隣人

 

 

仁慈隣人愛

 

 

 

1.隣人

2.隣人を愛す

3.人間を媒介としてのみ神は善をなす

4.隣人を通して主を愛す

5.乞食

6.主は何ものにもまさって愛されねばならない(隣人の)最高の意義における隣人

7.教会は更に大いなる度を以て愛せられねばならぬ隣人である。主の御国は最大の度を以て愛せられねばならぬ隣人である

 

 

 

 

1.隣人

 

 

天界の秘義2417[]

 

専ら信仰の教義の中にいる者たちは凡ゆる者を区別も無しに隣人と呼んでいるため、隣人に対する仁慈とは自分自身のものを他の者に与え、憐れみを必要としているように見える者にはたれにでも憐れみを施すことに在るのではなくて、それを越えたものの中に在ることを知ってはいないが、それでも仁慈は何であれ人間の中にある善の一切であり、即ち、彼の情愛の中に、彼の熱意の中にあり、そこから彼の生命の中にある善の一切であり、隣人とは人間を感動させるところの他の者における善の一切であり、従って善の中にいる者たちであり、しかもそれには可能な限り区別が見られるのである。

 

 

 

天界の秘義2718[]

 

 また一例として隣人はその中にある善のために愛さなくてはならないことを考えられよ。真理の情愛の中にいる者たちは、これは真であるか、またはそれはそうであるか、隣人とは何であるか、善とは何であるか、と考え、探求し、論じ、それより先へは進みもしないのであり、それでかれらはかれら自身に対し知恵の門を閉じてしまうが、しかし善の情愛の中にいる者たちはそれがそうであることを肯定し、それで自分自身に対しその門を閉じはしないで、内に入って行き、たれが他の者よりも更に隣人であるかを、またその者はいかような度で隣人であるかを、またすべての者は度が相違した隣人であることを、善から、知り、承認し、認め、かくてかれらはたんに真理の情愛の中にのみいる者にまさって、表現を絶した事柄を認めているのである。

 

 

 

天界の秘義2718[]

 

 さらに以下の例を考えられよ。すなわち隣人をその者の内にある善のために愛する者は主を愛するのである。真理の情愛の中にいる者たちはそれがそうであるか、否かを注意して検討するのであり、もしかれらが、隣人をその中にある善のために愛する者は善を愛する者であり、そして―善はことごとく主から発し、主は善の中におられるため―たれかが善を愛するときは、その者はまた善が存在する源泉であられ、またその善の中におられる主を愛するのであると告げられるなら、それがそうであるか否かと検討し、また善とは何であるか、主は真理の中におられるよりも善の中にさらにおられるか、否かと検討するのであり、かれらがこのような事柄にこだわっている限り、知恵を遠方からさえも見ることはできないのである。しかし善の情愛の中にいる者たちは、それがそうであることを認識から知っており、かれらはすぐさま主のみもとにさえも至っている知恵の分野を見るのである。

 

 

 

天界の秘義4956

 

実に、隣人とは善と真理そのものであって、この善と真理とに感動することが仁慈を持つことである。

 

新エルサレムの教義86

 

教会人が是非とも知っておかなくてはならない隣人の区別は、各人の持っている善に従っており、そして善は凡て主から発しているため、主は最高の意義の、また最高度の隣人であられ、隣人の起原は主から発しているのである。ここから誰でも自分自身のもとに主を持つに応じて、その者が隣人となり、そして誰一人主を、即ち、主から善を他の者と同じようには受けていないため、他の者と同じような隣人とはなっていない。なぜなら諸天界にいる凡ての者と地上にいる凡ての者は善では相違し、未だ全く同じ善を受けた者はなく、善はそれがそれ自身によって存続するためには変化しなくてはならないからである。しかし凡てこれらの変化は、引いては隣人の凡ての区別は―それは主を受け入れることに従っており、即ち、主から善を受け入れることに従っているが―その全般的なものを除いては、引いてはその種族と種類を除いては、如何ような人間にも決して知られることは出来ず、また実に如何ような天使にも知られることは出来ないのであり、主もまた教会人にはその知っているところに従って生きることより以上のことは求められはしないのである。

 

 

 

新エルサレムの教義103

 

