善意

 

 

[敏彦1] 親切慈悲隣人愛

 

 

 

 

 

1.仁慈は善意であり、良き業は善意より発する善き行為である

2.マリア・ワルトルタ

3.ルイザ・ピッカレータ

 

 

 

 

1.仁慈は善意であり、良き業は善意より発する善き行為である

 

 

真の基督教374

 

(1)「仁慈は善意であり、良き業は善意より発する善き行為である。」

 仁慈と業は意志と行為、或は心の情緒と身体の活動のように区別され、従ってまた内なる人と外なる人とのように区別される。またこれらは原因と結果のように区別される。何故なら、凡ゆる原因は内なる人の中にあり、そこから由来する結果は外なる人の中に、また外なる人によって生み出されるからである。それ故、仁慈は内なる人に属して、善なるものを欲することに在り、業は外なる人に属して、善を欲する結果として善を為すことに在る。更に、互に異なった人々の善意の間には無限の相違がある、人のために為されたものは何事でも善意或は慈悲から発していると一般に想像されているが、そのような行為は真の或は偽の仁慈から発しているか否かは知ることは出来ない。この無限の変化は目的、意向、そこから発する意図から生まれている。何故なら、これらのものは意志の中に隠れ意志の真の性格を示すからである。意志は理解の中にその目的即ち結果に到達する手段を選ぶ。何故なら意志はそこに、自らを行為により示しかくしてその結果を或は業を産み出す方法と手段に関する照示を求め、かくして、行為する力を理解の中に得るからである。それ故業は本質的には意志に所属し、形式的には理解に所属し、実際的には身体に所属することが推論され、これが仁慈が良き業となって発する理由である。

 

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ48・7/天使館第1巻P428

 

ヨハネがペトロに:

 

「わたしたちはこうも言った。『先生、あなたはわたしたちを召し出してくださいました。でもわたしたちは皆、文無しです。何をあなたに持参したらよろしいのでしょうか?』と。すると、まさに天の国を味わわせるような微笑を浮かべて、こう答えられた。『わたしはあなたたちからあるすばらしい宝をもらいたい』。そこで、『でもわたしたちが文無しだとしたら?』と答えると、彼は言われた『七つの名をもち、この世で一番惨めな貧乏人でも持つことができ、一番の金持ちでも所有できない一つの宝物を持参してほしい。あなたたちはそれを持っており、わたしはそれが欲しいのだ。その七つの名はこれだ。愛徳、信仰、善意、正しい意向、克己、表裏がないこと、犠牲精神だ。あなたたちはそれを持っており、わたしはそれが欲しいのだ。わたしに従う者に、わたしはこれを、これだけ望んでいる。そしてあなたたちには、それがある。まだ冬の土塊(つちくれ)の下に眠っている種子のようだが、わたしの春の太陽がそれを七倍の穂に育てるだろう』。こう言われたのだ」。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/1卷P439/49・6

 

主:神の祝福は、善意に溢れる心を彼に向ける人の上にありますように。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/1卷P454/50・7

 

わたしが欲しいのは、ただあなたたちの善意だけです。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/9卷下P68/591・5

 

わたしは世のために聖所となりますが、つまずきの石、大罪人、イスラエルのためには罠と破滅になるでしょう。わたしは、善意の人びとを聖化し、悪意の人びとを転覆させ押しつぶすでしょう。み使いたちの言うことは、短期間しか続かない偽りの言葉ではありません。それはから来ます。真理永遠ですから、その言葉は真理であり、不変です。天使は、『善意の人に平和があるように』と言いました。そして、おお、よ、お前の救い主は生まれました。今、お前の贖い主は、死へと向かっています。だが、から平和を受けなさい。それは聖化と栄光です。そのためには、『善意』が必要です。

 善意を持たない人びとにとって、わたしの誕生と死は無駄です。わたしの産声も、喘ぎも、最初の一歩も、最後の一歩も、割礼の傷も、終焉の傷も、あなた方が自分を贖って聖化するという善い意志がないならば、無駄になるでしょう。あなた方に言いますが、非常に多くの人が、わたしにつまずくでしょう。わたしは、人間への罠としてではなく、支えの柱として置かれるのですが、高慢と欲望と強欲に酔わされている人間は転ぶでしょう。彼らは、自分の罪の網に捕えられて、サタンに引き渡されるでしょう。今言った言葉を覚えておいて、将来の弟子たちのために心のなかなかに密封しておきなさい。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/復活P269

 

「善意の人に平和」・・・善意とは真理への望み

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/10卷下P148/645・9

 

「イエズスが言われる」

わたしは何度も、多くの人びとに、異様なやり方で、わたしを現してきました。けれども、わたしの出現が、すべての人に同じ効果をもたらしたわけではありません。わたしの出現は、その人たちの聖性と一致しています。平安正義のためには、善意を持っていなければなりません。

 そこで、恩寵は、わたしの私生活の三十年前、羊飼いたちに働きかけていました。その後、善人たちが神の子に従うために悪人たちから離れる時が来た時、花をつけて聖なる穂を実らせました。その時、神の子が、永遠の群れの羊、サタンによって散らされた羊たちを集めるために、愛を叫びながら、世界中の道を通っていたのです。わたしに付き従った群衆の中にいた羊飼いたちは、わたしの使者でした。彼らの素朴で確信に満ちた報告は、キリストを公言してたたえました。『救い主です。救い主だと分かります。御子の産声に、天使たちの子守歌が降りました。そして、天使たちから聞きました。善意の人に平和あれと。善意とは、真理への欲求です。御子に従いましょう! 御子について行きましょう! 主によって約束された平和を得るために』と

 

人間の中で最初にわたしの使者になった人たちは、謙虚で、無知で、貧しい人たちでしたが、イスラエルの王、世界の王の道へ、兵隊のように押し寄せました。彼らの忠実な目、正直な口、愛の心、徳の香の立ち昇る香炉は、すべての人のために受肉したであるわたしの周りから腐敗臭を取り除いてくれました。彼らは、十字架の下にもいてくれました。その前に、ゴルゴダの血まみれの道で、わたしの目は彼らを祝福しました。抑制のきかない群衆の中で、彼らだけが、わたしを呪わず、愛し、信じ、希望し、優しい目を向けてくれました。彼らは、わたしが生まれた遠い夜を思い、固い木の桶で最初の眠りについて汚れなき者が、最後にもっと苦痛な十字架の上で眠ることを泣いていました。けれども、わたしは彼らに出現し、高潔な霊魂たちを聖化しました。」

 

 

 

 

 

 

3.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P114

 

「他の人々にたいする尊敬の不足は、キリスト者としてのまことの謙遜と優しさの欠如である。謙遜で優しい精神は、すべての人々を敬い、つねに他人のことを善意に解釈することを知っている。」