聖体拝領・・・流入・主との連結
1.流入・主との連結
2.天使たちを通じて連結する
1.流入・主との連結
天界の秘義3735
このような流入が在り、その結果人間が主と連結するために、聖餐が主により定められたのであり、そのことに関連してパンとぶどう酒とは主であると明らかに言われているのである。
天界の秘義3735[2]
かくて人間が聖い状態の中にいてパンのことを考えると、たとえば聖餐のパンのことを、主の祈りの中の『日毎のパン』のことを考えると、そのときその人間がパンに抱く思いはかれのもとにいる天使たちには主から発している愛の善について考えるための客観的な表象的なものとして役立っているのである。なぜなら天使たちは人間がパンについて考える思いを何一つ把握しないで、その代わりに善について考えるからである。
なぜならそうしたものが相応であるからである。同様に人間が聖い状態の中にいて着物について考えるとき、天使たちは真理について考えるのであり、そのことは聖言の他の凡てのものにも言われるのである。
このことは聖言によって天と地とが連結しているということの性質のいかようなものであるかを示している、すなわち、人間が恭々しく聖言を読んでいるときは、たとえその人間は聖言の文字の意義の中に在る物のみしか考えていないにしても、このような相応によって密接に天界に連結し、天界を通して主に連結しているのである。
その時その人間のもとに在る聖いものは、天使たちが持っているような、天的な霊的な思考と情愛とが流入してくることから発しているのである。
天界の秘義3735[3]
このような流入が在り、その結果人間が主と連結するために、聖餐が主により定められたのであり、そのことに関連してパンとぶどう酒とは主であると明らかに言われているのである。
なぜなら主の『身体』は主の神的な愛を意味し、また天的な天使たちが抱いているような人間における相互的な愛を意味し、『血』も同じく主の神的な愛を意味し、また人間における相互的な愛を意味しているが、しかし霊的な天使たちのそれのような愛を意味しているからである。
このことから聖言の凡ゆる物の中には如何に多くの神的なものが存在しているかが明白である。たとえ人間はその何であるかを、またその性質の何であるかについては全く何ごとも知らないにしても、それでも世にあって善の生命の中にいた者たちは、死後凡てこれらのものを知りもし、認識もするのである。
なぜならそのときかれらは地的な世的な物を脱ぎ捨てて、天界のものを着け、同じように天使たちの観念のような霊的な天的な観念を得るからである。
黙示録講解376ホ
さて、『パン』は愛の善を意味し、『ぶどう酒』は、その本質ではその善から発している真理である信仰の善を意味しており、その最高の意味では、『パン』は神的善の方面の主を、『ぶどう酒』は神的真理の方面の主を意味しているため、また霊的なものと自然的な物との間には相応したものが在るため(『パン』と『ぶどう酒』とが人間の考えの中に在るとき、愛の善と信仰の善とが天使の思いの中に在るといった相応したものが在るため)、また天界と教会との凡ゆるものは愛の善と信仰の善とに関連しているため、それで主は聖さんにより天界の天使たちが教会の人間と連結するようにと聖さんを制定されたのである。
真の基督教621
この後、その英国人たちは熱心に教えを求めて、天使たちに言った。「私たちは聖餐について種々の見解を聞いております。その真理を我々に語ってください。」天使たちは答えた。「もし人間が悔改めて主を見上げるならば、聖餐によって天界の主との交わりに入るということは、真理であります。」
しかしその群れの若干の者が語った。「これは秘儀です」天使たちは答えた。「それは秘儀です。しかしそれは理解することが出来ます。パンと葡萄酒とは何ごとをも為しません。何故なら、そのものからは聖い物は何一つ生じないからです。しかし物質的なパンと葡萄酒とは、霊的なパンと葡萄酒とに相応しています。霊的なパンは愛の聖さであり、霊的な葡萄酒は信仰の聖さであり、各々主から発し、じつに主であります。
