生活によってのみ行われる

 

 

人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない(ヨハネ3・3)

行う私の生徒は完全であってほしい

求めるのは愛、忠実と 清さだけ

二つの本質的なもの

 

 

 

 

1.聖書

2.改良、再生はただ聖言における主の教えに従った生活によってのみ行われる

3.生活により、仁慈を浸透させない限り、霊的なものとはならない

4.私たちの地球では内的な認識を僅かな者しか得ていない、それは彼らはその青春時代に真理を学びはするが、実践しないためである

5.そのような生活をしない者は教えられようとはしないが、そのように生活する者は教えられることを愛し、死後霊になると、天使から教えられ、喜んで聖言の真理を受ける

6.霊的な生命はもっぱら聖言における戒めに従った生活[生命]により取得される

7.悪をそれらが罪であるために、またそれらが主に反し、主の神的律法に反しているために避けるかの人間が明るくされる

8.この信仰はその人間が悪を罪として避けるに比例してのみしか形作られることは出来ない

9.悪を罪として避けて、主に来られよ、そのときあなたにはそれがあなたの望むほど可能となるのである

10.マリア・ワルトルタ・・・命とは、道と真理と生命を信じて、それに従って生きることによって得られます

11.主の教えに従って生きることが主との連結を生む

12.是を行へ、さらば汝は活くべし

13.そのことをその把握したことに応じて行うことによりたわめられる

14.ヴァッスーラ

15.信仰は真理に従って生活することにより形作られる

16.この信仰はその人間が悪を罪として避けるに比例してのみしか形作られることは出来ない

17.もし彼が生活の点で悪にいるなら、彼はたちまち自分自身をもとの方に向けて

18.何人も神を認め、神の誡命に従って生活しない限り、このように考えて、教会の諸真理を認めることは出来ない

19.理解は知識に応じて高められることが出来るが、意志は教会と宗教との真理に一致した生活によってのみ高められる

20.悪い生活をしている者は何事も信じはしない

21.天界は世に生きている間に送る仁慈と信仰の生活〔生命〕により与えられる

22.仁慈の生活を送った者以外にはたれ一人善の真理と真理の善とを受ける能力を持たない

23.たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らない

24.学ぶ真理を行うに応じて、合理的なものが開かれる

25.外なる人はその事柄に従った生活により再生する

26.学んだものは活動させることによって習慣的なものとなり、かくて彼にはいわば生来的なものとなる

27.たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らない

28.聖母から司祭へ

29.この結合は、神的な真理とこれに従う生活とによって行われ、聖餐がそれを確実なものにする

30.それでもその人間はそれらのもの(真理)に従って行きない中は連結は存在しない

31.二人の証人

32.人々のあいだに共に立ち交じろう

33.彼がそれらを実践し、行う時に初めてそれらは人間の中に永続的なものとなって、彼の生命の一部となる

34.第三の度が開かれる

35.聖言の教理とそれに応じた生活とが結合する時、愛と知恵は天界と教会の中に、また天界の天使と教会員の中に一つのものとなる

 

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ5・48

 

だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

 

 

 

ルカ10・25−28

 

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

 

 

 

ヨハネ3・3−5

 

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。

 

 

 

ヘブライ12・14

 

すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。

 

 

 

 

2.改良、再生はただ聖言における主の教えに従った生活によってのみ行われる

 

 

真の基督教の増補5

 

なぜなら教会の人間は、理性の光により改良され、再生するようにとの目的の下に朝から昼へ進み、そのことはただ聖言における主の教えに従った生活によってのみ行われるからである。もしそのことが起らないなら、彼の光は暗黒となり、暗黒は暗闇となり、すなわち、彼のもとに在る光の諸真理は誤謬に変わり、誤謬は見えない悪に変わるのである。自分自身が再生するに甘んじる者の場合は異なっており、夜は彼に追いつきはしないのである、なぜなら彼は神の中に歩み、そこから絶えず日の中におり、その中へまた彼は死後完全に入って行き、その時彼は天界の諸天使たちとともに交わるからである。このことが、真に基督の教会であり、新しい教会である新しいエルサレムについて、黙示録に記されている以下の事柄により意味されているのである―

 

 その都はその中に輝く陽と月とを要しない、神の栄光がそれを照らし、子羊がその燈であられるからであり、救われた諸々の国民はその光の中を歩むであろう・・・そこには夜はないであろう(21・23−25、エゼキエル32・8、アモス5・20、8・9)。

 

 

 

黙示録講解902

 

「黙示録」の他の多くの記事におけるように、ここに『業』が言われここに『彼らの業が彼らと共に従う』と言われているからには―それは霊的な生命を意味しているが―いかようにしてその生命が得られるかについて、またいかようにしてそれが現今の信仰により破壊されるかについて若干述べてみよう。霊的な生命はもっぱら聖言における戒めに従った生活[生命]により取得されるのである。これらの戒めは要約して十戒に与えられている、すなわち、あなたは姦淫を犯してはならない、あなたは盗んではならない、あなたは殺してはならない、あなたは偽証してはならない、あなたは他の者の持ち物を貪ってはならない、これらの戒めは行わなくてはならない戒めである、なぜなら人間がこれらの事を行う時、その業は善であり、その生命は霊的なものとなるからであるが、それは人間が悪を避け、それを憎むに応じ、善を意志し、[欲し]、行うためである。

 

 

 

啓示による黙示録解説50

 

聖言における『水』により自然的な人における諸真理が意味されていることが知られると、イスラエル教会の洗うことの意義と、また洗礼の意義も、同じくヨハネ伝の主の以下の御言葉の意義も明らかとなるであろう―

 

 人は水と霊から生まれない限り、神の王国に入ることは出来ない(ヨハネ3・5)。

 

『水』から生まれることは真理により生まれることを意味し、『霊から』生まれることは真理に従った生活によって生まれることを意味している。

 

 

 

新しいエルサレムの教義2

 

この形を人間の霊は神的真理に順応した生活により取得する。

 

 

 

新エルサレムの教義203

 

 再生はすべて主によって信仰の諸真理とそれに従った生活とを通して行われる。それで洗礼は人間は教会に属しており、再生することが出来ることを証している、なぜなら教会には主が承認され、主のみが再生させられ、またそこには信仰の諸真理を含む聖言が在り、それによって再生が行われるからである。

 

 

 

 

3.生活により、仁慈を浸透させない限り、霊的なものとはならない

 

 

真の基督教の増補7

 

自然的なものから霊的なものにならない人間はこのようなものであり、そしてたれ一人、合理的なものになった後で、実を結ばない限り、すなわち、生活により、仁慈を浸透させない限り、霊的なものとはならないのである。

 

 

 

天界の秘義5126[2]

 

