パウロは信仰義認説ではない

 

 

律法戒め/

十戒(出エジプト20)

行う行為・運動

信仰感覚的

 

 

 

 

 

1.聖書・・・パウロ書簡における信仰義認のように見受けられる箇所

2.パウロ書簡における信仰義認を否定している箇所(行いを言っている箇所)

3.その他の使徒書簡

4.律法は十誡を、更に広い意義ではモーゼによってイスラエルの子らに与えられた教令を、最も広い意義では聖言の全部を意味している

5.現今の教会は信仰を仁慈から切り離し、信仰のみが律法の行為なくして義とし、且つ救うと主張している。こうした考えは、使徒たちの書簡によって明白であるように、如何なる使徒たちの心にも決して入らなかった

6.「されば我らは人間は律法の業無くして信仰によりて義とせらるるなりと結論す」とのパウロの言葉(ロマ3・28)は誤解されている

7.スウェーデンボルグは霊界で一つは山羊、他は羊の、二つの群れを見た

8.信仰のみは、即ち、信仰は律法の業なしに義とし、救うという教義は、聖言から発してはおらず、パウロのただ一つの表現を誤って理解したことから発している

9.誤解されたパウロのただ一つの言葉にのみ神学を基礎づけ、それでそれは主が愛と仁慈とについて、善い業について教えられた凡ゆる事柄を無視している

10.業のない信仰のみは死んだものであることは、ヤコブ書(ヤコブ2・17、20)に明白。パウロも同じことを言っている(ローマ2・13)

12.パウロは信仰と希望と仁慈の三つのものがあり、その中最大なるものは仁慈であると語って(コリント前13・13)仁慈を信仰の上に置いている

13.真の基督教338

パウロの引用文(ロマ3・28)の「信仰」はその書簡の後続の部分から、またガラテヤ書の類似の記事(2・14、15)から明白であるように、父なる神に対する信仰ではなく、子なる神に対する信仰を意味し、「律法の行為」は十誡の行為ではなく、ユダヤ人に与えられたモーゼの律法の行為を意味している

14.誤って解釈されたこのただ一つの記事によりいかような盲目が生まれているか

15.信仰とは真実を行うこと

 

 

 

1.聖書・・・パウロ書簡における信仰義認のように見受けられる箇所

 

 

使徒言行録13・38−39

 

だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。

 

 

 

ローマ3・20

 

なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。

 

 

 

ローマ3・22

 

すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。

 

 

 

ローマ3・26

 

イエスを信じる者を義とされるためです。

 

 

 

ローマ3・27

 

では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。

 

 

 

ローマ3・28

 

なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。

 

 

 

ローマ3・29−30

 

それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。

 

 

 

ローマ4・1−3

 

では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」とあります。

 

 

 

ローマ4・4−11

 

ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。

「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。」

では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。どのようにして認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも割礼を受ける前です。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証として、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。

 

 

 

ローマ4・24−25

 

わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。

 

 

 

ローマ9・30

 

では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。

 

 

 

ローマ10・9−10

 

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

 

 

 

ガラテヤ2・16

 

けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。

 

 

 

ガラテヤ2・21

 

もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

 

 

 

ガラテヤ3・2

 

あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。

 

 

 

ガラテヤ3・5−7

 

あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。

 だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。

 

 

 

ガラテヤ3・7−11

 

 だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。律法の実行い頼る人はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。

 

 

 

テトス3・4

 

しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行なった義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注ぎいでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。

 

 

 

ヘブライ7・18−19

 

その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。―律法が何一つ完全なものにしなかったからです。

 

 

 

ヘブライ9・9−10

 

この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。

 

 

 

ヘブライ10・1−4

 

 いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。

 

 

 

 

2.パウロ書簡における信仰義認を否定している箇所(行いを言っている箇所)

 

 

ローマ2・6−9

 

神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行ない、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシャ人にも苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシャ人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。

 

 

 

ローマ2・13

 

律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。

 

 

 

ローマ2・19−21

 

また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。

 

 

 

ローマ2・25

 

あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。

 

 

 

ローマ3・31

 

それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無視するのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。

 

 

 

ローマ6・15

 

では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。

 

 

 

ローマ13・8

 

 互に愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

 

 

 

コリント1、13−13

 

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中でも最も大いなるものは、愛である。

 

 

 

コリント1、7・19

 

割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。

 

 

 

コリント2、5・10

 

なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

 

 

 

コリント2・11・15

 

彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。

 

 

 

ガラテヤ5・6

 

キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

 

 

 

ガラテヤ5・13−14

 

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

 

 

 

ガラテヤ6・9

 

たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。

 

 

 

テトス1・16

 

こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。

 

 

 

テトス2・6−7

 

同じように、万事につけ若い男には、思慮深くふるまうように勧めなさい。あなた自身、良い行いの模範となりなさい。教えるときには、清廉で品位を保ち、非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。そうすれば、敵対者は、わたしたちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。

 

 

 

テトス2・11−13

 

 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現われを待ち望むように教えています。

 

 

 

テトス3・1

 

 人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。

 

 

 

テトス3・8

 

この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。

 

 

 

ヘブライ10・16

 

「『それらの日の後、わたしが彼らと結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。

『わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつけよう。もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」

 

 

 

ヘブライ10・24

 

互に愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。

 

 

 

ヘブライ10・36

 

