悪を避けよ

1.聖書

2.トマス・ア・ケンピス

3.スウェーデンボルグ

4.ヴァッスーラ

 

 

1.聖書

 

 

詩篇34・15

 

悪を避け、善を行い

平和を尋ね求め、追い求めよ。

 

 

 

詩篇37・27

 

悪を避け、善を行えば

とこしえに、住み続けることができる。

 

 

 

イザヤ1・16、17

 

洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。

悪を行うことをやめ善を行うことを学び

裁きをどこまでも実行して

搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り

やもめの訴えを弁護せよ。

 

 

 

イザヤ59・1

 

主の手が短くて救えないのではない。

主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。

むしろお前たちの悪が

神とお前たちとの間を隔て

お前たちの罪が神の御顔を隠させ

お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。

お前たちの手は血で、指は悪によって汚れ

唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。

 

 

 

イザヤ1・15−17

 

お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ善を行うことを学び裁きをどこまでも実行して搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り やもめの訴えを弁護せよ。

 

 

 

ローマ13・8−10

 

 互に愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

 

 

 

 

2.トマス・ア・ケンピス

 

キリストに倣いて/1・3・5

 

ああ、人々がもし知識上のことを問題にするほど熱心に、悪を去り善を行うのに努めたならば、世間にはこれほど多くの罪悪(つみ)や醜聞(いやなこと)も起らず、また修道院内にもこれほど多くの不規律はなかったろうに。

まことに、審判の日に私たちが尋ねられるのは、なにを読んだかということではなく、なにをしたかということであり、いかに雄弁を揮ったかということではなくいかに信仰厚く生活(くら)したかということである。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・15・1

 

 この世のどんな物事のためにも、またどんな人を愛するためにも、悪いことは決してしてならぬ。しかし困っている人を助けるためには、時としてある善業をやめてもよい。いや、むしろいっそうすぐれた善業と変えることもできるのである。

 なんとなればそれによってその善業は無になるわけではなく、かえっていっそうすぐれた善業に変わるからである。

愛のない表面(うわべ)の行いはなんの役にも立たない。しかし愛から出る行いはどんなに小さくつまらないことでも、みな大いに効果がある。

 それは神が、人の行いの大小よりも、むしろ愛の大小に重きをおおきになるからである。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・43・1

 

 わたしの子よ、人間の美しい言葉に動かされてはならぬ。「神の国は言葉にあるのではなくて、実力にある」(コリント前4・20)からである。

 わたしの言葉に注意せよ、わたしの言葉は心を燃やし、精神を照らし、痛悔を起させ、多くの慰めを与えるからである。

 あなたは決して学者だとか賢人だとか思われるために、わたしの言葉を読むな。

 むしろあなたの悪いところをなくするように務めよ。なんとなれば、これこそ、多くの難題がわかるよりも、あなたにとってためになるからである。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・43・4

 

 かつてある人はわたしを深く愛し、それによって神のことを悟り、驚くべきことを語った。

 その人は深遠微妙なことを研究するよりも、むしろいっさい万事を捨てることによって進歩したのである。

 

 

 

 

3.スウェーデンボルグ

 

 

仁慈の教義26

 

 主は悔改めを説かれはしなかったか。主の弟子たちもまた、また洗礼者ヨハネもそれを説きはしなかったか。

 イザヤは人間は先ず悪から遠ざからなくてはならない、かくて善を行うことを習うであろうと言明している(イザヤ1・16、17)。それ以前では人間は善はいかようなものであり、またいかような性質のものであるかを知らない。悪は善の何であるかを知らない、しかし善はそこから悪を知っている。

 

 

 

仁慈の教義27

 

(5)「人間が行う善が仁慈の善となる以前に、悪は先ず、それが仁慈に反しているため、遠ざけられねばならない(そのことは悔改めにより行われる)。」

悪は、それが遠ざけられるためには、先ず知られねばならないからには、そのため十戒が聖言の最初のものであったのであり、全基督教世界においてもまた教会の教義の最初のものである。凡ての者は悪を知って、それを行わないことにより教会へ入れられるのである、なぜなら悪は神に反しているからである。

 

 

 