 子供時代から、青年期の初期にかけて、両親と教師から教えられるのみでなく、また学ぶことにより、似つかわしいことや、民法の要求することや、尊いことを学ぶことにより、内的な自然的なものとの交流が開かれるのである。そして青年期から成人期の初期にかけて、社会的な、道徳的な生活の諸真理と諸善とを学ぶことにより、特に聖言を聞き、また読むことを通して、霊的な生命の諸真理と諸善とを学ぶことにより、自然的なものと合理的なものとの間に交流が開かれるが、しかしその青年がそのとき真理によって善に沁み込むに応じて、即ち、その学ぶ真理を行うに応じて、合理的なものが開かれるに反し、諸真理によって諸善に沁み込まないに応じて、または諸真理を行わないに応じて、合理的なものは開かれはしないものの、それでもその知識は依然自然的なものの中に、即ち、その記憶の中に残っており、かくていわば家の外側の入口に残っているのである。

 

 

 

 

4.私たちの地球では内的な認識を僅かな者しか得ていない、それは彼らはその青春時代に真理を学びはするが、実践しないためである

 

 

天界の秘義10786

 

星天の第六の地球について

 

私たちは彼らに、私たちの地球では内的な認識を僅かな者しか得ていません、それは彼らはその青春時代に真理を学びはしますが、それを実践しないためです、と話した。なぜなら人間には理解と意志と呼ばれる二つの能力があり、真理を記憶より先へは許容しない、かくて理解へ若干許容はするが、生命へは、即ち、意志へは許容しない者らは主から全く明るくされることは出来ないからであり、または主から内的に見ることは出来ないため、彼らは事柄が信じられなくてはならない、または人は信仰を持たなくてはならないと言うのである。

 

 

 

 

5.そのような生活をしない者は教えられようとはしないが、そのように生活する者は教えられることを愛し、死後霊になると、天使から教えられ、喜んで聖言の真理を受ける

 

 

神の摂理253

 

今までは我々は、単に自然的な人間に神的摂理に対する不信仰を確認させるところの、237番に前述した事柄のみを説明した。今や我々は238番に記された物を説明しなくてはならない、それは種々の民族の宗教体系に関係していて、単に自然的な人間にはまた神的摂理に対する反証として役立っているものである、なぜなら彼は『もし神の摂理が人類から発する天界を目的とするなら、どうして全世界に一つの真の宗教がなく、かくも多くの異なった宗教が在り得るのであろう』と心に語るから(27−45)。しかし考えられよ、一度生まれた人類は凡て、如何ほどその数は多く、また如何ような宗教を奉じていても、もし、殺人、姦淫、盗み、偽証は宗教に反し、それ故神に反するため、これらの犯罪を禁じている十誡の教えに従って神を承認し、生活するならば救われることが出来るのであって、そのような人間は神を恐れて、隣人を愛しているのである。彼らはそうした事を為すのは神に対する反抗であると信じているため、神を恐れており、また人を殺し、姦淫を犯し、盗み、偽証を立て、他人の家または妻を貪ることは隣人を傷つけることであるため、隣人を愛している。こうした人間はその生涯に神を敬い、隣人には悪を為さないため、主に導かれ、そしてこのように導かれる者は凡てその宗教により神と隣人につき教えられる、なぜならそのような生活をしない者は教えられようとはしないが、そのように生活する者は教えられることを愛し、そして教えられることを愛するため、死後霊になると、天使から教えられ、喜んで聖言の真理を受けるのである。こうした性格の人間について若干の記事が「新エルサレムの聖書の教義」に見ることが出来よう(91−97、104−113)。

 

 

 

神の摂理328(ニ)

「にも拘らず主は凡ての者が救われるように配慮されている」。

 

 凡ゆる所に何らかの宗教が存在し、宗教は凡て救いの二つの本質的なものを、すなわち、神に対する信仰と悪を神に背くものとして避けることを教えるように主により配慮されている。理解に属し、従って思考に属し、信仰と呼ばれている他の凡ての物が凡ての者にその生活に応じて提供されている。何故なら信仰は生活の事柄であるから。信仰が生活の事柄とならない中は、例えそれがその前に得られたとしても、それは真に生きたものとはならない。また善良な生活を送り、神を信じた者は凡て死後天使により教えられるように定められており、世で宗教のこの二つの本質的なものに従って生きた者は聖言に含まれた教会の真理をその時受け入れ、主を天界と教会の神として承認する、彼らは主の人間性はその神性から分離しているという考えを世から抱いて行った基督教徒よりも容易にそのことを信じる。

 

 

 

 

6.霊的な生命はもっぱら聖言における戒めに従った生活[生命]により取得される

 

 

黙示録講解902

 

「黙示録」の他の多くの記事におけるように、ここに『業』が言われここに『彼らの業が彼らと共に従う』と言われているからには―それは霊的な生命を意味しているが―いかようにしてその生命が得られるかについて、またいかようにしてそれが現今の信仰により破壊されるかについて若干述べてみよう。霊的な生命はもっぱら聖言における戒めに従った生活[生命]により取得されるのである。これらの戒めは要約して十戒に与えられている、即ち、あなたは姦淫を犯してはならない、あなたは盗んではならない、あなたは殺してはならない、あなたは偽証してはならない、あなたは他の者の持ち物を貪ってはならない、これらの戒めは行わなくてはならない戒めである、なぜなら人間がこれらの事を行う時、その業は善であり、その生命は霊的なものとなるからであるが、それは人間が悪を避け、それを憎むに応じ、善を意志し、[欲し]、行うためである。

 

 

 

黙示録講解902[2]

 

なぜなら人間をとり巻いている二つの対立したスフィア[霊気]が在り、一は地獄から発し、他は天界から発しており、地獄からは悪の、そこから発する誤謬のスフィアが発し、天界からは善の、そこから発する真理のスフィアが発しており、これらのスフィアは身体に働きかけているが、しかし人間の心に働きかけている、なぜならそれらは霊的なスフィアであり、かくて愛に属している情愛である。人間はそれらのスフィアの真中に置かれており、それで人間はその一方に近づくに応じて、他方のものから遠ざかるのである。このことが人間が悪を避け、悪を憎むに応じ、善を、そこから発する真理を愛する理由である、なぜなら―

 

 たれ一人同時に二人の主人に仕えることは出来ない、人間はその一方を憎むか、または他方の者を愛するか、その何れかを行うからである(マタイ6・24)。

 

 

 

 

神の摂理91

 