神の御心を行なって約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。

 

 

 

ヘブライ11・33

 

信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されてものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。

 

 

 

ヘブライ12・4

 

あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまでに抵抗したことがありません。

 

 

 

ヘブライ12・14

 

 すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。

 

 

 

ヘブライ13・9

 

食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。

 

 

 

ヘブライ13・16

 

善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。

 

 

 

ヘブライ13・20−

 

永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。

 

 

 

 

3.その他の使徒書簡

 

 

ヤコブ2・14−26

 

わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

 

 

 

ヤコブ2・14−18

 

わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。

 

 

 

ヤコブ2・20−24

 

ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが神の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。

 

 

 

ヤコブ2・26

 

魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

 

 

 

ペトロ1、1・17

 

また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。

 

 

 

ペトロ2・3・16

 

彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には理解しにくい箇所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。

 

 

 

ヨハネ1・2・3−4

 

わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。

 

 

 

ヨハネ1・2・17

 

世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行なう人は永遠に生き続けます。

 

 

 

ヨハネ1・3・12

 

カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか、自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。

 

 

 

ヨハネ1・3・12

 

兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。

 

 

 

ヨハネ1・3.18

 

子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。

 

 

 

ヨハネ1・4・1

 

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。

 

 

 

ヨハネ1・4・20

 

「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

 

 

 

ヨハネ1・5・3

 

神を愛するとは、神の掟を守ることです。

 

 

 

ヨハネ3・11

 

愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。善を行う者は神に属する人であり、悪を行う者は、神を見たことのない人です。

 

 

 

 

4.律法は十誡を、更に広い意義ではモーゼによってイスラエルの子らに与えられた教令を、最も広い意義では聖言の全部を意味している

 

 

真の基督教288

 

聖言には律法がしばしば記されている。我々は今やこれが厳密な意義において、また更に広い意義において、更に最も広い意義において何を意味しているかを述べてみよう。厳密な意義では、律法は十誡を、更に広い意義ではモーゼによってイスラエルの子らに与えられた教令を、最も広い意義では聖言の全部を意味しているのである。

 

厳密な意義では、律法は十誡を意味することは良く知られているが、しかし、更に広い意義ではモーゼによりイスラエルの子らに与えられた教令を意味していることは、レビ記の特殊の教令がそのように呼ばれていることによって明白である。例えば、「これは犠牲の律法なり」(レビ7・1)。「これは平和の捧げものの犠牲の律法なり」(レビ7・11)。「これは肉の捧げものの律法なり」(レビ6・9等)。「これは燔祭、肉の捧げもの、罪祭、愆祭(けんさい、罪過のための捧げもの)、任職祭の律法なり」(レビ7・37)。「これは獣と鳥の律法なり」(レビ11・46)。「これは息子或は娘を生みし女の律法なり(レビ12・7)。「これは癩病の律法なり」(レビ13・59、14・2、32、54、57)。「これは流出ある者の律法なり」(レビ15・32)。「これは嫉妬の律法なり」(民数5・29)。「これはナザレ人の律法なり」(民数6・13、21)。「これは潔めの律法なり」(民数19・14)。「これは赤き若牝牛にかかわる律法なり」(民数19・2)。「王に対する律法」(申命17・15−19)。

 

実に、モーゼの全著作が律法と呼ばれている(申命31・9、11、12、26)。新約聖書もまた同様である(ルカ2・22、24・44、ヨハネ1・45、7・23、8・5その他)。

 

パウロは人間は律法の業なくして義とせられると語る時(ロマ3・28)また如何なる人間も律法の業によっては義とされないことを三度、一節の中に語って、ぺテロのユダヤ教化を責める時は(ガラテヤ2・16)それらの教令を律法の業と呼んでいるのである。

 

律法はその最も広い意義では、聖言の全部を意味することは以下の記事によって明白である。「イエス言い給いけるは、汝らの律法に、汝らは神なりと録されたるにあらずや」(ヨハネ10・34)。これは詩篇82・6に記されている。「人々彼に答ふ、我らは律法によりて基督は永遠に存(ながら)え給うと聞きたり」(ヨハネ12・34)。これは詩篇89・29、110・4、ダニエル7・14にある。「彼らの律法に、人々故なくして我を憎めりと録されたる言の成就せんために」(ヨハネ15・25)。これは詩篇35・19に見られる。「パリサイ人言う、司たちの中にて一人だに彼を信ぜし者ありや、律法を知らぬこの群衆は詛(のろ)われしものなり」(ヨハネ7・48、49)「律法の一劃(いっかく)の落つるよりも天地の過ぎ往くは易し」(ルカ16・17)。この律法また詩篇の幾多の記事の律法は全聖書を意味している。

 

 

 

 

5.現今の教会は信仰を仁慈から切り離し、信仰のみが律法の行為なくして義とし、且つ救うと主張している。こうした考えは、使徒たちの書簡によって明白であるように、如何なる使徒たちの心にも決して入らなかった

 

 

真の基督教355

 

現今の教会は信仰を仁慈から切り離し、信仰のみが律法の行為なくして義とし、且つ救うと主張している。それは信仰は神から来たり、仁慈は実際の行為では人間から来る故、仁慈は信仰と結合することは出来ないと主張する。こうした考えは、使徒たちの書簡によって明白であるように、如何なる使徒たちの心にも決して入らなかった所である。この信仰と仁慈との分離は基督教会が神を三人格に分割し、各人格に平等の神性を帰した時、彼らの中に導き入れられたのである。

