二つの本質的なもの

 

 

 

人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない(ヨハネ3・3)

生活によってのみ行われる

行う

 

 

 

1.神に対する信仰と悪を神に背くものとして避けること

2.宗教の本質的なものと普遍的なものである二つの物、即ち、神に対する信仰と悔改め

3.主のみもとのみへ来て、その戒めに従って生きる者

4.主のみが天地の神であられ、その人間的なものは神的なものであられ、人間は十戒の教えに従って生活しなくてはならないという、新しい教会の二つの本質的なもの

5.主を信じて、聖言における主の戒めに従って生きる者

6.十誡の二枚の板石

 

 

 

 

 

1.神に対する信仰と悪を神に背くものとして避けること

 

 

神の摂理328(ニ)

 

「にも拘らず主は凡ての者が救われるように配慮されている」。

 

 凡ゆる所に何らかの宗教が存在し、宗教は凡て救いの二つの本質的なものを、すなわち、神に対する信仰と悪を神に背くものとして避けることを教えるように主により配慮されている。理解に属し、従って思考に属し、信仰と呼ばれている他の凡ての物が凡ての者にその生活に応じて提供されている。何故なら信仰は生活の事柄であるから。信仰が生活の事柄とならない中は、例えそれがその前に得られたとしても、それは真に生きたものとはならない。また善良な生活を送り、神を信じた者は凡て死後天使により教えられるように定められており、世で宗教のこの二つの本質的なものに従って生きた者は聖言に含まれた教会の真理をその時受け入れ、主を天界と教会の神として承認する、彼らは主の人間性はその神性から分離しているという考えを世から抱いて行った基督教徒よりも容易にそのことを信じる。

 

 

 

 

2.宗教の本質的なものと普遍的なものである二つの物、即ち、神に対する信仰と悔改め

 

 

使徒言行録20・21

 

 神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシャ人にも力強く証ししてきたのです。

 

 

 

 

神の摂理340[4]

 

(イ)「瞬間的な救いを信じる信念により宗教が廃棄される」。

 

宗教の本質的なものと普遍的なものである二つの物、即ち、神に対する信仰と悔改めがある。それは二つとも、人間はどのような生活をしようとも、慈悲のみにより救われると信じる者には無意味である。なぜならそこには『嗚呼、神よ、私を憐みたまえ』と言う以外に何を為す必要があろうか。他の凡ての宗教的な事柄については彼らは暗闇におり、実に彼らは暗闇を愛している。神を信じる信仰である教会の最初の本質的なものについては、彼らは単に『神とは何か、たれが神を見たか』と考えるに過ぎない。もし彼らは神は存在し、一人であられると告げられるなら、その一人であることに同意する。しかし三人の神がいると告げられるなら、それに同意するが、しかしその三人の神は一人の神と呼ばれねばならぬと言う。これが彼らの神を信じる信仰の考えである。悔改めという教会の第二の本質的なものについては彼らは決して考えず、それで罪については考えず、遂にはそうした物があることも知らなくなり、かくて、『基督教徒は律法の軛の下にいないから、律法により罰せられはしない、ただ、神よ、私を御子のゆえに憐み給えと言うのみで、救われるであろう』という保証を喜んで聞き、それを熱心に吸収する。これが生活の悔改めについての彼らの考えである。しかし悔改めを取り去られよ、または、それと同様に、宗教から生活を切り離されよ、さすれば、『私を憐み給え』という単なる言葉以外に何が残るであろうか。従ってこうした人間はその言葉を死ぬ前でないなら、死ぬ頃にでも口に出すことにより救いは瞬間的に与えられると考えざるを得ないのである。それで聖言は彼らには、いわばほら穴の祭壇から聞こえてくる判然としない曖昧な宣言または偶像の託宣から聞こえてくる意味不明な応唱でなくて何であろう。約言すれば、もし悔改めを取り去るなら、すなわち、宗教から生活を切り離すなら、人間は奈落の火に燃える悪または教会の飛びかける火の蛇でなくて何であろう。なぜなら悔改めなくしては人間は悪におり、悪は地獄であるから。

 

 

 

 

3.主のみもとのみへ来て、その戒めに従って生きる者

 

 

結婚愛336(3)

 