空間は単に外観にすぎない霊界では、知恵は現存を生み、愛は結合を生み、またその逆も事実である。知恵から主は承認され、また愛からも主は承認される。知恵から主を承認することは、本質的には知識に過ぎず、それは教義から発しており、愛から主を承認することは教義に従った生活から発して、これは結合を生むが、他方は現存を生むに過ぎない。主に関わる凡ての教えを軽蔑する者が主から遠ざかる理由はこれである。彼らはまたこうした教えに従う生活を軽蔑するため、その信念のため主から分離する、一方教義は軽蔑しないが、それを生活で無視する者は、主の前にいるが、なお主から離れている。彼らは共に話し合ってはいるが、愛し合ってはいない友達同志のようなものであり、また二人の中一人は他の一人に友のように話してはいるが、これを敵として憎んでいるようなものである。このことは一般的に認められている、なぜなら正しく教え、正しく生きる者は救われるが、正しく教えはするが、邪悪な生活を送る者は救われないこと、また神を信じない者は救われることは出来ないことは良く知られているからである。これらの考察により、いわゆる信仰から主について考えるが、仁慈から行動しないことはいかような種類の信仰であるかが明らかである。それ故主は語られている『なぜ私を主よ、主よと呼んで、私の言うところを行わないのか。私に来て、私の言うところを聞き、これを行う者はすべて岩の上に基を据え、家を建てる者に似ているが、聞いて行わない者は基無しに家を地に建てる者に似ている』(ルカ6・46−49)。

 

 

 

真の基督教239

 

然しながら、人間は世に在る限り、自然的な度に在り、次いで彼が純粋な諸真理を得るに応じて霊的天使的な度に在り、彼の生活がその諸真理に応じて営まれるに応じて、天的天使的な度に在るのである。然し彼は死後に到るまでは実際には霊的な、天的な度に入らないのは、それらは彼の自然的な観念の中に包まれ、隠れているからである。それ故、自然的な度が死によって脱ぎ去られる時、霊的なものと天的なものとが残り、その後、それらのものから人間の思考が引き出される。

 

 

 

神の愛と知恵248

 

さらに、自然的な人と霊的な人、または外なる人と内なる人の在ることが世に知られているが、しかし自然的な人間はその中に高い度が開かれることにより霊的なものとなること、このように開くことは神的教訓に従う生命[生活]である霊的生活によりなされること、これに従う生活なしには人間は自然的なままに止まることは知られていないのである。

 

 

 

7.悪をそれらが罪であるために、またそれらが主に反し、主の神的律法に反しているために避けるかの人間が明るくされる

 

 

スウェーデンボルグ/主の聖言/28

 

たれでも真理に対する霊的な情愛の中にいる者は、即ち真理そのものを、それが真理であるために愛している者はことごとく聖言を読むとき、主により明るくされはするが、しかし、知ろうとする願望[欲望]と呼ばれているところの、真理に対する単なる自然的な情愛からそれを読む者は明るくされはしないのである。後の者はその者の愛に一致しているものを除いては、また彼自身で採用したか、または他の者から聞いたり読んだりして取得したか、その何れかの原理に一致しているものを除いてはいかようなものも認めはしないのである。幾多の悪をそれらが罪であるために、またそれらが主に反し、主の神的律法に反しているために避けるかの人間が明るくされるのである。他の者ではなく、ただこの人間のもとにのみ、霊的な心は開かれるのであり、それが開かれるに応じ、天界の光が入り、その光から聖言における凡ゆる照示が発しているのである。なぜなら人間はその時善に対する意志を持ち、この意志はそれがその用へ決定付けられる時、理解の中で先ず真理の情愛[真理に対する情愛]となり、次に真理の認識となり、まもなく合理的な光により真理の思考[真理を考えること]となり、かくて決定と結論となり、それはそこから記憶の中へ入って行くにつれ、また生命[生活]の中へも入り、そのようにして止まるからである。このことが聖言においてすべて明るくされることの道であり、また人間の改良と再生の道である。しかし先ず記憶が必ず霊的なもののみでなく、自然的なものに関わる知識を得なくてはならない。なぜならこの知識はその中へ主が天界の光を手段として働きかけ給う倉庫[資源]であり、その倉庫が豊かであり、確認された誤謬から自由に解放されているに応じて、与えられる認識は益々明るくされており、その結論も益々澄明になるからである。なぜなら、神の働きは空しく虚ろな人間の中には落ち込みはしないからである。

 

 

 

8.この信仰はその人間が悪を罪として避けるに比 例してのみしか形作られることは出来ない

 

 

信仰27


 しかしこれらの知識はすべて、その数はいかほどあろうとも、またその性質はいかようなものであろうと、単に仁慈の信仰が形作られる材料の倉庫にしか過ぎないのであって、この信仰はその人間が悪を罪として避けるに比例してのみしか形作られることは出来ないのである。もし彼が悪を罪として避けるなら、その時はこれらの知識は霊的生命を内に宿した信仰の知識となるのである。しかしもし彼が悪を罪として避けないなら、その時はこれらの知識は知識以外の何ものでもなく、何らかの霊的生命を内に宿している 信仰の知識とはならないのである。

 

 

 

 

9.悪を罪として避けて、主に来られよ、その時あなたにはそれがあなたの望むほど可能となるのである

 

 

スウェーデンボルグ/信仰12

 

 もしたれかが自分自身の中で、『たれが信仰である真理を内的に承認することが出来よう、私には出来ない』と考えもし、または他のたれかにもそのように言いもするなら、どうしてそのことが出来るかを、私は言おう。すなわち、悪を罪として避けて、主に来られよ、その時あなたにはそれがあなたの望むほど可能となるのである。

(悪を罪として避ける者は主の中にいることについては、「新しいエルサレムのための生命の教義」18−31を参照し、こうした者は真理を愛して、それを認めることについては、32−41を、彼は信仰を得ることについては、42−52を参照されよ)。

 

 

 

 

10.マリア・ワルトルタ・・・命とは、道と真理と生命を信じて、それに従って生きることによって得られます

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P199

 

「それなら彼は死んでいません。私を信じる者は生きるからです。真の命は肉体が生きる今にあるのではない。命とは、道と真理と生命を信じて、それに従って生きることによって得られます。神を信じてその信仰に従って生きたのが、たとえ一日、一時間だけであっても、そう生きたなら、その人はもう死を知りません。すべての人間の父である私の父は、信仰と法と義において送った時間の長さではなく、『死ぬまでそれを守って生きたいという意志』をごらんになります。私を信じ、私が言う通り行う人、救い主を愛し、この愛を広げて、自分の生きる限り、私の教えを実行する人に、私は永遠の命を約束します。私のぶどう畑に働きに来て、『主よ、あなたの労働者に加えてください』と言って、その意志を変えず、最後まで努力するすべての人は生きます。たとえ自分の命の最後の一時間だけでも、私のぶどう畑で熱心に働けば、最初の時間から働いても、大して熱心ではなく、ただ罰を恐れて働いた人々よりも先に報いを得ます。なぜなら、私の父は直ちに光栄を与えて報いるやり方はなさいません。永遠の罰を避けるに必要なだけの僅かな善だけを行おうと勘定するような人々に、永遠の裁き手は長い償いを与えます。そのような人々は、熱心に、神の光栄を探す真の愛とは何かを、長い償いの間に学ばねばなりません。ここで特に言っておきますが、未来においては特に異邦人の中で、一時間だけの、あるいはそれよりも短い時間働いて私の国で光栄を受けるであろう人々は多い。神のぶどう畑に招かれて、聖寵に従って愛の英雄的な行為に達した人々です。女よ、安心しなさい。あなたの夫は死んではいない。生きています。あなたは彼を失ったのではなく、少しの間離れているだけです。今は、花婿の家にまだ入ったことのない花嫁として、不滅の婚姻を準備せねばなりません。徳を得るために働き、もう別れのない、愛を失う恐れも罰もない二人の霊魂の幸せな婚姻に備えることです。霊魂は神に対して、また互いの愛の中で喜び勇むでしょう。『義人にとって死は命である。霊魂の生命力を危うくすることは何もなく、永久に正義の中に生き残れる』ああ、シラ、はかない命を惜しんで泣くな。心を高く上げ、真の正義をもって見なさい。世間は私への信仰を滅ぼす危険があるから、神はあなたの夫をその危険から救われたのです。あなたを愛してくださったために」

