日々に、我らの使命を行うことであった。私は、それを毎日くださるように祈った。なぜなら、神が与える使命を果たすこと、これは“我らの”日々の喜びである。そうでしょう、小さなヨハネ(マリア・ワルトルタのこと)。主の慈悲があなたに、その日々の苦しみの使命の部分を与えてくださらないならば、その日は空白である、とあなたも言うではないか。

 

 

マリア・ヴァルトルタ48・7/天使館第1P428

 

『神のみ旨を行い、その栄光に仕える喜びが、わたしの分け前だ』

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P79

 

「喜びだけではなかったのですよ。あの罪深い人は回心しませんでした。イエズスが本当の喜びを感じるのは、罪から贖われた人を見る時です・・・」

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・8巻P50

‘95・5・12

 

あなたの食物とは 私の意思を行うこと。

 

 

 

 

7.飢饉・飢え

 

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義5576

 

 「飢饉は甚だしくなった」(創世記43・1)。

 

これは霊的な事柄が乏しくなったために荒廃したことを意味していることは「飢饉」の意義から明白であり、それは善と真理にかかわる知識が欠乏することであり(3364,5277,5279、5281、5300)、そこから荒廃することであり(5360、5376、5415)、荒廃は霊的な事柄が僅かなものとなり、必然的に乏しくなることから起こるため、そのこともまた「飢饉」により意味されている。

 

 

天界の秘義5576(2)

 

 霊界または天界における飢えは食物を求める飢えではない。なぜなら天使たちは人間が世でもってまわる身体のための物質的な食物を食べはしないからであり、それはかれらの心を養う食物に対する飢えである。この食物は、霊的な食物と呼ばれ、それは真理を理解して、善において賢明になることであり、言うも驚嘆すべきことではあるが、天使たちはこの食物により養われるのであり、そのことは以下の事実からわたしに明白にされたのである。すなわち、死んだ子供たちは天界で理知の諸真理と知恵の諸善を教えられた後は、もはや小さな子供たちとしては現れないで、大人として現れ、しかもそのことはかれらの中に善と真理が増大することに順応しているのである。またそのことは以下の事実からもわたしに明白にされたのである。すなわち、天使たちは理知と知恵の事柄を絶えず渇望しており、かれらが夕の中に、すなわち、こうした物が欠けている状態の中にいるときは、それに応じて相対的に幸福でない状態の中におり、そのときはかれらは朝が新しくかれらのために明けそめて、かれらが理知と知恵のものであるその幸福な生命に帰ることを、何ものにもまさって飢え求め、切望するのである。

 

 

天界の秘義5576(3)

 

 真理を理解し、善を意志する[欲する]ことが霊的な食物であることはまたたれにでも以下のことを反省するなら明らかとなるであろう。 すなわち、人は身体の栄養のために物質的な食物を楽しんでいるとき、もしその者がそれと同時に愉快な精神状態の中にいて、快適な題目について話を交わしているなら、その食物はさらに栄養のあるものとなるのであり、そのことは霊魂に対する霊的な食物と身体に対する物質的な食物との間に相応が存在しているというしるしとなっている。またそのことはさらに以下の事実から明白である。すなわち、知識と理知と知恵の事柄に心が浸透されることを切望している者が、そうしたものから遠ざけられるときは、悲しみ、苦しみはじめて、飢えている者のようにその霊的な食物に帰り、それによってその魂に再び栄養が与えられるのを切望するのである。

 

 

天界の秘義5576(4)

 

 物質的な食物が身体を養うように霊魂を養う霊的な食物が在ることはまた聖言からも認めえられるであろう。例えばモーセの書には―

 

 人間はパンのみにて生きるのではない、エホバの口で語られる凡ての言葉により人間は生きるのである(申命記8・3、マタイ4・4)

 

 「エホバの口で語られる言葉」は全般的には主から発出している神的な真理であり、かくて知恵の凡ゆる真理であり、とくに知恵のもろもろの事柄がその中に宿り、それらのものの源泉となっている聖言である。ヨハネ伝には―

 

 朽ちる糧のために労してはならない、永遠の生命にまでもいたる糧のために労しなさい、それを人の子はあなたらに与えるのである(ヨハネ6・27)。

 

 この糧は主から発している知恵の真理であることは明白である。

 

 

天界の秘義5576(5)

 

 このことからもまた同章の主の以下の御言葉により意味されていることを知ることができよう―

 

