明るくされる
箴言4・18
神に従う人の道は輝き出る光
進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。
スウェーデンボルグ/信仰5
霊的な考えが(それについて殆どの者は何ごとも知ってはいないが)真理に対する情愛を抱いている者たちのもとへ流れ入っていて、その聞くもの、または読むものが真であることを、また真でないことを内的に彼らに告げている。主から明るくされて聖言を読んでいる者たちはこの考えの中にいるのである。
明るくされていることは、これがまたはあれが真であることを認識し、内的に承認すること以外の何ものでもない。これらは『エホバから教えられている者』(イザヤ54・13、ヨハネ6・45)と呼ばれている者であり、またエレミア記に以下のように言われている者である―
見よ、日が来て、わたしは新しい契約をたてよう、これがその契約である、すなわち、わたしはわたしの律法を彼らの内部に置こう、その心にそれを記そう、それで彼らは各々その連れの者に、または各々その兄弟にもはや教えて、エホバを知れよとは言わなくなるであろう、なぜなら彼らはすべてわたしを知っているからである(エレミア31・31,33,34)。
天界の秘義1661[3]
人間はことごとく知識を通して受けている諸善と諸真理から先ず戦うのであり、その諸善と諸真理から、またその諸善とその諸真理により悪と誤謬とについて判断するのである。人間はことごとくまた、始めて戦いはじめるとき、その者が戦う源泉と成っている諸善と諸真理とは彼自身のものであると考えるのであり、すなわち、それらのものを彼自身に帰すると同時に、彼がそれによって抵抗する力も彼自身に帰してしまうのである。このこともまた許されている、なぜならその人間はその時はそのようにしか考えることは出来ないからである。人間は再生しない中は、善と真理とは些かも彼自身からは発していないことを、また善と真理とはことごとく主から発しており、彼自身の力ではいかような悪にも誤謬にも抵抗することが出来ないことを到底知ることは出来ないし、それでそのことを彼は知り、承認し、信じていると言うことは出来ないのである、なぜなら彼は悪霊が諸々の悪と誤謬とを刺激し、それらを注ぎ入れていることを知っていないし、まして彼は彼が悪霊により地獄と交流しており、地獄は海が堤の凡ゆる部分に押し寄せているようにも彼に押し寄せており、たれ一人その地獄の圧迫には彼自身の力によっては決して抵抗することが出来ないことを知っていないからである。しかし人間は再生しない中は彼は彼自身の力により抵抗すると想像しない訳にはいかないため、このこともまた彼に許されており、かくて彼は争闘または試練に入れられるが、しかし後に彼は益々明るくされて行くのである。
天界の秘義2973[5]
天的な、また霊的な愛の中にいる者たちのもとでは、善が主から霊魂を通って身体に流れ入っており、そこから身体は光に満ちるようになっているが、しかし身体的なまた世的な愛の中にいる者らのもとでは、善が主から霊魂を通って身体へ流れ入ることは出来ないので、彼らの内部は暗黒の中に在り、そこからまた身体は、主がマタイ伝に教えられていることに従って、暗黒に満ちるようになっている―
身体の燈は目である、もし目が正しいなら、全身は光に満ちるが、もし目が悪いなら、全身は暗黒に満ちる。それで光が暗黒であるなら、その暗黒は如何に大きいことであろう(マタイ6・22、23)。
『目』により霊魂に属している知的なものが意味されている(2701番)。
天界の秘義3128[3]
自然的な人が善から真理を通して明るくされることについては―それはここでは『母の家』と呼ばれているが―実情は以下のようになっているのである、すなわち、前に言ったように、人間のもとに神的善は彼の合理的なものの中へ流れ入り、その合理的なものを通して彼の自然的なものの中へ流れ入り、実にその記憶知の中へ、すなわち、その中にある幾多の知識と教義的なものの中へ流れ入り、そこにそれ自身を適合させることにより、それ自身のために幾多の真理を形作り、その幾多の真理を通して自然的な人の中に存在している凡ゆるものを明るくするのである。