 

 

 

 

11.主の教えに従って生きることが主との連結を生む

 

 

結婚愛341

 

(8)「マホメット教徒は主イエス・キリストを父なるエホバと一つの方であることを承認しないため、それで主を天と地との神として承認しないため、彼らは現在一人以上の妻と結婚することが許され、それで真の結婚愛を受けることは出来ない。」(中略)

主を承認し、主に天地の神として近づくとき、彼の教えに従って生きる者のもとに、それが開かれる理由は、それ以外の方法では、連結はなく、連結がなくては受容もないということである。人間のもとに主は現存され、また主と連結することも出来る。主のもとへ行くことは現存をもたらしはするが、主の教えに従って生きることが主との連結を生むのである。そして主の現存のみは、主のものを受容しなくても存在はするが、しかし現存と同時に連結は受容とともに存在するのである。それらの事柄について私は霊界から得た以下の新しい事柄を述べよう。そこでは、たれか他の人を考えると、その考えられた人は凡て眼の前に現れてくるが、しかし一人として愛の情愛によらなくては他の者と連結しないのであり、そして愛の情愛はその他の者の言葉とその好むところを行うことによってもたらされるのである。この事実は、霊界では熟知されていて、その起原は主にあるのである。すなわち主もその方法で現存され、その方法で連結されるのである。

 

 

 

 

12.是を行へ、さらば汝は活くべし

 

 

真の基督教286

 

 律法と預言者は聖言の全部を意味する。そして他の個所に「或る教法師イエスを試みて言ふ、師よ、われ永遠の生命を嗣ぐためには何をなすべきや。イエス言ひたまふ、律法に何と録したるか、汝如何に読むか。かれ答へて言ふ、汝は心を尽し、魂を尽し、力を尽し、汝の思を尽して主たる汝の神を愛すべし、また己のごとくに汝の隣人を愛すべし。イエス言ひ給ふ、これを行へ、さらば生くべし」(ルカ10・25−28)。さて、神を愛し、隣人を愛することは聖言の全部であり、且つ十戒の第一の板は神を愛することに係わる凡ゆる物の大要であり、第二の板は隣人を愛することに係わる凡ゆる物の大要である為、十戒は教義と生活に係わる凡ゆる物を含むことが推論される。この二枚の板は互に関連し、神はその板から人間を見そなわし、人間はその板から神を仰ぎ見、それ故それは相互的なものである。神は人間を見そなわし、人間の救いにかかわる凡ての事を為すことを決してとどめ給はない。而して、若し人間はその板の上に記された律法を受け入れ、之に従うならば、相互的な結合が行われ、主の教法師に対する言は実証されるのである。「是を行へ、さらば汝は活くべし。」

 

 

 

 

13.そのことをその把握したことに応じて行うことによりたわめられる

 

 

天界の秘義2364

 

「あなた方はあなた方の目に良いように彼らに為すことが出来ましょう」。 これは彼らがそれが善から発していることを認めるに応じて楽しむことを意味していることは、記事の連続からのみでなくその言葉の意義からも、即ち、この言葉が『娘』により意味されている情愛について述べられている時のその言葉の意義からさえも認められることが出来るのである。ロトが慎重に身を処したことは、彼が『彼らの方へ出て行って戸の辺りまでも来た』ことにより意味されている(2356番)。 この慎重さは今し方引用した言葉から明白であり、また他にこの節の中に含まれている事柄からも明白である、即ち、それは彼らは善と真理との情愛の祝福を、それが善から発しているに応じて、楽しむに違いないということであって、そのことは彼らが『彼らの目に良いように為すこと』により意味されているのである。それが善から発しているに応じて楽しむことは、ここでは彼らがそれが善であると知るに応じて、を意味しており、たれ一人それよりも更に進むことは求められていないのである、なぜならすべての者はその信仰の善を通して生活〔生命〕の善へ主により向けられており、かくて異教徒は基督教徒とは異なった方法で、単純な者は学問のある者とは異なった方法で、小さな子供たちは大人とは異なった方法で善の方へたわめられる〔向けられる〕からである。その生命に悪を浸透させた者は悪を慎んで善を意図することにより、またそのことをその把握したことに応じて行うことによりたわめられるのである。顧慮されるものは彼らの意図または目的であり、彼らの行為はそれ自身では善くないけれども、それでもそれはその目的から多少の善を、またそこから派生してくる多少の生命を得ており、それが彼らの祝福となるのである。

 

 

 

 

14.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P192

 

だが、まことに言っておく、私を進んで受け入れた者は誰であろうと、私が話している今も、祝福されている、あまりに不思議な仕方で、知識と知恵を私より受けているゆえ、それはまるで聖書を全部読んでしまったかのよう! その人自身 恵みを通して得られる聖なる霊感を自らのうちに携え 声高に話す書物となる。 こうして、我が娘よ、その人は聖書を読むとき、その字づらだけではなく、むしろ、ヴァッスーラ、あなたも経験したように、霊的な目で 内容の深い意味が見えてくる ♡

 

そこで、預言的任務を持ち、声高に話す書物のような我が使者たちには 反対しないように、私がこの者たちを遣わした。 聖書に含まれる以上のものは啓示しないが、あなた方にとっては 道案内。 私のうちなる真のいのちを生きるよう 新しい生き方を手引きする ♡ 人生をよりよくし 希望と慰めを与えて。私は誰であっても 悲惨な存在からカテドラルへと変えられる。

 

裁いてはならない そうするなら私が訪れて 我が言葉を実現しよう。 聖書は、あなたの神なる、私の肖り、だから見くびってはならない そして私を知るに遠く及ばないあなたが 聖書を知っているとは言わないように。私のヴィジョンが見えるように掟を守り、そこに述べたことを果しなさい。 我が言葉を行う霊魂は 私を知るようになろう。 そのとき、そしてそのとき初めて、あなたは決まりによってではなく 私に与って神となる。