 わたしの肉は実に糧であり、わたしの血は実に飲みものである(ヨハネ6・55)

 

すなわち、主の「肉」は神的善であり(3813)、その血は神的真理である(4735番)、なぜなら主はその人間的なものをことごとく神的なものとなされなかったときは、その肉は神的な善以外の何ものでもなく、その血は神的な真理以外の何ものでもなかったからである。神的なものの中には物質的なものは何一つ理解されてはならないことは明白であり、それで、「食物」はその最高の意義では、それが主について述べられているときは、人類を救おうとする神的な愛の善である。この食物がヨハネ伝の主の御言葉により意味されているものである―

 

 イエスはその弟子たちに言われた、わたしにはあなたらの知らない糧がある。わたしの糧はわたしをつかわされた者の御意志を為して、その御業を完成することである(ヨハネ4・32,34)。

 

「かれをつかわされた者の御意志を為し、その御業を為すこと」は人類を救うことであり、このことが為される源泉である神的なものは神的な愛[神の愛]である。この凡てから今や「飢きん」によりその霊的な意義において意味されていることが明らかである。

 

 

 

 

8.「我は天より降りし活けるパンなり、人は、このパンを食はば永遠に活くべし」(ヨハネ6・51)

 

 

スウェーデンボルグ/真の基督教494

 

 人間が愛をもって受け入れ、その理解をもって確認するところの聖言と教会の霊的な物は、彼の許に存続するけれど、民事的な政治的な事柄は存続しないことは、注意されなくてはならぬ。何故なら、霊的な事柄は心の最高の領域に昇り、そこに形成され、排列されるからである。心の最高の領域は主が由って以って神的な真理と善とを以って人間に来たり給う入り口であり、主がその中に住み給う神殿の如きものである。(続く)

 

 

 

 

9.豆

 

 

天界の秘義3316

 

「ヤコブは豆汁を煮た」。(創世記25・29)

 

これは混沌としたかたまりとなった教義的な事柄を意味していることは以下から明白である、すなわち、ヤコブの表象は自然的な真理の教義であり(3305番)、かくて自然的な人の中に存在している教義的な事柄であり、『豆汁』の意義はこのようなものの混沌としたかたまりである。

 

『それを煮ること』は蓄積することを意味している。なぜなら原語ではその表現は、恰もかれは『豆汁を豆汁にした[あつものをあつものにした]、すなわち、それを蓄積したと言われているかのうように、豆汁[あつもの]に特有な表現であるからである。善と真理との連結の最初の状態がこの節と以下の節に、本章の終わりに至るまでも記されているものである。

 

 

[]再生しつつある人間の、または真理が善に連結されつつある人間の最初の状態は、先ずかれの自然的な人の中に、または記憶と呼ばれているその倉庫の中に、真理の教義的な物が何らの秩序も無しに蓄積されているということである。その中にその時在る教義的な事柄は何か消化されていない、合成されてもいない塊りに、一種の混沌としたものにたとえることができよう。

 

しかしこれはそれらのものが秩序づけられる目的のために在るのである、なぜなら何であれ秩序づけられるものはことごとく最初はこうした混乱した状態の中に在るからであって、これがヤコブが煮た、すなわち、蓄積した豆汁により意味されていることである。

 

これらの教義的なものはそのもの自身によっては秩序づけられはしないで、それらのものの中へ流れ入る善により秩序づけられるのであり、善はそれがそれらのものに働きかける量と質とに正確に比例してそれらのものを秩序づけるのである。善がそれ自身にこれらの教義的なものを連結させようとしる目的から、先ずその教義的なものを渇望し、欲するとき、その善はそれ自らを真理に対する情愛の外観の下に示すのである。

 

これがエソウがヤコブに『どうかわたしにその赤いものを、この赤いものを吸わせてください』と言ったことにより意味されていることである。

 

 

[](前略)

これらの事柄は文字の意義からは実に縁遠いもののように思われるが、にも拘らずこれらの言葉が人間により読まれて、その文字の意義に応じて人間により把握されるときは、そのときかれのもとにいる天使たちは、豆汁を、或いはヤコブを、或いはエソウを、或いは赤いものを、或いは赤いものを吸うことを些かも全く考えないで、それに代って、このような自然的な観念とは全く相違し、またそこからは縁遠い霊的な観念を抱いて、この霊的な観念にこれらの自然的なものは一瞬に変化してしまうのである。