しかしその自然的な人の生命が神的な善を受け入れないで、それをはねつけるか、または歪めるか、または窒息させるかする底のものであるなら、そのときは神的善は適合されることは出来ず、かくてそれはそれ自身のために真理を形作ることは出来ず、従ってその自然的なものは最早明るくされることは出来ないのである、なぜなら自然的な人が明るくされることは善から真理を通して遂行されるのであって、もはやそれが明るくされることが出来ないときは、改良は在り得ないからである。これが内意に自然的な人もまたその性質の方面で多く取り扱われている理由であり、かくて真理は何処から発しているか、すなわち、それはそこに在る善から発していることが取り扱われている理由である。
天界の秘義3131[3]
なぜなら最初入ってくるものは全般的な真理であって、それはそれ自身においては明確なものではなく、その中では、それが個別的なものによって明るくされ、個別的なものが単一的なものによって明るくされない中は、ほとんどいかようなものも現われはしないが、それが明るくされると、内的なものが明らかになるのである。かくて無知のときに真理である迷妄[妄想]と外観とは消散し、払いのけられるのである。
天界の秘義3137
「泉のところに」。これは全般的な記憶知が神的真理から明るくされることを意味していることは、『泉』の意義が真理であり(2702、3096番を参照)、ここでは(前の3131番のように)神的真理であることから明白である。聖言は神的真理であるため、それは『泉』と呼ばれている。内意ではここの『泉の所に立つこと』が、自然的な人の中に在るそれらのものが明るくされることを意味していることは、(記事の)連続から生まれている、なぜなら神的真理の在る所にはまた明るくされることも在るからである。
天界の秘義3195[2]
聖言には再三『光』のことが言われ、それにより内意では善から発している真理が意味されているが、しかし最高の内意では主は善と真理そのものであられるため、主御自身が意味されている。さらに事実として天界には光が存在しているが、しかしそれは地上の光よりは無限に明るく輝いており(1053、1117、1521−1533、1619−1632番を参照)、この光の中に霊たちと天使たちとは互に他を眺め、またそれにより天界に在る栄光はことごとく示されている。その澄明さについては、この光は実に世の光のように現れてはいるが、しかしそれでもそれはそのようなものではない、なぜならそれは自然的なものではなくて、霊的なものであり、その中に知恵を持っているからであり、かくて天使たちの眼前にそのように輝いているのである(2776番)。さらにこの光は人間の理解を、特に再生した人間の理解を明るくしているが、しかしそれは人間によっては、人間が身体の生命の中にいる限り、その時支配している世の光のために認められない。さらに他生では悪霊らも互に他を眺め、また霊たちの世界に存在する多くの表象的なものを見ており、しかも実にこれを彼らは天界の光から見てはいるが、しかし彼らの光は石炭の火から発するような光である、なぜなら天界の光はそれが彼らのもとに来ると、このような光に変化するからである。
天界の秘義3492
「イサクは老いるようになった」。これはその状態が切迫した時を意味していることは『老いること[年をとること]』の意義から明白であって、それは新しい状態が現れる[現存する]ことである、なぜなら聖言では『老年』は前の状態を脱ぎ去ることのみでなく、新しい状態を着けることを意味しており、しかもそれは以下の理由によっているのである、すなわち、老年は形体的な物が脱ぎ去られ始め、それとともにその前の時代のいくたの愛も脱ぎ去られ始め、かくて内部が明るくされ始めるところの年齢の最後である、なぜなら形体的な物が遠ざけられると、内部は明るくされるからである、それはまた天使たちは、聖言に在る事柄を霊的に認識しているため、老年のことはもはや全く考えなくなって、代って新しい生命を考えるのであり、かくてここでは、その状態が切迫したことを考えるためである、すなわち、イサクにより表象されている神的な合理的なものがそれ自身に相応した自然的なものを欲したことを、すなわち、同じくまた神的なものである自然的なものを欲したことを考えるためである。
天界の秘義3665〔3〕