 

 

 

 

6.「されば我らは人間は律法の業無くして信仰によりて義とせらるるなりと結論す」とのパウロの言葉(ロマ3・28)は誤解されている

 

 

真の基督教506(4)

 

私は霊界に山羊の一群を見、私は彼らは誰であろうかと怪しんだ、何故なら霊界の動物はそこに現在居る者たちの情愛と思考の相応以外の何物でもないことを私は知っていたからである。そこで私は近づいて行った、すると動物は消え、代って人間が見えた。そして私は山羊の群れは信仰のみによる義認の教えを確信した者たちを表し、羊の群れは善と真理とは一つであるように、仁慈と信仰は一つであることを信じている者たちを表していることを告げられたのである。

 

 それから私は山羊のように見えた者たちに向って語った。「何故あなた方はこのように集まっておられるのですか」彼らの大半は教職者であり、信仰のみによる義認の秘義に通じていたため、学問の栄誉を持っていた。彼らは会議を開き、以下の一節の意味を検討するために集まったのであると答えた。

 

「されば我らは人間は律法の業無くして信仰によりて義とせらるるなりと結論す」とのパウロの言葉(ロマ3・28)は誤解されているのである。何故ならこの記事の信仰は永遠よりの三人の神的人格に対する信仰である現代の教会の信仰を意味するものではなく、主なる神救い主なるイエス・キリストに対する信仰を意味し、律法の業とは十戒に言及するものではなく、ユダヤ人に特有なモーゼの律法に言及しているからである。かくてこれらの僅かな言葉から二つの奇怪な誤謬が生まれた、その一つはパウロはこの記事では現代の教会の信仰を意味するという誤謬、他は彼は十戒の律法の業を意味するという誤謬である。しかしパウロは十戒の業ではなくユダヤ人に特有なモーゼの律法を意味したのであった、それはペテロに対する彼の言葉により明白であり、彼はペテロがユダヤ教化して、「人は律法の業によりて義とされず、イエス・キリストを信ずる信仰によりて義とさるるなり」(ガラテヤ2・16)を忘れたことに就いて非難したのであった。

 

イエス・キリストの信仰とは彼に対するまた彼から発する信仰を意味するのである。而して律法の行為はモーゼの律法に言及するためパウロは信仰の律法と業の律法を、ユダヤ人と異邦人を、あるいは割礼と無割礼を区別した―割礼は常にユダヤ教主義を意味している。さらに彼はこの問題を以下の言葉「我ら信仰をもて律法を空しくするか、決して然らず、かえって律法を堅くするなり」(ロマ3・27−31)を以って結んでいる。

 

彼はまた前章に、「律法を聞く者神の前に義しきに非ず、律法を行う者義とせらるべし」(ロマ2・13)「神は凡ての者にその行為に従いて報い給わん」(ロマ2・6)と語っている。更に「我らはみな必ずキリストの審判の座の前にあらわれ、善にもあれ、悪にもあれ、各々その身になしたることに従いて報いを受くべきなり」(コリント後5・10)。更に彼の書き録した他の多くの記事。それ故パウロは善き業を伴わぬ信仰を、ヤコブがその書簡(2・17−26)に斥けたように斥けたことは明らかである。

 

パウロはユダヤ人に特有なモーゼの律法の行為を意味したに相違ない、それはユダヤ人に対して与えられた法令の凡てはモーゼの五書に律法と呼ばれ、律法の行為を規定しているからである。以下の記事を参照されよ。「これは穀類の捧物の律法なり」(レビ6・14)。「これは任職のためのはん祭、穀類の捧物、贖罪の律法なり」(レビ7・37)。「これは獣と鳥の律法なり」(レビ11・46等)。「これは男子または女子を生める婦女にかかわる律法なり」(レビ12・7)。「これはらい病の律法なり」(レビ13・59、14・2、32、54、57)。「これは流出ある男子の律法なり」(レビ15・32)。「これは嫉妬の律法なり」(民数記5・29、30)。「これはナザレ人の律法なり」(民数記6・13、21)。「これは幕屋に人の死ぬ時の律法なり」(民数記19・14)。「これは赤牡牛の律法なり」(民数記19・2)。「王に対する律法」(申命記17・15−19)。実に、モーゼの五書の凡てが「律法の書」と呼ばれている(申命記31・9、11、12、26)。更にルカ伝(2・22、24・44)とヨハネ伝(1・45、7・22、23、8・5)を参照せられよ。

 

更にパウロは人間は十戒の律法に従って生活しなくてはならない、そしてそれは仁慈によって成就されると語り(ロマ13・8−11)、また「げに信仰と希望と愛とこの三つのものは限りなく残らん、而してそのうち最も大いなるは愛なり」(コリント前13・13)と語り、それは信仰ではないと語っている。

 

それ故、これが彼らが討論するために集った記事であった。

 