 

 

 

 

15.信仰は真理に従って生活することにより形作られる

 

 

真の基督教347

 

「信仰は真理に従って生活することにより形作られる。」何故なら霊的生活は諸真理に従う生活であり、真理は行為の中に示されない限り、真に生きていないからである。行為のない諸真理は、単に思考の問題に過ぎない。もし、それが意志の問題とならないならば、単に人間の内にあるに過ぎず、内的に存在しない。何故なら、意志が真の人間であり、思考はそれが意志と結合するに応じて人間であるから。真理を学び、而もそれに従って生活しない者は、畠に種を播くが、これを杷(さらい)でかいて地に埋める者に似、そのときその種子は雨によって生気を与えられ、熟れて滋養のある穀物になるのである、主は語り給う。「汝らこれらの事を知りて、之を行はば幸福なり」(ヨハネ13・17)。また他の個所には「良き地に播かれしとは、御言を聞きて悟り、また実を結び、行ふ者なり」(マタイ13・23)。更に、「凡て我がこれらの言を聞きて行ふ者を岩の上に家を建てたる慧き人に擬へん。凡て我がこれらの言を聞きて行はぬ者を、沙の上に家を建てたる愚かな人に擬へん」(マタイ7・24、26)。主の御言は凡て真理である。

 

 

 

天界の秘義9780 []

 

 聖言は善の教義であるため、それで聖言が理解されるためには善とは何であるかを知らなくてはならないが、たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らないのである、なぜならたれでも聖言に従って善の中に生きる時、その時主はその者の生命の中へ善を植え付けられ、そこからその者は善を認め、また善を感じ、従って善の性質を把握するのであり、でないと、善は認識されはしないため、現われはしないからである。ここから聖言の中に在るものを単に知って、それがそうであると自分自身に説きつけるのみで、それを行わない者らはいかような状態に在るかを認めることが出来よう。彼らは善を何ら知らず、従って真理も何一つ知ってはいないのである、なぜなら真理は善から知られ、善がないなら他生では死滅してしまうところの生命のない記憶知としてしか知られるに過ぎないからである。

 

 

 

 

16.この信仰はその人間が悪を罪として避けるに比例してのみしか形作られることは出来ない

 

 

スウェーデンボルグ/信仰/27

 

 しかしこれらの知識はすべて、その数はいかほどあろうとも、またその性質はいかようなものであろうと、単に仁慈の信仰が形作られる材料の倉庫にしか過ぎないのであって、この信仰はその人間が悪を罪として避けるに比例してのみしか形作られることは出来ないのである。もし彼が悪を罪として避けるなら、その時はこれらの知識は霊的生命を内に宿した信仰の知識となるのである。しかしもし彼が悪を罪として避けないなら、その時はこれらの知識は知識以外の何ものでもなく、何らかの霊的生命を内に宿している信仰の知識とはならないのである。

 

 

 

 

17.もし彼が生活の点で悪にいるなら、彼はたちまち自分自身をもとの方に向けて

 

 

天界と地獄153

 

悪霊らが時折天界の方位の方へ向いているのが見られ、そうした時彼らは理知を得、また真理も認識するが、しかし善に対する情愛を何ら持っておらず、彼ら自身の方位に向きを変えるや否や、理知にいないで、真理を認識せず、かくして自分らの聞き、また認めた真理は真理ではなくて、誤謬であり、自分たちは誤謬が真理であることを望んでいると言う。私はこの向きについては、以下のように告げられている、すなわち、悪い者にあっては心の知的部分はそのように向けられることも出来るが、しかし意志部分は向けられることは出来ない、これは各々の者が真理を認め、承認することが出来るようにとの目的から主からそのように配慮されているからであるが、しかし真理を受け入れるものは善であって、決して悪ではないため、何人も善にいない限り、真理を受け入れない、人間の場合も、真理により匡正されるためにそれと同じようになってはいるが、それでもその者が善にいない限り、匡正されることは出来ないのである。そうした理由から人間も同じように主に向けられることは出来るが、もし彼が生活の点で悪にいるなら、彼はたちまち自分自身をもとの方に向けて、前にも理解もし、また認めもした諸真理に反した彼の悪の誤謬を確認するのであり、このことは彼がその内的な状態から自分自身の中に考える時に起るのである。

 

 

 

 

18.何人も神を認め、神の誡命に従って生活しない限り、このように考えて、教会の諸真理を認めることは出来ない

 

 

真の基督教402

 

(18)感覚的な物が最後の位置にあるならば、そのことによって理解への道は開かれ、そこから真理が引き出されるが、若し、感覚的な物が第一の位置に置かれるならば、それはその道を閉じ、その人間は諸真理を霧の中に或は夜間見るように見る。賢明な人間にあっては、感覚的な物は最後の位置にあり、高い物に従属するが、然し賢明でない人にあっては、それらは最初の地位にあり、支配的な影響力を持っている。是らの者は、元来、感覚的な人間と呼ばれる。或る感覚的な物は人間と獣とに共通しているが、他は共通しない。人間は感覚的な物を超えて考える限り、人間である。然し、何人も神を認め、神の誡命に従って生活しない限り、このように考えて、教会の諸真理を認めることは出来ない、何故なら、高め、照示する者こそ神にて在すからである。

 

 

 

 

19.理解は知識に応じて高められることが出来るが、意志は教会と宗教との真理に一致した生活によってのみ高められる

 

 

真の基督教507

 

各人の理解はその人の持つ知識に応じて高められることが出来ますが、然し意志は教会と宗教との真理に一致した生活によってのみ高められることが出来ます。これが無神論者がその自己愛によって名声の栄誉と理知の誇りを掻き立てられ、他の多くの者よりも鋭い合理性を持っている理由ですが、然しこれは彼らが理解によって導かれて、意志によって導かれない時のみであります。何故なら意志の愛が内なる人を所有しますが、理解の思考は外なる人を所有するからです。

 

 

 

20.悪い生活をしている者は何事も信じはしない

 

 

天界の秘義6949

 

真理に反抗して誤謬を弁護し、善に反抗して悪を弁護する者はことごとく、約言すると、生命の悪の中にいて、そこから何ら信仰の中にいない者は凡て分離された感覚的なものから考えているのである、なぜなら悪い生活をしている者は何事も信じはしないからである。

 

 

 

 

21.天界は世に生きている間に送る仁慈と信仰の生活〔生命〕により与えられる

 

 

天界の秘義7502〔4〕

 