幼児の頃から子供時代にかけて学ばれる幾多の知識は善で満たされねばならない極めて全般的な容器のようなものであって、それが満たされるに応じて、その人間は明るくされるのである。もしその容器がその中へ純粋な善を容認するようなものであるなら、そのときはその人間はその中に在る神的なものから明るくされ、しかもそのことが益々継続的に行われて行くが、しかしもしその容器がその中に純粋な善が在ることの出来ない底のものであるなら、そのときはその人間は明るくされはしないのである。その者は明るくされているように実際見えはするが、しかしそれは誤謬と悪の光であるところの架空な光であって、それにより彼は益々善と真理とについては暗くされてしまうのである。
天界の秘義3708[22]
自然的な人に属している明確でないもの[不明]から真のものも誤ったものも、その二つともが発している。人間は自分自身が主から聖言により明るくされることに甘んじると、そのときその明確でないもの[不明]は澄明なものとなるのである。なぜなら内なる道が開かれて、それにより主から天界を通じて流入と伝達とが発生するからである。しかし彼は彼自身が主から聖言により明るくされることに甘んじないで、自分自身の理知により明るくされることに甘んじると、そのときはその明確でないものは暗黒になり、かくて誤ったものとなるのである。なぜなら内なる道は閉じられてしまって、悪い誤ったものを考え、また語ることによって、彼を外なる形では人間として見せることが出来るといった種類の流入と伝達とを除いては、いかような流入と伝達も主から天界を通しては起らないからである。こうした理由から前の者のもとでは『北』は真のものを意味しているが、しかし後の者のもとでは誤ったものを意味しているのである。なぜなら前の者は明確でない者[不明]から上昇し、すなわち光へ挙げられるに反し、後の者は明確でないものから下降し、すなわち自分自身を光から遠ざけてしまい、かくて前の者は南へ運ばれるが、しかし後の者は奈落の領域へ運ばれるからである。
天界の秘義3833
人間が真理へ導き入れられ、真理から善へ導き入れられている間に、彼が学ぶ凡てのものは彼には明確なものではないが、しかし、善が彼に連結されつつあり、彼が真理を善から見つめると、そのときはそれは彼に明らかとなり、しかもそれは継続的に益々明らかとなって行く。なぜなら今や彼は事柄が存在しているか否か、またそれはそうであるか否かについてはもはや疑いを持たないで、それが存在しており、またそれがそうであることを知っているからである。
人間がこうした状態の中にいると、そのとき彼は無数の事柄を知り始めるのである、なぜなら今や彼はその信じ、また認めているところの善と真理から、中心から円周へ進むようにも進むのであり、そして進むに比例して彼は周囲に存在している事柄を見、しかも継続的に益々広く見るからである。なぜなら彼は絶えず境界を押し進めて広げつつあるからである。以後また彼はその境界内の区域の中の凡ゆる主体から始め、そこから、新しい円周を新しい中心から広げるように拡げるのである。このようにして善から真理の光は無限に増大して連続した透明体のようなものになるのである、なぜならそのときその人間は主から発している天界の光の中にいるからである。しかし、事柄が存在しているか否かについて、それはそのようなものであるか否かについて疑惑を持って、論争している者たちのもとでは、これらの無数の、否、無限のものは些かも現れはしないのであり、彼らには凡ゆるものは全般的にも個別的にも全く明確なものではなく、何か真に存在するものとしては殆ど認められはしないで、むしろその存在も疑わしいものとして認められるのである。現今では人間の知恵と理知とはこうした状態の中にあり、事柄が存在しているか否かについて器用に論じることが出来る者が賢い者と見なされており、それが存在しないと論じることが出来る者はそれにもまして賢い者であると見なされているのである。
天界の秘義4214
明るくされることについては、それはことごとく主から発し、人間の中に在る善を通して発しており、善のあるがままに、明るくされることも応じているのである。
天界の秘義4214[2]