 

聖言の他の事柄も同じである、例えば人間がパンのことを読むと、天使たちはパンを何ら認めないで、直ぐにパンに代って天的な愛とそれに属している凡ゆるものを、すなわち、主に対する愛にぞくしている凡ゆることがらを認めるのであり、聖言の中にぶどう酒が読まれると、かれらはぶどう酒を認めないで、ぶどう酒に代って霊的な愛と、それに、すなわち、隣人に対する愛にぞくしている凡ゆるものを認めるのである。

 

同様に豆汁または豆が読まれるとき、かれらは豆汁または豆を認めないで、未だ善と連結していない教義的な事柄を認め、かくてそれらの物の混沌としたかたまりを認めるのである。

 

 

 

 

10.肉食

 

 

イザヤ25・6


万軍の主はこの山で祝宴を開き
すべての民に良い肉と古い酒を供される。
それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。

 

 

「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」

 

 出エジプト 16:13 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。

 

 

 

 

11.愛という食物

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/第3巻中/P155

172・8

 

 祈りについて語りましたが、断食についても話しましょう。断食をする時、偽善者のように暗い顔つきをしてはなりません。彼らは断食していることを人びとに見せるために、暗い顔つきをします。彼らはすでにその報いを受けているのです。しかしあなたたちは断食する時、涼しげで滑らかな肌になるようにたっぷり水を使ってよく洗い、髭に油を、髪に香油を塗り、血色のいい口許に笑みを浮かべていなさい。おお! 実際、愛ほど体を養う食物があるだろうか? また愛の霊をもって断食する者は自分を愛で養うのです! また愛の霊をもって断食する者は自分で自分を養うのです! まことにあなたたちに言います、たとえ世があなたたちを『見えっ張り』と言おうが、『収税人』と言おうが、はあなたたちの英雄的秘密を御覧になり、二重の報いをあなたたちにお与えになるでしょう。断食そのもののためと、断食のために誉められないという犠牲的行為のために。

 

 

 

 

12.苦しみ、迫害

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P165

‘92・10・21

 

ヴァッスーラ、書きなさい(*): 「・・・その時、野のすべての木々は、主なる私が、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。 主である私がこれを語り、実行する ♡」

 *主はエゼキエル書17・24を書くように頼まれました。

娘よ、あなたが誰かに傷つくたびに、愛の深淵なる、我が心は あなたをその深みに引き入れようと 口を大きく開く。 私はその傷一つ一つを いたわりをもって我が口で接吻する・・・娘よ、私の与える十字架を受け入れてくれるか? ・・・あなたに問うている・・・

 

苦しみは私にとって日常の糧となりました、けれどあなたと分かち合えるのは何という光栄。あなたは日ごとに部屋を訪ねて来られ、となりに座って食事をともにして下さいます。日ごとの糧を分かち合って。あなたが私を生けにえにするお方、容赦なく私に弓を向け、この選ばれた的に、矢を雨のように降らせておいでです。その矢で私の霊魂は、火がついたように、跳び上がります。ところが、この食物がありませんと尋ねるのです:「心を焼き尽くすこの食物はどこでしょう?」と。

 

♡ 私の寛大さと親切はまだ尽きていない。 示した好意を新にしよう、あなたを灰とするまで焼きつくし、私の矢を求めて酔いしれるほどに霊魂の渇きを覚えさせるがゆえ。 その恵みを与えないではおかない・・・そこで歓び歓喜しなさい 次はあなたに我が杯をまわす・・・私は 国たみが次々と私の陰で暮らし、御父が私を送られたと 信じるようにさせる(*)、

そう、地上の支配者、知事や総督、裕福な 影響およぼす人びともおしなべて、全ての国たみ(**)が、私を生ける神の子、キリストとして認める日が来る。

 *ヨハネ福音書17・21。  **黙示録6・15.