こうした事柄が隣人に対する愛、または仁慈に属している理由は、前に述べたように、人各々が隣人であるが、しかし異なった方法で隣人であるためである。大小の社会はさらに隣人であり、国はそれよりもさらに隣人であり、主の王国はそれよりもさらに隣人であり、主は何ものにもまさって隣人であられ、全般的な意義では主から発している善が隣人であり、従ってまた誠実と公正とが隣人である。

それで善のために善を行い、誠実と公正のために誠実に公正に行動する者は隣人を愛し、仁慈を行っている、なぜならかれは善い、誠実な、公正なものに対する愛から、従って善、誠実、公正が宿っている者たちを愛する愛からそのように行動しているからである。

 

 

 

天界の秘義4956

 

 隣人に対する仁慈の本質は善と真理との情愛[善と真理に対する情愛]であり、また自己を悪いもの、誤ったものとして承認することであり、実に隣人とは善と真理そのものであって、この善と真理とに感動することが仁慈を持つことである。隣人に対立したものとは悪と誤謬であり、それは仁慈を持つ者たちにより嫌悪されるのである。それゆえ隣人に対する仁慈を持っている者は、善と真理とは主から発しているため、その善と真理とに感動するのであり、悪いものと誤ったものとは自己から発しているため、それらのものを嫌悪するのであり、彼がそのことを為す時、自己を承認することから自らを卑下しており、また自らを卑下している時は、主から善と真理とを受け入れる状態にいるのである。

 

 

 

天界の秘義6703

 

「出エジプト記」の序言として私は仁慈の教義を述べることに着手したため、仁慈の行使を受ける相手は隣人であるため先ず隣人とは何であるかを話さなくてはならない。なぜなら隣人とはたれであるかが知られない限り、仁慈は善い者にも悪い者にも同じように、区別もなしに等しく行われ、そのことによって仁慈は仁慈でなくなるからである、なぜならその恩恵を受けることによって悪い者は隣人に悪を行うからであるが、しかし善い者は善を行うのである。

 

 

 

天界の秘義6704

 

 現今、人間各々が隣人であって、助けを必要とする者各々に益を与えなくてはならないと全般的に考えられている。しかし人間の性質を充分に調べ、それに従って仁慈を行うことが基督教的な思慮の要素であり、内なる教会の人間はこのことを区別して行い、かくて理知をもって行うが、しかし外なる教会の人間はそのように区別することは出来ないため、彼はそれを無差別に行うのである。

 

 

 

天界の秘義6705

 

 古代人は隣人を部類に分け、世で特に援助を必要としているように見える者たちの名に従って各部類に名前をつけ、部類が異なるに従って、いかように仁慈を行わねばならないかを教え、このようにして、その教義とそれに従った生活とを秩序づけたのである。そこから彼らの教会の教義は生活の律法を含み、またそこから彼らは教会のこの人間またはかの人間の性格はいかようなものであるかを認めたのであり、彼らはその教会のこの人間またはかの人間を兄弟と呼びはしたが、しかしそれは教会の純粋な教義から、またはその者自身により改変された教義から仁慈を行使するに応じて、内意では区別されていたのである、なぜなら人各々、自分が罪咎の無いものと見られようと欲しているため、自分自身の生活を弁護し、そのため教義の律法を自分に有利に説明するか、変えるか、するからである。

 

 

 

啓示による黙示録解説110

 

『暗黒』に、『死の蔭』に、『暗闇』にいるが、目を主から開かれる者たちが聖言に多くの所で取り扱われており、彼らにより、善い業にはいたものの、主を知らなかったため、また聖言も持っていなかったため、何ら真理にはいなかった異邦人が意味されている。基督教界で業のみの中にいて、何ら教義の諸真理の中にいない者たちはこれらの者に正確に類似しており、それで彼らは異邦人以外の者としては呼ばれることは出来ない。彼らは実際主を知ってはいるが、それでも主に近づきはしない。彼らは聖言を持っていたが、それでもその中に真理を探求しない。『わたしはあなたの住んでいるところを知っている』により彼らの性質を知ることが意味されている、なぜなら霊界では各々の者はその者の情愛の性質に従って住んでいるからである。ここから『あなたはサタンの王座の在る所に住んでいる』により、暗闇の中にある彼らの善の生命が意味されていることが明らかとなるであろう。サタンの霊共[悪鬼的な霊共]は、霊界で業のみにいる者らを通して力を得ているが、しかしその者らがいなくては何ら力を持っていない、なぜなら彼らは、その者らの一人が、私はあなたの隣人です、だから善いことを私に為して下さらねばなりません、と言いさえすれば、その者らを彼ら自身に接合させるからである、すなわち、その言葉を聞くと、彼らは近づいてきて、援助を与えるのである。彼らはまたその者が誰であり、またいかようなものであるかを尋ねもしない、なぜなら彼らは真理を持たないからであるが、しかし真理のみによって人は他の者から区別されることが出来るのである。このこともまた『あなたはサタンの王座の在るところに住んでいる』により意味されている。