大半の人々は以下のように信じている、すなわち、善と真理とについて、悪と誤謬とについて論じることができる人間は明るくされており、その明るくされていることはかれらがそれらの事柄について話すことができると同時にそれらの事柄を多くの記憶知により確認し、同じくその言っていることを比較によって、とくに感覚の事柄から引き出された比較によって、また他の様式の説得によってもっともらしく見せることができる器用さと鋭さとに比例して大きくなっているのである(と信じているのである)。それでもこのような人間はその想像したり認識したりする力にも拘らず何ら明るくされていないかもしれないのである。この力には二種類のものがあって、一つは天界の光から来ているものであり、他は虚妄の[迷妄の]光から来ているものであり、その内なる形ではそれらは全く異なってはいるものの、外なる形では似ているもののように見えるからである。天界の光から発しているものは善の中に在り、すなわち、善の中にいて、善から真理を見、物事がそうであるか、またはそうでないかを白日の中に在るように知ることのできる者たちのもとに存在しており、かれらがそのような事柄について論じることができることは、かれらはそれらの事柄を知る能力を多少は持ってはいるが、しかしそれらのことを行なう情愛は何ら持っていないという事実から来ており、こうしたことは何ら明るくされていないことであることはたれでも把握することができるのである。
天界の秘義4214[5]
この凡てから真に明るくされることの何であるかを、すなわち、それは主から発している善から来ていることを認めることができよう、また誤って明るくされることの何であるかを、すなわち、それは地獄から発している悪から来ていることも認めることができよう。
天界の秘義4235
「神の天使たちは走ってかれに会った」。これは善から明るくされることを意味していることは、『神の天使』の意義から明白であり、それは何か主のものであり、ここでは主の中に存在した神的なものである、なぜなら主の中には『父』と呼ばれる神的なものそれ自身が存在したからである。
天界の秘義4245
もしかれがかりにも仁慈の諸善から考えるなら、かれはそのとき明らかに信仰の諸真理が第二位に立っていることを認め、またそのとき真理そのものを光の中に見るように見るであろう、なぜなら仁慈の善は光を与える焔のようなものであり、かくて、その人間が前に真であると考えていた一切のものを明るくするからである、かれはまたいかに誤謬がそれ自らを混入させて、それが真理であるという外観をつけていたかを認めるであろう。(秩序の転倒/)
天界の秘義5637
記憶知の内的なものとは自然的な心における霊的なものであり、霊的なものは、自然的な心における記憶知が天界の光により明るくされるとき、そこに存在するのであり、そして記憶知は、その人間が聖言から発している教義的なものを信じるとき明るくされるのであり、またかれは仁慈の善の中にいるとき、この信仰を得るのである、なぜならそのとき真理は、従って記憶知は仁慈の善の中にいるとき、この信仰を得るのである、なぜならそのとき真理は、従って記憶知は仁慈の善により焔によって明るくされるように明るくされるからである。ここからそれらは(真理または記憶知は)、その霊的な光を得るのである。ここから記憶知の内的なものにより意味されていることが明白となるであろう。
天界の秘義6313
この感覚的なものから高揚されることは古代人に知られ、また異邦人にさえも知られていたのであり、それで低い心が感覚的なものから引き出されるとき、かれらの賢人たちは、それが内的な光の中へ入ると同時に、静謐な状態へ入り、一種の天界の祝福の中へ入る、と言い、そこからかれらはまた、心は不滅のものであると結論したのである。人間はさらに内的なものへ高揚されることができるのであり、内的なものへ高揚されるに応じて、益々かれの浴する光は明澄なものとなり、ついにはかれは天界の光の中へ入ってくるが、その光は主から発している知恵と理知以外の何ものでもないのである。
天界の秘義6610