ここから物質的なパンと葡萄酒によってでなく、悔改める者の愛と信仰とによって、主と人間との、人間と主との交わりが生まれ、而して主との交わりはまた天界へ導き入れます」天使たちが相応に関し若干彼らに教えた後、英国人たちは語った。「今や始めてこの事もまた理解しました。」かく語ると、視よ!天界から降る一条の輝ける焔は彼らを天使たちと相互的な愛の中に結合したのである。
真の基督教706
新しき契約または約定の血は、新旧契約書または新旧約定書と呼ばれる聖言の神的真理を意味する。それ故、主はその弟子達に葡萄酒を与えて、「これは我が血なり」と語り給うた。何故なら葡萄酒は神的な真理を意味し、また葡萄の血(創世記49・11.申命記32・14)と呼ばれるからである。これは以下の主の言葉によりさらに明白である、「まことに誠に我は汝らに告ぐ、人の子の肉を食らわず、その血を飲まずば、汝らに生命なし。そはわが肉は真の食物、わが血は真の飲みものなればなり。我が肉をくらい、我が血を飲む者は我に居り、我もまた彼に居る」(ヨハネ6・53−55,56)。
聖言の神的真理が此処に血によって意味されていることは極めて明らかである。何故なら、飲む者は自らの内に生命を持ち、主の中に住み、主は彼の中に住みたもうと言われているからである。この結合は、教会に知られているように、神的な真理とこれに従う生活とによって行われ、聖餐がそれを確実なものにするのである。
マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P125
私はあなたたちに一つのこと・・・奥義を遺します。これは、私をあなたたちの中に、あなたたちを私の中に、私とあなたたちが神の国で一緒になるまで、一つにするものです。
霊界日記5842
わたしは聖さんについてキリスト教徒とまたバビロンの共同体の者らと話して、あなたらはキリストの身体と血とが物質的にその場に現れていることを信じている、と語ったが、聖さんに行く者たちはそのように現れていることは信じないで、ただ聖さんの聖さのみを考えている、と言った。
かれらは、たれかが聖さんに行くさい、それ以外のことを考えているか、否かとたずねて、ほとんどたれ一人そうしたことは考えていないことが確かめられた。またそのことは主から発していて、それはあなたらがそうした考えの中にいないようにとのためであるとも言われ、同じく、このことから、天界からは、その相応に従って、聖いもの以外には何一つ流れ入ってはいないことを知ることができようとも言われた。
以下のこともまた言われた、すなわち、ルーテル派の者らも―その者らのもとでは、キリストの身体と血とはそのパンとぶどう酒の中に、そのパンとぶどう酒とともに、そのパンとぶどう酒の下に存在しているという教義が述べられているのであるが―聖さんにあずかるときは、そのことについては決して考えはしないで、ただ聖いものについてのみ考えるにすぎないのである。と。
2.天使たちを通じて連結する
天界の秘義2177[8]
これらの者は、聖さん式のパンとぶどう酒とは一種の儀式以外の何ものでもなく、その中には何ら聖いものはないと考えている者と同じように考えているものの、人間の心はその聖さんにより天界の心[天界の人たちの心]と連結するといった聖さがあるのである、すなわち、その人たちがパンとぶどう酒とは主の愛を、また人間がそれに対し相互的の
天界の秘義3464[2]
聖言の文字の意義から発している教義的な事柄については実情は以下のようになっている、すなわち、人間はその教義的な事柄の中にいると同時にそれに従った生命[生活]の中にいるとき、かれはかれ自身の中にそれに相応したものを得るのである、なぜならかれとともにいる天使たちは内的な諸真理の中にいるが、かれは外的な真理の中におり、かくて教義的な事柄を通して天界と交流するが、しかしそれはかれの生命の善に順応しているのである。例えば、聖さんにおいてかれはその時用いられる言葉―『これはわたしの身体であり、これはわたしの血である』―から単純に主を考えるとき、かれとともにいる天使たちは主に対する愛と隣人に対する仁慈とを考えるのである、なぜなら主に対する愛は主の身体にまたパンに相応し、隣人に対する仁慈は血にまたぶどう酒に相応しているからである(1798、2165、2177、2187番)、そしてこのような相応が在るため、天界からその天使たちを通して、その時その人間がおかれているその聖い状態の中へ情愛が流れ入り、この情愛を、かれはかれの生命の善に順応して受けるのである。