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P169

‘92・11・1

 

あなたへの熱意が私を焼き尽くします、私はあなたのもの、主よ。 どうぞみ顔を私のほうに向け、わが口を満たし、生き返らせて下さい。人のうわさから、救っていただけますように・・・

 

今しがた与えた我が敬意のしるしを 受け取りなさい(*)

 *ある知り合いが私をどう迫害しているかを、聞いたばかりでした。

 

主よ、あなたを気も狂わんばかりに、お慕いします。

 

私を愛さない人びとに代って 愛しなさい。 私は在る が見守っている。 我が誉れとなるように、最愛の霊魂よ、あなたを少しずつ引き上げてきた。 この世代に: 愛と一致 という言葉を教えるのです。聴きなさい 我が聖心のヴァッスーラ、私の愛が あなたを救う。 あなたはつまらない者として蔑まれよう、我が家の中で反ばくされ 信じてもらえないであろう。 迫害が日々の糧となり、地上での報いとなる、こうして このすべてがあなたの足取りを 私の王国へ向わせる。 残された足跡は 多くの霊魂を私のもとに連れて来よう。 それゆえ、私自身の足跡をよく見据え 従って来なさい ♡ 

 

 

 

 

13.食物の祝福

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P228

‘88・5・25

 

今朝は、主を識別し ご一緒にお話しするのがちょっと困難なほど、大変忙しくしていました。後ほどベランダで昼食を摂りに行き 腰掛けました。食べていると突然、こころの目で内的に、主が一緒に座って私が食べているのをご覧になっているのが見えました。主は仰います: 「おいしいですか?」わたしは答えました:「はい、主よ、ありがとうございます。」ちょっと間があり、それから主はお尋ねになったのです:「食べ物を祝福してほしいか?」お答えしました:「はい、主よ、そうなさって下さい。」そこでイエスは食べ物を祝福し、食べ終えるまで一緒にいて下さいました。それから主に食事のことを感謝しました。

―主は食べる前に食物の祝福をお願いするようにと示されたのでした。

 

♡ 愛する者よ 祝福を願うように努めなさい、本当にあなたの食べ物を祝福する ♡

 

はい 主よ、お教え下さりありがとうございます。

 

ヴァッスーラ、愛している、最後まで天から訪れたあなたの教師となろう ♡

 

 

 

 

14.かれらの朝にあたるときは、善が供えられ、昼であるときは、真理が供えられる

 

 

天界の秘義6110

 

荒廃については、諸々の真理と善が、またそれらの真理と善にかかわる諸々の知識が天界にいる者たちの霊的な生命を作っていることを知られたい、なぜならこれらは天的な食物であって、それらをもってかれらは養われるからである。これらの食物は日毎にかれらに主から与えられているのである。かれらの朝にあたるときは、善が供えられ、昼であるときは、真理が供えられるが、しかし夕であるときは、善と真理とは欠乏し、これは薄暮と朝が帰ってくるときまでも続くのである。そのとき天使たちは食を求める状態におかれ、それはかれらが地上の飢えた者が食物を渇望するにもまさってそれらのものをかつぼうするといった性質のものである。この状態が『飢饉』により意味されており、一種の荒廃であるが、しかしそれは低地にいる者らのもとに存在しているよなものではない(698、699、1106−1183番)。

 

 

天界の秘義6110[2]

 

 ほとんどたれでもこの世の人間は、天使たちの天界が諸真理と諸善とに対し、またそれらのものにかかわる知識に対してこのような食欲を持っていることは信じることはできない、なぜなら利得や栄誉や、快楽に耽る以外のことには何ら熱意を持っていない者らは、このようなものが天使たちの生命の要素となっていることを怪しんで、『善と真理を知る知識はわたしにとっては何であろう、それらは生命と何の関係があろう。生命を、生命の歓喜を与える物は、富、名誉、快楽である』と言うからである。

 

 

天界の秘義6110[6]

 

しかし地獄には夜がある。そこにもまた交替があるが、しかしそれは天界の交替と対立しているのである。なぜなら地獄では朝は欲念の熱であり、昼は誤謬の渇望であり、夕は不安であり、夜は呵責であるからである。しかもこの凡ての交替を通して夜が支配しており、これらの交替したものを生み出すものは薄暮と夜の暗黒との変化にすぎないのである。

 

 

 

 

15.乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません

 

 

ヘブライ5・13

 

乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。

 

 

 

 

16.何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです

 

 

ローマ14・1

 

 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。

 

 

 

 

17.怠け者には(食べ物は)少しも与えられはしない

 

 

結婚愛6

 

それで天界では、身体のための食物は各々にその者の遂行する用に従って与えられており、それは卓越した用にいる者には、ぜいを極めており、中庸の度の用にいる者には普通ではありますが、微妙な風味があり、低い用にいる者には単純なものでありますが、しかし怠け者には(食べ物は)少しも与えられはしないのです。