ミサ

 

 

 

1.ルイザ・ピッカレータ

2.スウェーデンボルグ

 

 

 

 

1.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P129

 

間違うことはないと思うのですが、私の考えでは、私の中に生じた結果から判断しますと、イエスの御心を最も侮辱し、苦しみを与えるのは不正直の罪であると言うことができると思います。主がご自分の苦しみのほんの一部分を私のうちにお注ぎになる時、私はなにかたいへん吐き気をもよおさせる腐った、くさい臭いのするにがみを持った物体が私の中に入り込むのを感じます。そのために、まるで私の身体から悪臭が放たれるようで、それは私の胃にひどい刺激を与えますので、その腐敗物を食べ物に混ぜて吐き出してしまうためにすぐに何かを食べなかったら気絶してしまったことでしょう。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P130

 

 このようなことは、普通イエスが公けに大罪人だと称されている人びとが犯す不道徳な行為を私にお示しになる時にのみ生じるのではなく、特に私の愛すべきイエスが侮辱をお受けになる教会の中へと、ご自分に従わせて私をお連れになる時に起こるのでした。ああ、それ自体は聖なるわざであるというのに、あれほどひどく行なうことによって、どんなにそれはイエスの御心に辛く感じられていたことでしょう。あのような内的に空虚な心による祈り、見かけ上の敬虔な信心業や信仰心。それらはイエスにたいして誉れを与えるよりも、むしろ侮辱を与えているのでした。ああ、あれほど聖で、清く、正しいあの御心は、これほどの悪しき行いによって吐き気をもよおされるのでした。何回私に向って不満をもらされながらおっしゃったことでしょうか。「わたしの娘よ、見ましたか? 信心深いと称する人びとからさえもなんと多くの侮辱を受け、聖所とされている所でなんという無礼をわたしにたいして行なっているか。秘跡そのものを受ける時にさえもです。これらの霊魂は、恵みを受け、清められて教会から出るかわりに、もっと罪に汚れるので、わたしからの祝福も受けずに出て行くのです。」また主は涜聖の罪のうちにご聖体を受けるある人びと、または習慣的に、または利益のみを目的に、そして申すも恐ろしい大罪の状態でミサを捧げる司祭がたなどを私にお気づかせになりました。ああイエスは、その御心をほとんと死に臨んだ時のようにあえぐにまかせる、どれほど多くの非常に痛ましい場面を私にお見せになったことでしょう! ときには愛の聖なる秘跡をつかさどる司祭が、聖なる犠牲と贖罪のホスティアをまさに拝領している時、イエスはすぐそこから、すなわち霊的悲惨に泥まみれになったその心から、やはばやと出ることを余儀なくされていらっしゃいました。他の場合には、司祭はあの権能ある言葉をもって、ホスティアの中に受肉されるために天国から降りて来て下さるようにと主を呼ぶのでしたが、まだ捧げられる前にもうそのホスティアは、吐き気をもよおさせるようなものとなるのでした。なぜなら彼は、その汚れた涜聖の罪の手でそれを持ち、神の権威そのものによって、躊躇しながらも主に降りて来て下さるようにと命令していたからです。イエスは彼の言葉に背かないために、事前に不潔な腐敗物がにじみ出ていたあのホスティアのうちに受肉されるのでしたが、受肉したとたんにそれはキリストの磔の刑の血を流すのでした。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P131

 

 このような、イエスの秘跡における状態はなんと同情にたえないものに見えたことでしょうか! 主はご自身がなさった、そこにとどまるという約束によって義務づけられていらしたにせよ、私にはその汚れた手から逃げ出したいと望んでいらっしゃるように見えただけでなく、不敬にも何回も主に触れたその手にもまして、さらにむかつくその胃の中に、パンとぶどう酒はなかなか入っていこうとしないかのように見えるでした。けれどもその聖なるパンとぶどう酒の形をもって食されると、主は私のところに来られて次のように嘆きながらご自分の心情を打ち明けられました。「ああそうです。わたしの娘よ、これ以上わたし独りで支え持つことができないので、このわたしの苦しみの一部分をあなたに分け与えさせて下さい。残念ながら、これほどの悲惨におちいったわたしの状態に同情して下さい。とにかく辛抱して、少しいっしょに苦しんで下さい。」

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P132

 