「この凡ては主のみから与えられなくては与えられることは出来ない。それでそれは主のみもとのみへ来て、その戒めに従って生きる者以外の者には与えられない」。このことは前の多くの所で示した。これにこの凡ての福祉、満足、歓喜は主のみから与えられることが出来るため、その理由から他の何者にも近づいてはならないことを付け加えなくてはならない。

 作られたものはすべてかれから作られた(ヨハネ1・3)

からには、

かれは天と地の神であられる(マタイ28・18)

からには、

かれによらなくては、たれも父なる神の御形を未だ見たこともなく、その御声を聞いたこともない(ヨハネ1・18、5・37、14・6−11)

からには、他の何人でありえようか。

 聖言のこれらの記事と他の非常に多くの記事から愛と知恵、または善と真理との結婚は―そこからのみ結婚はその起原を得ているのであるが―かれのみから発していることは明らかである。ここからかれに来る者以外のたれにもその愛はその幸いと共に与えられないことが生まれており、主の戒めに従って生きる者に与えられるのは、その者に主は愛により連結されるからである(ヨハネ14・22−24)。

 

 

 

 

4.主のみが天地の神であられ、その人間的なものは神的なものであられ、人間は十戒の教えに従って生活しなくてはならないという、新しい教会の二つの本質的なもの

 

 

啓示による黙示録解説上巻P599

 

霊的意義

全章(第11章)の内容。

 それは依然、改革派の者らの間の教会の状態を、以下の方面で取り扱っており、即ち、主のみが天地の神であられ、その人間的なものは神的なものであられ、人間は十戒の教えに従って生活しなくてはならないという、新しい教会の二つの本質的なものに反して、内的に信仰のみの中にいる者らの性質の方面を取り扱っている。この二つの本質的なものが彼らに宣べ伝えられた(3−6節)。しかしそれらは全く斥けられた(7−10節)。それらは主によりよみがえされた(11,12節)。それらを斥けた者らは滅んだ(13節)。新しい教会の状態が新しい天界から明らかにされた(15−19節)。

 

 

 

啓示による黙示録解説

 

黙示録11・3

『わたしはわたしの二人の証人に与え』は、主は天と地の神であられ、その人間的なものは神的なものであることを告白し、心で承認し、十戒の教えに従った生活によって主に連結している者たちを意味している(490番)。 『彼らは一千二百(六十)日予言するであろう』は、この二つの項目、即ち、新しい教会の二つの本質的なものであるところの、主を承認することと十戒の戒めに従って生きることは、終わりと初めまで教えられなくてはならないことを意味している(491番)。 『麻布を着て』は、その間真理が受け入れられぬために嘆き悲しむことを意味している(492番)。

 

 

 

黙示録11・4

『これらは地の神の前に立っている二本のオリーブの木であり、二つの燭台である』は、彼らにおける主から発した愛と理知、または仁慈と信仰とを意味している(493番)。 

 

 

 

黙示録11・5

『もしたれかが彼らを害しようとするなら、火が彼らの口から発して、その敵を焼き尽くすであろう』は、新しい教会のこの二つの本質的なものを破壊しようと欲する者らは奈落の愛のため死滅するであろう、を意味している(494番)。 『もしたれかが彼らを害しようと欲するなら、彼はこのように殺されねばならない』は、彼らを罪に定める者は同じように罪に定められるであろう、を意味している(495番)。

 

 

 

黙示録11・6

『これらの者はその予言の日に雨が降らないように、天を閉じる力を持っている』は、この二つの本質的なものに面を背ける者らは天界からいかような真理も受けることは出来ないことを意味している(496番)。 『また彼らは水を治めて、それを血に変える力を持っている』は、その二つの本質的なものに面を背ける者らは聖言の意味を誤謬化してしまうことを意味している(497番)。 『その欲する度毎に、またそれを欲する災いをもって地を打つ』は、それらを破壊しようと欲する者らは、それを欲する度毎に、またそれを欲する程度に応じて、その者ら自身を凡ゆる種類の悪と誤謬とに投げ込むであろう、を意味している(498番)。

 

 

 

黙示録11・7

『彼らがその証を終えた時』は、主が新しい教会のその二つの本質的なものを教えられた後で、を意味している(499番)。 『深淵から上ってくるその獣は彼らと戦って、彼らに勝ち、彼らを殺すであろう』は、信仰のみの教義の内なるものの中にいる者らは二つのものを斥けるであろう、を意味している(500番)。