 

 

 

 

2.隣人を愛す

 

 

新エルサレム25

 

善と真理のために善と真理を行うことは主を愛し、隣人を愛することである。(天界の秘義10336)

 

 

 

新エルサレムの教義103

 

それで善のために善を行い、誠実と公正のために誠実に公正に行動する者は隣人を愛し、仁慈を行っている、なぜなら彼は善い、誠実な、公正なものに対する愛から、従って善、誠実、公正が宿っている者たちを愛する愛からそのように行動しているからである。

 

 

 

天界の秘義10284

 

善と真理のために善と真理とを愛することは隣人と神とを愛することと同一である。なぜなら全般的な意義では隣人とは善い、真のものであり、低い意義では公正で義しいことであり、さらに神は善い真のものであられ、公正で義しいものであるからであられるが、それは善い真のものも、公正で義しいものも神から発しているためである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P201

 

 わたしは、こうもいった。『自分を愛すると同じように隣人を愛せ』と。ある意味では、すべての人が互いの隣人ではあるが、あの言葉は、あなた方の近くに生きている人々を特に指した言葉である。仲の悪い隣人であっても、二、三日ぐらいの間なら平和にやってゆくことは容易である。だが、近くに住んでいて毎日のように厄介の種を作る者を耐え忍び、自分のように愛することは至難の業である。だが、あなたがこのような大きなもめ事を克服するならば、誰をも自分のように愛することは、もっと容易になる。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストにならいて2・3・2

 

善良でおとなしい人といっしょにくらすのは、少しもむずかしいことではない。それはだれでも自然に楽しく思うところで、人はみな平和を喜び、自分と同じ考えの者をいっそう愛するからである。

しかし人触りが悪いなみはずれた者や、だらしのない者や、自分に逆らう者などと、平和に暮らすのはこれこそ大きい恩恵であって、称賛すべき雄々しいことである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P102

 

 ペトロ! 私には分るが、それでもおまえに愛徳を持て、と繰り返して言います。厄介な人を我慢することは、これは小さくない徳の一つです。そうしなさい。

 

 

 

 

3.人間を媒介としてのみ神は善をなす

 

 

真の基督教457

 

神は凡ゆる者に直接に善を為すことが出来ず、単に間接的に、人間を媒介としてのみこれを為すことが出来るに過ぎない。その人類に対する愛を、ちょうど両親に子供達に対する愛を吹き込み給うように、人間に吹き込み、しかしてその愛を受ける人間は神との交わりにあり、隣人を神の愛によって愛するのである。神の愛はその人間の隣人愛の中にあり、これに新しい活力と力とを与える。

 

 

 

 

4.隣人を通して主を愛す

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P302

 

私を通して皆を愛するなら、自分のそばにいる人をどうして差別するのですか。隣人を愛することによって私を愛すれば、どんな地方でも、変わりはないはずです。

 

 

 

霊界日記2783

 

 以下のことをある霊に言うことが与えられ、またわたしは霊的な観念の中にそのことを認めもしたのである、すなわち、かれは人間の中にある善を愛し、かくてその人間を愛さなくてはならないのであり、その善が隣人である。

なぜなら善は主のものであり、それで何であれたれかの中にある信仰に属したものを愛し、かくて信仰の中にいる者を愛さなくてはならないからである、なぜならかくしてかれは主を愛するからである。なぜなら主のものでない善は何一つないし、また信仰のいかようなものもないからであり、かくてまた主は隣人を通して愛されるのである。

愛は主のものであるものの、愛が自分自身のものであるとしか知らないことで充分である。1748年[60歳]8月10日。

 

 

 

新エルサレム25

 

善と真理のために善と真理を行うことは主を愛し、隣人を愛することである。(天界の秘義10336)

 

 

 

 

5.乞食

 

 

天界の秘義3688[3]

 

