偶像崇拝

 

 

自己崇拝

 

 

 

1.聖書より

2.偶像崇拝の起源

3.ユダヤ人は偶像崇拝であったことについて

4.人間から作られて、主から作られてはいない教義の凡て・・彫像、鋳像

5.4種類の偶像―石、木、銀、金の

6.鋳造の子牛

7.名のみ拝することも偶像崇拝

8.ユダヤ民族が偶像崇拝の民族と結婚を禁じられた理由

9.内的な偶像崇拝

10.エビス族、アモリ族

11.偶像礼拝の三つの普遍的な種類

12.全般的に四つの偶像礼拝がある

13.最悪の偶像崇拝すなわち自己崇拝

14.ヴァッスーラ

15. サンダー・シング

16.ルイザ・ピッカレータ

17.そこから異邦人の多くの神々が起ったのである

18.聖母から司祭へ

19.偶像崇拝者の無垢 異邦人の教会/参照)

20.彫像が神についての思いを喚び起こす手段として役立つ者もいる

21.ドレックス教授

22.この神が主であることを知ってはいない

23.『神々を作ること』は教義の誤謬を作ることを、または誤謬から教義を作ることを意味

24.上は天に在るもの、または下は地に在るもの

25.マリア・ヴァルトルタ

26.信仰と仁慈から発していない礼拝は礼拝ではなく、偶像崇拝

 

 

 

 

 

1.聖書より

 

 

出エジプト20・4−6

 

 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

 

 

 

出エジプト34・17

 

 あなたは鋳造の神々を造ってはならない。

 

 

 

レビ記19・4

 

 偶像を仰いではならない。神々の偶像を鋳造してはならない。わたしはあなたたちの神、主である。

 

 

 

レビ記26・1 

 

 あなたたちは偶像を造ってはならない。彫像、石柱、あるいは石像を国内に建てて、それを拝んではならない。わたしはあなたたちの神、主だからである。

 

 

 

民数記33・50−52

 

 エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野で主はモーセに仰せになった。

 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。

 ヨルダン川を渡って、カナンの土地に入るときは、あなたたちの前から、その土地の住民をすべて追い払い、すべての石像と鋳造を粉砕し、異教の祭壇をことごとく破壊しなさい。

 

 

 

詩篇96・5

 

 諸国の民の神々はすべてむなしい。

 

 

 

詩篇115・4−8

 

国々の偶像は金銀にすぎず

人間の手が造ったもの。

口があっても話せず

目があっても見えない。

耳があっても聞こえず

鼻があってもかぐことができない。

手があってもつかめず

足があっても歩けず

喉があっても声も出せない。

偶像を造り、それに依り頼む者は

皆、偶像と同じようになる。

 

 

 

イザヤ45・16

 

偶像を造る者は辱めの中を行き

皆共に恥を受け、辱しめられる。

 

 

 

イザヤ45・20

 

国々から逃れて来た者は集まって

共に近づいて来るがよい。

偶像が木にすぎないことも知らずに担ぎ

救う力のない神に祈る者。

 

 

 

イザヤ46・1−2

 

ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。

彼らの像は獣や家畜に負わされ

お前たちの担いでいたものは重荷となって

疲れた動物に負わされる。

彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。

その重荷を救い出すことはできず

彼ら自身も捕らわれて行く。

 

 

 

イザヤ46・5−7

 

お前たちはわたしを誰に似せ

誰に等しくしようとするのか。

誰にわたしをなぞらえ、似せようというのか。

袋の金を注ぎ出し、銀を秤で量る者は

鋳物師を雇って、神を造らせ

これにひれ伏して拝む。

彼らはそれを肩に担ぎ、背負って行き

据え付ければそれは立つが

そこから動くことはできない。

それに助けを求めて叫んでも答えず

悩みから救ってはくれない。

 

 

 

エレミヤ16・19,20

 

主よ、わたしの力、わたしの砦、苦難が襲うときの逃れ場よ。あなたのもとに国々は地の果てから来て言うでしょう。「我々の先祖が自分のものとしたのは偽りで、空しく、無益なものであった。人間が神を造れようか。そのようなものが神であろうか」と。

 

 

 

エゼキエル8・3−6

 

彼が手の形をしたものを差し伸べて、わたしの髪の毛の房をつかむと、霊はわたしを地と天の間に引き上げ、神の幻のうちにわたしをエルサレムへと運び、北に面する内側の門の入り口に連れて行った。そこには、激怒を起こさせる像が収められていた。そこには、かつてわたしが平野で見た有様と同じような、イスラエルの神の栄光があった。彼がわたしに、「人の子よ、目を上げて北の方を見なさい」と言ったので、北の方に目を上げると、門の北側に祭壇があり、入り口にはまさにその激怒を招く像があるではないか。彼はわたしに言った。「人の子よ、イスラエルの人々がわたしを聖所から遠ざけるために行っている甚だ忌まわしいことを見るか。しかし、あなたは更に甚だしく忌まわしいことを見る。」

 

 

 

エゼキエル8・12

 

彼はわたしに言った。「人の子よ、イスラエルの家の長老たちが、闇の中でおのおの、自分の偶像の部屋で行っていることを見たか。彼らは、主は我々を御覧にならない。主はこの地を捨てられたと言っている。」

 

 

 

エゼキエル44・10−12

 

レビ人は、イスラエルが迷ったとき、わたしから離れて偶像に従い迷ったので、その罪を負わねばならない。彼らはわたしの聖所で奉仕するが、神殿のそれぞれの門に詰めて神殿の雑務を行う。彼らは、民のために焼き尽くす献げ物と会食の献げ物の動物を屠り、民の前で彼らに仕える。彼らは民の偶像礼拝を助け、イスラエルの家のつまずきとし、罪を犯させたからである。それゆえ、わたしは手を上げて誓う、と主なる神は言われる。彼らは自分の罪を負わねばならない。

 

 

 

アモス5・21−27

 

わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。

祭りの献げ物の香りも喜ばない。

たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても

穀物の献げ物をささげても

わたしは受入れず

肥えた動物の献げ物も顧みない。

お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。

竪琴の音もわたしは聞かない。

正義を洪水のように

恵みの業を大河のように

尽きることなく流れさせよ。

イスラエルの家よ

かつて四十年の間、荒れ野にいたとき

お前たちはわたしに

いけにえや献げ物をささげただろうか。

今、お前たちは王として仰ぐ偶像の御輿や

神として仰ぐ星、偶像ケワンを担ぎ回っている。

それはお前たちが勝手に造ったものだ。

ダマスコのかなたの地に連れ去らせると

主は言われる。

その御名は万軍の神。

 

 

 

ガラテヤ5・19−20

 

 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 

 

 

エフェソ5・5

 

 すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。

 

 

 

コロサイ3・5

 

 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。

 

 

 

ペトロ1・4・3

 

かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。

 

 

 

ヨハネ1・5・21

 

子たちよ、偶像を避けなさい。

 

 

 

黙示録9・20−21

 

これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。また彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった。

 

 

 

 

2.偶像崇拝の起源

 

 

天界の秘義2722

 

 古代教会においては聖い礼拝は山の上でまた杜[木立ち]の中で営まれたのである。山の上で営まれたのは、山は礼拝の天的な事柄を意味したためであり、杜[木立ち]の中で営まれたのは、杜はその礼拝の霊的な事柄を意味したためであった。その教会が、即ち、古代教会がその単純さの中にとどまっていた限り、山の上と、杜の中で当時営まれた彼らの礼拝は聖かったのであるが、それは愛と仁慈との事柄である天的な事柄は、山と岡のような、高い崇高な物により表象され、そこから発している霊的な事柄は庭園や杜のような、果実をつける、葉の繁った物により表象されたという理由からであったが、しかし表象的な物と表意的な物とが内なるものを欠如した外なる物を拝する礼拝により偶像的なものになされ始めた後は、その聖い礼拝は汚れたものになり、そのため彼らは山の上と杜の中で礼拝することを禁じられたのである。