仁慈の教義28

 

 それでこの最初のものは、たれ一人それ以前では基督教の善を行うことが出来ないという理由から、極めて聖いものであった。

 

 

 

仁慈の教義29

 

善がそれに続いて行われることは以下の説明から極めて明らかである―裁判官は言う、『私は、色々な理由から、悪から判決しない、公正に判決する』と。かくてかれは善を行うのである。

 

 

 

仁慈の教義30

 

農夫は言う、『わたしは公正に、忠実にしか働きはしない』と。かくて彼が行う業は善である。

 

 

 

仁慈の教義30

 

他の無数の場合も同じであり、人間は悪を行わないときは、善を行うのである。

 

 

 

仁慈の教義31

 

それで悪を罪として避けることは善を行うことであるということを規定(ルール)として考えてよいであろう。

 

 

 

真の基督教329

 

十戒の八つの誡命、すなわち、第一、第二、第五、第六、第七、第八、第九、第十誡には、神を愛し、隣人を愛することについては、何ごとも言われていない。神は愛されなければならない、また神の御名は崇められねばならない、また隣人は愛されねばならないし、誠実に、公正に扱われねばならないと言われないで、ただ単に「汝は我が面の前に我の外何物をも神とすべからず、汝の神エホバの名を妄に口にあぐべからず、汝人を殺すなかれ、汝姦淫を為すなかれ、汝盗むなかれ、汝偽りの証を立つるなかれ、汝その隣人の所有を貪るなかれ」と語られているに過ぎない。このように悪はそれが神に対するものであれ、あるいは隣人に対するものであれ、欲求されてはならないし、考えられてもならない。また行ってはならないということが、一般的に命ぜられている。愛と仁慈に関連した直接的な命令は一つとして与えられず、ただ単にその反対のものを避けねばならないという命令が与えられているに過ぎないのは、人間は悪を罪として避ける限り、愛と仁慈との善を欲しているからである。神を愛し、隣人を愛するという第一の原理は悪を避けることであり、第二は善を為すことであることは仁慈に関わる章に見られるであろう。二つの相反した愛、すなわち善を欲して、これを為す愛と悪を欲して、これを為す愛があり、後者は地獄的なものであり、前者は天界的なものである、なぜなら凡て地獄は悪を為す愛より成り、凡て天界は善を為す愛より成るからである。人間は凡ゆる種類の悪に向かって生まれ、従って生来地獄的な凡てのものに傾いている。彼は再び生まれない限り、あるいは再生しない限り、天界に入ることは出来ない、それ故彼は天界の善を欲することが出来る以前に、地獄のもろもろの悪は除かなければならない、なぜなら何人も悪魔から分離されない中は、主に受け入れられることは出来ないからである。如何にして悪が除かれ、人間は善を為すように導かれるかは、悔改めと改良に関わる章に示されるであろう。人間の為す善が神の眼前における善となる以前に、悪は除かれねばならぬことは、主によってイザヤ書に以下のように教えられている、「なんじら己を洗い、己を潔くし、わが目の前よりその悪業をさり、悪を行うことを止め、善は行うことをならえ、さらばなんじらの罪は緋のごとくなるも、雪の如く白くなり、紅のごとく赤くとも、羊の毛の如くならん」(1・16−18)。(中略) 人間は悪を避けることによって十戒の誡命を守る時は、言うまでもなく、愛と仁慈はその結果として生まれて来ることは、ヨハネ伝の主の言によって明らかである。イエスは「わが誡命を保ちて、これを守るものは、すなわち我を愛する者なり。我を愛する者は我が父に愛せられん。我もこれを愛し、これに己を顕すべし、かつ我らこれと住処をともにせん」(14・21,23)と語り給うた。この記事の誡命は悪は為されてはならぬし、また、欲求されてもならないという十戒の誡命を特に意味しており、その時神に対する人間の愛と、人間に対する神の愛は、善は悪の除去によって現れるように現れることは言うまでもない。

 

 

 

真の基督教330

 

 悪と善は相反するものである故、人間は悪を避ける限り、善を欲する。なぜなら、悪は地獄から発し、善は天界から発するからである。それ故、人間は地獄、あるいは悪を避ける限り、天界に近づき、善を見上げる。この光に照らして誡命の中の八つの誡命を考察されよ、