以下のことを例にとってみよう。すなわち、再生されることができる人間は―なぜなら主は先見され、また先見されるからには、またそのために供えられもするからであるが―最初は幼児のように、仁慈とは何であるかを未だ知ってはおらず、またその隣人とは何であるかを知ってもいないため、隣人に対する仁慈の業とは何であるかを未だ知ってはいないのである。それでかれは貧しい者に与えなくてはならないことを、またたれでも貧しい者に与える者は天国で報いを得ることを聖言から知っているため、かれは乞食に対して他の者以上に善を為すのであるが、それはかれはその乞食こそ聖言に意味されている貧しいものであると信じており、街路で乞食をするような者の大半は不敬虔な邪悪な生活を送り、神礼拝にぞくしているものは凡て軽蔑し、自分自身を全くものぐさと怠惰とに委ね切っていることを考えてはいないためである。にも拘らず再生の最初の状態の中にいる者は心からこのような者に善を行うのであるが、これらの善は再生が始まる源泉となるところの外なる真理の善であり、内的なものであるところの善の真理は、このようにしてこれらの行為に流れ入り、その子供がその中にいるところの[その子供がもっているところの]知識に応じて善を行うのである。

 

 

 

 

6.主は何ものにもまさって愛されねばならない(隣人の)最高の意義における隣人

 

 

新しいエルサレムの教義106

 

 主は何ものにもまさって愛されねばならない(隣人の)最高の意義における隣人であられ、かくて主から発し、主がその中におられるものは凡て、すなわち、善と真理とは隣人である(天界の秘義2425、3419、6706、6819、6823、8124番)。

 

 

 

新しいエルサレムの教義106

 

隣人を愛することはその人物を愛することではなく、彼のもとにあって、彼の存在の源泉となっているものを愛することであり、従って善と真理とを愛することにある(天界の秘義5028、10336番)。人物を愛して、その人物のもとにあって、その人物の存在の源泉となっているものを愛さない者らは善のみでなく、悪をも愛する(3820番)。そして彼らは善い者のみでなく、悪い者にも善を為すが、しかし悪い者に善を為すことは、善い者に悪を為すことであって、それは隣人を愛することではない(3820、6703、8120番)。悪い者が匡正されて、善い者が悪い者に感染しないように、悪い者を罰する裁判官は隣人を愛している(3820、8120、8121番)。

 

 

 

天界の秘義6706

 

 隣人を区別する相違は―教会の人間はその相違をすべて、仁慈の性質を知るためには知っていなくてはならないが―各人のもとに在る善に従って変化しており、善はすべて主から発出しているため、主は最高の意味における、また他よりも卓越した度における隣人であられ、主から隣人が起っているのである。ここからたれでも己が中に主を持っているに正比例して、その者は隣人となり、いかような人間も他と同じように主を受け入れないため(即ち、主から発出している善を受け入れないため)、いかような人間も他とは同じ隣人とはならないことが生まれている、なぜなら例外もなく諸天界と地上にいる人物はすべて善においては相違しているからである。正確に同一の善はいかような人間の中にも決して存在してはおらず、各々の人間がその者自身により存続するためには、その善の秩序は変化していなくてはならないのである。しかし隣人のこうした変化の凡ては、かくて隣人を区別する相違の凡ては―それらは主を受け入れることに従って、即ち、主から発出している善を受け入れるに従って生まれているが、その相違の凡ては―いかような人間にも決して知られることは出来ず、天使にさえも知られることは出来ず、ただその全般的なもののみしか知られることは出来ず、かくてその種類とその種属の中の若干の種類のみしか知られることは出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義6707

 

 この凡てから今や基督教の善の性質により各人がいかような度における隣人となるかが決定されることが明らかである。なぜなら善は主のものであり、主はその善の性質に従って現存されているため、主は善の中に現存されているからである。そして隣人の起原は主から引き出されなくてはならないため、それで隣人を区別する相違は主が善の中に現存されていることに従っており、かくて善の性質に従っているのである。

 

 

 

天界の秘義6819

 

 しかし単数の人間が隣人であるのみでなく、複数の人間もまた隣人である。なぜなら社会は、大であれ、小であれ、隣人であり、国家が隣人であり、教会が隣人であり、主の王国が隣人であり、なかんずく、主が隣人であられるからである。これらの凡ては仁慈から益を与えられねばならない隣人である。これらはまた上昇して行く度の隣人である、なぜなら多くの者から成っている社会は一個人の人間よりは高度の隣人であり、国家は一社会よりは高度の隣人であり、教会は国家よりも更に高度の隣人であり、主の王国は教会よりも更に高度の隣人であるが、しかし主は最高度の隣人であられるからである。これらの上昇して行く度は梯子の踏み段のようなものであって、その頂上に主がおられるのである。