 しかし私は彼らを妨害すまいと思って、身を退いた。すると再び遥か彼方に彼らは時には臥し、時には立っている山羊のように見えたが、しかし、羊の群れからは遠ざかっていた。彼らは考え込んでいる時は臥しているように、結論を下す時は立っているように見えた。私は特に彼らの角に注意したが、それは時には前に突き出るように、時には後ろに突き出るか、曲がっているように見えた。それから急に依然山羊のように見えつつも羊の群れの方へ向って行った。そこで私は再び近づいて尋ねた。「あなたの結論は何でしょう。」彼らは木が果実を生み出すように、信仰のみが仁慈の善を生み出すと結論したと答えた。しかしちょうどその時雷が轟き、稲妻が閃き、間もなくその二つの群れの間に一人の天使が現れ、羊の群れに向って叫んだ、「彼らに聞き給うな。彼らは信仰のみが人を義となし、救い、そして積極的な仁慈は無用であるという前の信仰に依然として固執しているのです。更に木は人間であって信仰ではありません。しかし悔改めて主を見上げなさい。諸君は信仰を持たれるでしょう。何故なら悔改め以前の信仰は死んだ信仰であるからです。」その時山羊は角を後ろに向け、羊に加わろうと願ったが、天使は彼らの間に立って、羊を二つの群れに分け、左手の者に向って語った、「山羊に加わりなさい、けれども申しますが、狼が来て彼らと一緒にあなた方をも追い散らすでしょう」(後略)

 

 

 

 

7.スウェーデンボルグは霊界で一つは山羊、他は羊の、二つの群れを見た

 

 

啓示による黙示録解説417(真の基督教506と同じ記事)

 

右の記事に私は以下の説話を附加しよう。私は霊界で一つは山羊、他は羊の、二つの群れを見た。私は彼らはたれであろうか、といぶかった。なぜなら私は、霊界で見られる動物は動物ではなくて、そこにいる者たちの情愛の、引いてはその者たちの思考の相応であることを知っていたからである。それで私は更に近づいた。近づくにつれて、その動物に似た形は消えて、代って人間が見えたのである。そして山羊の群れを構成した者らは信仰のみによる義認の教義を確認した者らであり、羊の群れを構成した者たちは、仁慈と信仰とは、善と真理とが一つのものであるように、一つのものであることを信じた者たちであることが示された。それで私は山羊として見られた者らと話して言った、『なぜあなたらはこうして集っておられますか』。彼らは主として、教職者連から成っていたが、この教職者連は、信仰のみによる義認のアルカナを知っているということで、その博学の名声を誇っていたのである。

 

彼らは言った、自分らは会議を開くために集ったのである。なぜならパウロの言った言葉(ロマ3・28)、即ち、『人間は律法の業なしに信仰により義とされる』という言葉は、パウロは『律法の業』によってユダヤ人に与えられたモーセの律法の業を意味しているため、正当に理解されていないと自分らは聞いたからである、と。

 

そのことはまたパウロがペテロに言った言葉からも明らかに認められるのである。なぜならパウロはペテロを、ペテロが『たれ一人律法の業によっては義とはされない』ことを知っているのに(ガラテヤ2・14−16)。(異邦人たちを)ユダヤ教化したことで非難しているからであり、また彼は信仰の律法と業の律法とを区別し、ユダヤ人と異邦人とを、または割礼と無割礼とを区別し、割礼によっては、他の凡ゆる所のように、ユダヤ教を意味しているのである。同じくそれは彼が以下の言葉で締めくくりをしていることからも明らかに認められるのである―

 

それでは私らは信仰を通して律法を廃止するのか、そうではない。私らは律法を確立するのである。

 

彼はこれらの事柄を凡て系統たて、一つにまとめて言っており(ロマ3・27−31)、また前章でも言っている―

 

なぜなら律法を聞く者が神から義とされるのではなくて、律法を行う者が義とされるからである(ロマ2・13)。

それからまた―

 

神は各々の人間にその行為の応じて報いられる(ロマ2・6)。

 

またー

 

 私らは凡て神の審判の座の前に現れて、各々身体で為したことを、それが善であれ、悪であれ、受けなくてはならない(コリント後5・10)。

 

 更に彼の多くの記事があって、そこからパウロは、ヤコブ(2・17−26)と等しく、善い業のない信仰を斥けていることが明らかである。ユダヤ人に与えられたモーセの律法の業がパウロの意味してたものであったことは、我々は以下のことを考察することにより、更に確認するのである。即ち、モーセの書の中のユダヤ人に対する法令は凡て『律法』と呼ばれ、かくて『律法の業』と呼ばれており、そのことは以下の記事から認められるのである―

 

 これは素祭の律法である(レビ記6・9以下)。

これは生贄の律法である(レビ記7・1)。

(中略)

 

 と呼ばれているのである。このことに彼らはまた彼らがパウロの中で見たことを、即ち、十戒の律法は実践しなくてはならない、それは隣人に対する愛である仁慈により完遂される、それでそれは信仰のみによるのではないということを附け加えもしたのである。これが自分たちが召集された理由であると彼らは言った。

 

しかし私は彼らを乱したくないため身を引くと、彼らは再び遠方では山羊のように見え、ときには臥しているように、ときには立っているように見えたが、しかし羊の群れからは身をそむけたのである。彼らは物思いにふけっているときは、臥しているように見え、結論に達すると、立っているように見えた。しかし私は彼らの角に瞳を凝らしていると、その額の角が時折前方と上方へ伸びるように見え、それから後方へ曲げられるように見え、遂には全く後ろへ曲げられるように見えるのを見て、いぶかしく思った。すると彼らは凡て突然羊の群れの方へぐるりと振り向いたが、しかし依然山羊のように見えた。

 