 

(1)人は他の神々を礼拝することを避ける限り、真の神を礼拝する。

(2)人は神の御名を妄に口にすることを避ける限り神から発するものを愛する。

(3)人は殺人、憎悪、復讐を避ける限り、隣人に良きものを欲する。

(4)人は姦淫を避ける限り、貞潔にその妻と住むことを欲する。

(5)人は盗むことを避ける限り、真面目に生きる。

(6)人は偽りの証を立てることを拒む限り、真理を考え、これを語ることを望む。

((7)と(8))人は隣人のものを貪ることを避ける限り、その隣人がその持ち物を楽しみ、繁栄することを望む。

 

それ故十戒の誡命は神と隣人に対する愛に関わる凡ての物を含むことは明白である。それ故、パウロは語っている、「他のものを愛する者は律法を成就するものなり。そは汝姦淫するなかれ、汝殺すなかれ、汝偽りの証を立つるなかれ、汝貪るなかれの誡命は、この他なお他の誡命あらんも、そは汝は己の如く汝の隣を愛すべしとの言葉に含まるればなり。愛は己が隣人に悪を行わず、その故に愛は律法を成就するものなり」(ロマ13・8−10)。

 

上述の言に下記の二つの定則が新しい教会のために附加されなくてはならない。

 

(1)何人も自らによっては罪を悪として避けることが出来ない。また神の前における善を為すことも出来ない。彼は悪を罪として避ける限り、自らによらず、主によって善を為すのである。

(2)人間は自らによるかの如く、悪を罪として避け、かつこれに向かって戦わなくてはならない。もし彼は悪は罪であるという理由以外の理由によって悪を避けるならば、実際はそれを避けるのではなくて、単にこれをその同輩から隠しているに過ぎないのである。

 

 

 

 

真の基督教685

 

悪魔即ち地獄の諸々の悪を斥けることと主に対する信仰とは再生を成就させるものである。

 

 

 

天界の秘義1076

 

『ハム』は腐敗した教会を意味していることはハムについて前に言われたことから明白である。教会はそれが聖言を承認して、真の教会の礼拝のようなある礼拝を持ってはいるものの、それでも信仰を仁慈から分離し、かくて信仰をその本質的なものから、その生命から分離し、かくて信仰が一種の死んだものとなってしまうとき―その結果は必然的にその教会が腐敗してしまうということではあるが―腐敗してしまうと言われている。その時その教会の人間らはいかようなものになるかは、その者らが良心を持つことができないということを考察することにより明白となるのである。なぜなら真に良心である良心は仁慈によらなくては決して存在することはできないからである。仁慈が良心を作るものである。すなわち、主が仁慈を通して良心を作られるのである。良心とはたれにも決して悪を行わないということ、すなわち、凡ての者に凡ゆる方法をもって善を行うということ以外の何であろうか。かくて良心は仁慈に属し、決して仁慈から分離した信仰には属していないのである。もしこのような人物が何らかの良心を持っているならば、それは誤った良心であり、それについては前に述べたことを参照されたい、かれらは良心を持っていないため、外なる束縛が緩められる限り、凡ゆる邪悪に突入するのである。かれらは仁慈とは何であるかを、それは何かを意味している言葉であるということ以外には、知ってさえもいない。かれらは、質問されると、それは一種の考えであるとしか答えることができず、ある者はそれは信頼であると答え、他はそれは信仰の知識であると答え、少数の者はそれはこの知識に応じた生活であると答えるが、ほとんどたれ一人もそれは仁慈の生活であり、または相互愛の生活であるとは答えはしないのである。そしてもしそのことがかれらに言われて、そのことについて反省する機会がかれらに与えられるにしても、かれらはただ、愛は凡て自己から始まり、自分自身と自分自身の家族を顧みない者は異教徒より悪い者であるとしか答えないのである。それでかれらはかれら自身と世を除いては何事も学びはしない。ここからかれらはかれら自身のものの中に住むようになるのである。そのかれら自身のものの性質については前に述べておいた。これらがハムと呼ばれる者である。