 

 

 

天界の秘義2722 []

 

古代人が山の上で礼拝を守ったことは創世記の第12章から明白であり、そこにアブラハムについて以下のように記されているのである―

彼はそこからベテルの東の山に移り、天幕を張った。ベテルが海の方に、アイが東にあった。そこに彼は祭壇を作り、エホバの御名を呼んだ(8節、1449−1455)。

 

またそのことは『山』の意義が愛の天的なものであることからも明白である(795,796,1430番)。彼らはまた杜の中で聖い礼拝を守ったことはこの節に述べられていることから、即ち、『アブラハムはベエルシバに杜をつくり、そこに永遠の神の御名を呼んだ』ことから明白であり、また『庭園』の意義が理知であり(100,108,1588番)、『木』の意義が認識であることからも明白である(103,2163番)。これが禁じられたことは以下の記事から明白である。モーセの書には―

 

あなたはあなたに築かなくてはならないあなたの神エホバの祭壇の傍らに、いかような木の杜を作ってはならない。あなたはあなたに柱を立ててはならない。あなたの神エホバはそれを憎みたもう(申命記16・21,22)。

 

同書には―

 

あなたらは諸国民の祭壇をこぼち、その柱を粉砕し、その杜を切り倒さねばならない(出エジプト34・13)。

そして彼らは諸国民の杜を火で焼くことを命じられたのである(申命記12・3)。

 

 

 

天界の秘義2722 []

 

ユダヤ人とイスラエル人とは―彼らの間に古代教会の表象的な祭儀が導入されたのであるが―専ら外なるものの中にあり、心では偶像崇拝者以外の何ものでもなく、内なるものとはいかようなものであるかを知りもしないし、また知ろうともしないし、また死後の生活も、またメシアの王国は天界の王国であることさえも知りもしないし、知ろうともしなかったため、それで彼らは、自由であった時は常に山や岡の上で、また杜[木立ち]や林の中で汚れた礼拝を守り、同じく山と岡の代わりに自分自身のために高い所を作り、杜の代わりに杜を表象しているものを彫刻したのであって、そのことは聖言の多くの記事から明白である。例えば士師記には―

イスラエルの子孫はバールと杜とに仕えた(3・7)

(後略)

 

ユダの王ヘゼキアは高い所を除き、柱をくだき、柱を切り倒し、モーセが作った銅の蛇を粉砕した(列下18・4)

 

 

 

天界の秘義2722 []

 

モーセの時代には銅の蛇は聖いものであったことは明白である。しかし外なるものが拝された時、それは汚れたものとなり、山の上と杜の中の礼拝が禁ぜられたと同じ理由から粉砕されてしまったのである。これらのことは予言者の書にさらに明白である。イザヤ書には―

(イザヤ57・5−7)

(後略)

 

 

 

天界の秘義2722[]

 

このすべてから今や偶像礼拝がいかような起源から発したかが、即ち、表象的な、また表意的なものであった物を拝する礼拝がいかような起源から発したかが明らかである。洪水以前にいた最古代の人々は各々のまた凡ゆる物の中に―山、岡、平地[平原]、谷、庭園、杜、林、川、水、畠、農園、柵、凡ゆる種類の木と動物、天の光体の中に―主の王国を表象し、意味しているものを見はしたが、しかし彼らは決して、その目で、ましてやその心で、これらの物を思い巡らしはしなかったのであり、これらの物は主の王国における天的なものと霊的なものとについて考える手段として彼らに役立ったのであり、しかもそれは自然全体の中にはこのような手段として彼らに役立たない物は全く存在しないほどにもなっていたのである。真の事実は自然界の凡ゆる物は表象的なものであるということであり、それは現今殆ど何人にも信じられていないアルカナ[秘義]である。しかし、主に対する愛に属する天的なものが死滅してしまった後では、人類は最早その状態にはいなくなったのである。即ち、対象を手段として、そこから主の王国の天的なものと霊的なものとを見ることが出来るという状態に最早止まらなくなったのである。

 

 

 

天界の秘義2722[]

 

それでも洪水後の古代人は、これらの物にはこのような意義があることを、伝承から、またある人物により行われた(文書の)収集物から知り、彼らはそれらの物は表意的なものであったため、それらのものを聖いものとして考えたのである。ここから古代教会の表象的な礼拝が生まれたのであり、その教会は、霊的なものであったため、何かのものがそのようなものであることを認識はしなかったが、しかしその事実を知っていたのである。なぜならそれは相対的には明確でない状態の中にいたからである(2715番)。それでも彼らは外的な物を拝しはしないで、外的な物を手段として内的なものを想起し、そこから彼らはそれらの表象的なものと表意的なものの中にいた時は、礼拝の聖いものの中にいたのである。彼らは霊的な愛の中に、即ち、仁慈の中におり、仁慈を礼拝の本質的なものとしたため、そのようなもになることが出来たのであり、それで主から聖いものが彼らの礼拝に流れ入ることが出来たのである。しかし人類の状態が変化し、歪められてしまって、彼らは自らを仁慈の善から遠ざけてしまい、かくて天界の王国が在ることを最早信じなくなり、人間は(現今でもまたそのように信じられているように)ただ考えることが出来るということを除いては、動物と同じ条件にいると信じるようになると、そのとき聖い表象的な礼拝は偶像崇拝となって、外的な物が拝されたのである。そこから当時の多くの異邦人のもとでは、またユダヤ人とイスラエル人のもとでは、その礼拝は表象的なものではなくなり、表象的な物と表意的な物を拝する礼拝に、即ち、内なるものを持たない外なる物を拝する礼拝となったのである。

 

 

 

天界の秘義2722[]

 

特に杜については、古代人の間ではそれには色々な意義があり、実にそれはその中の木の種類に従っていたのである。オリーヴの木の杜は礼拝の天的なものを意味し、ぶどうの杜は礼拝の霊的なものを意味したが、いちぢく、香柏、もみの木、ポプラ、樫の木の杜は天的なものであり、また霊的なものであるものに関わる色々なものを意味したのである。私たちが今取り扱っている記事の中では単に杜がまたは木を植えた所が記されているが、これは教義とその幾多の知識とに接合された理性の幾多の事柄を意味しているのである。なぜなら木は全般的には認識を意味しているが(103,2163番)、しかしそれが霊的な教会について述べられている時は、それは霊的な教会の人間は教義からまたは聖言から幾多の知識を通して発している認識以外の認識を持っていないという理由から、知識を意味するからである。なぜならこれが彼の信仰のものとなり、かくて良心のものとなり、そこから彼は認識を持つからである。

 

 

 

天界の秘義4733

 

主の神的な人間的なものを承認し、崇拝することが宗教の生命であることは、直ぐ前に言われたことから明らかであり(4731番)、また以下の事実からも明らかである、すなわち、人間は多少なりと認識し、考えることが出来るものを拝そうと欲するといった性質を持っており、感覚的な人間は何らの感覚により認めることが出来るものをさえ拝そうとしており、また彼らはその中に神的なものが存在していない限り、それを拝そうともしないのである。これは人類に共通である。こうした理由から異邦人は神的なものがその中に存在していると信じている偶像を拝しており、他の者は人間をその死後拝して、これを神か、または聖徒であると信じている。なぜなら人間の中には、その感覚に影響を及ぼす何ものかがない限り、何一つ呼び出されることは出来ないからである。

 

 

 

天界の秘義4733[2]

 