彼らは自分らは以下のような結論に達したと答えた。即ち、木が実を生み出すように、信仰のみが善い業と呼ばれる仁慈の善を生み出すのである、と。しかしそのとき雷が聞こえ、また上方から雷光が見え、すぐに一人の天使がその二つの群れの間に立っているのが見えた。

 

彼は羊の群れに叫んだ、『彼らの言うことを聞いてはいけません。彼らはその前の信仰から、即ち、父なる神は御子のために憐れまれるという信仰からは後退してはいないのです。こうした信仰は主に対する信仰ではなく、また信仰は木でもなく、人間が木なのです。悔改めの業を行って、主を仰ぎなさい、さすればあなたは信仰を得られるでしょう。それ以前の信仰は何かその中に生きたものを含んだ信仰ではありません』。

 

すると、角を後方へ曲げていた山羊が羊に近づこうとした。しかしその天使はその間に立って、羊を二つの群れに分けて、左の方のものに言った、『山羊に加わりなさい、ですが、私はあなた方に言っておきます。狼がやってきて、彼らをひっ去り、彼らとともにあなたらもひっ去らって行きますよ』。(後略)

 

 

 

 

8.聖言から教会の教義を引き出さないで、それを自分自身の理知から考案することは冒瀆。信仰のみは、即ち、信仰は律法の業なしに義とし、救うという教義は、聖言から発してはおらず、パウロのただ一つの表現を誤って理解したことから発している

 

 

啓示による黙示録解説571

 

「その頭の上に冒瀆の名」(黙示録13・1)は、主の神的な人間的なものの否定と、聖言から引き出されないで自分自身の理知から引き出された教会の教義とを意味している。『七つの頭』により、前のように(568番)誤謬そのものから発した狂気が意味され、この狂気は主の人間的なものにおける主の神的なものを否定するとき、またそれが聖言から教会の教理を引き出さないで、自分自身の理知からそれを考案するとき、冒瀆を語るからである。主の人間的なものにおける主の神的なものを否定することは冒瀆であるという第一のものについては、その理由は、それを否定する者は、アタナシウスに因んで名づけられ、全基督教会に遍く受け入れられている信仰に対立するということであり、そこには明らかに、イエス・キリストの中には、神と人とは、即ち、神的なものと人間的なものとは二つのものではなくて、一つのものであり、それらは一人格であって、霊魂と身体のように結合していると言われているのである。それで主の人間的なものにおける神的なものを否定する者らは、特に彼らが主の人間的なもののみを他の人間の人間的なものを考えるようにしか考えないで、永遠から存在する主の神的なものを全然考えないときは、ソツニウス派の者やアリウス派の者らからはあまり離れはしていないのである。

 

聖言から教会の教義を引き出さないで、それを自分自身の理知から考案することは冒瀆であるという第二のものについては、その理由は、「聖書にかかわる新しいエルサレムの教義」(76−79番)の中に認めることが出来るように、教会は聖言から存在し、その性質は聖言の理解に順応しているためである。

 

そして信仰のみは、即ち、信仰は律法の業なしに義とし、救うという教義は、聖言から発してはおらず、パウロのただ一つの表現を誤って理解したことから発しており(ロマ3・28、417番参照)、教義の誤謬はことごとく自己自身の理知以外のいかような源泉からも発してはいないのである。

 

なぜなら聖言には、悪を避けて、善を行うということにもまさって何が遍く教えられているであろうか。また神と隣人とを愛さなくてはならないということにまさって何がさらに明白であろうか。そしてたれ一人律法の業に従って生きないかぎり、隣人を愛することは出来ないし、隣人を愛さない者は神も愛しはしないことを認めない者があろうか。なぜなら隣人を愛する愛の中に主は御自身を人間と連結され、人間は人間自身を主と連結させ、即ち、主と人間とはその愛の中に結合するからである。そして隣人を愛することは、十戒の戒めに従って、隣人に悪を行わないことではなくて何であろうか(ロマ13・8−11)。そして人間は隣人に悪を為すことを欲しないことに正比例して、隣人に善を為すことを欲しており、ここから、善い業から分離した信仰である信仰のみが救うものであるとしている者らのように、この律法の業を救いから除外することは冒瀆であることは明白である。『冒瀆』(マタイ12・31、32、黙示録17・3、イザヤ37・6、7、23、24)によりソツニウス派の者らのように、主の神的なものを否定し、聖言を否定することが意味されている、なぜならそのようにして主の神的なものを否定する者らは天界に入ることは出来ないからである、なぜなら主の神的なものは天界における凡てにおける凡てであり、聖言を否定する者は宗教の凡ゆる物を否定するからである。

 

 

 

 

9.誤解されたパウロのただ一つの言葉にのみ神学を基礎づけ、それでそれは主が愛と仁慈とについて、善い業について教えられた凡ゆる事柄を無視している

 

 

ペトロ2・3・15−16

 

また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。

 

 

 

啓示による黙示録解説825

 

同様に信仰のみに関わる改革派の宗教的信念によっても暴行が聖言に加えられている。それもまた主の人間的なものを神的なものとはしていないで、誤解されたパウロのただ一つの言葉にのみ神学を基礎づけ、それでそれは主が愛と仁慈とについて、善い業について教えられた凡ゆる事柄を無視しているが、それでも主がそれらについて教えられた事柄は、たれでも、目さえあるなら、認めることができるほどにも顕著に示されているのである。

