戒め

 

 

 

 

天界の秘義916[2]

 

教会はそれが仁慈からまたは仁慈の善から行動する時霊的なものと呼ばれ、それはそれが仁慈の無い信仰を持っているという時は決して霊的なものと呼ばれはしないのである。なぜならその時それは教会でさえもないからである。なぜなら信仰の教義は仁慈の教義でなくて何であろう。そして信仰の教義は人間はその教えることを為さなくてはならないということを除いては何を目的とするであろうか。それはその教えることを単に知りまた考えることで在り得る筈はなく、その教えることは為さなくてはならないということのみである筈である。それ故霊的教会はそれが信仰の教義そのものである仁慈から行動する時始めて教会と呼ばれるのである。または、それと同一事ではあるが、教会の人間はそのとき始めて教会となるのである。丁度それと同じように、戒めは何のためにあるのであるか、それは人間がそれを知るためではなく、その戒めに従って生きるためではないか。なぜならそのとき彼は、主の王国はもっぱら相互愛とその幸福とに在るからには、彼自身の中に主の王国を持つからである。