人間は生きている限り、その思考の幾多の観念は変化しており、即ち、それらは増大し、分割され、かくて種々の新しい社会へ拡がっており、悪にいる者にあっては、奈落の社会へ拡がっているが、そのことはまた誤謬を確信している者らにも言われる。しかし真理を確信している者、即ち、信仰を説得されている者にあっては、思考の幾多の観念は著しく制限されているものの、再生しつつある者にあっては、思考と情愛とは絶えず新しい天界の幾多の社会へ導入され、その広がりも増大している。その前に思考と情愛もまた同時に分割され、分割されると、観念と結ばれ、観念が再び新しい社会と交流するのである。更に特に全般的なものは個別的なものに満たされ、個別的なものは単一的なものに満たされ、かくて新しい真理に満たされ、そのことによって照示は増大している。
天界の秘義6766
「彼は言った、たれがあなたを私たちを治める人、君、裁判官としましたか」。 これは、彼が未だ教会の中の紛争を解決するほどに信仰の諸真理において進んでいないことを認めたことを意味していることは以下から明白である、即ち、『彼は言った』は認識であり(このことについては前に再三述べた)、『人、君』の意義は主要な諸真理の中にいる者であり、かくて真理の教義において著しく明るくされている者である。こうした者が表象的な教会では『君』により意味されたのであり、従って『たれがあなたを人に、君にしたか』という言葉により、彼は教会の諸真理において未だそれ程進んではいなかったことが意味されているのである(『君』は主要な真理の中にいる者であることについては、5044番を参照)。そして『裁判官』の意義は論争、または紛争を解決する者であり、ここでは教会内の紛争を解決する者である、なぜならそれは教会に属している者たちを意味している二人のヘブル人の間の紛争であるからである。
天界の秘義6766〔2〕
最高の意義では取扱われている主題は主の人間的なものにおける律法の神的なものの初めのものであったのであるが、今や取扱われている主題はこの律法の進展である、しかし内意では今取扱われている主題は再生しつつある人間における神的な真理の進展である。この進展はその人間が初めて誤謬と真理とを識別することが出来るといったものである、なぜなら彼は彼がその中にいるところの真理から誤謬を、それが対立したものであるため、認めることが出来るが、しかしこの最初の時には教会内の信仰の諸真理の間の紛争を解決することは出来ないのであり、そのことを為すことが出来るためには、彼は更に進歩しなければならないからである、なぜなら人間は継続して明るくされるからである。このことは青年や若い人たちから非常に明白である、彼らはその教会の教義的なものが真理そのものであると信じ、そこから誤謬について判断を下しはするが、未だ教会内の信仰の色々な問題の間の紛争〔相違〕を解決することは出来ないのであり、この才能は徐々に生れてくるのである、それでそのことが出来る人間は更に年齢も進んで、その理解の内部が明るくされていなければならないのである。
天界の秘義7012
「それをもってしるしを行わなくてはならない」。これは、その結果諸真理を明らかにして、確認することを意味していることは、『しるし』の意義から明白であり、それは真理を確認することであり(6870番を参照)、それがまた明らかにすることを意味しているのは、真理を確認することは人間が真理を知ろうとする目的から聖言を学ぶ時主から明るくされることによって行われるためである。明るくされて、その結果諸真理を確認することについては以下のことを知られたい、即ち、(ユダヤ民族やイスラエル民族のように)内なるものの無い外なるものの中にいる者らは明るくされることは出来ないし、かくてまた真理を確認することも出来ないが、それに反し外なるものの中にいると同時に内なるものの中にいる者たちは聖言を読む時は、明るくされて、その明るくされた状態の中で諸真理を認め、その後その諸真理を益々確認し、そして驚くべきことを言うのではあるが、各々の者はその真理に対する情愛に応じて明るくされ、またその生命の善の性質に応じて真理に対する情愛を持つのである。ここからまた真理のために真理を愛する情愛を持たないで、自分自身の利益のために真理を求める情愛を持っている者は、聖言を読む時も全く明るくされはしないで、単に教義的なものを、それがいかような種類のものであれ、確認するに過ぎないのである、なぜなら彼らは主の王国を求めないで、世を求め、信仰を求めないで、名声を求め、かくて天界の富を求めないで、ただ地の富を求めているに過ぎず、例えたまたま聖言から真理を知ろうとする願望に捕えられるにしても、真理に代って幾多の誤謬が現れてきて、遂には凡ゆる物が否定されてしまうからである。こうした事柄を言ったのは、明るくされることとは何であるか、その結果真理を認識することとは何であるかを明らかにするためである。
