悪を罪として避けるに比例して神を認める
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1.悪を罪として避けるに比例して神を認める
2.仁慈にいない者らは偽善からでなくては主を承認し、拝することは出来ない
3.生活が悪と虚偽との上に基礎づけられている者は、凡て善と真理とは何であるかを知ることが出来ない
1.悪を罪として避けるに比例して神を認める
霊的な生命・神の聖言P30
人間が支配における単なる歓喜から支配することを求める愛と所有における単なる歓喜から世の財産を得ることを求める愛であるところの、人間自身の二つの愛に抵抗するに比例し、かくて十戒に禁じられている悪を罪として避けるに比例し、一人の神がおられ、その神は宇宙を創造され、維持される方であられることさえもが、主から天界を通して流れ入って来るのである。それでこのことが流れ入って来るのは以下の理由によっているのである、即ち、悪が遠ざけられると、天界が開かれ、天界が開かれると、人間はもはや自己から考えはしないで、主から天界を通して考えるのであり、神が存在され、神は一人であられるということは、凡ゆる物を包含している天界の普遍的な原理であるのである。流入からのみ人間は神は一人であられることを知り、いわば、見ていることは凡ゆる国民の共通の告白から明白であり、また多くの神々がいるという考えに対する反発心からも明白である。
人間の霊の考え〔思考〕であるところの人間の内的な考えは、地獄か、天界か、その何れかから発しているのである。この考えが地獄から発している時は、人間は、自然が神であり、自然の最も内なるものが神的なものと呼ばれているものである、としか認めないのである。こうした人間が死後霊となると、彼は特に力を持った者をたれでも神と呼んで、自分自身がまた、神と呼ばれたいために、権力を求めるのである。悪い者らは凡てその霊の中にこうした狂気を潜ませているのである。しかし人間が天界から考える時は―彼は悪が遠ざけられた時、そのように天界から考えるのであるが―神がおられ、神は一人であられることを天界の光から認めるのである。天界を経て光から認めることが流入により意味されているものである(黙示録講解954番)。
霊的な生命・神の聖言P31
人間が、悪が罪であるため、それを避け、そこから離れる時、彼は神はおられ、神は一人であられることを天界の光から認めるのみでなく、また神は人間であられることを認めるのである。なぜなら彼は彼の神を見ようと願い、神を人間としてしか見ることが出来ないからである。(黙示録講解955番)。
静思社/イマヌエル・スエデンボルグ/信仰/27
しかしこれらの知識はすべて、その数はいかほどあろうとも、またその性質はいかようなものであろうと、単に仁慈の信仰が形作られる材料の倉庫にしか過ぎないのであって、この信仰はその人間が悪を罪として避けるに比例してのみしか形作られることは出来ないのである。もし彼が悪を罪として避けるなら、その時はこれらの知識は霊的生命を内に宿した信仰の知識となるのである。しかしもし彼が悪を罪として避けないなら、その時はこれらの知識は知識以外の何ものでもなく、何らかの霊的生命を内に宿している信仰の知識とはならないのである。
2.仁慈にいない者らは偽善からでなくては主を承認し、拝することは出来ない
新エルサレムの教義106
仁慈にいない者らは偽善からでなくては主を承認し、拝することは出来ない(天界の秘義2132、4424、9832番)。憎悪の形と仁慈の形は共存することは出来ない(1860番)。
3.生活が悪と虚偽との上に基礎づけられている者は、凡て善と真理とは何であるかを知ることが出来ない
真の基督教398(9)
その生活が悪と虚偽との上に基礎づけられている者は、凡て善と真理とは何であるかを知ることが出来ない、それは彼は彼の悪が善であり、彼の虚偽が真理であると信ずる故である。然しその生活が善と真理とに基礎づけられている者は、何が悪と虚偽であるかを知ることが出来る。何故なら、善と真理とは凡て、本質的に天界的のものであり、悪と虚偽とは凡て本質的に地獄的のものであり、天界的な凡ゆる物は光の中にあるに反し、地獄的な凡ゆるものは暗黒の中にあるからである。