 

 

 

天界の秘義5354[2]

 

 しかしたれ一人自分自身からはこの善にいることは出来ない、なぜならそれは主から流れ入ってくるところの天的なものそれ自身であるからである。この天的なものは絶えず流れ入っているが、悪と誤謬とが妨害してそれを受け入れさせないのであり、それでそれが受け入れられるためには人間が悪を遠ざけ、また為し得る限り誤謬も遠ざけ、かくしてその流入を受けるように自分自身を処置することが必要である。悪が遠ざけられた後で、その人間がその流入を受け入れると、彼は同時に新しい意志と新しい理解とを受けるのであり、意志からは、彼は何ら利己的な目的を持たないで隣人に善を為すことに歓喜を覚えるのであり、新しい理解からは善い真のものをそのもの自身のために、また生命のために学ぶことに歓喜を覚えるのである。この新しい理解と新しい意志とは主から流入を通して存在するようになるからには、再生した人間はその人間が感動する善と真理とは自分自身から発しないで、主から発しており、また凡て自分自身から発し、または自分自身のものであるものは凡て悪意外の何ものでもないことを承認し、信じるのである。

 

 

 

天界の秘義5354[3]

 

 この凡てから再び生まれることの何であるか、また新しい意志と新しい理解の何であるかが明らかである。しかし新しい理解と新しい意志とが発生する手段となる再生は一瞬で成就されるのではなく、幼児時代の最初期から生命の終りまでも続き、その後他生では永遠に続くのであり、しかもそれは無数の、表現することも出来ない神的な方法により行われるのである、なぜなら人間は人間自身では悪意外の何ものでもなく、その悪は絶えず中から放出されるように放出されて、生れ出ようとする善を絶えず消滅させようと努めているからである。このような悪を遠ざけて、代って善を植え付けることは生命の全コースをかけなくては、また無数の、表現を絶した神的な方法[神の方法]によらなくては遂行されることは出来ないのである。これらの方法は殆ど何一つ現今では以下の理由から知られてはいない、即ち、人間は自分自身が再生することに甘んじないし、また、死後の生命を信じていないため、再生が何か意義のあるものであるとも信じはしないのである。再生の過程は―それには表現不可能な事柄が含まれているが―天使の知恵の主要な部分を作り上げていて、それはいかような天使によっても永遠に十分に経過することの出来ないような性質を持っているのである。それでこれが聖言の内意に取り扱われている主要な主題となっているのである。

 

 

 

天界の秘義8307

 

「あなたは慈悲をもってこの民を導かれた」。これは、悪から遠ざかって、善を受け入れた者たちにおける神的流入〔神の流入〕を意味していることは、『慈悲をもって導くこと』の意義から明白であり、それは神的なもの〔神のもの〕を受け入れることであり、悪から遠ざかる者たちが神的なものを受け入れるため、その者たちにおける神的な流入が意味されているのである。主から発している慈悲については、実情は以下の如くである。主の慈悲は各々の者のもとに不断に注がれているのである、なぜなら主は凡ゆる人間を、その人間がたれであろうとも、救おうと望まれているからである。しかしこの慈悲は、悪が遠ざけられない中は流れ入ることは出来ない、なぜなら悪とそこから派生した誤謬とはそれに対立し、それを妨害するからである。しかし悪が遠ざけられるや否や、慈悲が流れ入ってくる、即ち、主から発した慈悲から善が流れ入り、その善とは仁慈と信仰である。このことから主の仁慈は普遍的なものであり、即ち、凡ゆる者に注がれており、また悪から遠ざかっている者には特に注がれていることを認めることが出来よう。人間は自分自身から悪から遠ざかることが出来るが、自分自身からは善を受けることは出来ない。人間が自分自身から悪から遠ざかることが出来るのは、主はそうした努力をもって絶えず人間の意志の中へ流れ入られ、かくてその自由の中に悪から遠ざかり、また同じく自分自身を善へ向けることを植え付けられるからである。主はまた人間に真理を理解する能力を与えられているが、しかし人間が理解しないのは、人間が理解しようと願わないためであり、このことは生命に属している悪のためである、なぜなら誤謬は悪を防禦し、真理は悪を非難する〔罪に定める〕ためである。かくて人間は悪から遠ざからない限り、主から霊的な善を供えられることは出来ないのであり、かくて慈悲を通して導かれることは出来ないのである。