天界の秘義3464[3]
なぜなら天使たちは各々の人間のもとにその生命の情愛の中に住んでおり、かくてその者がそれに従って生きている教義的な事柄の情愛の中に住んでいるが、しかしもしその人間の生命がその教義的な事柄と一致していないなら、決してその中には住みはしないのである、なぜならもしその生命が一致していないならば、例えば、もしかれらが教義的な事柄により名誉と富とを得ることを求める情愛の中にいるなら、そのときその天使たちは退いてしまって、奈落の者らがその情愛の中に住んで、かれの中へ自己と世とのために教義的な事柄を確認することを注ぎ入れ、かくて説得的な信仰を注ぎ入れるか―この信仰はそれが他の者の心を捕らえさえするなら、事の真偽を問わないといった底のものであるが―または信仰をことごとくとり去ってしまうかして、そのときはかれの唇の教義はこれらの愛の火によりたきつけられ、また加減される音声に過ぎないのである。
天界の秘義3735
「着る着物[衣服]」。
これは神的真理と連結することを意味していることは以下から明白である。すなわち、『着物』の意義は真理であり(1073,2576番)、現在の場合では主がとり扱われているため、神的真理であり、『着ること』の意義は所有され、連結されることである。聖言の内意の性質はこうしたまた他のそうした表意的なものから認めることができよう。
すなわち、パンと着物とが文字の意義の中にとり扱われているとき、また問題の事柄がここの場合のように歴史的に表現されているときは―『もし神がわたしに食べるパンを与えられ、着る着物を与えられるなら』―そのときその人間のもとにいる天使たちは全くパンのことを考えないで、愛の善を考え、その最高の意義では主の神的善を考えるのであり、またかれらは着物着物のことも考えはしないで、真理を考え、その最高の意義では主の神的真理を考えるのである。
文字の意義の中に在る物はかれらには天界の、神的なものについて考える客観的な表象的なものに過ぎないのである。なぜならこのようなものは秩序の究極的なものの中に存在している容器であるからである。
天界の秘義3735[2]
かくて人間が聖い状態の中にいてパンのことを考えると、たとえば聖餐のパンのことを、主の祈りの中の『日毎のパン』のことを考えると、そのときその人間がパンに抱く思いはかれのもとにいる天使たちには主から発している愛の善について考えるための客観的な表象的なものとして役立っているのである。なぜなら天使たちは人間がパンについて考える思いを何一つ把握しないで、その代わりに善について考えるからである。
なぜならそうしたものが相応であるからである。同様に人間が聖い状態の中にいて着物について考えるとき、天使たちは真理について考えるのであり、そのことは聖言の他の凡てのものにも言われるのである。
このことは聖言によって天と地とが連結しているということの性質のいかようなものであるかを示している、すなわち、人間が恭々しく聖言を読んでいるときは、たとえその人間は聖言の文字の意義の中に在る物のみしか考えていないにしても、このような相応によって密接に天界に連結し、天界を通して主に連結しているのである。
その時その人間のもとに在る聖いものは、天使たちが持っているような、天的な霊的な思考と情愛とが流入してくることから発しているのである。
天界の秘義3735[3]
このような流入が在り、その結果人間が主と連結するために、聖餐が主により定められたのであり、そのことに関連してパンとぶどう酒とは主であると明らかに言われているのである。
なぜなら主の『身体』は主の神的な愛を意味し、また天的な天使たちが抱いているような人間における相互的な愛を意味し、『血』も同じく主の神的な愛を意味し、また人間における相互的な愛を意味しているが、しかし霊的な天使たちのそれのような愛を意味しているからである。