 自分は最高の存在を承認していると言ってはいるが、その存在については何ら認識の観念[考え]を持ってはいない者らの大半は神を全く承認してはおらず、その代わりに自然を承認している、なぜなら彼らは自然を把握するからである。基督教徒の間の学者たちの非常に多くの者はこのようなものであるが、そのこともまた彼らが主の人間的なものが神的なものであることを信じないためである。それで人間が神的なものから自らを甚だしく遠ざけてしまい、形体的なものになってしまって、木や石を拝さないように、また人間をたれかその死後拝し、かくてその人間の下に悪魔をたれか拝し、神をいかような方法によっても認めることが出来ないため、神自身を拝しはしないことのないように、かくて教会の凡ゆる物が滅んで、教会と共に人類も滅んでしまわないように、神的なものそれ自身が人間的なものを取って、それを神的なものにしようとされたのである。それで学者たちは主の人間的なものを考えると同時に、それが神的なものではないと信じないように注意されたい、なぜならそのようなことを為すことにより彼らは自ら躓くものを作って、遂には何ごとも信じなくなってしまうからである。

 

 

 

 

3.ユダヤ人は偶像崇拝であったことについて

 

 

天界の秘義1094

 

「彼はその兄弟に対し僕の中の僕とならなくてはならない」。これは境界の中の最も卑賤なものを意味していることは、内なる礼拝から分離した際の外なる礼拝の性質から明白である。外なる礼拝はそれ自身において観察されるなら、それはそれを聖いものにする内なる礼拝が存在しない限り、無意味なものであることはたれにでも明白であるに違いない。なぜなら外なる礼拝は、心の崇拝を持たないなら、身振りでなくて何であろうか、あるいは唇の祈りは、もし心がその中に無いならば、単なるしゃべりでなくて何であろう。そして業も、その中に意図が無いならば、無でなくて何であろうか。それで外なる物は凡てそれ自身では生命のないものであり、ひとえに内なるものから生きているのである。

 

 

 

天界の秘義1094[2]

 

 内なる礼拝から分離したさいの外なる礼拝の性質は他生における多くの事柄から私に明らかにされたのである。そこの妖婦らは世では他の者と同じように教会に足繁く出入りし、礼典にも列なった者であり、人を欺いた輩もそうした者であり、事実彼らの者は他の者以上にそうした者だったのであり、同じく強盗を喜んだ者らも、貪欲な者らもまたそうした者であったが、しかも彼らは奈落の輩であり、主と隣人とに対し最大の憎悪を抱いているのである。彼らの外なる礼拝における内なる礼拝は彼らが世から認められたいためであるか、その欲する世的な、地的な、形体的な物を獲得するためのものか、聖い仮面[外観]の下に欺くためのものか、またはある身につけた習慣から発しているものか、その何れかであったのである。こうした人物は自分と自分の欲望を甘やかしてくれる神なら、または偶像であるなら、何であれそれを崇拝する傾向を非常に持っていることは、特にユダヤ人から極めて明白であり、彼らはその礼拝を外なるもの以外の何物からも成立させていない結果、再三偶像崇拝に陥ったのである。その理由はこうした礼拝はそれ自身では単に偶像崇拝に過ぎないということである。なぜなら外的なものが、彼らにより礼拝されるものであるからである。

 

 

 

天界の秘義1094[3]

 

バールと他の神を拝したカナンの地の異邦人もまた殆ど同じ外なる礼拝を持っていたのである。なぜなら彼らは神殿と祭壇を持っていたのみでなく、生贄もまた捧げ、かくて彼らの外なる礼拝は彼らがその神にバール、アシタロテ、その他の名を与え、ユダヤ人はその神にエホバの名を与えたということを除いては、ユダヤ人の礼拝とは殆ど相違していなかったからである。ユダヤ人は現今でもまたその神にエホバの名を与えているのである。なぜなら彼らは単にエホバの名を口にするのみで自分らは聖い、選ばれたものになると想像しているからであるが、事実はそのことがむしろ彼らを他の者以上に罪に定めるようになっているのである。なぜならそのことにより彼らは聖いものを冒涜することが出来たのであるが、異邦人はそうしたことは行うことが出来ないからである。こうした礼拝が『僕の中の僕』であると言われている『カナン』と呼ばれるものである。『僕の中の僕』は教会の中の最も卑賤なものを意味していることは以下の節に見ることができよう。

 

 

 

天界の秘義3732[2]

 

 この凡てからユダヤ民族の父祖たちの性質は、例えばここではヤコブの性質はいかようなものであったかが明白である。彼は未だエホバを承認していなかったのであり、エホバをまたは他の者を彼の神として承認しなくてはならないかについてはその選択は尚定まってはいなかったのである。たれもが自分自身の神を持とうと望み、もしたれかがエホバを拝するなら、それは彼がエホバと呼ばれる神を拝したということに過ぎないのであり、その神はその名前により他の国民の神々から区別されたのであり、かくて彼らの礼拝はこの点においてすら偶像崇拝であったということがかの国民の、その父祖たちの時代さえもからの、特質[特異性]であったのである。なぜなら単に名前を拝することは、エホバという名前を拝することでさえもが、偶像崇拝以外の何ものでもないからである(1094番)。そのことは自分自身を基督教徒と呼んで、自分はキリストを拝していると言ってはいるものの、その教えに従って生きてはいない者にも言われるのであり、こうした者はキリストを偶像崇拝で拝しているのである。なぜなら彼らの拝しているのは偽キリストであるからには彼らは彼の名前のみを拝しているからである。この偽キリストについてはマタイ伝24・23、24を参照されたい(3010番)。

 

 

 

天界の秘義4208

 

 ここに『アブラハムの神、ナホルの神、かれらの父の神』(すなわち、テラの神)またはヤコブの父、『イサクの畏む者』と呼ばれている理由はテラの息子たちはこの数の神々を承認したということである、なぜならかれらは偶像崇拝者であったからである(1353,1356,1992,3667番)。そしてかの家では各々の家族がその家族自身の神を拝したということが特性となっていたのである。このことがここに『アブラハムの神、ナホルの神、かれらの父の神、イサクの畏む者』と言われている理由である。にも拘らずアブラハムの家族にはエホバをかれらの神として承認することが命じられはしたものの、それでもかれらはエホバを他の一人の神としてのみ、すなわち、その神によってかれらはかれら自身を異邦人たちから区別することができるそうした神としてのみ承認したのであり、かくてかれらはエホバを単にその名前についてのみ承認したのであり、かれらが、聖言の歴史的な部分から認めることができるように、再三他の神々に移ったのはこうしたことの結果であったのである。かれらの教会の祭儀そのものが、それが関連している限りでは、単に偶像崇拝にすぎなかったのである、なぜならそれらは内なるものから分離していたからである、なぜなら教会の祭儀はことごとく、それが内なるものから分離すると、偶像崇拝となるからである。それにも拘らず教会の純粋なものはそれらのものにより表象されることができたのである、なぜなら表象する物は人柄を顧慮しないで、事柄を顧慮するからである(665、1097、1361、3147番)。それでも表象的な教会が存在するようになって主が天界を通して人間と多少なりと交流されるためには、かれらがたとえ心の中ではなくても、それでも口でエホバを絶えず承認しなくてはならないことが特に必要であったのである、なぜならかれらのもとでは表象的なものは内なるものから発しないで、外なるものから発し、そのようにしてかれらは主と交流したからであり、それはその交流が内なるものにより行われる純粋な教会の場合とは全く異なっていたのである。そうした理由からかれらの神礼拝はかれらの霊魂には些かも影響を与えはしなかったのであり、すなわち、かれらを他生において祝福されたものとはしないで、たんにこの世においてのみ栄えるものとしたのである。

 

[]それでかれらはこれらの外なる物の中に保たれるために、極めて多くの奇蹟がかれらの間に行われたのであり、それらの奇蹟はもしかれらが内なるものの中にいたなら、決して起こりはしなかったのであり、そうした理由からかれらはいくども刑罰と捕囚と威嚇とによりその礼拝へ駆り立てられたのであるが、それに反し誰一人主によっては内なる礼拝へ駆り立てられはしないのであり。それは自由を通して植えつけられるのである(1937、1947、2874−2881、3145、3146、3158、4031番)。かれらの主要な外なるものはかれらがエホバを告白しなければならないということであった。なぜならエホバは主であられ、主はその教会の凡ゆる物の中に表象されたもうたがらである。(エホバは主であられたことは前の1343、1736、2911、3035番に見ることができよう)。

