われらの日用の糧を 今日われらに与え給え

食物

 

 

1.マリア・ワルトルタ

2.スウェーデンボルグ

日毎のパン

 

 

1.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」/渡邊義愛訳/天使館/P115

‘43年7月7日

 

 霊に関わる請願を済ませたら、貧しく、肉の必要のさ中に生きるあなたたちは、空の鳥たちに食物を用意し、野の百合を装う御方にパンを願いなさい。『今日、我らに日用の糧(かて)を与えたまえ』と。

 

 わたしはきょうと言い、パン(糧)と言った。わたしは余計なことは決して言わない。

 きょう。その日その日、に助けを求めなさい。それは慎重さ、正義、謙遜の尺度である。

 慎重さ。もし一度に全部持てば夥(おびただ)しく消費するだろう。あなたたちはいつまでも子供で、かてて加えて我(わ)が儘(まま)ときている。の賜物を浪費してはならない。それに何もかも持っていたなら、あなたたちはを忘れてしまうだろう。

 

 正義。わたしはその日その日にの助けを得ていたというのに、なぜ、あなたたちが一度に全部を持たねばならないのか?心の底で、人間的な気遣いをして、明日は何も与えてくださらないかもしれないし、一寸先は闇なのだから、きょうが全部をくださればいいのに、と考えるのは不正ではないか?あなたたちはそれについて反省していないが、不信は一つの罪である。に対して不信を抱いてはならない。は完全にあなたたちを愛しておられるのだ。超完全なである。すべてを一度に求めるなら信頼を傷つけを侮辱する。

 

 謙遜。その日その日乞い求めねばならないということが、あなたちの無、貧しさという条件と、一切でありであるというの概念が、あなたたちの心頭を新たにするように。

 

 パン。わたしが『パン』と言ったのは、パンは滋養物の王であり、生命には不可欠だからだ。わたしはこの一語をもって、またその一語の中に、あなたたちの地上での逗留に必要とする一切を封じ込めた。しかし、あなたたちの霊的温度がそれぞれ異なるように、この一語の広がりは異なる。

 

『食物としてのパン』。自分の腹を満たす糧をに願い求めることを知っていれば、そうそれでたくさん、という胚芽期の霊性をもつ者のパンである。それを乞い求めず、と兄弟たちに悪態をつきながら乱暴にそれを取り上げて食う者がいる。そのような者はから怒りの目で見られる。なぜなら他の掟はそれに由来する掟、すなわち『あなたのを心を尽くして愛し、あなたの隣人を己のように愛せよ』という掟を踏み躙(にじ)るからである。

 

『助けとしてのパン』。腹を満たすためにだけ生きているのではなく、より形成された霊性をもち、思考としつつ生きることを知る者が精神的に物質的に必要とするパンである。

 

『宗教としてのパン』。更にもっと形成された霊性をもち、感覚や人間的感情の満足に対してを優先させ、超自然に向けてすでに両翼を羽ばたかせている者たちのパンである。

 

『霊のパン、生贄のパン』。成熟した霊に到達し、のもとに行く日まで、死すべき命を生き続けるために、肉と血に絶対必要なものだけを摂取し、霊において、真理において生きている者たちのパンである。この人たちはわたしの模範に則(のっと)り、自分自身を鑿(のみ)で削ったわたしの生きたコピーであり、は彼らの上に愛の抱擁をしようと身を屈められる。

 

 

主の祈り/マリア・ヴァルトルタの「手記」より/天使館

1943年7月7日

 

われらの日用の糧を 今日われらに与え給え

 

 霊に関する四つの祈願を終えた後、空の鳥に食物を与え野の百合を装われる御父に、パン(糧)を願い求めなさい。なぜなら、あなたたちは貧しく、体がパンを必要とする中で生きているからである。私はこの祈りの中で「今日」と言った。また、「パン(糧)」と言った。私は無益なことは決して言わない。「今日」という意味は御父に毎日毎日助けを求めなさいということである。それは節度、神の義、謙遜の尺度となる。