 

 

 

啓示による黙示録解説876

 

その天界には同じくキリスト教徒の凡ゆる幼児たちがいる、なぜなら彼らは主を天地の神として承認し、十戒の戒めに従って生きるという、その教会のかの二つの本質的なものを天使たちから教えられるからである。

 

 

 

 

5.主を信じて、聖言における主の戒めに従って生きる者

 

 

啓示による黙示録解説925

子羊の生命の書に記された者(のみが入るであろう)」は、主を信じて、聖言における主の戒めに従って生きる者を除いては何人も新しいエルサレムである新しい教会には受け入れられはしないことを意味している。このことが『生命の書に記されること』により意味されていることは前に見ることができよう(874番)、これにさらに何かをここに附加する必要はない。」

 

 

 

 

6.十誡の二枚の板石

 

 

神の摂理329[4]

 

「かくて凡ての者は天界に行くように意図され、何人も地獄に行くようには意図されていない」。

 

主は何人も地獄に投げ込まれず、霊が自分自身をそこに投げ込むことは、「天界と地獄」を取扱った著作に示されている(545−550)。これが死後の凡ての邪悪な神の無い人間の実情であり、また彼が世にいる間の実情である。しかし彼は世では改良されることが出来、救いの手段を抱いて、それを自分のものとなることが出来るが、この世を去った後は、それが不可能となるという相違がある。救いの手段は、悪は十誡の神の律法に反するものとして避けねばならない、神の存在を承認しなくてはならないというこの二つの真理にかかっている。この二つの事は凡ての人間に、もしその者が悪を愛さないならば、可能である。なぜなら主は絶えず彼の意志に流れ入られて、彼に悪を避ける力を与えられ、その理解に流れ入られて、彼に神の存在を信じる力を与えられるからである。しかし何人もその一方を為さないならば、他方をまた為すことは出来ない、両者はその一枚は主に、他の一枚は人間に関連している十誡の二枚の板石のように結合している。主は御自身の板石により凡ての人間を明るくされ、これに力を与えられ、人間は自分自身の板石の誡命に従うに応じて、その力と明るくされることを受ける。それ以前は二枚の板石は恰も一枚が他の一枚の上におかれて、封印されているように見えるが、人間が自分自身の板石の命令に従うに応じて、封印をとかれて、開かれるのである。現在十誡は、単に子供と少年の用のためにのみ開かれるところの、閉じられた書物または文書以外の何であろう。少し年をとった誰かに、『これをしてはいけない、それは十誡に反するから』と言っても、彼はこれを聞くであろうか。しかしもし、『これをしてはいけない、それは神の律法に反するから』と言うなら、彼は聞くかもしれない。しかし十誡は神の律法そのものである。霊界で多くの者が試みられたが、十誡または信仰問答書(カテキズム)のことが言われると、彼らはそれを軽蔑して斥けたのである、その理由は十誡は人間の板石であるその第二の板石で、悪は避けねばならないことを教えているということであった。人間は不敬虔からか、または業には些かの効力もなく、信仰のみが有効であるという教義的な信仰からか、その何れかから、悪を避けそこなうとき、彼は十誡または信仰問答書のことが言われると、それを恰もそれは子供たちの書物であって、自分には何の益ももたらさないかのように、軽蔑するのである。これらの事を記したのは、救われようと欲する者は誰でも、その救われることの出来る手段の知識も、またその力も欠いてはいないことを示すためである。それ故人間は凡て天界へ入るように定められていて、何人も地獄へ入るように定められているいないことが推論される。しかし[或る者は]救われないように、または地獄に堕ちるように定められているという信念を抱いている者もあるので、そしてこの信念は有害であり、理性によってその狂気と残酷さとが明らかにされないかぎり、追い払うことが出来ないので、これを以下のように取扱わなくてはならない、

(イ)天界以外のものへ予定されることは神的愛の無限に反する。

(ロ)天界以外のものへ予定されることは神的知恵の無限に反する。

(ハ)教会内に生まれた者のみが救われると想像することは狂った異端である。

(ニ)人類の何人かは堕地獄に予定されているような予定の信仰は如何に有害であるかを示すため、この4つの見解を順次取り上げて、説明しなくてはならない。