外なる教会

ヤペテ

外なる礼拝

 

 

天界の秘義1062

 

『セム』が内なる教会を、『ハム』が腐敗した教会を。『ヤペテ』が外なる教会を意味していることもまた以下の記事から明白であって、そこには彼らの特質が記されているのである。各々の教会においてもそうであるように、古代教会においても内なるものであった人と内なるものであったが腐敗していた人と外なるものであった人がいたのである。内なる者たちは仁慈を自分たちの信仰の第一次的なもの[主要なもの]とする者たちであり、内なるものであるが、腐敗している者は、仁慈の無い信仰をその信仰の主要なものとする者らであり、外なる者たちは内なる人について殆ど考えはないが、それでも仁慈の業を行って、教会の儀式を聖く守っているのである。この三種類の人間の外には、霊的な教会の人間として呼ばれなくてはならない者はいないのであって、彼らは凡て教会の人間であったため、『箱舟から出た』と言われているのである。古代教会の中で内なる人であった者たちは、すなわち、仁慈を自分の信仰の主要なものとした者たちは『セム』と呼ばれたが、内なるものであるが、腐敗していた者たちは、すなわち仁慈を欠いた信仰を主要なものとした者らは『ハム』と呼ばれ、他方外なるものであって、内なる人については殆ど考えなかったものの、それでも仁慈の業を遂行し、聖く教会の儀式を守った者たちは『ヤペテ』と呼ばれたのである。

 

 

天界の秘義1083

 

『セム』により内なる教会が、『ヤペテ』により内なる教会に相応した外なる教会が意味されていることは前に述べたところである。教会が存在しているところには必然的に内なるものと外なるものとが存在しなくてはならない、なぜなら教会である人間は内なるものであり、また外なるものであるからである。人間が教会となる以前、すなわち、彼が再生する以前は、人間は外なるものの中にいるが、再生しつつある時は(すでに述べられ、また示されたように)外なるものから、否、外なるものにより、内なるものへ導かれるのであり、その後、彼が再生すると、内なる人の凡てのものは外なるものの中に終結するのである。このように、古代教会がそうであったように、また現今基督教会がそうであるように、必然的に教会各々は内なるものであり、また外なるものでなくてはならないのである。

 

 

天界の秘義1083[2]

 

古代教会の内なるものは仁慈の凡ゆるものであり、仁慈から生まれた信仰の凡ゆるものであり―卑下そのものであり、仁慈から主を崇拝することそのものであり、隣人に対する善い情愛そのものであり、また他のそういったものであった。古代教会の外なるものは生贄、灌祭、その他多くの物であって、その凡ては表象により主に関わりを持ち、主を目標としていたのである。ここから外なるものの中に内なるものがあり、それらは一つの教会を作ったのである。基督教会の内なるものは古代教会の内なるものに正確に類似しているが、しかし他の外なるものがそれに代わって続いて起こったのである。すなわち、生贄とそれに類したものに代わって、礼典が起ったのであるが、そこからも同じように主が目標とされているのであって、かくて、再び内なるものと外なるものとは一つのものとなっているのである。

 

 

天界の秘義1083[3]

 

古代教会は内なるものについては基督教会からは些かも相違しなかったのであり、ただ外なるものについてのみ相違していたのである。仁慈から発した主礼拝は、外なるものはいかほど変化していようとも、決して相違することは出来ない。そしてすでに言ったように、内なるもののみでなく外なるものも存在しない限り、教会は在り得ないからには、内なるものが何か外なるものの中に終結しない限り、外なるもののない内なるものは不確定なものとなるであろう。なぜなら人間は大半内なる人の何であるかを、また何が内なる人に属しているかを知っていない底のものであり、それ故外なる礼拝がない限り、彼は聖いものについては何であれ如何ようなことも知らないからである。こうした人間が仁慈とそこから派生している良心とを持つ時、彼らは外なる礼拝の中に彼ら自身の内にある内なる礼拝を持つのである。なぜなら主は彼らの中に、すなわち仁慈の中に、また良心の中に働かれ、彼らの礼拝の凡てに内なるものを得させられるからである。仁慈を持っていない者は、また仁慈から生まれてくる良心を持っていない者はそうではない。彼らは外なるものにおける礼拝を持ってはいようが、しかし彼らは仁慈から分離した信仰を持っているように、内なる礼拝から分離した外なるものにおける礼拝を持っているのである。こうした礼拝は『カナン』であり、こうした信仰は『ハム』と呼ばれている。そしてこの礼拝は分離した信仰から発しているため、ハムは『カナンの父』と呼ばれている。

