礼拝の冒涜

 

 

 

天界の秘義1326

 

 「それでかれはその名をバベルと名づけられた」。これはこうした礼拝を、すなわち、バベルにより意味されている種類の礼拝を意味していることはこれまで言われたことから明白である、すなわち、それは自己愛を内部に宿しているところの、それゆえ汚れた冒涜的なものである凡てのものを宿した礼拝を意味しているのである。自己愛は人間自身のもの以外の何ものでもなく、これは如何に汚れたものであり、また冒涜的なものであるかは人間自身のものについて示されたことから認められることができよう(210、215番)。自己愛、すなわち、自己を求める愛から、または人間自身のものから、憎悪、復しゅう、残酷、姦淫、詐欺、偽善、不敬意といった、凡ゆる悪が発しており、それで自己への愛または人間自身のものが礼拝の中に存在していると、こうした悪がその愛から発している量と質との相違とに従って、その中に存在しているのである。ここから礼拝の冒涜が凡て発している。事実、自己への愛から、または人間自身のものから発した何かが礼拝に導入されるのに正比例して、内なる礼拝は去ってしまうのであり、すなわち、内なる礼拝が存在しなくなるのである。内なる礼拝は善を求める情愛と真理を承認することにあり、自己への愛が、すなわち人間自身のものが近づいたり、または入ってくるに比例して、善の情愛と真理の承認とは去ってしまうか、または消え去ってしまうかするのである。聖いものは、丁度天界が地獄とともになることができないように、冒涜的なものとは決して共になることはできないで、一は他から去ってしまわなくてはならないのである。こうしたものが主の王国にける状態と秩序である。このことがその礼拝は『バベル』と呼ばれて、単に一種の死物に過ぎない、事実その内部は屍のようなものであって、それが拝されている者らの間には内なる礼拝は存在していない理由である。このことから内にこのような内なる礼拝を含んでいる外なる礼拝の特質はいかようなものであるにちがいないかが明白である。