天界の秘義7950〔2〕
『エジプトの地の初児』が誤謬化された信仰の真理を意味していることは、『エジプトの初児』は仁慈から分離した信仰を意味しているためである(7948番)。この信仰の中にいる者らは信仰の諸真理については暗黒と暗闇そのものの中にいるのである、なぜなら彼らはいかような光の中にもいることは出来ず、かくて真理の何であるかを、それが真理であるか、否かを全く認識することは出来ないからである。なぜなら霊的な光はすべて主から善を通して、かくて仁慈を通して来ているからである、なぜなら仁慈の善は焔のようなものであり、そこから光が発しているからである、なぜなら善は愛に属し、愛は霊的な火であって、その火から明るくされることが発するからである。悪の中にいる者らもまた信仰の諸真理については明るくされることが出来ると信じる者は非常に誤っているのである。彼らは確認する状態にあることは出来る、即ち、己が教会の教義的な事柄を確認することは出来、しかもそれを時には巧妙に、また器用にもやってのけることは出来るものの、自分の確認しているものが真であるか、否かを認めることは出来ないのである。(誤謬もまた真理のように見えるまでも確認されることが出来るが、確認することは賢人の務めではなく、それはその事がそうであるか、否かを認めることであることについては、4741、5033、6865、7012、7680番を参照されたい)。
天界の秘義9382〔2〕
聖言から明るくされ、教えられる実情はいかようなものであるかを簡単に述べよう。たれでも各々その者の真理に対する情愛とまた真理に対する渇望とに応じて、またその者が真理を受ける能力に応じて聖言から明るくされ、教えられるのである。明るくされている者はその内なる人の方面では天界の光に浴している、なぜなら人間に信仰の諸真理と諸善を明るく示すものは天界の光であるからである(8707、8861番を参照)。
天界の秘義9709
内なる人が閉じられている者らは内なる人が在ることを知らないし、また彼らは天界と永遠の生命が在ることを信じもしない。そして驚くべきことには、それにも拘らず彼らは自分らは他の者よりも賢明に考えていると考えているのである、なぜなら彼らは彼ら自身を、また彼らに属するものを愛して、それらを拝しているからである。内なる人が天界に向って主へ開かれている者たちの場合は異なっている、なぜならこれらの者は天界の光の中におり、かくて主から明るくされているに反し、前の者は天界の光の中にはいないで、世の光の中におり、かくて自己から明るくされているからである。自己から明るくされてはいるが、主から明るくされていない者らは、誤謬を真理として、悪を善として認めている。
天界の秘義10227
主に凡てを帰している者たちは他の者よりも賢明であるが、それは知恵を構成している真理と善との凡ゆるものは天界から、すなわち、天界の主から流入しているためである。主に凡ゆるものを帰することにより人間の内部は天界に向かって開かれるのである、なぜなら真理と善とは一つとして人間自身からは発していないことがそのことにより承認され、このことが承認されるに比例して、自己への愛が去り、自己への愛とともに誤謬と悪から発した暗闇も去ってしまうからである。またそれに比例してその人間は無垢へ、主に対する愛と信仰へ入り、そこから神的なものとの連結が生まれ、神的なものとの連結から流入と照示[明るくされること]が生まれてくるのである。
天界と地獄34