 

 

 

天界の秘義241

 

しかしここに取扱われている子孫はその父祖たちに似ていなかった。なぜなら彼らは世と地の面のものを眺めた時、それを愛したため、その心はこれにあっては感覚的なものが主要なものになり始めて、彼らの父祖たちにおける手段的なものでなくなり始めたのである。しかし世と地とに属した物が主要なものとなると、人間はそこから天界の事柄について論じ、かくて自分自身を盲目にしてしまうのである。どうしてこうしたことが起るかもまたたれでも自分自身の経験から知ることが出来よう、なぜなら話す人の言葉に注意して、その言葉の意味に注意しない者は、意義を殆ど汲み取りはしないし、ましてやその意義に含まれている普遍的なものを汲み取りはしないで、時として人の語る凡てをただ一つの言葉から、または文法上の特異なものからさえ判断するからである。

 

感覚的

 

 

 

 

10.業のない信仰のみは死んだものであることは、ヤコブ書(ヤコブ2・17、20)に明白。パウロも同じことを言っている(ローマ2・13)

 

 

啓示による黙示録解説828

 

業のない信仰のみは死んだものであることは、ヤコブ書(ヤコブ2・17、20)に明白であって、彼もまた言っている―

 

 聖言を行う者となり、自分自身を欺いて、単に聞くだけの者となってはならない(ヤコブ1・22以下)

 

パウロも同じことを言っている―

 

 律法を聞く者が神により義とされるのではなく、律法を行う者が義とされるであろう(ローマ2・13)。

 

 

 

 

11.『偶像を拝む者』により、聖言からではなく、かくて主からではなくて、自己自身の理知から礼拝を確立し、または礼拝を守る者らが意味され、主のいかような御言葉にもよらないで、パウロのただ一つの言葉により―それも誤解されたものであるが―教会に遍く受け入れられている信仰のみの教義を捏造した者らもまたこのことをやってのけた

 

 

啓示による黙示録解説892

 

『偶像を拝む者』により、聖言からではなく、かくて主からではなくて、自己自身の理知から礼拝を確立し、または礼拝を守る者らが意味され、主のいかような御言葉にもよらないで、パウロのただ一つの言葉により―それも誤解されたものであるが―教会に遍く受け入れられている信仰のみの教義を捏造した者らもまたこのことをやってのけたのであり、これも同じく一種の霊的な窃盗であり、『偽り者』により悪から誤謬の中にいる者らが意味されているのである。

 

 

 

 

12.パウロは信仰と希望と仁慈の三つのものがあり、その中最大なるものは仁慈であると語って(コリント前13・13)仁慈を信仰の上に置いている

 

 

真の基督教796

 

私はルーテルが世に在った時、連なっていたサクソニー候と語り合った。彼は私に以下のことを告げた、彼はしばしばルーテルを仁慈を信仰から切り離し、前者でなく後者が人を救うものであると宣言したことに対して非難した。何故なら、聖書はその二つの救いの方法を結合しており、パウロは信仰と希望と仁慈の三つのものがあり、その中最大なるものは仁慈であると語って(コリント前13・13)仁慈を信仰の上に置いているからである。しかし彼はルーテルは概してロマ・カトリック教徒のためにそれ以外のことをすることは出来なかったと答えたと附言した。この侯爵は祝福された者の間に居るのである。

 

 

 

 

13.真の基督教338

パウロの引用文(ロマ3・28)の「信仰」はその書簡の後続の部分から、またガラテヤ書の類似の記事(2・14、15)から明白であるように、父なる神に対する信仰ではなく、子なる神に対する信仰を意味し、「律法の行為」は十誡の行為ではなく、ユダヤ人に与えられたモーゼの律法の行為を意味している

 

 

真の基督教338

 

使徒たちの信仰は主イエス・キリストに対する信仰であったことは、彼らの書簡の多くの記事によって明白である。その中から私は以下のもののみを引用しよう。

 

「もはやわれ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今われ肉体にありて生くるは我を愛して我がために己が身を捨てたまいし神の子を信ずるに由りて生くるなり」(ガラテヤ2・20)。

 

パウロは「ユダヤ人にもギリシャ人にも、神に対する悔改めと我らの主イエス・キリストに対する信仰を」証した(使徒20・21)。

 

「彼パウロを連れ出して言う、君らよわれ救われん為に何をなすべきか。彼言う、主イエスを信ぜよ、然らば汝も汝の家族も救われん」(使徒16・30、31)。

 

(中略)

 

 

彼等の信仰はイエス・キリストに対するものであり、且つ彼によって鼓吹された故、彼等は上述の如く(ガラ2・16)また以下の記事におけるが如く、これをイエス・キリストの信仰と呼んだのである。

 

「イエス・キリストを信ずるによりて、凡て信ずる者に与えたまう神の義なり。これイエスを信ずる者を義としたまわんためなり」(ロマ3・22、26)。

 

「キリストを信ずる信仰による義すなわち信仰に基づきて神より賜る義を保ち」(ピリピ3・9)。

 

「これは神の誡命とイエスを信ずる信仰とを守る者なり」(黙示録14・12)。

 

「キリスト・イエスを信ずる信仰によりて」(テモテ後書3・15)。

 

「キリスト・イエスにありては、ただ愛によりてはたらく信仰のみ益あり」(ガラテヤ5・6)。

 

