主は善の中におられる
わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ(マタイ25・35)/
わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは(マタイ25・40)/
1.スウェーデンボルグ
1.スウェーデンボルグ
天界の秘義2063〔3〕
これも前のように人間における類似したものにより説明することができよう。人間は再生しつつあるときは、すなわち、かれが主に連結しなければならないときは、かれは真理により、すなわち、信仰の真理により連結に向って進むのである、なぜならたれ一人その者が連結へ向って進む手段となる真理であるところの、信仰の諸知識によらなくては再生することはできないからである。主はこの知識に善により、すなわち仁慈により出会おうとして進み出られ、その善(その仁慈)を信仰の知識に、すなわち、そのいくたの真理に適応させられ、または適合させられるのである、なぜならいくたの真理はことごとく善の受容器官であり、それで真理が純粋なものであればあるほど、またそれが増し加えられておればおるほど、ますます豊かに善はそのいくたの真理を容器として受け入れ、いくたの真理を秩序づけ、ついにはそれ自身を明らかに示すことができ、かくて最後にはいくたの真理は、善がそのいくたの真理を通して輝かないかぎりは、現われなくなってしまうのである。このようにして真理は天的な霊的なものとなるのである。主は仁慈のものである善の中にのみもっぱら現存されているため、その人間はこうした方法によって主に連結するのであり、善により、すなわち、仁慈により、良心を与えられ、後にはその良心から真であるものを考え、正しいことを行うのであるが、しかしこの良心はいくたの真理と正しい事柄に―そのいくたの真理と正しい事柄に善または仁慈が適応され、また適合されているのであるが、そうしたいくたの真理と正しい事柄に―順応しているのである。
天界の秘義4368[2]
なぜなら天界的なものである二つの情愛が存在しており、すなわち善の情愛と真理の情愛とが存在しているからである(そのことについてはすでに時折取り扱ったのである)。真理の情愛[真理に対する情愛]はひとえに善から発生している。情愛そのものはこの源泉から来ている、なぜなら真理は真理自身からは生命を得ないで、善から生命を受けており、それで人間が真理により感動する時は、そのことは真理から来ているのではなくて、その真理に流れ入って、その情愛そのものを生み出しているところの善から発しているのである。このことがここに『情愛が導入されるための情愛の相互的なもの』により意味されているものである。教会の内には主の聖言に感動して、非常に苦労しながらそれを読んでいる多くの者のいることは知られているが、それでも真理を教えられることを目的としている者は僅かしかいないのである、なぜなら大半の者はその者自身の教理に止まっていて、その教理を聖言から確認することが彼らの唯一の目的となっているからである。これらの者は真理の情愛[真理に対する情愛]の中にいるように見えはするが、しかしその中にはいないのである、なぜなら真理について教えられることを、即ち、真理とは何であるかを知ることを愛し、その目的から聖書を研究することを愛する者のみが真理の情愛の中にいるからである。善の中にいる人間、即ち、隣人に対する仁慈の中にいる者を除いては、まして主に対する愛の中にいる者を除いてはたれ一人この情愛の中にはいないのである。これらの者のもとには善そのものが真理へ流れ入っていて、その情愛を生み出しているのである、なぜなら主はこの善の中に現存されているからである。このことは以下の例により説明することが出来よう。
天界の秘義5067
まことにわたしはあなた方に言う。あなた方はそれをこれらのわたしの兄弟たちのいと小さい者の一人に為したのは、それをわたしに為したのである、と。(マタイ25・40)
仁慈の、また生命の善の中にいる者たちは「兄弟たち」と呼ばれている。なぜなら彼らは善そのものの中にいるため、主は彼らのもとにおられ、また元来隣人により意味されている者は彼らであるからである。
天界の秘義6495
主から発している流入は天界的な愛の善であり、かくて隣人に対する愛の善である。この愛の中に主は現存されている。なぜなら主は全人類を愛され、その各々の者を永遠に救おうと願われているからである。そしてこの愛の善は主御自身から発しているため、主御自身がその中におられ、かくて主はこの愛の善の中にいる人間のもとに現存されているのである。
天界の秘義6677