 

 

 

 

啓示による黙示録解説153・4

 

 もし彼が真理に感動するなら、彼は悪い社会から連れ出されて、善い社会へ導き入れられ、それも色々な善い社会へ入れられて、遂にはその者自身の自然的な情愛に相応した社会の中へ入り、そこでその情愛に一致している善を楽しむようになり、しかもそれは彼がその自然的な情愛を脱ぎ棄てて、霊的な情愛を身につけ、かくて天界へ挙げられるまでに至るのである。しかしこれは世で仁慈の生活を送り、かくてまた信仰の生活を送った者たちに起るのである、信仰の生活とは主を信じて、悪を罪として避けることに在る。

 

 

 

啓示による黙示録解説571

 

そして信仰のみは、即ち、信仰は律法の業なしに義とし、救うという教義は、聖言から発してはおらず、パウロのただ一つの表現を誤って理解したことから発しており(ロマ3・28、417番参照)、教義の誤謬はことごとく自己自身の理知以外のいかような源泉からも発してはいないのである。なぜなら聖言には、悪を避けて、善を行うということにもまさって何が遍く教えられているであろうか。また神と隣人とを愛さなくてはならないということにまさって何がさらに明白であろうか。そしてたれ一人律法の業に従って生きないかぎり、隣人を愛することは出来ないし、隣人を愛さない者は神も愛しはしないことを認めない者があろうか。なぜなら隣人を愛する愛の中に主は御自身を人間と連結され、人間は人間自身を主と連結させ、即ち、主と人間とはその愛の中に結合するからである。そして隣人を愛することは、十戒の戒めに従って、隣人に悪を行わないことではなくて何であろうか(ロマ13・8−11)。そして人間は隣人に悪を為すことを欲しないことに正比例して、隣人に善を為すことを欲しており、ここから、善い業から分離した信仰である信仰のみが救うものであるとしている者らのように、この律法の業を救いから除外することは冒瀆であることは明白である。

 

 

 

神の摂理265

 

キリスト教の本質は悪を罪として避けることにある

 

 

 

黙示録講解902

 

「黙示録」の他の多くの記事におけるように、ここに『業』が言われここに『彼らの業が彼らと共に従う』と言われているからには―それは霊的な生命を意味しているが―いかようにしてその生命が得られるかについて、またいかようにしてそれが現今の信仰により破壊されるかについて若干述べてみよう。霊的な生命はもっぱら聖言における戒めに従った生活[生命]により取得されるのである。これらの戒めは要約して十戒に与えられている、即ち、あなたは姦淫を犯してはならない、あなたは盗んではならない、あなたは殺してはならない、あなたは偽証してはならない、あなたは他の者の持ち物をむさぼってはならない、これらの戒めは行わなくてはならない戒めである、なぜなら人間がこれらの事を行うとき、その業は善であり、その生命は霊的なものとなるからであるが、それは人間が悪を避け、それを憎むに応じ、善を意志し、[欲し]、行うためである。

 

 

 

生命45

 

それでこの凡てから、前に示したように、ちょうど人間が悪を罪として避けるに応じて、ちょうどそれだけ善にいるため、ちょうどそれだけ信仰を持っていることが生まれてくる。このことはまたその反対のことにより確認される、即ち、悪を罪として避けない者は、悪におり、悪は内的に真理を憎んでいるため、信仰を持ってはいないのである。外面では実に彼は真理の友として活動し、それを理解の中に存在させておきもし、それをそこに持つことを愛しさえもしているかもしれないが、死後行われることではあるが、外なるものが脱ぎ棄てられると、彼は先ずこの世の彼の友であった真理を棄て去り、それからそれが真理であることを否定し、遂にはそれに嫌忌を感じるのである。

 

 

 

信仰/27

 