 そこで私は、「主よ、私はあなたとともに苦しむ用意が出来ています。いいえ、むしろもし私にあなたの苦しみを全て受け取ることができるとしましたら、あなたが苦しまれるのをもう見ないですむように、喜んでそれをお受けすることでしょう。」私がこのように申していますと、イエスはその御口から私のそれへ、私が受容できるだけの分のあの苦しみを注がれると、つけ加えて言われました。「娘よ、あなたは何も受ける能力がないので、わたしがあなたに注いだわたしの苦しみは、ほとんど無に等しいものです。しかし、あなたがわたしへの愛のために受けてくれた犠牲を、同じように引き受けてくれる他のたくさんの霊魂がいてくれることを、なんとわたしは望むことでしょうか! わたしの心が忍んだ全ての苦しみを、その霊魂に与えようというのではなく、少なくとも子供としての愛と善良さをもってわたしにお返しをしてもらうことに喜びを感じるだけのためになのです。」 それにしても、あの多くのイエスからの伝達は、あの臭くむかつくような腐敗物のためになんとにがく、毒々しく、忌まわしいものであったことか、とても言葉では言い表すことができません。時にはどんなに努力をしても私の胃はそれを保っていることを拒否し、私がそれを飲み下そうと努力しているあいだに、強力な力がそれを喉のほうまで上へとつき戻そうとするのでした。しかしイエスにたいして私が感じていた愛が、主のお恵みに支えられてそれを吐き戻せないようにしてくれました。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P133

 

 さてこのような、イエスからの私への伝達が私にもたらす苦しみについてどのように言い表すべきでしょうか? それはあまりに多く、また大きなものでしたので、もし主が私を支え、力づけ、元気づけて下さらなかったとしましたら確かに私はすでに死の犠牲者になっていることでしょう。それでもくり返しますが、イエスはご自身が受け入れられた苦しみのほんのわずかな部分しか私にお与えになりませんでした。被造物は、甘美なる善である御方が受容なされるほどの苦しみも、甘美さも支え持つことはできませんので、実際には主のみが罪によって引き起こされた苦しみの極みを受け入れ、我慢なさることがおできになるのです。したがって心痛をもって私はいつも叫ぶのでした。「ああ、罪はなんと醜く、有害なものなのでしょう! もし皆がこのことをはっきり理解して、その毒性と苦しい結果を本当に経験することができたなら、そのことを知ったために地獄から這い出してきた恐ろしい怪物のように罪を避けることでしょうに!」

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P133

 

さて、常に愛する私のイエスがそのお苦しみに私を参加させるために、私に見せて下さった悲痛な場面のいくつかを、簡単に書き表すように従順によって説得され実行いたしましたからには、あの私の心をうばった慰め深い場面について黙って通り過ごすことはできません。イエスはまた、私どもの教会の聖なる秘跡の式典を、まことの謙遜の精神をもって熱心に執り行なっているよい司祭がたをも私に見せて下さり、なんともいえない素晴らしい甘美さを私に味わわせて下さいました。このような方たちが約三十分間の短いあいだに深い潜心でこの貴重な式に臨んでおられるのを見て、私はたびたびイエスに向って愛情でいっぱいになり、嘆声を上げて申したい気持ちになるのでした。「司祭職とはなんと気高く、偉大で、秀でた、崇高なものなのでしょうか! それはこれほど近くからイエスよ、あなたに接するという特別の尊厳を与えられたのみでなく、さらに愛と平和の贖いの犠牲として、あなたの永遠の御父に向ってあなたを生けにえとして捧げることができるとは!」ある一人の聖なる司祭がミサを挙げられる時、イエスは彼とともにおられ、彼のうちに変身されて、まるで両者はただ一人の人であるかのように見えます。このような事実を感嘆の心をもって何度も眺めることができるとは、なんと慰め深いことだったことでしょう! 神聖な犠牲の式典をつかさどるのは、もはやその司祭ではなく、イエスご自身であるのを見るのでしたが、ときにはミサをつかさどっておられるのはイエスご自身であることを私に分からせるために、その神父様を完全にご自分の中に隠しておしまいになるほどでした。イエスがあれほどの注油のお恵みをもって、あの祈りの言葉のかずかずを唱えられるのを聞いたり、あの聖なる式典の動作を一つ一つ行なうために高い品位をもって振る舞われるのを見るのは、まことに感動深いもので、私のうちにこのまことに聖なる気高い聖職の、もっとも秀でた素晴らしさを感じさせてくれるのでした。深い崇敬と聖なる注意の心をもって捧げられるミサを見ることができた時には、なんとたくさんのお恵みを受けたことでしょう。今このことについて私は沈黙を守りますが、これらのミサからなんと多くの神の光と特典について理解したことでしょう。

