聖体拝領・・・礼拝の最も聖いもの
新しいエルサレムの教義210
聖餐は、そのことによって教会が天界と連結し、かくて主と連結するために主により制定された。それでそれは礼拝の最も聖いものである。
新しいエルサレムの教義214
他に、聖餐はイスラエル教会に制定された神礼拝の全部を含み包含している。なぜならその教会の礼拝を主として成立させたはん祭といけにえとは一言で『パン』と呼ばれたからであり、ここからまた聖餐はそれを完成させるものとなっている。
新しいエルサレムの教義222
霊的な人間でない者はこのことを悟らない、それでそうした者は、聖さんと聖言は主から発しているため、その中には聖いものが在ることのみは信じて―たとえその聖いものは何処にあるかは知らなくとも―そうした者自身の信仰に止まられよ。が、他方、内的な認識を与えられている者たちは、以下の記事で「肉」は肉を、「血」は血を意味しているか、否かを考察されよ、「黙示録」に―
わたしは一人の天使が陽の中に立っているのを見た、かれは大声で叫んで、天の真中を飛んでいる凡ての鳥に向って言った、来て、大いなる神の晩さんに集まり、王たちの肉と数千の者の指揮者の肉と力ある者の肉と馬とそれに乗っている者との肉と、自由な者と奴隷、大きな者と小さな者の凡ての者の肉を食べよ(19・17、18)。
「肉」、「王」、「数千の者の指揮者」、「力ある者」、「馬」、「自由な者」、「奴隷」がその内なる意義で何を意味しているかを知らないかぎり、これらの語を理解することができようか。またエゼキエル書には―
(後略)
聖母から司祭へ1979.6.14
しかし、イエズスは天国におられるように、地上にも、ご聖体のなかで、おんからだもおん血も、ご霊魂も、神性もともに、そこにおられます。それで、イエズスの光栄にみちたみ国は、ご聖体のなかにおられる、かれの勝利によって輝くでしょう。なぜなら、ご聖体は、ふたたび教会の全生活において、その真髄とも中心ともなるからです。
ご聖体のイエズスは、私たちすべての祈りの頂点となるでしょう。その祈りは、礼拝と感謝、賛美と取つぎの祈りでなければなりません。
ご聖体のイエズスは、全典礼行為の中心となるでしょう。またキリストの永遠の司祭職が、ご聖体の奥義において具体化したこの典礼行為は、そのキリストの司祭職を通して三位一体への賛美歌のようになるでしょう。
ご聖体のイエズスは、ふたたび、あなたがたの教会的集いの中心となるでしょう。なぜなら、かれの神殿である聖堂は、とくにかれの神としての現存が、あなたがたの間に輝くことができるように、つくられたその家だからです。
聖母から司祭へ/1993年11月21日
キリストの光栄ある王国は、イエズスのご聖体の王国の勝利とともに実現するでしょう。
なぜなら、清められ、聖なるものとされ、愛によって完全に新たにされた世界において、イエズスは、特に、ご聖体におけるご自分の現存の神秘をもって、御自らをお現しになるからです。
ご聖体は、そのあらゆる神的力が発揮され、新たな光となって、人々の心と霊魂、そして個人に家庭に、また諸民族の生活にも、その輝かしい光線を反射させ、こうしてすべての人を、従順で柔和な唯一の羊檻(おり)の群れとなし、イエズスは、その唯一の牧者となられるでしょう。
おいでになる主を迎える準備をさせるために、こん日、世界各地からあなたたちを集めている天の母は、この新しい天と地にあなたたちを導きます。
デボラ/生ける神よりあかされた英知/3巻下P127
マリア:「私の娘よ、霊魂たちは病んでいますが、そのまことの薬とはご聖体です。人間は秘跡を愛しませんが、ただそれだけがいのち、真理、そして救いなのです。では祈り、礼拝してください!」
マリア・ワルトルタ/復活/P196
私は望むこと、すべてができます。皆、見たとおりです。私の望みによって、父は人間の糧となるのを子にお許しになりました。この奇跡はその形と期間と本質からみて、これ以上強くて大きいものはあり得ない。これはどれほど力強く超自然的か、傲慢な人間にどんな不可解か、これを正しく理解できる人は少なく多くの人はこれを否定すると思います。そうしたら私は何を言おうか・・・そのような人を弾劾しようか。いいえ、ただあわれむと言います。