 

節度。もし一度に全部与えられたら、あなたたちは夥しく浪費してしまうであろう。あなたたちはいつまでも子供のようで、その上わがままである。神の賜物を浪費してはならない。それに、もし何もかも持っていれば、あなたたちは神を忘れてしまうであろう。

 

正義(神の義)。私でさえ、その日その日に、御父の助けを受けていたというのに、なぜ、あなたたちは一度に全部持たねばならないのか?人間的な心配から、神は明日何も与えてくださらないかもしれないと恐れて、今日、全部受けたいと、あなたたちは秘かに思っている。そのため、神が全部一度にあなたたちに与えて下さる方がよいと考えるのは正しくないのではないか?このことについて、あなたたちは深く考えていないが、不信は一つの罪である。

 神に対して不信を抱いてはならない。神はあなたたちを完全な愛で愛しておられる。神は最も完全な父である。一度に全部を求めることは、御父の信頼を傷つけ、御父を怒らせることになるのだ。

 

謙遜。自分は無であり、貧しい者であるが、神はすべてであり、富であるという思いを、毎日心の中で新たにするよう願わなければならない。

 

パン。私が「パン(糧)」と言ったのは、パンは食物の王であり、生命にとって欠くことのできないものだからである。私はあなたたちが、地上に留まる間、必要とする全てをこの一語によって、またこの一語の中に封じ込めたのだ。しかし、あなたたちの霊的感度がそれぞれ違うように、このパンという一語が持つ意味合いの深さも異なっている。

「食物としてのパン」自分の腹を満たすための食物を神に求めることができれば、もう十分だという程度の霊的初心者のためのパンである。中には、パンを乞い求めず暴力でそれを奪い、神や兄弟姉妹を呪う者もいる。このような者は、御父から怒りの目をもって見られる。なぜなら、このような者たちは「心を尽くして神を愛し、己れのごとく隣人を愛しなさい。」という掟を踏みにじるからである。

 

「助けとしてのパン」 自分の腹を満たすためだけに生きるのではなく、黙想しながら生きることができる、より高い霊性を持った者たちにとって、精神的、また物質的な必要を満たすパンである。

 

「宗教としてのパン」 更に高い霊性を持ち、感覚や人間的感覚の満足より神を優先させ、超自然の世界へ翼を拡げることのできる者たちのためのパンである。

 

「霊的なパン、即ち生贄としてのパン」 霊的な成熟に達し、神の御許へ行く時まで、死すべき命を生き続けるために、絶対必要とされる程度しか、体のために求めず、霊と真理(まこと)のうちに生きることができる者たちにとってのパンである。このような人たちは私の模範に倣って、自我をのみで削り落とし、私に似た者となる。御父はこのような人たちを抱擁しようと身を屈められるのだ。

 

 

増補『主の祈り』/マリア・ヴァルトルタの「手記」より/天使館

マリア・ヴァルトルタ/『私に啓示された福音』第3巻中/天使館

1945年6月28日

 

『わたしたちの日々のパンをきょう与えてください』。

 

 あなたたちは天に住むようになった時には、神によってのみ養われることになるでしょう。至福があなたたちの食物になるでしょう。しかし、この世ではまだパンを必要としています。また、あなたたちは神の子供たちです。だから『父よ、パンをください』と言うのは正しい。

 