けれども従順が私に命じるためと、イエスご自身が、今私がこれを書いている最中に、私の心の内部にお叱りの言葉を感じさせておられますので、簡単に何か申さなくてはならないようです。私は嫌気のためにいろいろなことを省こうとしていましたので、そこで私が書かねばならないことを主が提案して下さるようにと主に最大の信頼をもって願いました。「ああよきイエスよ! あなたにたいしては、なんと多くの忍耐心が必要なことでしょう。そうです、それではあなたを満足おさせしましょう。私の甘美な愛よ。けれどもあなたのお恵みに助けられていたしましょう。私はこれほど深く崇高な神秘について語るのに値しないのみでなく、このようなことが含むことについては何かを言う能力すらないのですから。」

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P135

 

 私が神聖な犠牲の祭儀にあずかっている間、行われている秘跡について深く、その底まで考えてみたときイエスは、ミサはそのうちに私たちの聖なる宗教の全ての神秘を包含しているということを分からせて下さった、ということをまずお話ししなければならないと思います。ああそうです。ミサは私たちに全てを理解させます。それは人間の利益のために、素晴らしいその発露をもって施される無限の神の愛の全てについて、私たちの心にひそかに語りかけます。それは成就された私たちの救済について常に思い出させ、主の愛にたいして恩知らずの私たちのためにイエスが忍ばれた苦しみの全ての部分をも思い出させてくれます。また主は私たちのために十字架上でたった一度だけ死ぬことに満足なさらず、この清く永遠の犠牲を制定なさることによってますます、絶えず、そして限りない愛のうちにご自身の全てをお与えになるのだという事実を理解させてくれます。こうして聖体の祭儀のうちに、もう一度その犠牲としてのご身分をお続けになるのです。そしてイエスはさらに、ミサとご聖体は主の死と復活の絶え間ない思い出であり、それは私たちの霊魂だけでなく、身体にも、永遠の生命のための適切な手段だということを私に分からせて下さいました。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P136

 

 つまりミサとご聖体は、死によって腐り、灰になってしまう私たちの身体が、最期の日に不滅の命に復活することを語ります。善人にとってそれは栄えあるもの、しかし背徳者にとっては生存中にキリストとともに生きることもなかったゆえに、彼とともに復活することもなく、悲痛に満ちたものとなるのです。一方善人たちは、生きている時キリストとともに親密な生き方をしたのですから、ほとんど主と同じように復活するでしょう。ですから、ミサの犠牲がそのうちに含蓄することの中で最も慰め多いこと、また私たちの宗教が宗教の中で最も秀でたものであるということを私たちに理解させてくれるのは、この秘跡の中のイエスとその復活ということです。それはイエスのご受難と死に付随して、私たちがミサ聖祭の犠牲を祭壇上に再現するごとに、神秘的にそれを新しくくり返すことになるのです。秘跡として種なしパンという形のベールのうちにお隠れになったイエスは、それを受ける人びとにとって、その人生の巡礼の旅のあいだの同伴者、および生命としてご自身を与えられ、そのお恵みによって私たちの霊魂と身体は一致して聖三位一体の懐のうちにその永遠の栄光と命に参加することができるのです。この神秘はあまりにも深いものなので、ただ永遠の命においてのみ完全にそれについて理解することができるでしょう。今のところ、秘跡の中におられるイエスは、天国で私たちに与えられる理解力のほんの外観のみを与えて下さいますが、それをいろいろな方法で、ときにはまるで手で触れるかのように与えて下さるということもなさるのです。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P136

 

 まず最初にミサは私たちをして、イエスのご生活、ご受難、ご死去、そしてそれに続く栄えある復活に参加させます。ただ違うことは、イエスのご人性が生きられた全ての事柄は、三十三年間にわたる人生のいろいろな出来事の移り変わりの中で実際に成し遂げられましたが、ミサの中では神秘的にほんの短い時間のあいだに、完全なご自身の卑下の状態のもとに全てが新たに行なわれるのです。そして、真に生きておられるイエスを包み持つ聖別されたパンが消耗され尽くしますと、私たちの心の中の秘跡にまします主の実在はもうなくなり、主は死から復活された時のように、聖なる御父の懐へとお帰りになるのです。そしてまた新たに別のミサの間に他のパンが聖別され、再び主は平和と愛の和解者として犠牲の状態をとられ、私たちの勝利のため、永遠の御父の悦びと栄光のためにその秘跡の状態をくり返されるために天から再びお降りになるのです。

