自己崇拝

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P14

43年7月21日

 

ところで? あなたたちは何をしたのか? 重ね重ね何をしたのか? あなたたちは神に、その祭壇に、その位格に背を向けた。あなたたちは神を、三位一体の神を、真の神を欲しなかった。

 あなたたちは神々を欲しがった。そしてあなたたちの現在の神々は、古代の神々や偶像崇拝者たちの物神よりも、もっとおぞましい。その通り。偶像崇拝者たちの物神だ。物神のなかにはまだしも、偶像崇拝者たちの心性と無知がそれと感じることを知る神の似姿に対する敵意がひそんでいる。まことにまことにわたしはあなたたちに言う、この自然崇拝者たちは、あなたたち悪意の偶像崇拝者、最悪の偶像崇拝すなわち自己崇拝に売りわたされたあなたたちよりもきびしく裁かれることはないだろう。

 

 

 

天界の秘義1326

 

 「それでかれはその名をバベルと名づけられた」。これはこうした礼拝を、すなわち、バベルにより意味されている種類の礼拝を意味していることはこれまで言われたことから明白である、すなわち、それは自己愛を内部に宿しているところの、それゆえ汚れた冒涜的なものである凡てのものを宿した礼拝を意味しているのである。自己愛は人間自身のもの以外の何ものでもなく、これは如何に汚れたものであり、また冒涜的なものであるかは人間自身のものについて示されたことから認められることができよう(210、215番)。自己愛、すなわち、自己を求める愛から、または人間自身のものから、憎悪、復しゅう、残酷、姦淫、詐欺、偽善、不敬意といった、凡ゆる悪が発しており、それで自己への愛または人間自身のものが礼拝の中に存在していると、こうした悪がその愛から発している量と質との相違とに従って、その中に存在しているのである。ここから礼拝の冒涜が凡て発している。事実、自己への愛から、または人間自身のものから発した何かが礼拝に導入されるのに正比例して、内なる礼拝は去ってしまうのであり、すなわち、内なる礼拝が存在しなくなるのである。内なる礼拝は善を求める情愛と真理を承認することにあり、自己への愛が、すなわち人間自身のものが近づいたり、または入ってくるに比例して、善の情愛と真理の承認とは去ってしまうか、または消え去ってしまうかするのである。聖いものは、丁度天界が地獄とともになることができないように、冒涜的なものとは決して共になることはできないで、一は他から去ってしまわなくてはならないのである。こうしたものが主の王国における状態と秩序である。このことがその礼拝は『バベル』と呼ばれて、単に一種の死物に過ぎない、事実その内部は屍のようなものであって、それが拝されている者らの間には内なる礼拝は存在していない理由である。このことから内にこのような内なる礼拝を含んでいる外なる礼拝の特質はいかようなものであるにちがいないかが明白である。

 

 

 

徳間書店/林陽編訳/サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P298

 

「人々はわたしたちを異教徒と呼びますが、おかしなことです。母は異教徒でありましたが、今生きていれば間違いなくキリスト教徒になったでありましょう。しかし、祖先の信仰に従っていたときでさえ、母は非常に宗教的でありました。母は、多くのキリスト教徒よりもはるかに心を込め、深く神に祈り、神に仕え、神を愛していました。わたしの見る限り、インドには、キリストを知らず、告白することがなくても、霊的生活を送る人々が西洋よりはるかに大勢います。彼らは、まさしく、神が与えられた光に従って生きているのです。あなた方西洋人にはキリストがありますが、主を心にかけている人はいったい何人いるでしょうか。人々はこの世のためばかり生きているではありませんか。インドには、聖なる生活を送る人々が非常に多くいます。クリスチャンは、かけがえのない宝物、キリストを神から受けています。しかし、多くはこの世的な生活をあきらめることができず、心も手もこの世のものでいっぱいです。インド人は、このような宝を神から受けていないにもかかわらず、世を捨て、自分自身を否定しているのです。異教徒が求道に費やすのは、たった数日や数か月ではありません。彼らは、一度に幾歳月もかけ、必死になって真理を探し求めます。この間に、彼らは多くの苦しみを通らなければなりません。しかし、あなた方クリスチャンは、たった十分でも疲れるのです。西洋諸国の名目的キリスト教徒は、非キリスト教国の人々を『異教徒』と呼びます。むろん、彼らが偶像を拝んでいることは事実ですが、こちらの人々は自分自身を崇拝している。これは、はるかに悪しきことです。偶像崇拝者は真理を求めている。しかし、こちらの国の人々は、わたしの見る限り、快楽ばかりを求めているのです。」