 あなたたちは願いを聞いてもらえないと心配しているのですか? おお、そんなことはありません! 考えてみなさい。もしあなたたちの誰かに友があり、別の或る友か縁者に食べさせるパンがないことに気づきますが、第二の断食の日の終りにその友と縁者が彼の所にやって来ます。そこで彼は友の所へ行き、言います、『友よ、三切れのパンを貸してください。実は客があり、ちょうどパンをきらしていて困っています』と。家の中から『こんな時間に面倒をかけないでください。もう戸を締め、叩き金輪はしっかり止めましたし、わたしの子供たちはわたしの横で眠っています。わたしは起きられず、あなたの欲しいものを上げることが出来ません』という返事が返ってきたら?いいえ。もし彼が真の友に頼み、もししつこく頼むなら、願うものを得るでしょう。もし頼まれた方が親切でない友であっても、それを彼から得るでしょう。執拗な依頼でうるさくてうんざりさせられるよりも、友が欲しがるものをさっさと渡して帰ってもらおうとするから、彼のしつっこさのゆえにそれを得るでしょう。しかしあなたたちは父に祈りながら、地球の友に向きなおるのではなく、天の父である完全な友に向きなおりなさい。だからわたしはあなたたちに言います、『求めなさい、そうすれば与えられるでしょう。捜しなさい、そうすれば見つけるでしょう。叩きなさい、そうすれば開かれるでしょう』と。誰でも求める者は受け、捜す者は見出し、叩く者は開けてもらえるのです。

 

 自分自身の父親にパンを求めたのに、手に石を握らされる子らを見る者がいますか?また焼き魚の代わりに蛇を与えるのを見る者がいますか? 自分の子にこのようなことをする父親はならず者でしょう。すでにわたしはそれを言いましたが、善良さと信頼の意味をあなたたちに納得させるために繰り返します。心の健やかな人が、卵を求めている人に蠍を与えないのなら、あなたたちが求めているものを、どれほど最高の慈しみをもって神があなたたちに賜らぬはずがあるでしょうか! あなたたちは多少なりとも悪い者ですが、彼は善良にましますからです。それゆえ、子としての謙遜な愛を込めて父にあなたたちのパンを願いなさい。

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P330(天使館版44・13)

 

最初の“主の祈り”は、ナザレトの庭の中で唱えられた。マリアの悲しみを慰めるために、“私たちの”意志を永遠なるお方にささげるために、この“意志”にとって、大きくなるばかりの犠牲の時期が始まり、私にとって命をささげる、マリアにとって子供をささげるという頂上に至る、ちょうどその時に唱えられたのである。

 

 私たちには、御父にゆるしてもらいたいことは“何も”なかったにしても、罪のない私たち二人は、謙遜のために、私たちの使命をふさわしく迎えるために、どんな小さな欠点の影でもゆるされるように、父のゆるしを願ったのである。これは、神と一致して神の聖寵を豊かに持てば持つほどその使命は祝福され、豊かな実を結ぶことをあなたたちに教えるため、神への尊敬と謙遜とを教えるためであった。神なる父のみ前に“男”と“女”としての、わたしたちの完全ささえも空しく感じ、そして、ゆるしを請うた。“毎日のパン”を願うのと同じように。

 

 “我らのパン”とは何か。おお、それは、マリアの清い手がこね、私がそのたびに薪の束を運んだ、あの小さなかまどで焼いたパンのことではない。それも、この世にいる間は必要ではあるが、“我らの”毎日のパンは、日々に、我らの使命を行うことであった。私は、それを毎日くださるように祈った。なぜなら、神が与える使命を果たすこと、これは“我らの”日々の喜びである。そうでしょう、小さなヨハネ(マリア・ワルトルタのこと)。主の慈悲があなたに、その日々の苦しみの使命の部分を与えてくださらないならば、その日は空白である、とあなたも言うではないか。

 

 

マリア・ワルトルタ48・7/天使館第1巻P428

 

『神のみ旨を行い、その栄光に仕える喜びが、わたしの分け前だ』

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P79

 

「喜びだけではなかったのですよ。あの罪深い人は回心しませんでした。イエズスが本当の喜びを感じるのは、罪から贖われた人を見る時です・・・」

 

2.スウェーデンボルグ

日毎のパン

 

天界の秘義680

 