 

 

天界の秘義1096

 

 それで取扱われている主題が外なる教会の人間であるときは、主は『神』と呼ばれ給うている、例えばヤペテに関わる以下の節には『神はヤペテを大きくされるでしょう』と言われているのである。

 

 

天界の秘義1100

 

『ヤペテ』により(内なる教会に)相応した外なる教会が意味されることは既に述べた、また外なる教会、すなわち、外なる礼拝により意味されていることもすでに述べた、かくて内なる人の何であるかを知っておらず、また内なる人に属したものを何ら知ってはいないものの、それでも仁慈に生きている者を述べた。これらの者のもとにも主は等しく現存されているのである。なぜなら主は仁慈が存在するところにはことごとく、仁慈を通して働かれるからである。この点では小さな子供たちの場合も同一であり、子供たちは仁慈の何であるかは知っておらず、まして信仰の何であるかは知ってはいないものの、それでも主は大人のもとに現存されている以上に子供たちのもとに現存されており、とくに子供たちが仁慈の中に共に生活しているときは、現存されているのである。無垢、仁慈、慈悲を持った単純な人々の場合も同一である。もし人間がその知っていることに従って生活しないならば、その者が多くの事を知ったとて、それは全く無益なことである。なぜなら知ることは人間がそのことによって善くなるためのものであり、それ以外の目的は全く有りはしない。人間は善くなったときは、無数の事柄を知ってはいるが、善良ではない者よりも遥かに多くのものを持つのである。なぜなら後の者が多くの知識により探求するものを前の者はすでに持っているからである。しかし多くの真理と善とを知っていると同時に仁慈と良心とを持っている者の場合は非常に異なっている。なぜならこうした者は内なる教会の人、すなわち『セム』であるからである。知っていることは僅かでも、良心を持っている者は他生で明るくされ、かくて天使となり、表現を絶した知恵と理知とを受けるのである。これらが『ヤペテ』により意味されている。

 

 

天界の秘義1101

 

「神がヤペテを大きくしてくださいますように。」(創世記9・27)。

 

は、この教会が明るくされることを意味している。文字の意義では「大きくすること」は境界を拡げることであるが、内意では明るくされることである。なぜなら明るくされることはいわば知恵と理知の境界を大きくすることであるから。例えばイザヤ書には―

 

あなたの天幕の場所を大きくせよ、かれらにあなたの住居の帳をはらせよ(54・2)。

 

これは霊的な事柄で明るくされることを意味している。外なる教会の人間は信仰の諸真理と諸善とを教えられるとき、『大きくされる』のであって、かれは仁慈の中にいるため、そのことによりますます確認を与えられ、さらに、かれは教えられるに応じて、ますますかれの知的な部分の雲が―すなわち仁慈と良心が宿っているかの知的な部分の雲が消散するのである。

 

 

天界の秘義1102

 

「かれはセムの天幕の中に住むであろう」(創世記9・27)。

 

これは、礼拝の内なるものが外なるものの中に存在するように、を意味することは前に『セム』について述べられた凡てのことから明白であり、すなわち、『セム』は内なる教会、又は内なる礼拝であり、外なる礼拝は、それを生かし、潔める内なる礼拝がない限り、生命のないもの、または不潔なもの以外の何物でもないことから明白である。『天幕』は愛の聖いものとそこから生まれてくる礼拝以外の何ごとも意味していないことは『天幕』の意義から明白である(そのことについては、前の414番を参照)。

 