 このようにしてこの秘跡は、私たちの身体が栄光のうちに復活することを私たちに思い出させるのです。ちょうど主が秘跡の状態を中止されることによって、神なる御父のもとに座を占められるように、人間の魂も現在の生活を終わった時、天の神の懐のもとに永遠の住みかを有するために移り住むでしょうから。いっぽう私たちの身体はちょうど食されたあとの聖別されたパンのように、死後ほとんどもうその存在をとどめないほど消耗されてしまいます。そのあと全能の奇跡によって全世界の復活の時にその霊魂とともに私たちの身体も生命を得て、もし善人ならば神の永遠の祝福を楽しむために、その反対の場合には神から離れ、もっとも辛い永遠の責め苦を苦しむのです。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P137

 

 いままでに語られたことが、ミサ聖祭の犠牲という澄みきった泉から湧き出る素晴らしい効果についてであるとしたら、どうしてキリスト信者たちは、そこから利益を受けるためにそれを利用しないでいられるでしょうか? 愛する心にとっていとも慰め多く、健康なものをよき神から得ることができるのです。なぜならミサ聖祭は天上のことに値するようにという目的をもって霊魂を養うのみでなく、ときに神の永遠の喜びにひたることができる、あの特典を身体にも伝えてくれるからです。その偉大な日には、ちょうど人が、太陽が現れる時間に間近い時、星にちりばめられた空をじっと眺めていると、目の前にくりひろげられるあの自然現象と同じようなことが起こるのではないかと私には思われます。そのような時にはどんなことが起こりますか? 太陽はその目もくらむまばゆい光をもって現れ、全ての星の光を自分のうちに吸収してしまいますので、星は見ている人の前では消えてしまいます。けれども各々の星は、自分の光を有したままそれぞれの場所にとどまっていますので、太陽が沈みますと全ての星は、まるで新しい命を得たかのように再び宇宙の中で輝きはじめます。この星のように、霊魂は愛の犠牲の秘跡から受けた光につつまれて、ヨザファトの谷間(ヨエル4−2、12)での公審判の日には、正義の永遠の太陽イエス・キリストがお現れになる前に各々の霊魂は他の全ての霊魂の観察者となり、他の人びとが有するあの聖なる犠牲と愛の秘跡から受けた光がどのくらいかを見ることができるでしょう。正義の永遠の太陽である審判官としてイエスがその限りない光につつまれてお現れになる時、主に応える霊魂を星のようにご自分のうちに吸収なさり、彼らを神の完全性という広大な海の中に浮遊させることによって、常にご自身の中に存在することをお許しになることでしょう。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P138

 

 さてこの神聖な光を持たない霊魂たちはいったいどうなることでしょうか? もしこの問いに答えなければならないとしましたら、あまりにも長くなるでしょう。しかしもし主がそれをお望みになるようでしたら、また他の機会にいたしましょう。ただ前述いたしました、愛の対象について主が私に知らせて下さった他のことについて、少しお話しするだけにとどめておきたいと思います。

 主は今のところただ、輝く光をもった霊魂と一致した身体は永遠に神と一致するであろうということ、いっぽうこの愛の犠牲の秘跡にあずからなかったために光が欠乏し、まっ黒に濃い霧がかかった霊魂といっしょになった身体は、お恵みの光なしに、もっとも深い暗黒の中に投げ捨てられ、沈められてしまうであろうということ、また彼らの偉大な贈与者にたいして意識的に実行された恩知らずのわざに応じて、暗闇の王ルチフェルの奴隷として、もっともひどい苦しい永遠の拷問のもとにおかれるであろうということを私に理解させて下さいました。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

真の基督教819

 

 教皇派は東南の方向に会議室を持っている。ここにその主だった者が集合し、宗教的な主題について、特に如何にして一般人を盲目的に服従させるか、如何にして彼ら自身の勢力を拡張すべきかについて協議する。(中略)

 教皇派の儀式は世に居た時に行っていたものに似ている。それは彌撒(ミサ)を普通の言葉を以て語らないで、皮相な聖潔と畏怖感を吹き込みはするが、何らこれという意味の無い誇大な成句で出来た言葉を以て語るに在るのである。

 

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡55

 

また神的真理を何ら持たない言語のみさによる礼拝を定め

 

 

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡56〔2〕

 

特に彼らの礼拝については、それは殆ど世の彼らの礼拝に似ており、世のように、みさから成り、それは霊たちに共通した言語で行われず、外的な聖さと畏怖感とを与えるが、全く意味の判然としない、大げさな言葉から成った言語で行われている。同じように彼らは聖徒を崇拝し、偶像を公開する。しかし彼らの聖者はどこにも見ることは出来ない。なぜなら神として拝されようと願った者は凡て地獄に居り、拝されようとは願わなかった者は普通の霊たちの中にいるからである。