 諸善と諸真理とは人間の真実な食物であることは各人に明白であるに相違ない、なぜならそれらを欠いた者は生命がなくて、死んでいるからである。人間は死んでしまうと、その者の霊魂を養う食物は悪から発した歓喜と誤謬から発した愉悦であり―これは死の食物であり―また身体的な、世的な、自然的なものから発したものであって、その中にもまた何ら生命はないのである。更に、こうした人間は霊的な天的な食物とは何であるかを知っていないため、聖言に「食物」または「パン」が記されている時は常に身体の食物が意味されていると考えるのである。例えば主の祈りの「日毎のパンを私たちに与えてください」という言葉は単に身体を支えるもののみを意味していると考えており、その考えを推し進める者はそれはまた衣服、財産等といった身体の必要な物を含んでいると言っている。彼らはそれ以外の何らかの食物が意味されていることを鋭く否定さえしているが、それでもその前後の言葉は単に天的な霊的なもののみを意味しており、主の王国が語られていることを明白に見ているのであって、更に彼らは主の聖言は天的な霊的なものであることを知ろうと思えば知ることも出来るのである。

 

 

天界の秘義2493

 

 私は過去の事柄の記憶とそこから生まれてくる将来の事柄に関わる不安とについて天使たちと話したのであるが、天使たちは内的なものになり、完全なものになればなる程、益々過去の事柄を気にはかけなくなり、また将来のことも考えなくなることを、またそこから彼らの幸福が生まれてくることを教えられたのである。彼らは主は自分たちに絶えず何を考えなくてはならないかを示されていて、しかもそれには祝福と幸福とが伴っており、それで自分たちは心労と不安からは自由であると言っているのである。またそのことがマナが天から日々受け入れられることにより、主の祈りの日毎のパンにより、同じくまた何を食べようか、飲もうか、何を着ようかと心を労してはならないと訓されたことによりその内意の中で意味されたものであると言っているのである。しかし天使たちは過去の事柄を気にはかけないしまた将来の事柄について不安を持ってはいないにしても、それでも過去の事柄を最も完全に記憶しており、将来の事柄についても心の中で完全に見ているのである、なぜなら彼らの現在のすべてのものの中に過去も未来も存在しているからである。かくて彼らは考えることもまたは言い現わすことも出来ないほどにも完全な記憶を持っているのである。

 

 

天界の秘義3735[2]

 

かくて人間が聖い状態の中にいてパンのことを考えると、例えば聖餐のパンのことを、主の祈りの中の『日毎のパン』のことを考えると、その時その人間がパンに抱く思いは彼のもとにいる天使たちには主から発している愛の善について考えるための客観的な表象的なものとして役立っているのである。なぜなら天使たちは人間がパンについて考える思いを何一つ把握しないで、その代わりに善について考えるからである。なぜならそうしたものが相応であるからである。同様に人間が聖い状態の中にいて着物について考えるとき、天使たちは真理について考えるのであり、そのことは聖言の他の凡てのものにも言われるのである。このことは聖言によって天と地とが連結しているということの性質のいかようなものであるかを示している、即ち、人間が恭々しく聖言を読んでいる時は、例えその人間は聖言の文字の意義の中に在る物のみしか考えていないにしても、このような相応によって密接に天界に連結し、天界を通して主に連結しているのである。その時その人間のもとに在る聖いものは、天使たちが持っているような、天的な霊的な思考と情愛とが流入してくることから発しているのである。

 

 

天界の秘義8478

 

「たれもそれを朝まで残してはならない」。これは、彼らがそれを彼ら自身から得ることで心を労してはならないことを意味していることは以下の事実から明白である、即ち、マナは毎朝与えられることになっていたのであり、残したものには虫が涌くことにより、主は必要なものを日毎に供えられるため、彼らはそれを彼ら自身から得ることで心を労してはならないことが意味されているのである。このこともまた主の祈りの中の『日毎のパン』により意味されており、同じくマタイ伝の主の御言葉によっても意味されているのである―

 