それが実情であることは何人も啓示によらなくては知ることは出来ないのである、なぜなら人間は他生に存在する事柄は啓示によらなくては知らないのであり、また人間は聖言から信仰に属した諸真理と諸善とを探求しようとは殆ど願っていないため(なぜなら人間は真理を真理自身のために、ましてや生命〔生活〕のためには、何ら愛していないからである)、それでこうした事柄は彼に啓示されていないからであるが、それでもそれは聖言の内意には示されているのである(しかもそれは連続したものと経過との各々の方面でも示されているのである)。それで教会の人間は聖言から真理を知ろうとする情愛を何ら持ってはおらず、ただ世的な理由から、自分自身の教会の教義的な事柄が真であるか、誤っているかを確認しようとする情愛しか持っていないため、彼は死後の状態については何事も全く知らないし、天界についても何事も知らないし、地獄についても何事も知らないし、人間のもとに何が天界を作るかを、また何が地獄を作るかを知りさえもしていないのである。否、人間は甚だしく無知であるため、たれでも天界へ入れられることが出来、或る者はその者がその者自身に僭取している力により、天界へ入れられることが出来、或る者は、自分はいかような生活を送っているにしても、主の慈悲により天界へ入れられることが出来ると、教えもし、信じもしていて、殆どだれ一人、天界は人間にはその者が世に生きている間に送る仁慈と信仰の生活〔生命〕により与えられ、この生命は存続することを知ってはいないのである。こうした事柄を言ったのは信仰のみを告白して、信仰の生活を顧みない教会のそうした人間の性質を明らかにするためである、なぜならこうした者が、ここの、また以下の記事のエジプト人により表象されている者らであるからである。

 

 

 

 

22.仁慈の生活を送った者以外にはたれ一人善の真理と真理の善とを受ける能力を持たない

 

 

天界の秘義8321〔2〕

 

『民』によりここでは善の真理と真理の善とを受ける能力を持っている者たちが意味されているのである、なぜなら『民』は全般的に信仰の真理と善の中にいる者たちを意味し(1259、1260、3295、3581、4619番)、ここでは、イスラエルを、即ち、霊的な教会に属した者たちを意味し、または、それと同一のことではあるが、善の真理と真理の善の中にいる者たちを意味するからである(7957、8234番)。『善の真理と真理の善とを受ける能力を持っている』と言われているのは、仁慈の生活を送った者以外にはたれ一人この能力を持たないからである。この生活がこの能力を与えるのである。仁慈を伴わない信仰がこの性質を与えることが出来ると信じている者は甚だしく誤っている、なぜなら仁慈の無い信仰は頑迷で、抵抗し、主から発している流入をことごとく斥けてしまうが、信仰と共になった仁慈は柔かく、優しく、またその流入を受けるからである。ここから仁慈はこの能力を与えるが、しかし仁慈の無い信仰は与えはしないのである。そして仁慈はこの能力を与えるため、救うのもまた仁慈である、なぜなら救われる者たちはその者自身から仁慈を通して救われるのではなく、主から仁慈を通して救われ、従ってそれを受ける能力を通して救われるからである。

 

 

 

 

23.たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らない

 

 

天界の秘義9780

 

 天的な王国、または天的な教会の善は主に対する愛の善と相互愛の善であり、霊的な王国、または霊的な教会の善は隣人に対する仁慈の善と信仰の善である(9741番)。これらの善とそこから発している真理とは聖言に遍く取り扱われているのである、なぜなら聖言は主に対する愛と隣人に対する愛の教義であるため、善の教義であるからであり(マタイ22・35−40を参照)、善は凡て愛に属しており、信仰の善すらも愛に属しているのである、なぜならこれは愛の善から発生しており、愛の善がなくては発生しないからである。

 

 

 

 

天界の秘義9780 []

 

 聖言は善の教義であるため、それで聖言が理解されるためには善とは何であるかを知らなくてはならないが、たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らないのである、なぜならたれでも聖言に従って善の中に生きる時、その時主はその者の生命の中へ善を植え付けられ、そこからその者は善を認め、また善を感じ、従って善の性質を把握するのであり、でないと、善は認識されはしないため、現われはしないからである。ここから聖言の中に在るものを単に知って、それがそうであると自分自身に説きつけるのみで、それを行わない者らはいかような状態に在るかを認めることが出来よう。彼らは善を何ら知らず、従って真理も何一つ知ってはいないのである、なぜなら真理は善から知られ、善が無いなら他生では死滅してしまうところの生命の無い記憶知としてしか知られるに過ぎないからである。

 

 

 

 

24.学ぶ真理を行うに応じて、合理的なものが開かれる

 

 

天界の秘義5126[2]

 

 子供時代から、青年期の初期にかけて、両親と教師から教えられるのみでなく、また学ぶことにより、似つかわしいことや、民法の要求することや、尊いことを学ぶことにより、内的な自然的なものとの交流が開かれるのである。そして青年期から成人期の初期にかけて、社会的な、道徳的な生活の諸真理と諸善とを学ぶことにより、特に聖言を聞き、また読むことを通して、霊的な生命の諸真理と諸善とを学ぶことにより、自然的なものと合理的なものとの間に交流が開かれるが、しかしその青年がその時真理によって善に沁み込むに応じて、即ち、その学ぶ真理を行うに応じて、合理的なものが開かれるに反し、諸真理によって諸善に沁み込まないに応じて、または諸真理を行わないに応じて、合理的なものは開かれはしないものの、それでもその知識は依然自然的なものの中に、即ち、その記憶の中に残っており、かくていわば家の外側の入口に残っているのである。

 

 

 

 

25.外なる人はその事柄に従った生活により再生する

 

 

天界の秘義8742

 

 人各々内なる人と外なる人とを持っており、内なる人は霊的な人と呼ばれるものであり、外なる人は自然的な人と呼ばれるものである。人間は再生するためにはその二つともが再生しなくてはならない。

 

 

 

天界の秘義8743

 

 再生していない人間のもとでは外なる、または自然的な人が支配して、内なる、または霊的な人は仕えているが、しかし再生している人間のもとでは、内なる、または霊的な人が支配して、外なるまたは自然的な人は仕えている。こうした転倒は主による再生によらなくては決して在り得ないのである。

 

 

 

天界の秘義8744

 

 外なる人が再生していない限り彼は善を凡て快楽に、利得に、誇りに置いて、自分に対抗する者たちに向かっては憎悪と復讐に燃え上がっており、その時はその内なる人は(それに)同意するのみでなく、(それを)確認もし、推進もさせる理由を提供しており、かくて内なる人は仕えて、外なる人は支配しているのである。

 

 

 

天界の秘義8745

 

 しかし外なる人が再生した時は、内なる人は隣人を良く考え、これに良かれと願うことに善のすべてを置き、その外なる人は隣人を良く語って、これに良いことを行うことに善のすべてを置いており、遂にはその各々はその目的として隣人を愛し、主を愛して、前のように自己を愛し、世を愛しはしないのである。

 

 

 

天界の秘義8746

 

 内なる人は先ず主により再生し、後に外なる人が再生するが、外なる人は内なる人によって再生するのである。内なる人は信仰に属した事柄を考えて、それを欲することにより再生するが、外なる人はその事柄に従った生活により再生するのである。信仰の生活が仁慈である。