 

 

天界の秘義8871〔3〕

 

天と地の何らかの物に似たものを作ることがかくも厳しく禁じられた理由は、主としてヤコブから出たその民族は外なるものを拝することに非常に心が傾きがちであったという理由からであった。その原因は彼らは主に対する信仰と愛とに属し、また隣人に対する仁慈に属しているところの、教会の内なる事柄については何ごとも知ろうとは欲しなかったということであった。それでもし彼らが(色々な)物に似たものを作ることを許されたとするなら、その時はそれらの物に身をかがめて、それらを神々として拝しもしたであろう。このことは彼らがかくも多くの奇蹟の真っ只中においてさえも彼ら自身のために作った金の子牛から非常に明白であり、また彼らが神礼拝から偶像崇拝へと再三離反し去ったことからも明白である。にも拘らず内意にはこうした物は意味されてはいないで、前に示したことが意味されているのである。

 

 

天界の秘義10570

 

かの国民は他の者よりも卓越することをその目標としてそのために聖い外なるものの中にいることができるといった性質をもっていたため、またこうした民のもとには礼拝の外なるものであるところの天的なものと霊的なものとを表象しているものが天使たちと交流する[連る]ことができ、そのことにより天界と交流することができるため、そのためにかの国民は受け入れられたのである。

しかしかれらはそのことにより神を拝する者であったと信じる者は非常に誤まっているのである。なぜならかれらは自己と世とを拝したものであり心では偶像崇拝者であったからである。

かれらはこうした性格のものであったため、主に対する信仰と愛とに属した礼拝の内的なものはかれらに啓示されはしなかったのであり、そのことは旧約聖書から明らかであり、またかれらは主が世に来られたとき、主を承認しなかったという事実からも、いな、今も尚主を承認してはおらず、たとえ主について予言的な言葉から教えられるにしても、それを受け入れはしないという事実からも明らかである。かれらはかれらを全世界の凡ての者にもまさって引き上げてくれるメシアを望んでいて、その王国が天界に存在し、従って地上の凡ての者の救いのためにまた配慮されるメシアを望んではいないのである。

 

 

天界の秘義10603

 

エルサレムにのみ神礼拝が行われ、そうした理由からその都が聖いものとして考えられ、また歴史的な聖言にも予言の聖言にも聖いものとして呼ばれたこともまたかの国民のためであったのである。その理由はかの国民は心では偶像崇拝者であり、それでかれらは各々の祝祭にかの都へ共に来なかったかぎり、各々の者はことごとくその者自身の場所で異邦人らの神をたれか、または彫刻し、鋳造したということであった。またその国民のために古代人とは異なって、山の上で、また杜の中で聖い礼拝をささげることが禁じられたが、そのことはかれらにそこに偶像をおいて、木そのものを拝させないように行われたのである。

一夫多妻制も古代では知られなかったが、かの国民のために許された。同じく色々な原因で妻を離別することも許された。

それでこの外なるものは主によりモーセから与えられたものとして、かれらの心のつれなさのために与えられたものとして主から話されているのである。(マタイ19・8)

 

 

4.人間から作られて、主から作られてはいない教義の凡て・・・彫像、鋳像

 

 

天界の秘義215

 

エレミヤ記には―

 

 すべての人は知識により愚鈍となり、すべての鋳物師はその彫んだ像のために狼狽する、その鋳た像は虚偽であって、その中にはまた息がない(エレミヤ51・17)

『彫んだ像』は人間自身のものの誤謬であり、『鋳た像』は人間自身のものの悪である。

 

 

 

天界の秘義8869

 

「あなたはあなたに像を彫んではならない」。これは、自己の理知から(真理が考えられては)ならない、を意味していることは、『彫んだ像〔彫像〕』の意義から明白であり、それは主から発しないで人間自身のものであるものから発しているものである。人間の知性の人間自身のものであるものは『彫像』により意味されており、人間の意志の人間自身のものであるものは『鋳像』により意味されている。神として何れか一方を持つことは、またそれを崇拝することは、自己から発出するものをすべて何ものにもまさって愛することである。こうしたことを行う者は、理知と知恵との何かが神的なものから流れ入っていることを全然信じはしない、なぜなら彼らは凡ゆるものを彼ら自身に帰しており、彼らに起って来る他の凡ゆる物を運命か、または偶然に帰しているからである。彼らはそうした事柄における神的摂理〔神の摂理〕を全く否定している。

 

 

 

天界の秘義9777

 

偶像により誤謬の教義が意味されているのである、なぜならそれは自己の理知から発しているためである(8941、9424番)。

 

 

 

天界の秘義10406

 

偶像が意味されているのではなく、人間自身によりその者の何らかの愛の導きの下に形作られるような誤った教会の教義的な事柄が意味されている。

「彫像」・・・誤謬をつじつまが合って恰も真理であるかのように見せること。

「鋳像」・・・そうした誤謬を結び合わせて、外なる愛を支持しかくて悪を善として見せること。

 

これらが人間から作られて、主から作られてはいない教義の凡ての実態であり、それは人間が自分自身の栄光を、または自分自身の利得を己が目的とする時人間から作られる。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P71

 

「おまえの考えでは、ペゲンであるとはどんなことか」

とまたイエズスが聞く。

「それは、まことでない宗教を信じ、神々を拝むことです」とユダがむしろ激しく言い返す。

「どんな神々か」

「ギリシャとかローマとかエジプトとかの彼らのオリンパスにある、実際に何の存在もない神々です」

「オリンパスにいるほかにどんな神も存在しないのか」

「他の? それだけでもあんまりたくさんあるではありませんか」

「そう、たくさんある。しかしほかのもある。そして、その神々の祭壇には、いろいろな人間、司祭たち、律法学士たち、ラビたち、ファリサイ人たち、サドカイ人たち、ヘロデ派の人々などが、香を焚く。今、言った人々は皆イスラエルの人々である。そうではないか。しかし、それだけではない。私の弟子たちもその香を焚いている」

「ああ! まさか! そんなことはあり得ない」と皆が言う。

「そうではないと言うのか。私の友だちよ。おまえたちの中で、隠れた何らかの崇敬、または複数の崇敬を持っていない者があるだろうか。一人は美と優雅さ、もう一人は自分の知識のための傲慢。他の人は“人間的に”偉大なる者となる希望に香をささげる。他の人は雌を拝む、他の人は金、もう一人は自分の知識の前にひれ伏す。まことに言うが偶像崇拝に全く染まっていない人はいない。それなら真の神とともにいる、と思っていても意志はまだまだペゲン的であるのに、どうして生まれながらのペゲンを軽べつするのか」

 

注:ペゲン・・・異教徒とか偶像崇拝者とかだけの意味ではなく道徳的に低い者

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P285

 

 あなたたちは心の中に偶像、多くの偶像をもっている。自分が神であるかのように考える自分のさまざまの邪欲の偶像を・・・。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P244

 

私はこの世が偶像崇拝とならないように、何時までも話し続ける。

 

 

 

マリア・ワルトルタ132・2

 

『彼らは異教の神々の祭壇と殿堂を破壊した』。

これは最初の工作です。真の神と取り替える個人的神々、すなわち、官能、黄金、高慢、霊魂と体に冒涜と死をももたらし、神の罰へと招く七つの大罪と、わたしがかつて名指しであなたたちに示した偶像崇拝撲滅の工作です。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P97

 

 ごらん、日没の残光に照らされて、ユダヤの山々が見えます。その彼方には海があり、それから他の世界がある・・・ペトロ、この世界があなたを待っている。あなたは真の神の存在を知らせ、偶像崇拝の闇の中をさまよう霊魂に真の光を与え、神の存在を教えるでしょう。(中略)