何を食べようか、または何を飲もうかと、あなたらの魂[生命]のことで思い煩ってはならない、また何を着ようかと、身体のことで(思い煩ってはならない)。なぜあなたらは着物のことで思い煩うのか。野の百合は、どのようにして育つかを考えなさい、それは労しない、紡ぎもしない、だからあなたらは、何を食べようか、何を飲もうか、または何を着ようか、と言って、煩ってはならない。こうした凡ての物を国民は求めている、あなたらの天の父は凡てこれらの物があなたらに必要であることを知られませんか。先ず天国とかれ[天の父]の義とを求めなさい、さすればこの凡ての物はあなたらに加えられるでしょう。それで明日のために思い煩ってはならない、明日は明日自身でその事柄を処理するのである(6・25、28、31−34)。

 

ルカ伝12・11、12、22−31にも同じことが言われている。

 

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義5147(3)

 

 「食物」が天的な善を意味していることは、天使たちの食物は愛と仁慈との善であり、その善によりかれらは生かされるのみでなく、また活気づけられているためである。行為となったこれらの善が、またはそれらの善を実践することが、それが天使たちの望んでいるものであるため、とくにかれらを爽やかにすることに役立っており、その願っていることが行為となって実現されるとき、それが活気と生命とを与えることは知られている。このようなものが人間の霊に栄養を与える一方では、物質的な食物はその身体に栄養を与えることもまた、食物は歓喜がなくてはほとんど栄養に役立ちはしないが、歓喜とともになると、栄養を与えるという事実からもまた知ることができよう。

 

 食物を受け入れて、それを血液に運ぶ通路または輸送管を開くものは歓喜であるに反し、歓ばしくない物はそれらを閉じてしまうのである。天使たちのもとではこれらの歓喜は愛と仁慈との善であり、このことからその善は地上の食物に相応した霊的な食物であることが推定されることができよう。善は食物であるように、真理は飲みものである。

 

 

ヨハネ4.31−34

 

 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。

 

 

天界の秘義5147(6)

 

 「父の意志を行い、その御業を完成すること」は行為となった、または実践された神的な善[神の善]であり、それが、前に言ったように、その純粋な意義では「食物」である。

 

 

天界の秘義5293

 

「かれらに食物を凡て集めさせてください」(創世記41・35)

 

これは有用な凡ゆる物を意味していることは以下から明白である、すなわち、『集めること』の意義は共に集めて保存することであり、『食物』の意義は有用なものである。

 

内意では『食物』は元来、人間の霊魂を養うものを、すなわち、死後人間を養うものを意味している、なぜならかれはそのとき霊魂または霊として生き、もはや物質的な食物を必要としないで、有用な凡ゆるものから、また役立つようになる凡ゆるものから成り立っている霊的な食物を必要とするからである。

 

役立つようになるものとは善い真のものを知ることである、役立つものとは善い真のものを意志し[欲し]行うことである。これらが天使たちを養うものであって、それで霊的な天界的な食物と呼ばれている。

 

人間の内的な理解と内的な意志とを、または人間の意図または目的を内に宿している人間の心は、人間が身体の中で生きている間さえも他のいかような食物によっても養われはしないのであり、物質的な食物は心には浸透しないで、ただ身体の物にのみ浸透するにすぎず、その身体をその食物が維持するのは、身体がその食物を楽しんでいる間にこの心が心の食物を楽しむためであり、すなわち、この心は健全な身体の中で健全になるためである。

 

 

[2]『食物』が霊的な意味では有用な凡ゆるものを意味していることは、人間の知ることはすべて、またその理解して、賢くなることはすべて、それゆえ、その意志する[欲する]ことはすべて、用をその目的としなくてはならないのであり、そこから人間の生命の性質はその用の性質に従っているためである。『食物』はその内意では有用なものをすべて意味していることは主の以下の御言葉から明らかである―

 

イエスは弟子たちに言われた、わたしにはあなたたちの知らない食物があります。それで弟子たちは互いに言った、たれがかれ[先生]に何か食べものを持ってきたのですか。イエスはかれらに言われる、わたしの食物はわたしをつかわされた方の御意志を為し、その御業を完成することであります(ヨハネ4・32−34)。

 