内部は神的なものに更に近く、それ自身において更に純粋なものであるが、外部は神的なものから更に隔たっていて、それ自身においては更に粗悪なものであるため、完全はすべてまた内部に進むにつれ増大し、外部に進むにつれ減退している(*4)。天使の完全は理知、知恵、愛、善い凡てのもの、またそこから発する幸福の中にあるが、そうしたものから離れた幸福の中にはない。なぜならそうした幸福は外なるものであって、内なるものではないから。最も内なる天界の天使たちの内部はその第三の度が開かれているため、彼らの完全は、内部の第二の度の開かれている真中の天界の天使たちの完全に無限にまさっている。同じく真中の天界の天使たちの完全は最低の天界の天使たちの完全にまさっている。
*4
内部は神的なものに更に近づいているため、更に完全である、3405、5146、5147。内なるものの中には巨万の物が存在しているが、それは外なるものの中には一つの全般的な物としてしか現れていない、5707.人間は外なるものから内部へ挙げられるに応じて、光の中へ入り、かくて理知へ入り、その挙げられることは雲の中から澄明なものの中へ入るのに似ている4598、6183、6313。
天界と地獄130
諸天界の光は霊的なものであって、神的真理であることはまた以下のことからも結論づけることが出来よう。即ち、人間もまた霊的な光を持っていて、神的真理から理知と知恵とにいるに応じて、その光から明るくされるのである。人間の霊的な光は彼の理解の光であって、その対象は諸真理であり、その諸真理を彼は分析し、排列して秩序づけ、理論に形作り、理論から結論を連続的に引き出すのである。
天界と地獄584
地獄は、至る所に、山や、岡や、岩の下にも、平原や、谷間の下にもある。山、岡、岩の下にある地獄へ通じている入口、または門は、穴や岩の裂目のように目に見え、あるものは拡がって、広く、あるものは窮屈で、狭く、その多くは凸凹が激しい。凡ては、その中を覗き込むと、暗く、また薄暗く見えるが、しかしその中にいる奈落の霊らは燃えている石炭から発してくるような光の中にいる。彼らの眼はそうした光を受けるのに適しているが、それは、彼らは世に生きている間、神的真理を否定することによって、その真理に対しては暗闇におり、誤謬を確認することによって、その誤謬に対しては一種の光にいたという理由によっている。そのため彼らの眼の視覚はこの光に適合するようになっており、またその同じ理由から天界の光は彼らには暗闇となり、それで彼らはその穴から出てくると、何一つ見えない。これらの事から、人間は神を承認して、天界と教会の物を自分の中に確認するに応じて天界の光の中に入り、神を否定して、天界と教会の物に反したことを自分の中に確認するに応じて、地獄の暗闇に入ることが明らかにされたのである。
「聖言により明るくされることについて、また聖言に対する人間の知的なものについて」
霊界日記5670
人間が聖言を読んでいる際明るくされるものは人間の知的なものであり、そのことは、知的なものを持たない者は、聖言を読んでいるときは文字の意義を超えては何一つ知りはしないし、またそこに存在している真理そのものへ導かれることも出来ないという事実から明らかである。ここから少年たちは、出来ないし、全く単純な者も、出来ないし、そうした事柄については漠然としている者らも、出来はしないのである。
霊界日記5671
知的なものは天界から明るくされなくては明るくされることは出来ないのであり、天界の愛の中におり、従って、善の生命の中にいる者を除いては、たれ一人天界からは明るくされることは出来ないのであり、天界の交流はそのことにより〔善の生命の中にいることにより〕起るのである。そのとき彼は天界の光の中に留め置かれることが出来、さらに、その者の理解に応じて、全体を明るくするものは天界の光である。世の事柄の中にいる者らは明るくされることは出来ない、なぜなら彼らは世の中にいて、天界の光の中にはいないからであり、その光は暗黒をもたらしてくるのであり、そのこともまた明らかである。約言すると、知的なものは各々の者の情愛に従って明るくされるのである、なぜなら愛の情愛は知的なものの生命であり、愛の情愛は天界から発しなくてはならないからである。
霊界日記5672