 

私の教えは霊的な旅人を天の道へ導く星となろう。ああ、ペトロ、祝された岩よ、あなたは私と一致して唯一の星、私の教えの案内者となろう。人は私の名によって救われる。そのときのために祈ろう。『天にまします我らの父よ・・・』

 

 

 

5.4種類の偶像―石、木、銀、金の

 

 

天界の秘義10503

 

4種類の偶像がある。すなわち、石、木、銀、金の。

「石の偶像」・・・教義の誤謬から発した礼拝

「木の偶像」・・・教義の悪から発した礼拝

「銀の偶像」・・・教義のみでなく、生命[生活]における誤謬の礼拝

「金の偶像」・・・教義のみでなく生命[生活]における悪の礼拝

従って金の偶像は凡ゆるものの中でも最悪の礼拝を意味していた。

こうした礼拝の中にいた者らは真理を誤謬化したのみでなく、善を不善化した。なぜなら悪を善と呼び、そこから派生している誤謬を真理と呼んだからである。自己を愛しつつも聖言を信じる者は凡てこうした礼拝を捧げている。なぜならかれらは聖言の文字の意義をその考え、行う凡ゆる事柄に有利に、引いては自己を拝する礼拝に有利に応用[適用]するからである。

 

 

天界の秘義10503

 

「彼らのために金の神々を作りました」。これは、そして彼らは奈落の歓喜を礼拝している、を意味していることは以下から明白である、即ち、『彼らのために神々を作ること』の意義は礼拝であり、『金』の意義は外なる愛の歓喜である(前の10402番を参照されたい)。聖言には四種類の偶像が、即ち、石と木と銀と金の偶像が記されている。石の偶像は教義の誤謬から発した礼拝を意味し、木の偶像は教義に悪から発した礼拝を意味し、銀の偶像は教義のみでなく、生命[生活]における誤謬の礼拝を意味し、金の偶像は教義のみでなく生命[生活]における悪の礼拝を意味しているのである。従って金の偶像は凡ゆるものの中でも最悪の礼拝を意味したのである。こうした礼拝の中にいた者らは真理を誤謬化したのみでなく、善を不善化したのである、なぜなら悪を彼らは善と呼び、そこから派生している誤謬を真理と呼んだからである。自己を愛しつつも聖言を信じる者は凡てこうした礼拝を捧げている、なぜなら彼らは聖言の文字の意義を、その考え、また行う凡ゆる事柄に有利に、引いては自己を拝する礼拝に有利に応用[適用]するからである。

 

 

 

 

6.鋳造の子牛

 

 

天界の秘義10407

 

「鋳造の子牛」

自然的な感覚的な歓喜、快楽、欲念、自己と世を求める愛の歓喜。内なるものを欠いた外なるものにいる者らが抱いているものは、また拝しているものはこの歓喜である。なぜなら人間は何ものにもまさって愛するものを拝するからである。

エジプト人は他の凡ての者にもまさってこうしたものであった。

 

 

 

 

7.名のみ拝することも偶像崇拝

 

天界の秘義3732[2]

 

単に名前を拝することはエホバという名前を拝することでさえもが偶像崇拝以外の何ものでもない(1094)。

このことは自分自身を基督教徒と呼んで、自分はキリストを拝していると言ってはいるものの、その教えに従って生きてはいない者にも言われているのであり、こうした者はキリストを偶像崇拝で拝しているのである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P240

 

「『神なる主以外のだれも拝むな』と書かれている。すると、おまえたちは、私を人間であるメシアとしてしか礼拝しないのか?」

 

「あなたは、それ以上の何かですか?」

 

「おまえたちが質問に来たのは、そういうつもりからか? 偽善者の毒蛇の類の者よ、それに神を汚す者でもある。おまえたちが人間たるメシアだけを見て、私を礼拝するなら、それは偶像崇拝者だ。神だけを礼拝すべきである。(後略)」

 

 

 

マルコ10・17−19

 

 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

 

 

 

 

8.ユダヤ民族が偶像崇拝の民族と結婚を禁じられた理由

 

 

天界の秘義4444

 

(出エジプト34・16)、(申命記7・3,4)。

この律法は偶像崇拝の諸民族と結婚することによりイスラエルの子孫が真に表象的な礼拝から外れることのないように、偶像崇拝の諸民族に関連して与えられたのである、なぜならかれらが偶像崇拝者となると、かれらはもはや主の王国の天的な霊的な事柄を表象することができなくなり、地獄的なものであるところの、それに対立したものを表象することができたからである、なぜならそのときはかれらは地獄から或る一人の悪魔を呼び出して、これを拝し、これにその神的な表象的なものを適用したからであり、それで『かれらの神々に従って淫行を犯さないためである』と言われているのである。この律法はまた以下の付加的な理由からも与えられたのである、すなわち『諸民族』により悪と誤謬とが意味され、これとイスラエルの子孫により表象されている善と真理とが混入してはならなかったのであり、従って、悪魔的な奈落的な事柄は天界的な霊的な事柄と混入してはならなかったのである(3024番)。

 

 

 

 

9.内的な偶像崇拝

 

 

天界の秘義1205

 

 内的ないくたの偶像崇拝は人間が愛し崇拝しているところの、それと同数の誤謬と欲念

 

 

 

天界の秘義1370

 

 しかし外なる偶像崇拝であるところの偶像を拝する礼拝はそれらを構成はしないのであって、そうした礼拝は、相互愛に生きている異邦人の間に起っているように、善と真理とを求める情愛に、引いては仁慈に連結されることができるのである。聖言に外なる偶像礼拝により意味されているものは内的な偶像礼拝である。

 

 

 

 

10.エビス族、アモリ族

 

 

天界の秘義1205

 

エビス族、アモリ族、ギルガシ族、ヒビ族、アルキ族、セニ族、アルワデ族、ゼマリ族、ハマテ族は同数の国民であり、かれらもまた同数の異なった偶像崇拝を意味している、偶像崇拝がこれらの国民により意味されたことは聖言の多くの箇所から明白である。なぜなら彼らはカナンの地に住んでいた民であって、その偶像崇拝のために放逐され、一部は絶滅されてしまったからである。しかし聖言の内意ではこれらの国民は意味されてはいないで、全般的に偶像崇拝が、たとえそれがたれのもとに、また何処にあろうとも、意味されており、とくにユダヤ民族の間にあった偶像崇拝が意味されているのである。なぜなら礼拝を単に外なるものから成立させて、内なる事柄を全く知ろうと欲しないで、それを教えられても、それを斥ける者らは、ユダヤ人から明白であるように、このすべての偶像崇拝に非常に陥り易いからである。内なる礼拝の中にのみ人間を偶像崇拝から遠ざける絆が存在しており、それが無くなると、抑制するものは一つもなくなるのである。しかしながら外なる偶像崇拝のみでなく、内的な偶像崇拝も存在している。内なる礼拝を持たない外なる礼拝を持っている者は外なる偶像崇拝に突入し、外なる礼拝を持ってはいるが内部が不潔である者らは内的な偶像崇拝に突入するのであって、こうした二種類の偶像崇拝がこれらの国民により意味されているのである。内的な幾多の偶像崇拝は人間が愛し崇拝しているところの、それと同数の誤謬と欲念であり、かくてそれらは異邦人の間に存在した神々と偶像にとって代っているのである。しかし崇められているところの、またこれらの国民により―エビス族、アモリ族、ギルガシ族、ヒビ族、アルキ族、セニ族、アルワデ族、ゼマリ族、ハマテ族により―意味されているところの偶像崇拝はいかような特殊な種類の誤謬と欲念であるかをここに説明するには余りに長時間を要するであろう、しかしそれは彼らの名が記されているところに主の神的慈悲から述べることにしよう。

 

 

 

 

11.偶像礼拝の三つの普遍的な種類

 

 

天界の秘義1357

 

 偶像礼拝には、三つの普遍的な種類がある。第一は自己を求める愛から、第二は世を求める愛から、第三は快楽を求める愛から発している。偶像礼拝はことごとくこれらの何れかをその目的としている。偶像崇拝者の礼拝はそれ以外の目的を持つことはできない、なぜならかれらは永遠の生命を知っていないし、またそれを意に介してもいないで、それを否定さえもしているからである。こうした三種類の偶像崇拝がテラの三人の息子により意味されているのである。

 

 

 

聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上巻/天使館/P14

 

 偶像崇拝者、偶像崇拝者、異教徒、肉と金銭と権力に売られたもの、肉と金銭と権力という三つの不吉な王国の首領であるサタンに売られたものたちよ!

