行為・運動

 

行う

 

 

 

1.行為は意志の形

 

天界の秘義8911

これまで言ったことから人間とその生命の実情はいかようなものになっているかを認めることができよう、すなわち人間はその意志のあるがままにあり、[人間はその意志と全く同一のものであり]、その意志のあるがままに存続するのである、なぜなら死は生命の終りではなく、その継続であるからである。それで、前に言ったように、意志は人間そのものであるため、人間はその意志のあるがままにあるため、それで『行為に従って審かれる』ことは意志に従って審かれることを意味しているのである、なぜなら法律に対する恐れ、名誉、利得、名声、生命を失う恐れといった外なる拘束によって妨げられないかぎり、意志と行為とは背馳はしないで、行為は意志の中に、意志は行為の中に在るからである。これは努力と運動の場合と同じである。運動は努力の連続以外の何ものでもないのである、なぜなら努力が止むと、運動も止むからであり、それで運動の中には努力を除いては本質的なものは何一つ存在していないのである。学者たちはそのことを知っている、なぜならそのことは承認されもし、確認もされている定則であるからである。人間の努力は意志であり、また人間の中の運動は行為である、それらのものが人間の中にそのように呼ばれていることは、人間の中では努力と運動とは生きているからである。意志に応じて審かれることは愛に応じて審かれることと同じである、また生命の目的に応じて審かれることと同じである、なぜなら人間の意志はかれの愛であり、生命の目的であり、その生命それ自体であるからである。それが実相であることは、前に引用した主の御言葉から、すなわち、『たれでも自分のものでない女を眺めて、これに色情を抱く者は心ですでにその女と姦淫を行っている』から明白であり(マタイ5・27,28)また人を『殺すこと』は単に行為でそのようなことを為すことのみでなく、またそれを為そうと意志する[欲する]ことであり、そのことはかれを『怒って』これを侮辱することにより意味されているのである(マタイ5・21)。さらに人間はその行為に従って審かれはするが、しかしその行為がかれの意志から発出している度と方法をこえては審かれはしないのである。

 

 

 

天界の秘義9293

人間の行為はその人間の意志とともに観察されるときは、それはそうした運動ではなくて、眼前に示された意思の形である。なぜなら行為は意志に属した事柄を立証するもの以外の何ものでもなく、またその霊魂または生命を意志から得ているからである。それで運動について言われることと同じことが行為についても言われることができるのである。すなわち、ちょうど運動には努力がないなら生きたものは何一つないように、行為にも意志がないなら生きたものは何一つないのである。それがそうであることもまた人間に知られているのである。なぜなら理知的な者は人間の行為に注意しないで、その行為が発生してくる源泉であり、手段であり、目的でもあるその意志にのみ注意するからである。否、賢明な者はその行為をほとんど見はしないで、その行為の中にある意志の性質と量のみを見るのである。捧げ物の場合も同じであって、主が眺められるものはその捧げ物の中にある意志である。従ってエホバ―すなわち、主―に捧げられた捧げ物により意志に、または心に属した事柄が意味されているのである。人間の意志は聖言ではその『心(心情)』と呼ばれているものである。

 

 

 

黙示録講解98

賢い者であって、人間をその行為のみから顧慮して、その意志からは顧慮しない者があろうか。もしその意志が善良であるなら、かれはその行為を愛しはするが、しかしその意志が悪いなら、その行為を愛しはしないのである。

かれはまたその行為を見はするが、しかしそれをその意志の意図に従って解釈するのである。ましてや霊的なものである者はその行為には留意しないで、その意志を詮索するのである。そのことはすでに述べた以下の理由のためである。すなわち、行為はそれ自身では無意味であり、行為が示している凡てのものは意志から発しているのである。なぜなら行為は意志の活動であるからである。

 

 

 

天界と地獄358

 

 前もって以下のことを述べておかなくてはならない、即ち、人間は機会が与えられる限り、ずるく立ち回って、他を欺きさえしなければ、富を得て、それを貯えてもよいのであり、また美味しいものを、ただその上に己が生命をおかない限り、食べても、飲んでもよく、己が境遇に従って壮麗な所に住んでもよく、己が流儀なりに他と交わっても良く、娯楽の場所へ再三でかけてもよく、世の出来事について話してもよく、献身者のように悲しい、沈んだ顔つきをし、頭を垂れて歩く必要もなく、楽しく、陽気にしていてもよいのであり、またその財産を、情愛から動かされない限り、貧しい者に与える必要もないのである。約言すれば、彼は外面では全く世の人間のように生活してもよく、もし自分自身の心の奥深くで神について正しく考え、隣人に対して誠実にまた公正に行動しさえするならば、そうしたことのために人間は天界へ入るのを妨げられはしないのである。それで人間はその行為に従って審判され、その業に従って報いられるであろうと聖言に言われていることにより、人間はその行為の源泉であるところの、またはその行為にあるところの、その思考と情愛とに従って審判され、報いられることが意味されている、なぜなら行為は全く思考と情愛と同じものであって、思考と行為がないなら無価値なものであるから(*1)。従って人間の外なる部分は何かを為すのではなくて、それを為すものは彼の内なる部分であり、そこからその外なる部分が発していることが明白である。例えば、もし誰かが、単に法律を恐れ、名声を失い、そこから名誉または利益を失うことを恐れるためにのみ、誠実に行動して、他の者を欺かないなら―もしその恐れにより抑えられないならば、他の者を出来るだけ欺くなら―その行為は例え外面では誠実に見えても、その思考と意志とは詐欺であり、こうした人間は、内面的には不誠実で、誑りに満ちているため、その者自身の中に地獄を持っている。しかしそうしたことは神にそむくことであるため、誠実に行動して、他の者を欺かないならば、たとえ他を欺くことが出来ても、欺こうとはしないのであり、彼の思考と意志とは良心であり、彼は自分自身の中に天界を持っているのである。彼らの行為は外形では同じように見えはするが、内面では全然ことなっている。

 

 

*1 人間は審判かれ、その行為と業とに従って報いられるであろうと聖言に再三言われている、3934。そこの行為と業とにより外なる形における行為と業とが意味されていないで、内なる形におけるものが意味されている、なぜなら外なる形における善い業は邪悪な者によってもまた為されるが、外なる形と同時に内なる形における善い業はただ善良な者によってのみ為されるからである、3934、6073。業は、凡ての行為のように、人間の思考と意志とに属するその内部から、そのエッセ「存在、本質」とエキジステレ[存在の形、本質の現れ]を得ている、なぜならそれはそこから発出しているからである、それ故、内部の状態のいかんに業は応じている、3934、8911、10331。かくて内部の愛と信仰との方面の状態のいかんに応じている、3934,6073,10331,10332。かくて業は愛と信仰とに従っている、3147、3934、6073、8911、10331、10332。業は自己と世とを目指している限り、善ではなく、ただ主と隣人とを目指している限り善である、3147。