 しかしこれらの知識はすべて、その数はいかほどあろうとも、またその性質はいかようなものであろうと、単に仁慈の信仰が形作られる材料の倉庫にしか過ぎないのであって、この信仰はその人間が悪を罪として避けるに比例してのみしか形作られることは出来ないのである。もし彼が悪を罪として避けるなら、その時はこれらの知識は霊的生命を内に宿した信仰の知識となるのである。しかしもし彼が悪を罪として避けないなら、その時はこれらの知識は知識以外の何ものでもなく、何らかの霊的生命を内に宿している信仰の知識とはならないのである。

 

 

 

 

4.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P149

‘89・3・29

コーテテル(JU)(スイスの北)の集会に際して与えられたメッセージ

 

悪を行わないように そうすれば悪に見舞われない

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P151

‘00・1・20

 

言い換えるなら、私を知ることによって、霊魂と精神は 我が超越的な光と栄光で満たされる。 霊魂は我が神性、私自身に満たされる。 そのとき そのとき初めて、心は規律に従い 耳は教えを聞き、こうして真理を手に入れ それを心から大切にする。 あなた方の性質そのものさえも、まこと愛する者たちよ、変容して 我が神性をおびる。 あなたの霊に我が霊を授け そして我が霊によって私の統治、という大いなる富を与えるために、たゆまずあなたのうちより不純物を取り除いてきた我が聖霊が あなた方の一切の意図を動機づけるようになる。

 

あなた方はこう尋ねよう、「では神を理解するとは どういうことでしょう?」と。 私を理解することは英知の第一原理。 それは私をあなたの神として認め 私を畏れること、私を畏れるとは あらゆる悪を避けること。 地上にいながら 霊的な目で私を見ることが望ましい。地上にいる間に私を味わっておくのは本来あなた方一人ひとりがすべきこと。 どの霊魂にとっても このヴィジョン(*)を探し求めることが肝要であり もし私の高み(*1)に霊魂がまだ達し得ていないなら、観想をもって自らの霊を引き上げるように 忍耐強く努力し続けなさい。ほかにどうやって あなたの神を知り得ようか? 私を見たことがないとすれば、三たび聖なる我が光をまとう私の息子 娘たちの一人に どうしてなれようか?

 

私はあなた方の霊魂と交わるがゆえ 近よりがたいとか 到達しがたいということはない。 私はあなたと私自身を一致させ 私たちは一つとなる。 そしてひとたび一致したなら、あなたが跡継ぎだと思い起こすよう、私自身を あなたにとって知り得るものとする。 荘厳と光輝のうちに 我が深淵へと霊魂を導き入れ 王の気前よさをもって 私自身を顕す。 神の深淵は 霊的なことを理解する霊によってのみ知り得ると読んだことがあろう。 聖書にはこう書かれている:

 

「この世のいのちだけに生きる人は、神の霊に関することを愚かしいとして 受け入れません。それはその人の理解力を超えています。神の霊に関することは、聖霊の働きがあってこそ理解されるからです。」

その一方、神の霊に導かれて生きる人は すべての価値を判断できるが、その人自身の真価は誰も判断できない、聖書に「誰が主の心を知り、主に教えることができようか」と書かれている通り(*2)。

 

私を知り理解するという宝は いつの日も地上を天国にする。 それは地上で 親切、義、誠実をもって治めること。 聖霊による恵みによってこの宝を得たなら あなたのうちに働く私の意思が分かるようになる。 私どもはかつてこう言った、「もし誰かが自慢したいなら こう自慢するがよい、 私を理解し 知っていると・・・」この宝は 真珠の値打ちを上回るもの。 ああ、次の宝は 親密さ、神なる私との親密さ。 燃え立つ愛によって 心から発する炎の火花が、私との親密さの最初の印となる、絶え間なく私を探し求める渇きの長い期間は 私がすべての霊魂に切に望む あの親密な一致へと近づく予兆となろう、こうして彼らは 私の甘美を味わいに訪れ そして、全霊を込めて、天国の悦びに入り あなた方にたいして注いだ私の慈悲を称えて 天国の我が天使たちの調べを歌う。

 

 

* 神にたいするヴィジョン。

*1 主は、「ご自分」を意味しておられます。

*2 1コリント2・14−16。