 

 

 

 

12.全般的に四つの偶像礼拝がある

 

 

天界の秘義1363

 

 全般的に四つの偶像礼拝があり、一方のものは他方のものよりは更に内的なものとなっている。三つの更に内的なものは一人の親の息子たちのようなものであり、第四のものは第三番目の息子の息子のようなものである。偶像礼拝は内なるものでありまた外なるものである、内なるものは人間を罪に定めるものであるが、外なるものはそれ程人間を罪に定めはしないのである。偶像礼拝が内的なものになるに応じて、益々それは罪に定めるが、しかし外的なものになるに応じて、罪に定めなくなるのである。内なる偶像崇拝者は神を容認しないで、自分自身と世とを崇拝し、己が欲念の凡てを偶像とするに反し、外なる偶像崇拝者は宇宙の神は誰であるかを知らないけれど、神を承認することができるのである。内なる偶像崇拝者はその得た生活から知られており、この生活が仁慈の生活から離れ去っているに正比例して、かれらは内なる偶像崇拝者となるのである。外なる偶像崇拝者は専らその礼拝から知られ、偶像崇拝者ではあるけれど、なお仁慈の生命を持つことができるのである。内なる偶像崇拝者は聖いものを冒涜することはできるが、外なる偶像崇拝者にはそれができない。それで聖い物が冒涜されないために、外なる偶像崇拝は許容されている、このことは前に言ったことから認めることができよう(571、582番9節

、1327番)。

 

 

 

 

13.最悪の偶像崇拝すなわち自己崇拝

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P14

43年7月21日

 

 ところで? あなたたちは何をしたのか? 重ね重ね何をしたのか? あなたたちは神に、その祭壇に、その位格に背を向けた。あなたたちは神を、三位一体の神を、真の神を欲しなかった。

 あなたたちは神々を欲しがった。そしてあなたたちの現在の神々は、古代の神々や偶像崇拝者たちの物神よりも、もっとおぞましい。その通り。偶像崇拝者たちの物神だ。物神のなかにはまだしも、偶像崇拝者たちの心性と無知がそれと感じることを知る神の似姿に対する敵意がひそんでいる。まことにまことにわたしはあなたたちに言う、この自然崇拝者たちは、あなたたち悪意の偶像崇拝者、最悪の偶像崇拝すなわち自己崇拝に売りわたされたあなたたちよりもきびしく裁かれることはないだろう。

 

 

 

聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上巻/天使館/P14

 

 そうだ、肉の神々、それも腐敗した肉の神々があなたたちに創られ、その前であなたたちは、神の前ではかがめることを知らなかった頭と背をかがめそれらを讃美したのだ。あなたたちはわたしの律法を蔑み、否認し、嘲笑い、破った。ところがあなたたちは、奴隷のように、または調教師に手懐けられた動物たちのように、あなたたちよりもっと堕落していて、彼らの行き先は全天を恐怖に震えさせるような惨めな人間たちが与えた偽りの掟を受け入れ、それに従ってきた。

 偶像崇拝者、偶像崇拝者、異教徒、肉と金銭と権力に売られたもの、肉と金銭と権力という三つの不吉な王国の首領であるサタンに売られたものたちよ!

 

 

 

 

14.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P149

‘89・3・29

 

♡ 永遠の愛をもって愛している、天国に来て 初めて理解するであろう 嫉妬深い愛をもって。 しかし、その途方もない愛にもかかわらず、我が子たちのほとんどは 私に背を向けてしまった・・・我が受難を忘れて。 そして進化という名のもとに 我が名は彼らにとって 無意味となった。 偶像を与えるなら 飛びついて礼拝する、だが聖なるものは 与えても唾するであろう ♡

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P222

‘90・8・5−29の続き ― 十戒 ― ロードス島にて

 

彼らは金銭という偶像を拝む者たちです・・・

 

 

 

 

15.サンダー・シング

 

 

イエス・キリスト封印の聖書/P148

 

ヨーロッパにおいて彼から希望を与えられた人は何百万人となくいたが、彼自身はヨーロッパを回ってみて、まったく失望しか見なかった。キリスト教国とは名ばかりの、インド以上に異教徒の国々であることを知ったからである。出国前に反対派インド人たちがいった、西のキリスト教は退廃している、はるかにインドの霊的文化の方が優れているとの言葉が、今、彼の脳裡に甦ってきた。

「わたしは、これらの国々の住民がみな素晴らしい人々であると考えていた。彼らの心の中に神の愛を見、彼らがわたしにしてくれたことを見たとき、まさしく生けるキリスト者であると思った。だが、これらの地を実際に巡ってみて、考えが変わった。まったく別であることがわかったのだ。真の神のしもべがこれらの国々にいることは事実だが、全員がキリスト者ではなかった。わたしは、異教の国々の住民とキリスト教国の住民とを較べ始めた。前者は、手で作った像を拝んでいるがために異教徒と呼ばれる。ところが、自称キリスト教国において、わたしはもっとひどい異教性を見た。人々は自分自身を崇拝していたのである。祈りもせず、神の言葉を読むこともせずに、彼らは劇場に走り、あるいは酒に正体を失い、ありとあらゆる罪に耽っている。真にキリスト教的な国は一つもないことを知ったが、それでも個人的クリスチャンはいる。

このことに関して、キリストに責めはない。主にあって欠けるものは何一つない。主の信者と称しながら、指導者たる主に従わぬ者たちに責めはある。主はパレスチナで三十三年間過ごされたが、そのパレスチナはキリスト教国とはならなかった。ある人々は主に従い、のちに主の証人となり、殉教に生命さえ投げ捨てた。同じことが今も起こっている」

サンダー・シングは、このような、生命の水を汲まないために乾き切ってしまった殺伐たる人の心を、川底の石にたとえる。

「あるとき、ヒマラヤ山中で川辺に座っていたわたしは、ふと水の中に手を入れて、硬い、きれいな玉砂利を手にとってみた。割ってみると、中は乾いていた。長年川底にあったにもかかわらず、この砂利の中には水が染み込んでいなかったのである。まさに、これと同じことがヨーロッパの人々にいえる。彼らは、幾世紀にもわたりキリストの教えに囲まれてきた。その恵みにどっぷりと浸って生きてきたにもかかわらず、キリストの教えは彼らの中に浸透せず、彼らの中に生きていない。キリストの教えが誤っているのではない。硬化した心に原因があるのだ。物質主義と知識主義が、彼らの心を硬化させているのである。そこに住む多くの人々が、真のキリスト教の何たるかを悟らずにいることに、わたしはまったく驚かない」

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P167

 

神にせよその他の力にせよ、何かを崇拝せずにいる人間はほとんど皆無に等しい。物質主義に染まった無神論的思想家や科学者でさえ、かりに神を崇拝しないとしても、権力の座に祀り上げた偉人や英雄、何かの理念を崇拝しているものである。釈迦は神について何一つ教えなかったため、弟子たちは神の代わりに釈迦を崇拝するようになった。中国でも、神の礼拝が教えられなかったために、人々は祖霊を崇拝している。未開人さえ、何かの力か霊かを拝んでいる。つまり、人間というものは崇拝せずにはいられないのである。このような逃れることのできない崇拝への願いは、人がその願いに導かれて創造主と結ばれ、永遠の交わりを楽しめるよう、創造主自らが人間の中にお植えになったものである。