古代人の間では『天幕の中で旅をすること』と『天幕の中に住むこと』を話すことが慣とされ、そのことにより、その内意では聖い礼拝が意味されたのであるが、それは最古代人は天幕を携えて旅をしたのみでなく、またその中に住み、その中で聖い礼拝を捧げたという理由によっていたのである。ここからまた『旅をする』ことと『住む』とは内意では生きることを意味したのである。

 

[2]『天幕』が聖い礼拝を意味していることを確認するためには―前に引用した記事に加えて(414番)―以下の記事が役立つであろう。ダビデの諸には―

 

神はシロアの幕屋を、天幕を―その中で神は人間の中に住まわれたが―見棄てられた(詩篇78・60)。

 

ここでは『天幕』は『神殿』が意味していることと同じことを意味しており、神は愛の中に人間のもとに住まわれるときその神殿の中に住まわれると言われているのである。ここから聖い礼拝の中に生きた人間は古代人により『天幕』と呼ばれ、後には『神殿』と呼ばれたのである。イザヤ書には―

 

あなたの天幕の場所を大きくせよ、かれらにあなたの住居の帳をはらせよ(54・2)。

 

これは真の礼拝に属した事柄を明るくされることを意味している。エレミヤ記には―

 

全地は荒らされ、たちまちわたしの天幕は荒らされ、わたしの帳はまたたくまに荒らされてしまった(4・20)。

 

ここには天幕が意味されていないで、聖い礼拝が意味されていることが極めて明らかである。ゼカリヤ書には―

 

エルサレムは尚再びそのもの自身の場所に、エルサレムの中にさえ住むであろう、エホバも亦ユダの天幕を救われるであろう(12・6,7)。

 

ここでは『ユダの天幕』は愛の聖いものから主を拝することを表象している。

 

 

天界の秘義1795

 

「わたしの家の執事[支配人]」。これは外なる教会を意味していることは『家の執事[支配人]』の、内意における、すなわち、教会の方面の意義から明白である。内なる教会そのものが家であり、家族の父が主であられるときは、外なる教会は『家の執事』と呼ばれている。外なる教会はそのような境遇にしかおかれていない、なぜならすべて執事の仕事は教会の外なるものにぞくしているからである、たとえば祭儀の管理、礼拝の場所と教会そのものに、すなわちエホバの家または主の家に関わる多くのものの管理は外なる教会にぞくしているからである。

 

 

[2]教会の外なるものは内なるものがないなら無意味なものであり、それは内なるものからその存在を得ており、内なるもののいかんに応じている。そのかんの実情は人間の場合と同一である、すなわち人間の外なるものは、または形体的なものは、それに魂と生命とを与える内なるものが存在しなくてはそれ自身では無価値なものである。それで内なるもののあるがままに、外なるものもそれに応じており、または心(animus et mens)のあるがままに、外なるものまたは形体的なものにより生まれてくるあらゆるものの価値も応じている。心情にぞくした事柄がその人間を作っており、口と身振りにぞくしたものがそれを作っているのではない、教会の内なるものの場合も同じである。しかしそれでも教会の外なるものは、それが管理し、司っているという点で、人間の外なるものに似ており、またはそれと同一のことではあるが、外なる、または形体的な人も同様に、その家が内部を意味しているときは、その家の執事または管理者と呼ぶことができよう。このことから『子供がない』ということが意味していることが明白であり、すなわち、その中に教会の内なるものが何ら存在していないで外なるもののみしか存在していない状態が意味されており、それが主が訴えられたときの実情であったのである。

 

 

天界の秘義1796

 

 「ダマスコ人のこのエリエゼルです」。今しがた言われたことからこれらの言葉は外なる教会を意味していることは今や明白であり、そのことがまた『ダマスコ人』の意義からも現れている。ダマスコはシリアの主要な都会であって、そこには古代教会の礼拝の残りのものがあったのであり、そこからエベルまたはヘブル民族が起ったのであって、その民族のもとには(前の1238、1241番に言ったように)教会の外なるもの以外には何ものもなかったのであり、かくて家の執事の仕事以外には何ものもなかったのである。これらの言葉の中には多少絶望があり、したがって、多少主の試練があったことはその言葉そのものから明白であり、また内なる教会について以下に記されている慰めからも明白である。