 

 

 

天界の秘義8747

 

 再生した人間はその内なる人の方面では天界の中にいて、そこの天使であり、天使たちと共におり、死後その天使たちの間にまた来るのである。その時彼は天界の生活を送り、主を愛し、隣人を愛し、真理を理解し、善を楽しみ、そこから祝福を感じるのである。これらのものが永遠の生命の幸福である。

 

 

 

 

26.学んだものは活動させることによって習慣的なものとなり、かくて彼にはいわば生来的なものとなる

 

 

天界の秘義1050[2]

 

人間が幼児の項また子供時代の年月の間に得た無垢、仁慈、慈悲の状態が彼を人間であることが出来るようにすることは以下のことから明白である。即ち、人間は獣とは異なって、生まれても生命を何ら活動させることが出来ないのであって、すべてのことを学ばねばならないのであり、そしてその学んだものは活動させることによって習慣的なものとなり、かくて彼にはいわば生来的なものとなるのである。彼は学ばないうちは歩いたり、話したりすることも出来ないのであり、他の凡てのことも同じである。用いることにより、これらのものは彼にいわば生来的なものとなるのである。彼が同じように幼児の頃から吹き込まれる無垢の、仁慈の、慈悲の状態も同様である―この状態が無いなら彼は獣よりも遥かに卑しいものになるであろう。しかもこれらは人間が学ぶのではなくて、主から賜物として受ける状態であって、主はそれを人間の中に保存されるのである。信仰の諸真理と共に、それらはまた『残りのもの』と呼ばれるものであって、主のみのものである。人間が成人期にこの状態を消滅させるに応じ、彼は死んだものとなるのである。人間は再生しつつある時、これらの状態は再生の始まりであって、彼はその状態の中へ導かれるのである、なぜなら既に述べたように、主は残りのものを通して働かれるからである。

 

 

 

天界の秘義4747[2]

 

教会の中にいて、神的な諸真理[神の諸真理]を、特に以下の諸真理を―主の人間的なものは神的なものであって、仁慈の業が救いに貢献するという真理を―否定して、そのことを確認した者は、もし彼らが教義のみでなく、生活によってもその諸真理を否定して、そのことを確認したなら、その内部の方面では、後になってその諸真理を到底受けるようになることが出来ないような状態に自らを引き下げてしまうのである、なぜなら一度教義により確認されると同時に生活によっても確認されたものは永久に止まるからである。人間の内的な状態を知らない者はたれでも、いかほどこれらの真理を否定してそのことを確認したにしても、後で説得されさえするなら、尚容易にそれを受けることが出来ると想像するであろう。しかしそのことが不可能であることを私は他生におけるこのような人物に関係した多くの経験から知ることが出来たのである。なぜなら何であれ教義により確認されたものはことごとく知的な部分により吸収され、生命[生活]により確認されたものは意志の部分により吸収されるのであり、人間の両方の生命の中に、即ちその理解の生命と意志の生命の中に植え付けられたものは引き抜かれることは出来ないからである。死後生きる人間の霊魂そのものはそのものにより形作られるのであり、それはそこから決して後退しないような性質を持っているのである。これがまた教会の中にいて、そのことが現実となっている者たちの運命が教会外にいる者の運命よりも悪くなっている理由である、なぜなら教会外にいて、異邦人と呼ばれている者たちは、これらの真理を知っていないため、それらを否定して、そのことを確認はしていないからであり、それで彼らの中で相互愛に生きた者たちは、神的な真理を、この世でないなら、他生で容易に受け入れるからである。(他生における異邦人と他の人々との状態と運命については経験から引照したことを参照されたい、2589−2604番)。

 

 

 

 

27.生活が悪と虚偽との上に基礎づけられている者は、凡て善と真理とは何であるかを知ることが出来ない

 

 

真の基督教398(9)

 

その生活が悪と虚偽との上に基礎づけられている者は、凡て善と真理とは何であるかを知ることが出来ない、それは彼は彼の悪が善であり、彼の虚偽が真理であると信ずる故である。然しその生活が善と真理とに基礎づけられている者は、何が悪と虚偽であるかを知ることが出来る。何故なら、善と真理とは凡て、本質的に天界的のものであり、悪と虚偽とは凡て本質的に地獄的のものであり、天界的な凡ゆる物は光の中にあるに反し、地獄的な凡ゆるものは暗黒の中にあるからである。

 

 

 

 

28.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ/1989.5.6

 

大鷲とは神のみことばです。特にわたしの子イエズスの福音書に含まれているみことばです。

四福音書の中で鷲は聖ヨハネによる福音書を示しています。なぜなら、聖ヨハネは他の三人よりも高くとび、聖三位一体の真髄にまで入りこんで、みことばの神性と永遠性がおん父と同じ本性であることを示し、イエズス・キリストの神性を力づよく断言しているからです。

 

鷲の二つの翼とは何でしょう―それは、信仰によって受け入れられ、愛され、守られる神のみことばです。すなわち、恵みと愛徳をもって生活に移された神のみことばです。

信仰と愛徳との二つの翼、すなわち、わたしが受け入れ、生きてきた神のみことばのおかげで、わたしに対してなされるすべての攻撃の水の川の上に、わたしは飛ぶことができたのです。

わたしのまことの偉大さを世に示したからです。

 

 

 

29.この結合は、神的な真理とこれに従う生活とによって行われ、聖餐がそれを確実なものにする

 

 

真の基督教706

 

この結合は、教会に知られているように、神的な真理とこれに従う生活とによって行われ、聖餐がそれを確実なものにするのである。

 

 

 

 

30.それでもその人間はそれらのもの(真理)に従って行きない中は連結は存在しない

 

 

天界の秘義3843

 

人間の状態を知らない者は、外なる真理のみでなく内なる真理を充分に知る時、またはその両方のものを記憶の中に貯える時、両方の種類のものと連結することが出来ると信じるかもしれない。それでもその人間はそれらのものに従って生きない中は連結は存在しないのである、なぜなら生命[生活]がその連結を示すからである。

 

 

 

天界の秘義3843[2]

 