 

 

 

 

16.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P170

 

「霊魂が世俗にどれぐらい首をつっこむか、その度合いにより人は永遠の富から離れ、尊敬心を失う。私は人びとの聖性に役立つように富を与えたのに、人びとは私を痛めつけ、心の偶像を作り上げようとした。だから私は人びとと、その富を破壊するでしょう。」

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P17

 

「我が娘よ、傲慢は恩恵をむしばむ。傲慢な心の中には、盲目性を生み出す煙がいっぱいに満ちた空洞以外のものは何もない。傲慢心は、自分自身を偶像として奉ること以外の働きをしない。傲慢な霊魂は、自分の中に神を有していない。なぜなら傲慢の罪によって彼の心の中の神を破壊してしまうからだ。その心の中に祭壇を築いてその上に自分を据え、自分自身を礼拝するのだ。」

 

 ああ、この悪癖はなんという忌まわしい怪物でしょうか! 私には、もし霊魂が自分の中に傲慢心を入れないように注意するなら、他の全ての悪癖から自由になるだろうと思われます。その反対に、もし不幸にもその霊魂が、意地悪で忌むべき母親であるこの傲慢に支配されるがままに任せるならば、彼は他の様々な罪という放らつな子供たちを生むでしょう。主よ、どうか私から傲慢心を遠ざけて下さい!

 

 

 

 

17.そこから異邦人の多くの神々が起ったのである

 

 

天界の秘義1327

 

 「そこでエホバは全地の唇を乱された」。これはこの古代教会の状態を、すなわち、内なる礼拝が死滅しはじめたことを意味していることは『全地の唇』と言われて、前の七節のように『都と塔とを建て始めた者らの唇』とは言われていないことから明白である。『全地の面』により教会の状態が意味されている、なぜなら『地』は(前の662、1066番に示されたように)教会であるからである。洪水後の諸教会については実情は以下のようであった、すなわち、これらの教会には聖言にとくに記されている三つのものがあったのであり、すなわち、ノアに因んで名づけられた第一古代教会と、エベルに因んで名づけられた第二古代教会と、ヤコブに因んで、その後ユダとイスラエルに因んで名づけられた第三古代教会があったのである。

 

[2]ノアに因んで名づけられたこれらの教会の初期の場合のならわしのように、それはそれに続いておこった諸教会よりも害われてはおらず、また罪もなかったのであり、そのことはまた本章の第一節からも明白である、すなわち、それはその会員の凡てが仁慈を本質的なものと考えていた結果、『一つの唇』をもっていた、すなわち、一つの教義を持っていたという記事から明白である。しかし時の経過につれ、他の諸教会のように、この第一古代教会も堕落し始めたのであって、このことは主としてかれらの多くの者が他の者よりもまさろうとして、自己礼拝を渇望し始めたという事実からおこったのである、このことは四節から明白である、なぜならかれらは『わたしらはわたしらのために都と塔とを建て、その頭を天の中におこう、わたしらはわたしらのためにわたしらの名[名声]を作ろう』と語ったからである。教会内のこうした人間は一種の酵素のようなものに、または大火をひきおこすたいまつのようなものにならないわけにはいかなかったのである。聖いものを冒涜する危険がそこから切迫したため(571、582番を参照)、主の神的摂理の下に、この教会の状態は変化し、かくてその内なる礼拝は死滅してしまい、その外なる礼拝のみが残ったが、そのことがここにエホバは全地の唇を乱されたという記事により意味されているのである。このことからまた以下のことが明白である、すなわち、バベルと呼ばれているような礼拝は第一古代教会にはあまねく行われはしないで、それに続いて起った諸教会に行われたのであり、その時人間は神として拝され初め、とくに死後、神々として拝され初めたのであり、そこから異邦人の多くの神々が起ったのである。

 

 

 

 

18.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1992.3.27

 

―福音がはじめて伝えられてから二千年がすぎたのに再び異教徒に逆戻りしたこの人類に福音をのべ伝えなさい。

 改心して主に戻ることが緊急な必要事であると宣言して福音をのべ伝えなさい。

 人類が自分の手のわざで作った偶像神を破壊しなければなりません。偶像神は、快楽、金銭、傲慢心、不潔、無神論、節度を知らない利己主義、憎しみと暴力などです。

 

 

 

聖母から司祭へ1994.6.11

 

 あなたたちの生きている異教の社会は、娯楽と金銭、傲慢と利己主義、快楽と不潔の偶像神を作るために、神を否定しました。

 この社会は、洗礼をうらぎり、神と教会の間に結ばれた誓いを破る、大きな危険をもっています。

 しかし、あなたたちは、わたしの汚れなき心の中で、神に捧げられた命を守り、神のみ旨を果たし、神の掟を守って、神の完全な栄光のために養成されています。

 

 

 

聖母から司祭へ1994.9.15

 

 わたしの魂は、あわれな人類を考えて、悲しみに貫かれています。人類は快楽、繁栄、傲慢心の満足、金銭、憎しみと不潔など偶像を追い求めるあまり、主から離れてしまったのです。

 

 

 

聖母から司祭へ/1995年12月31日大晦日

 

神は父としての愛情で、あなたがたが改心して、心と生活を一新するときを待っておられます。

 罪、悪、暴力、憎しみ、サタンへのいっそう高まる礼拝から、および快楽、金銭、傲慢、自慢、気晴らし、不倫のいっそう高まる偶像礼拝から遠ざかりなさい。

 そして愛と善良さ、および聖体拝領、祈り、潔白、聖徳で刷新された道を歩みなさい。

 

 

 

 

19.偶像崇拝者の無垢

異邦人の教会/参照)

 

 

天界の秘義2598

 

 私がミカについて、ダンの息子たちがいかようにして彼の彫像を、テラピムとレビ人を取り去ったことについて、士師記の第17章と第18章とを読んだとき、異邦人の中から来ている一人の霊がそこにいたが、彼は身体の生命の中では彫像を拝していたのである。彼はミカに為されたことや、またミカがダンの息子たちにより奪い去られた彫像のために如何程の悲哀に陥ったかを注意深く聞いているうちに、彼もまた悲しみにうちひしがれて内なる悲哀のあまり何を考えてよいかわからなくなるほどにも心を動かされたのである。私は彼の悲哀を認めると同時にその情愛の各々の中に無垢を認めもしたのである。基督教徒の霊たちもまたその場にいて、それを認めたが、彫像を拝していた者がかくも強い慈悲と無垢の情愛のために心を動かされることに驚いたのである。その後で善良な霊たちが彼に話しかけて、彫像を拝してはなりません、あなたは人間であるから、このことは理解出来るでしょう。あなたは彫像を超えて全天地の創造者で、支配者であられる神のことを考えなくてはなりません。その神は主であります、と言った。こうしたことが言われると、私は彼の内的な崇拝の情緒を認めることを許され、それが私に伝えられたが、それは基督教徒におけるものよりは遥かに聖いものであったのである。このことから(ルカ伝13・29、30における主の御言葉に従って)異教徒はそれほどに感動を覚えない現今の基督教徒よりは容易に天界に入ることが出来ることが認められることが出来たのである。なぜなら彼はその置かれていた状態の中で信仰の凡ゆるものを与えられ、それを内的な情愛をもって受けることが出来たからである。彼の中には愛のものである慈悲が在ったし、また無垢には無知が在ったのであり、これらのものが存在すると、信仰の凡ゆるものはいわば自発的に喜びをもって受け入れられるのである。彼はその後天使たちの間に迎えられたのである。

 

 

 

 

20.彫像が神についての思いを喚び起こす手段として役立つ者もいる

 

 

神の摂理254

 