これらの記事はパウロのかのしばしば繰返される記事、「されば我らは思う。人の義とせらるゝは律法の行為によらず、信仰に由るなり」(ロマ3・28)の信仰の意味を示している。

 

即ち、それは父なる神に対する信仰ではなくその御子に対する信仰であり、ましてそれは三人の神―その中の一人からその中の他の一人のために、而(しこう)してその中の第三の者を通して救いが来る―に対する信仰でないことを示している。教会はその三人格的信仰がパウロによりこの記事に意味されていると信ずるのは、ニカヤ会議以来、これが真の信仰、唯一可能の信仰として認められ、それ故、「信仰」なる語が新約聖書に用いられる時は常に、三人格的な信仰が理解され凡ゆるものがこれに一致させられているからである。その結果、救い主なる神に対する信仰である唯一の救う信仰は滅び、多くの虚偽と荒唐無稽な逆理が教会の教義に忍び入ったのである。

 

何故なら、天界または救いに至る道を教え、これを指示する教会の教義は凡て信仰に依存するからであり、凡てこれらの虚偽と逆理が信仰に入り込んだために、理解は信仰に従属しなくてはならないという教理が布告された。

 

しかし上述のパウロの引用文(ロマ3・28)の「信仰」はその書簡の後続の部分から、またガラテヤ書の類似の記事(2・14、15)から明白であるように、父なる神に対する信仰ではなく、子なる神に対する信仰を意味し、「律法の行為」は十誡の行為ではなく、ユダヤ人に与えられたモーゼの律法の行為を意味しているのである。かくして現今の信仰の基礎は崩壊し、その上に建てられた神殿は屋根のみが表面に現れている家の如く地に沈んでしまったのである。

 

 

 

 

14.誤って解釈されたこのただ一つの記事によりいかような盲目が生まれているか

 

 

神の摂理115

 

 仁慈のない信仰を持ち、これを、『人は律法の業がなくても信仰により義とされる』というパウロのロマ人に宛てた言葉(ロマ3・28)から確認した者は、太陽崇拝者のように、この言葉を尊敬し、太陽を凝視して、遂には視力がかすんで、真昼にも何一つ見ることの出来ない人間のようなものになる。なぜなら彼らはその記事の律法の行為を認めず、すなわち、モーセに制定されてその書簡では常に律法と呼ばれている儀式を認めず、パウロはそれにより十戒の戒めを意味してはいないことを認めないからである。彼は『それ故我々は信仰により律法を空しくするか。決してそうではない、反って我々は律法を確立するのである』(ロマ3・31)と語って、十戒の戒めを意味しているものでないことを説明している。太陽を凝視するようにその記事を凝視し、この言葉により仁慈のない信仰を確認した者は、パウロが信仰の律法を仁慈の業そのものとして列挙し、律法を持たない信仰は何であるかと尋ねている記事を考慮に入れない。彼らはまた彼が悪い業を列挙し、これを行う者は天国に入ることはできないと語っている記事にも気づかない。それ故誤って解釈されたこのただ一つの記事によりいかような盲目が生まれているかが明らかである。

 

 

 

 

15.信仰とは真実を行うこと

 

天界の秘義9239

 

人間は神を信じることについて、また神から発している事柄を信じることについて話している。神を信じることは救う信仰であるが、しかし神から発している事柄を信じることは前のものがなくては救いはしない信仰である。なぜなら神を信じることは知って行うことであるに反し、神から発した事柄を信じることは知るが、未だ行わないことであるから。真に基督教徒である者たちは知りもし、行いもし、かくて神を信じるが、しかし基督教徒でない者らは知っても行いはしない。これらの者は主から『愚か者』と呼ばれているが、しかし前の者は『慎重な者[賢明な者]』と呼ばれている(マタイ7・24、26)。

 

 

 

啓示による黙示録解説36(・・・?)

 

 仁慈が存在しないなら、信仰は存在しないということについて今少しく語ってみよう。教会の教義的なものが信じられている限り、信仰は存在している、または信じる者は信仰を持っていると考えられているが、単に信じることは信仰ではなく、信じられたことを欲し、行うことが信仰である。

 

 

 

(真の信仰は活動であることについて)

霊界日記2491

 

私は以下のことを明らかに認めたのである、即ち、行為における信仰は真の信仰であり、それで行為である、なぜならそれはそこから分離することの出来ないものであり、行為は信仰から生き、信仰は行為の中に存在し、即ち、仁慈の業の中に存在しており、それでそれらは分離することは出来ないのである。1748年〔60歳〕7月2日。

 

 

 

真の基督教151

 

 主を信ずるとは単に彼を認識するのみではなく、彼の誡命を守ることである。何故なら、彼を単に認知することは、単に彼を部分的に理解することから生まれる思考の事柄であるが、しかし、彼の誡命を守ることは意志によって認識する事柄であるからである。人間の心は理解と意志から成り、理解は考え、意志は行動する。それ故、人間が単にその理解の思考によって主を認める時は、単にその心の半分を以て主に来るに過ぎない。しかし、主の誡命を守る時は、その全心を以て主に来るのであり、これが信ずることである。もしそうでないならば、人間はその心を分割し、皮相的に自らを強制して、上を凝視させ、他方その肉は下に傾き、かくて、彼は鷲のように天界と地獄の間を飛び交うのである。しかし、彼は上に向けられた凝視に従うのではなく、肉の快楽に従うが、これは彼が地獄に在るからである。それ故、彼は彼処に飛んで行き、彼処で己が肉欲に犠牲を捧げ、悪魔に神酒を注ぎ、その顔に愉悦をたたえ、その眼に火を閃かせ、光の天使の容姿を装うのである。主を認めはするが、その誡命を保たない者は死後このような悪鬼になる。