また他の所には―

朽ちる食物のために労しないで、残って永遠の生命にいたる食物のために労しなさい、それを人の子はあなた方に与えましょう、父なる神はかれを保証されたからである(ヨハネ6・27)。

 

 

天界の秘義5576(5)

 

 それで、「食物」はその最高の意義では、それが主について述べられているときは、人類を救おうとする神的な愛の善である。この食物がヨハネ伝の主の御言葉により意味されているものである。(ヨハネ4・32,34)

 

「かれをつかわされた者の御意志を為し、その御業を為すこと」は人類を救うことであり、このことが為される源泉である神的なものは神的な愛[神の愛]である。

 

 

霊界日記2188

 

私は天使たちと話したが、そのとき霊的な観念により以下のことを認めた、すなわち、天使たちは、益々内的なものとなり、完全なものとなるにつれ、益々過去のことを憶えなくなり、そこに彼らの浄福が在るのである、なぜなら各瞬間に主は彼らに楽しいものを、また彼らが考えて、心を動かされるものを彼らに与えるからである。かくてそれは主のものであって、彼らのものではない。そのことが、私たちに日毎のパンを与えてください、私らは何を食べようか、何を飲もうか、と将来のために心を痛めてはならない、日毎に私らはマナを受けるであろう、という記事により意味されているのである。彼らは過去のことを憶えてはいないからには、将来のことを予想はしない、なぜならそうしたことは、その同じ記憶から生れてくるからである、それでも彼らは記憶を持っているように彼ら自身には思われ、凡ての、また無数の事柄を知っているのである、なぜなら主はそれらのものをその際各瞬間にそのようにして与えられからである・・・・・・・・・・・・・約言すると、彼らの浄福はそのことから成っており、(それは)また彼らは主の中にいるためである。1748年〔60歳〕6月4日

 

 

霊界日記2190

 

 将来のことについて推測し、過去を追憶することは生命の楽しさと浄福とをことごとく取り去るものである。そこからまた不安、心労、憂慮が生れてくる。それで浄福の中にいるような者たちにはこうした記憶とこうした予測を持つことは与えられることは出来ない。

 

 

「将来のことについて。」

霊界日記2271

 

 天使たちは将来のことは知らない、主のみが知られており、また主がそのことを示すに価していると考えられる者が知っている。私は最初、或る者らが将来のことを知ろうとしたとき、謂わば、何か非常にいとうべきものを認めた、なぜなら、地上の人間の場合のように、そこから〔将来のことを知って、そこから〕何かの事柄が真のものであるか、否かが知ることが出来る、と考える者がいるからであるが、しかし最後の時代には、多くの理由から奇蹟は起りはしないし、将来の事も予告されはしないのであり、ただ以下の一つの事のみを引証することが許されている、すなわち、天使たちは、浄福の中にいるためには、将来のことは些かも知ってはならないのである、なぜなら主は、最小の瞬間でも絶えず、天使たちのために、その考えることを探されておられるからである。それで主は、彼らは将来については心を労しはしないと言われたのである。さらに、将来のことを知ることには―霊たちはそのことを非常に渇望はするものの―彼らの心をまた秩序を乱す非常に多くのものが含まれており、それでまたそれは霊たちと天使たちとを治めることには全く対立しているのである、なぜなら彼らは、彼らに許されているものを除いては、彼ら自身のものは何一つ自らには取ってはならないからである。1748年〔60歳〕6月10 日。

 

 

 

 

 

 

十字架の聖ヨハネ/カルメル山登攀/ドン・ボスコ社/P81

 

 第二には、これをりっぱに行うことができるために、感覚を楽しませるものはどんなものでも、それが純粋に神の名誉と光栄のためでないのなら、それらをしりぞけて、イエズス・キリストの愛ゆえに、そうしたものに全く無関心でいなくてはならない。

 というのは、キリストご自身、御父のみ旨をなす以外に、何のたのしみも望みもなく、御父のみ旨をなすことが、自分の食物であり糧であると言われたのであるから。

 

 

 

霊界日記4150 将来のことを余りに考える霊たちについて