「もしそれが娘であるなら、彼女を生かしておかなくてはならない」(出エジプト記1・16)。これは、彼らはもしそれが善であるなら、そのようなことをしてはならないことを意味していることは以下から明白である、即ち、『娘』の意義は善であり(489−491、2362番)、『生きること』の意義は破壊されないことである。エジプトの王が息子は殺さなくてはならないが、娘は殺してはならないと言った理由は、内意から明らかであり、その内意は、彼らは真理を破壊しようと企てはするが、しかし善を破壊しようと企てはしないということである、なぜなら奈落の者は取り憑いて悩ます時は、真理を攻撃することは許されるが、善を攻撃することは許されはしないからである。その理由は真理は攻撃されることの出来るものではあるが、善は攻撃されることの出来ないものであり、善は主により守られており、奈落の者が善を攻撃しようと企てると、地獄に深く投げ込まれるということである、なぜなら善の一切には主が現存されているため、彼らは善の現存に耐えることは出来ないからである。そこから天使たちは善の中にいるため、一人の天使でも数千の奈落の霊どもを支配することが出来る程の権能を彼らに対しては持っているのである。善の中には生命が在ることを知られたい、なぜなら善は愛のものであり、愛は人間の生命であるからである。自己と世を求める愛のものであって、そうした愛の中にいる者らには善として現れている悪が、天界の愛のものである善を攻撃するなら、その一方の生命が他方の生命と戦うことになり、そして天界の愛の善から発している生命は神的なものから発しているため、自己と世を求める愛から発している生命が前の生命と衝突するなら、それは消滅し始めるのである、なぜならそれは窒息してしまうからである。かくて彼らは死の苦悶にある者のように苦しみ、そのため真逆様に自らを地獄に投げ込み、そこに着くと再び生命を回復するのである(3938、4225、4226、5057、5058番)。このことがまた善は魔鬼と悪霊によって攻撃されることが出来ず、かくて彼らは敢えて善を破壊しようとはしない理由となっている。真理にあってはそうではない、なぜなら真理はそれ自身の中に生命を持たないで、善から、即ち、主から善を通して生命を持っているからである。
天界の秘義6707
この凡てから今や基督教の善の性質により各人がいかような度における隣人となるかが決定されることが明らかである。なぜなら善は主のものであり、主はその善の性質に従って現存されているため、主は善の中に現存されているからである。そして隣人の起原は主から引き出されなくてはならないため、それで隣人を区別する相違は主が善の中に現存されていることに従っており、かくて善の性質に従っているのである。
天界の秘義6711
しかし他の者に優って自分自身を愛してはいない者たちは―主の王国のものである者たちはすべてそうした者であるが―彼らが何ものにも優って愛さなくてはならない方、即ち、主から隣人の起原を得ており、凡ゆる者を、その者の主に対する愛の性質に従って隣人として認めるのである。それで他の者を自分自身のように愛している者たちは、特に ― 天使たちのように ― 自分自身にも優って他の者たちを愛している者たちはすべて主から隣人の起原を得ているのである、なぜなら善は主から発出しているため、主御自身が善の中におられるからである。ここからまた愛の性質がたれが隣人であるかを決定することを認めることが出来るのである、なぜなら主は善の中にいた者たちに、その者たちは『主に食べさせ』、『主に飲ませ、主を宿らせ、主に着せ、主を訪ね、牢獄の主のもとに来た』と言われ、後に『彼らはそれを主の兄弟たちの中でいと小さい者の一人に為したため、それを主に為したのである』と言われているからである(25・34−40)。
天界の秘義7474〔2〕
ここにイスラエルの子孫により表象されている霊的な教会については、それは内なるものであり、また外なるものであり、仁慈の善の中にいる者たちは内なる教会の中におり、信仰の善の中にいる者たちは外なる教会の中にいることを知られたい。隣人に対する仁慈から信仰に属した諸真理を認める者たちは仁慈の善の中にいるが、信仰から仁慈を目指す者たちは、かくて仁慈の情愛からではなくて、信仰の服従から、即ち、そのように命じられているために、善いことを行う者たちは信仰の善の中にいるのである。ここにイスラエルの子孫により元来表象されている者たちはこれらの(後の)者である。なぜならこれらの者は他生で誤謬にいる者らから取りつかれて悩まされる者であるからである。仁慈の情愛の中にいる者たちはそのように取りつかれて悩まされる筈はないのである、なぜなら誤謬と悪の中にいる者らはこうした善の中にいる者たちには近づくことが出来ないからである、それは主はこうした善の中におられるためである。もしこれらの者が取りつかれて悩まされるなら、それは単に彼らが真でないものを真であると信じる手段ともなった妄想と外観の方面のみのことであり、また彼らの教会の教義から、真理ではないのに、真理であると教えられた事柄の方面のみのことである。こうした者たちは他生では進んで誤謬を斥けて、真理を受け入れるが、それは仁慈の善は真理を受けるものであるためである、なぜならそれはそれを愛し、また望みもするからである。