 

 

 

真の基督教416

 

 主の御国は最高度に愛せられねばならぬ隣人であるのは、主の御国は、時としては、聖徒の交わりと呼ばれる普遍的な教会と天界を含むからである。それ故、主の御国を愛する者は主を認め、主に対する信仰と隣人に対する仁慈とを持つ全世界の凡ゆる人々を愛する。而して彼はまた天界に在る凡ゆる者を愛する。主の御国を愛する者は、何物にも勝って主を愛し、かくして、他の者に勝って神への愛の中に在るのである。何故なら、天界と地上の教会は主の身体であり、その会員は主の中にあり、主は彼等の中に在すからである。それ故、主の御国への愛は隣人への愛の完成である。何故なら、主の御国を愛する者は、凡ゆる物に勝って主を愛するのみでなく、自分自身の様に、その隣人を愛するからである。何故なら、主への愛は普遍的な愛である故に、それは霊的生活と自然的生活とに浸透するからである。何故なら、この愛は人間の最高の能力に宿り、而してこの最高の能力は丁度意志が凡ての意図及び行動を支配し、理解が凡ての思考と言葉とを支配するように、より低い能力に働きかけ、これを生かすからである。これが主が「汝ら先ず天国と神の義とを求めよ。然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし」(マタイ6・33)と語り給う理由である。天国とはダニエル書の以下の記によって明白であるように、主の御国である。「視よ、人の子の如き者の天の雲に乗りて来るを之に支配と栄えと国とを賜ひて、諸民、諸族、諸音をして之に事へしむ。その支配は永遠の支配にして移り去らず、又その国は亡ぶることなし。」(ダニエル7・13、14)。

 

 

 

 

7.教会は更に大いなる度を以て愛せられねばならぬ隣人である。主の御国は最大の度を以て愛せられねばならぬ隣人である

 

 

真の基督教415

 

「教会は更に大いなる度を以て愛せられねばならぬ隣人である。主の御国は最大の度を以て愛せられねばならぬ隣人である。」

人々は教会を更に大いなる度の隣人として愛さなければならないのは、教会は人間を、その生まれて来た目標である永遠の生命へ導き入れるからである。何故なら、それは永遠の生命に導く教義上の真理を教え、生活の善によって彼をそれに導き入れるからである。ここで云う教会とは、教職者階級を意味していない。愛すべきものは教会の善と真理であり、教職者たちはその善と真理をに捧げる奉仕に応じて、尊敬されねばならない。教会は国家よりも更に大いなる度をもって愛されねばならぬ。国は人間を公民生活へ導き入れるが、教会は彼を動物から区別させる霊的な生活へ導き入れるからである。更に公民生活には終わりがあり、その終わりに至ると、あたかも、その生活は存在しなかったかのように見えるが、霊的な生活は永遠である。何故なら、それは何ら終わりを持たず、それ故、一時的な生活とは異なって、真の存在を持つと言われ得るからである。二者は、一つは有限であり、他は無限である故、比較されることは出来ない。なぜなら、永遠の生命は時間については無限であるから。

 

 

 

天界の秘義6822

 

 教会は国家以上に隣人である、なぜなら教会を顧慮する者はその国にいる人間の霊魂と永遠の生命をまた顧慮するからである。そして教会は人間が善に導かれるとき顧慮されるのであり、仁慈からそのことを為す者は隣人を愛するのである、なぜなら彼は他の者のために天界と永遠に至る生命の幸福とを願い、また欲しているからである。善は他の者の中へその国のたらからも注ぎ入れられることは出来るが、しかし真理は教えを与える教職者たちによらなくては注ぎ入れることは出来ないのである、もし教職者以外の者がそのことを行うなら、異端が起り、そのため教会は混乱して、分裂してしまうのである。もし教会のものである真理を通して隣人が善へ導かれるなら、仁慈は実践されるのである。もし教会の中で善から離反させるものが何か真理と呼ばれるなら、これは口にするには価しないものである、なぜならそれは真理ではないからである。各自先ず自分自身のため教会の教義から真理を得、後には主の聖言からそれを得なくてはならない、それが彼の信仰の真理とならなくてはならない。