 

 

 

生命48

 

私たちはこうした物は単に信仰の事柄であるように思われていると言った。しかし前に言ったように(43)、理解の思考は、理解の中の思考のエッセ[最も内なる存在]であるところの意志の愛から、そのエキシステレ[それが明らかに存在するようになったもの]を得ているのである。なぜなら何であれ、たれでも愛から意志する[欲する]ものを、その者は考えようと意志し[欲し]、理解しようと意志し、話そうと意志するからであり、またはそれと同じことではあるが、何であれ誰でも意志から愛するものを、その者は行うことを愛し、考えることを愛し、理解することを愛し、話すことを愛するからである。このことにまた以下のことを附言しなくてはならない、即ち、前に示したように、人間は悪いことを罪として避ける時、彼は主の中におり、主はその時凡ゆる事柄を行なわれるのである。それで自分たちは神の業を為すためには何を為さねばならないかと主にたずねた者たちに、主は

 神の業はこれである、即ち、神が遣わされかれを信じることである(ヨハネ6・18、29)

と言われたのである。『主を信じる』ことは、主が他の所でも教えられているように、単に主が存在されることを考えるのみではなくて、主の御言葉を実践することである。

 

 

 

天界の秘義9239

 

人間は神を信じることについて、また神から発している事柄を信じることについて話している。神を信じることは救う信仰であるが、しかし神から発している事柄を信じることは前のものがなくては救いはしない信仰である。なぜなら神を信じることは知って行うことであるに反し、神から発した事柄を信じることは知るが、未だ行わないことであるから。真に基督教徒である者たちは知りもし、行いもし、かくて神を信じるが、しかし基督教徒でない者らは知っても行いはしない。これらの者は主から『愚か者』と呼ばれているが、しかし前の者は『慎重な者[賢明な者]』と呼ばれている(マタイ7・24、26)。

 

 

 

啓示による黙示録解説36(・・・?)

 

 仁慈が存在しないなら、信仰は存在しないということについて今少しく語ってみよう。教会の教義的なものが信じられてい限り、信仰は存在している、または信じる者は信仰を持っていると考えられているが、単に信じることは信仰ではなく、信じられたことを欲し、行うことが信仰である。

 

 

 

(真の信仰は活動であることについて)

霊界日記2491

私は以下のことを明らかに認めたのである、即ち、行為における信仰は真の信仰であり、それで行為である、なぜならそれはそこから分離することの出来ないものであり、行為は信仰から生き、信仰は行為の中に存在し、即ち、仁慈の業の中に存在しており、それでそれらは分離することは出来ないのである。1748年〔60歳〕7月2日。

 

 

 

真の基督教151

 

 主を信ずるとは単に彼を認識するのみではなく、彼の誡命を守ることである。何故なら、彼を単に認知することは、単に彼を部分的に理解することから生まれる思考の事柄であるが、しかし、彼の誡命を守ることは意志によって認識する事柄であるからである。人間の心は理解と意志から成り、理解は考え、意志は行動する。それ故、人間が単にその理解の思考によって主を認める時は、単にその心の半分を以て主に来るに過ぎない。しかし、主の誡命を守る時は、その全心を以て主に来るのであり、これが信ずることである。もしそうでないならば、人間はその心を分割し、皮相的に自らを強制して、上を凝視させ、他方その肉は下に傾き、かくて、彼は鷲のように天界と地獄の間を飛び交うのである。しかし、彼は上に向けられた凝視に従うのではなく、肉の快楽に従うが、これは彼が地獄に在るからである。それ故、彼は彼処に飛んで行き、彼処で己が肉欲に犠牲を捧げ、悪魔に神酒を注ぎ、その顔に愉悦をたたえ、その眼に火を閃かせ、光の天使の容姿を装うのである。主を認めはするが、その誡命を保たない者は死後このような悪鬼になる。

 

 

 

生命48

 

私たちはこうした物は単に信仰の事柄であるように思われていると言った。しかし前に言ったように(43)、理解の思考は、理解の中の思考のエッセ[最も内なる存在]であるところの意志の愛から、そのエキシステレ[それが明らかに存在するようになったもの]を得ているのである。なぜなら何であれ、たれでも愛から意志する[欲する]ものを、その者は考えようと意志し[欲し]、理解しようと意志し、話そうと意志するからであり、またはそれと同じことではあるが、何であれ誰でも意志から愛するものを、その者は行うことを愛し、考えることを愛し、理解することを愛し、話すことを愛するからである。このことにまた以下のことを附言しなくてはならない、即ち、前に示したように、人間は悪いことを罪として避ける時、彼は主の中におり、主はその時凡ゆる事柄を行なわれるのである。それで自分たちは神の業を為すためには何を為さねばならないかと主にたずねた者たちに、主は

 神の業はこれである、即ち、神が遣わされかれを信じることである(ヨハネ6・18、29)

と言われたのである。『主を信じる』ことは、主が他の所でも教えられているように、単に主が存在されることを考えるのみではなくて、主の御言葉を実践することである。