人間はその改良の間では善を欲することと悪を欲することとの間の均衡(の状態)の中に(すなわち自由の中に)おかれており、そのとき善いものを欲することに近づくに比例して天界へ近づいて、地獄から後退し、またそのとき主から受ける新しい意志は、かれがその両親から遺伝により後には実際の生活により受け入れられたかれ自身の意志に反抗して、これに打ち勝つのである。それゆえ人間が善を欲し、善に感動するほどにも改良されたときは、主は善の中に現存されているため、善は悪を遠ざけるのである、なぜなら善は主から発し、かくて主のものであり、否、主御自身であるからである。この凡てから人間におけるその(二つの)流入の努力の実情はいかようなものであるかを認めることができよう。
天界の秘義9338
善の中にいる者たちは主の『兄弟』と呼ばれ(6756番)、かくてまた善いことを行う者たちも主の兄弟と呼ばれている、なぜなら善は人間のもとにおられる主であるからである。それで『あなたらがこの兄弟たちの一人にそれを行ったからには』と言われ、『兄弟たちの一人に』とは言われていないのである。
天界の秘義9682
なぜなら善はことごとく主から発し、絶対に一つとして人間から発してはおらず、また天界の天使たちからも発していないため、主は善の中におられるからである。(中略)主から発しているものは主御自身である。この凡てから主から発した善が受け入れられる所には主が現存されていることが明白である。
天界の秘義10129
主が承認され、隣人が愛される時、その人間は例えそのことに全く気がつかないにしても、主はその隣人に対する愛の中におられるのである。このことがマタイ伝の主の御言葉により意味されているのである。
義しい者は答えるでしょう、主よ、私らは何時あなたがた飢えておられるのを見て、あなたに食べさせましたか。または渇いておられるのを見て、あなたに飲ませましたか。いつあなたが病んでおられるのを、または牢におられるのを見て、あなたのもとに来ましたか、と。王は彼らに言うでしょう。まことにわたしはあなたに言います、あなたらがこのわたしの兄弟たちの中でもいと小さい者の一人にそれを行ったことにおいて、それをわたしに行ったのである。マタイ25・37−40
ここから、例え仁慈の善の中にいる者たちはそのことを知らないにしても、主はその善の中におられ、その善であることが明らかである。
「兄弟」によりその最も近い意味では仁慈の善の中にいる者たちが意味され、人物から抽象された意義では、主の「兄弟たち」は仁慈の善そのものを意味しているのである。(天界の秘義5063―5071)
天界と地獄350
真理と善とのために真理と善とを愛して者は凡て天界に受け入れられ、それゆえ賢明な者と呼ばれる者は多く愛した者であるが、単純な者と呼ばれる者は僅かしか愛さなかった者である。天界では賢明な者は多くの光の中にいるが、しかし単純な者はそれほど光の中にはおらず、各々善と真理とに対するその愛の度に従っている。真理と善とのために真理と善とを愛することはそれを意志真理と善〔欲し〕、行うことである。なぜなら意志し、行う者は愛するが、しかし意志もしないし、行いもしない者は愛さないからである。善と真理とは主から発しているため、これらの者はまた主を愛し、主から愛される者である、そして善と真理とは主から発しているため、主もまた善と真理との中におられ、従って主はまた、善と真理とをその生命〔生活〕の中に意志し、行うことにより受け入れられる者たちのもとにおられる。人間もまた、その人間自身において観察される時は、その人間自身の善と真理以外の何ものでもない、なぜなら善は彼の意志に、真理は彼の理解に属しているからである、そこから、人間は、その意志が善から形作られ、その理解が真理から形作られるに応じて、主から愛されることが明らかである。愛は相互的なものであるため、主から愛されることはまた主を愛することである、なぜなら愛される者に主は愛することを与えられるからである。
生命38
たれでも善におり、善から真理を愛するに比例して、主を愛する、なぜなら主は善そのものと真理そのものであられるから。それで主は人間のもとに善と真理との中におられる。もし後のもの[真理]が善から愛されるならば、主は愛されるが、そうでないときは(主は)愛されていない。このことを主はヨハネ伝で教えられている、
わたしの戒めを守って、それを為す者はわたしを愛する者である。わたしを愛さない者はわたしの聖言(ことば)を守らない(ヨハネ14・21、24)。
もしあなたらはわたしの戒めを守るならば、わたしの愛の中に止まるであろう(ヨハネ15・10)。
主の『戒め』と聖言とは真理である。
神の愛と知恵395
霊魂はそのエッセそのものにおいては愛と知恵であり、人間の中のこの二つものは主から発生しているため、人間の中には二つの容器が創造されており、それらはまた人間の中の住居であって、一つは愛のための容器であり、他は知恵のための容器であり、愛のための容器は意志と呼ばれ、知恵のための容器は理解と呼ばれている。
2.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P344
神は愛のない所にはおられません。愛のない所に神を探すことは無駄です。その前に神を見出す条件を揃える必要があります。神は愛の中に見つけられます。愛に固く立っている人は苦労して探さなくとも神を見つけ、そして神を有する人の事業は成功します。