しかし基督教世界の中にすら偶像や彫像を拝する多くの者がいる。これは実際偶像崇拝であるが、しかしすべての場合がそうだというわけではない。なぜなら彫像が神についての思いを喚び起こす手段として役立つ者もいるからである。それは天界の流入が神を承認する者を導いて神を見ようとさせるためである、こうした種類の人々は内的に霊的なものである者たちのようにその心を感覚の事物から超越させることが出来ないで、偶像または映像を見ることによって、その願いを高めるのである。彫像そのものを神として崇拝することなしにそれを行う者は、もしまた宗教的な動機から十誡の教令に従って生きるならば、救われるのである。

 

 

 

天界の秘義4733

 

これは人類に共通である。こうした理由から異邦人は神的なものがその中に存在していると信じている偶像を拝しており、他の者は人間をその死後礼拝して、これを神が、または聖徒であると信じている。なぜなら人間の中には、その感覚に影響を及ぼす何ものかがない限り、何一つ呼び出されることは出来ないからである。

 

 

 

 

21.ドレックス教授

 

 

天使館/天使のパン16号P45

『信仰は従順より偉大である』ドレックス教授への救い主の御言葉 

1973年11月2日早朝の主の御言葉

 

司祭を含むこれほど多くのキリスト者たちが彼らの生活から聖人の御像や御画を禁止し、その代わりに世俗的な偶像を置き、それが心の中に入って来るのを許したことは禍である! 神の聖人たちを忘れ、見捨て、あるいは否認さえする者は誰でも、救い主である私を見失い、同時に自分自身に大きな責任を負わすことになる。

 

 

 

 

22.この神が主であることを知ってはいない

 

 

天界の秘義3778[]

 

それでこのことが、ナホル、その息子のベトエル、ベトエルの息子のラバンにより根幹が共通した傍系的な善が表象され、すなわち、異邦人たちの間の主の教会に属している者たちがその中にいるところの善が表象されている理由である。この善は直線的に下降している根幹の共通した善とは以下の点で異なっているのである、すなわち、彼らの善に連結しているその諸真理は純粋なものではなく、その大半は感覚の迷妄[妄想]と呼ばれている外なる外観である、なぜならこれらの異邦人は彼らが明るくされる手段となる聖言を持ってはいないからである。善は実にその本質では唯一つのものではあるが、しかしそれはその中に植え付けられる諸真理からその性質を受けて、そのことによって多様なものとなっているのである。異邦人たちに真理として現れている真理は全般的には、彼らは何らかの神を拝しなければならないということであり―この神から彼らは彼らの善を求め、またこの神にその善を帰しているが、彼らは世に生きている限り、この神が主であることを知ってはいないのである―また彼らは彼らの神を彼らが聖いものとして考えている像の下に崇めなくてはならないということであり、その他さらに多くのものがある。にもかかわらず、これらのものは、彼らがその神に対する愛と隣人に対する愛の中に生きさえするなら、彼らも基督教徒と等しく救われることに対して妨害とはならないのである、なぜなら彼らはこのように生きることによって他生で内的な諸真理を受ける能力を得るからである(932、1032、1059、2049、2051、2284、2589−2604、2861、2863、3263番)。

 

 

 

 

23.『神々を作ること』は教義の誤謬を作ることを、または誤謬から教義を作ることを意味

 

 

天界の秘義10399

 

「起きなさい、私らの前に行く神々を作りなさい。」(出エジプト記32・1)これは教義と礼拝との誤謬を意味していることは以下から明白である、即ち、『神々』の意義は真理であり(そのことについては、4295、4402、7010、7268、7873、8301番を参照)、その対立した意義では誤謬であり(4402番の終わり、4544、7873番)、従って『神々を作ること』は教義の誤謬を作ることを、または誤謬から教義を作ることを意味しており、『私らの前に行く』の意義は彼らが従って行く(もの)であり、かくて彼らが礼拝を制定する際その基準となる(もの)である。

 

 

 

 

24.上は天に在るもの、または下は地に在るもの

 

 

天界の秘義8871

 

「上は天に在るもの、または下は地に在るもの」(出エジプト記20・4)。これは霊的な光の中に在る、または自然的な光の中に在る物を意味していることは以下から明白である、即ち、「上は天に在る物に似たもの」の意義は霊的な光の中に現れて、見られるものであり、その凡てのものは信仰に、隣人に対する仁慈に、主に対する愛に属している善と真理とに関連しており―こうした物を模造し、偽装することが『上は天に在る物に似たものを作る』ことであり、『下は地に在る物に似たもの』の意義は自然的な光の中に現れ、見られるものであり、それは社会的な、道徳的な善と真理とに関連しているものであり―こうしたものを模造し、偽装することが下は地に在る物に似たものを作ることなのである。文字の意義では陽、月、星といった、天に現れるような物と、飛びもし、歩きもし、這いもする色々な種類の動物といった、地に現れる物が意味されているが、しかし内意ではこうした物により意味されているようなものが意味されており、その凡ては前に言ったように、善と真理とに関連しているのである。

 

 

天界の秘義8871[2]

 

こうした事柄は以下の言葉をもって、モーセの書に更に記されているのである―(以下申命記4・16−19、23−28を引用)

 

 

新共同訳聖書

申命記4・16−19

堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない。男や女の形も、地上のいかなる獣の形も、空を飛ぶ翼のあるいかなる鳥の形も、地上を這ういかなる動物の形も、地下の海に住むいかなる魚の形も。また目を上げて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない。それらは、あなたの神、主が天の下にいるすべての民に分け与えられたものである。

 

申命記4・23−28

 

あなたたちは注意して、あなたたちの神、主があなたたちと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主が禁じられたいかなる形の像も造らぬようにしなさい。あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである。あなたが子や孫をもうけ、その土地に慣れて堕落し、さまざまの形の像を造り、あなたの神、主が悪と見なされることを行い、御怒りを招くならば、 わたしは今日、あなたたちに対して天と地を呼び出して証言させる。あなたたちは、ヨルダン川を渡って得るその土地から離されて速やかに滅び去り、そこに長く住むことは決してできない。必ず滅ぼされる。主はあなたたちを諸国の民の間に散らされ、主に追いやられて、国々で生き残る者はわずかにすぎないであろう。あなたたちはそこで、人間の手の業である、見ることも、聞くことも、食べることも、嗅ぐこともできない木や石の神々に仕えるであろう。

 

 

 

 

25.マリア・ヴァルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/10卷上P56/604・7

 

「おお、祭司よ! イスラエルは新しい教えで溢れている。エッセネ派はエッセネ派の、サドカイ派とファリサイ派はそれぞれの教えを。だれもが、秘密の教えを信奉している。ある者は快楽、ある者は黄金、ある者は権力を。だれもが偶像を持っている。わたしは違う。わたしは、わたし永遠の黄金が踏みつけにされていたのを取り戻した。そして、十戒の教えを分かりやすく言い換えるために来た。それらをもはや知らない者たちの心に入るために、喉を嗄(か)らした」。

 

 

 

 

26.信仰と仁慈から発していない礼拝は礼拝ではなく、偶像崇拝

 

 

天界の秘義1211

 

「カナン族の境はシドンから発し、ゲラルにきて、ガザにさえもたっした。」これは内なる礼拝を欠いた外なる礼拝を持っている者らのもとで知識が拡がっていることを意味していることは『ゲラル』と『ガザ』の意義から明白である。礼拝にかかわる凡ゆる知識の境界は、その外なるものであれ、内なるものであれ、そこまで拡がっているのである、なぜなら礼拝はことごとく信仰と仁慈から発しているからである。これらのものから発していないものは礼拝ではなく、偶像崇拝である。カナンが、すなわち、外なる礼拝とそこから派生したものとがここにとり扱われている主題であるため、ここに意味されている境界と拡がりとは礼拝の境界と拡がりではなく、知識の境界と拡がりである。