このことから聖言の凡ゆる物の中には如何に多くの神的なものが存在しているかが明白である。たとえ人間はその何であるかを、またその性質の何であるかについては全く何ごとも知らないにしても、それでも世にあって善の生命の中にいた者たちは、死後凡てこれらのものを知りもし、認識もするのである。
なぜならそのときかれらは地的な世的な物を脱ぎ捨てて、天界のものを着け、同じように天使たちの観念のような霊的な天的な観念を得るからである。
天界の秘義5915
「そしてわたしはそこにあなたを支えましょう」(創世記45・11)。
これは内なる天的なものから霊的な生命が絶えず流入することを意味していることは以下から明白である。すなわち、『支えること』の意義は、それが内なる天的なものを表象するヨセフにより言われているときは、内なる天的なものから発した霊的な生命の流入であり、支えることはその霊的な意義では善と真理とが天界を経て主から流入すること以外の何ものでもないのである。
そこから天使たちは支えられており、またそこから人間の霊魂は(すなわち、かれの内なる人が)支えられているのである。この支えられることに外なる人が食物と飲物により支えられていることが相応しており、それで『食物』により善が、『飲物』により真理が意味されているのである。
そうしたものがまた相応となっているため、人間が食物をとっているときは、その人間のもとにいる天使たちは善と真理とを考えており、おどろくべきことには、その考えもその食物の種類に従って異なっているのである。
かくて聖さんにおいて人間がパンとぶどう酒とを受けているとき、かれのもとにいる天使たちは愛の善と信仰の善とを考えるが(3464,3735番)、それはパンは愛の善に、ぶどう酒は信仰の善に相応しているという理由によっており、そしてそれらは相応しているため聖言ではまたそのことを意味しているのである。
黙示録講解376ホ
さて、『パン』は愛の善を意味し、『ぶどう酒』は、その本質ではその善から発している真理である信仰の善を意味しており、その最高の意味では、『パン』は神的善の方面の主を、『ぶどう酒』は神的真理の方面の主を意味しているため、また霊的なものと自然的な物との間には相応したものが在るため(『パン』と『ぶどう酒』とが人間の考えの中に在るとき、愛の善と信仰の善とが天使の思いの中に在るといった相応したものが在るため)、また天界と教会との凡ゆるものは愛の善と信仰の善とに関連しているため、それで主は聖さんにより天界の天使たちが教会の人間と連結するようにと聖さんを制定されたのである。
新しいエルサレムの教義210
聖餐は、そのことによって教会が天界と連結し、かくて主と連結するために主により制定された。それでそれは礼拝の最も聖いものである。
新しいエルサレムの教義211
しかしいかようにして連結がそれによって行われるかは、聖言の内なるまたは霊的な意義を知らない者らによっては理解されない、なぜならかれらは文字の意義である外なる意義を超越して考えないからである。聖言の内なるまたは霊的な意義から、『身体』と『血』、『パン』と『ぶどう酒』の意義が、また『食うこと』の意義が知られるのである。
新しいエルサレムの教義212
霊的な意義では、主の『身体』または『肉』、『パン』は愛の善を意味し、主の『血』と『ぶどう酒』は信仰の善を意味し、『食べること』は己がものとすることと連結することを意味している。聖さんの礼典に赴く人間のもとにいる天使たちはその事柄をそれ以外の意味で理解していない、なぜならかれらは凡ゆる物を霊的に認めるからである。ここから愛の聖さと信仰の聖さとはそのとき天使たちから人間のもとへ流れ入り、かくて天界を経て主から流れ入り、そこから連結が行なわれている。
新しいエルサレムの教義213
これらの事柄から、人間が身体であるパンに与るとき、主から発している主に対する愛の善によって主に連結し、血であるぶどう酒に与るとき、主から発している主に対する信仰の善により主に連結することが明白である。しかし、聖餐の礼典によって主と連結することは、主から発している主に対する愛と信仰との善にいる者たちのもとにのみ行われることを知らなくてはならない。これらの者のもとには聖餐による(主との)連結はあるが、他の者のもとには(主の)臨在はあるが、(主との)連結はない。