 この点では真理は人間の中に子供時代から植え付けられる他の凡ゆるものに似ているのである、すなわち、それはかれがそれに従って行動しない中はかれのものとはならず、しかもそのことが情愛から発していない中はかれのものとはならないのであり、そうした場合かれが真理に従って生き、しかもそれが情愛から発している場合かれの意志はその真理に浸透されるようになり、そのときは真理はもはや記憶知または教義から行動に移されるのではなくて、かれには知られていない或る種の歓喜から、いわばかれの気質または性質から行動に移されるのである、なぜなら人間は各々ひんぱんな使用または習慣からこのような性質を自分自身で獲得し、しかもそれがかれの学んだ事柄から発するからである。それで真理と連結することは人間が教義より学んだ事柄が外なる人から内的な人へ導き入れられない中はその人間のもとに起らないのである。その学んだ事柄が内的な人の中に存在するとき、その人間はもはや記憶からは行動しないで、その者自身の性質から行動するのであり、ついにはこのようにして導き入れられた事柄はその人間の内的な記憶に刻みつけられて、自発的に流れ出て、行動となり、そこから出てくるものは恰も生来のものであるかのように見えるのである。このことは人間が子供時代に学んだ言語から、また推理能力から、同じくまた良心からも認めることができよう。ここから教義の諸真理は、その内的なものであるものさえも、それらが生命[生活]のものとならない中は人間に連結しないことが明らかである。しかしこれらの事柄については、主の神的慈悲の下にさらに他の所に述べることにしよう。

 

 

 

31.二人の証人

 

 

啓示による黙示録解説

黙示録11・3

『わたしはわたしの二人の証人に与え』は、主は天と地の神であられ、その人間的なものは神的なものであることを告白し、心で承認し、十戒の教えに従った生活によって主に連結している者たちを意味している(490番)。 『彼らは一千二百(六十)日予言するであろう』は、この二つの項目、即ち、新しい教会の二つの本質的なものであるところの、主を承認することと十戒の戒めに従って生きることは、終わりと初めまで教えられなくてはならないことを意味している(491番)。 『麻布を着て』は、その間真理が受け入れられぬために嘆き悲しむことを意味している(492番)。

 

 

黙示録11・4

『これらは地の神の前に立っている二本のオリーブの木であり、二つの燭台である』は、彼らにおける主から発した愛と理知、または仁慈と信仰とを意味している(493番)。 

 

 

黙示録11・5

『もしたれかが彼らを害しようとするなら、火が彼らの口から発して、その敵を焼き尽くすであろう』は、新しい教会のこの二つの本質的なものを破壊しようと欲する者らは奈落の愛のため死滅するであろう、を意味している(494番)。 『もしたれかが彼らを害しようと欲するなら、彼はこのように殺されねばならない』は、彼らを罪に定める者は同じように罪に定められるであろう、を意味している(495番)。

 

 

黙示録11・6

『これらの者はその予言の日に雨が降らないように、天を閉じる力を持っている』は、この二つの本質的なものに面を背ける者らは天界からいかような真理も受けることは出来ないことを意味している(496番)。 『また彼らは水を治めて、それを血に変える力を持っている』は、その二つの本質的なものに面を背ける者らは聖言の意味を誤謬化してしまうことを意味している(497番)。 『その欲する度毎に、またそれを欲する災いをもって地を打つ』は、それらを破壊しようと欲する者らは、それを欲する度毎に、またそれを欲する程度に応じて、その者ら自身を凡ゆる種類の悪と誤謬とに投げ込むであろう、を意味している(498番)。

 

 

黙示録11・7

『彼らがその証を終えた時』は、主が新しい教会のその二つの本質的なものを教えられた後で、を意味している(499番)。 『深淵から上ってくるその獣は彼らと戦って、彼らに勝ち、彼らを殺すであろう』は、信仰のみの教義の内なるものの中にいる者らは二つのものを斥けるであろう、を意味している(500番)。

 

 

 

 

32.人々のあいだに共に立ち交じろう

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P45

反キリストの軍隊はすでに行動を開始している。

‘44年8月5日

 

わたしのことを怖がってはならない。わたしがあなたたちに姿をあらわすのは、あなたたちを高めるためであって、あなたたちを灰に帰するためではない。立ち上がりなさい。恩恵を受けるよろこびがあなたたちに生きる力を与えるように。わたしがあなたたちに天を示したからといって、もうそれで救われたと思いこみ、無気力な麻痺状態に沈みこんではならない。人々のあいだに共に立ち交じろう。わたしはあなたたちが、わたしにとってより大きな助けとなるように、超人的なヴィジョンと教えとを用いて、あなたたちを超人的なわざにいざなったのだ。わたしはあなたたちを、わたしのわざに参与させるのだ。

 

 

 

 

33.彼がそれらを実践し、行う時に初めてそれらは人間の中に永続的なものとなって、彼の生命の一部となる

 

 

神の愛と知恵216

 

 天使たちの知恵に従えば、仁慈と信仰と同じく意志と理解は、即ち、情愛と思考はそれ自身に業または行為を着け、またまとうことが出来る時には常に、それを着け、またはまとわない限り、それらは単に消えて行く空気のような物または死滅してしまう空中の妖怪のようなものに過ぎず、彼がそれらを実践し、行う時に初めてそれらは人間の中に永続的なものとなって、彼の生命の一部となるのである。その理由は最も外なるものは先在的なものの合成体、容器、基底であるということである。が、そうした空気のような無意味なものとそうした妖怪は良い業から分離した信仰である、実践の伴わない信仰と仁慈もまたそのようなものであるが、ただ信仰と仁慈もまたそのようなものであるが、ただ信仰と仁慈とを固執する者は何が善であるかを知って、それを為そうと欲することが出来るが、しかし仁慈から分離した信仰にいる者は何が善であるかを知らず、それを為そうと欲することが出来ないという相違がある。

 

 

 

 

34.第三の度が開かれる

 

 

神の愛と知恵237

 

縦のこの三つの度は(232に示されたように)自然的な度、霊的な度、天的な度と呼ばれている。人間は生まれると、先ず自然的な度に入り、この度は、知識に応じ、また知識により獲得されて、合理的なものと呼ばれる理解の最高点にまでも至る理解に応じて、連続的に人間の中に成長する。しかも霊的な度と呼ばれる第二の度はこの手段によっては開かれない。その度は理解した物に従って用を愛することにより開かれるが、しかしそれは隣人に対する愛であって、用に対する霊的愛である。この度も連続した度により同じくその頂点までも成長することが出来、それは真理と善との知識により、即ち、霊的真理により成長する。しかもこうした真理によってさえも天的度と呼ばれる第三の度は開かれない、なぜならこの度は主に対する愛であるところの、用に対する天的愛により開かれ、そして主に対する愛は聖言の教訓を生活に移す以外の何物でもなく、その要点は悪は地獄のもの、悪魔のものであるため、そこから逃れることであり、また善は天界のもの、神的なものであるため、それを行うということである。この方法によりこの三つの度は継続的に人間の中に開かれるのである。

 

 

 

 

35.聖言の教理とそれに応じた生活とが結合する時、愛と知恵は天界と教会の中に、また天界の天使と教会員の中に一つのものとなる

 

 

神の摂理8(ヘ)

 

意志と理解または善と真理が結合する時、或いは、それと同じく、仁慈と信仰が結合する時、或いは更にそれと同じく、聖言の教理とそれに応じた生活とが結合する時、愛と知恵は全般的に天界と教会の中に一つのものとなり、また天界の天使と教会員の中に一つのものとなる