人間はまた天界から発する生きた声によっても明るくされることは出来ない。その方法では、その事柄は人間の合理的なものへ入りはしないで、その記憶の中へのみ入るに過ぎないのであり、そこではそれは、謂わば、単に記憶の事柄に過ぎないのである。ここから直接の啓示は与えられはしないのである。教義のいくたの誤ったものを確認している者らも明るくされることは出来ない、なぜなら彼らの知的なものは、霊的な事柄については、そのときはそうした誤ったものにより形作られているからである。約言すると、善の方面の、また理解の方面の、また愛から起ってくる願望の方面の、知的なものの性質の方面の、人間の性質に従って明るくされることが起っており、かくて受け入れる性質に従って、起っているのである。
霊界日記5945
信仰と言うも、真理と言うも、それは同じことであり、善と言うも、仁慈と言うもそれも同じことであり、さらに、それは人間の思考と情愛との場合と同じである。情愛を離れて考えることは不可能である、なぜなら思考の本質そのものは情愛であるからである。人間は、実に、何であれ、その知っていることを考えることができるが、しかしそれは、栄誉、名声、名誉に対する情愛である自然的な情愛から発しているのである。しかしながら、この情愛は思考を霊的なものとはしないのであり、仁慈と呼ばれる霊的な情愛が存在しなくてはならない。さらに、人間は、仁慈の中にいるに応じて、明るくされて、信仰のものである諸真理を認めるのである。
新しいエルサレムの教義35
理解は人間が意志の中に真理を受け入れるに応じて、即ち、人間が真理に従って行動しようと意志する[欲する]に応じて明るくされる(3619番)。
黙示録講解1136(9)
神は神御自身から、または天使たちを通して直接に人間に教えられはしないで、聖言、説教、読書、他の者たちとの会話と交わりにより、かくて人間自身のもとでこれらの事について色々と考えることにより教えられるのである。人間はそのとき用から発する真理に対する情愛の度合いにおいて明るくされるのである。
神の愛と知恵150
聖霊に帰せられている照示(明るくすること)は実に主から発出して人間の中に在るが、しかもそれは媒介者としての霊と天使とにより行なわれている。しかしその媒介の性質は未だ記すことは出来ない。ただ天使と霊とは人間と同様に主により明るくされているため、彼らも彼ら自身によって決して人間を明るくすることは出来ないとしか言うことは出来ない、そして彼らも同じように明るくされるゆえ、凡て明るくされていることは主のみから発していることが推論される。それが媒介者としての天使または霊により行なわれるのは、人間は明るくされる時は、他にまさって主のみから明るくされている天使と霊との真中に置かれているからである。
ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・9巻P162
‘98・6・22 (つづき)
あなたのうちに私は増し加わり その一方であなたを小さな者にしていくという 惜しげない好意を示そう。 あなたのうちは夜明けとなり 夜闇は消えていく。
神の愛と知恵148
神的なものそれ自身は霊的な熱と光とによって天使と人間の中に現存しているため、神的な知恵の諸真理と神的な愛の諸善にいる者たちは、これらのものにより感動するとき、またこれらのもの(*)から、これらのものについて情愛から考えるとき、「神により熱する」と言われ、それは説教家が熱意から語る時のように、時々認知され、感じられるほどにも明らかとなっている。この当人たちはまた、主がその発出する神的なものにより意志を霊的な熱で燃やされるのみでなく、理解を霊的な光で明るくされる故、「神により明るくされる」と言われている。
純粋な真理は主から明るくされている者以外には文字の意義には現れていない
聖書57(3)
「教義から生まれなくてはならない純粋な真理は主から明るくされている者以外には文字の意義には現れていない」。
明るくされることは主のみから発していて、真理をそれが真理であるために愛して、それを生命[生活]に役立たせる者たちのもとに存在している。他の者らは聖言を明らかに示されはしないのである。明るくされることは主のみから発している理由は主は聖言の凡ゆる物の中におられるということである。真理をそれが真理であるために愛して、それを生命[生活]に役立たせる者たちが明るくされる理由は、そうした者たちが主の中におり、主はその者たちの中におられるということである。なぜなら主は主御自身の神的真理であられ、それが神的真理であるため愛されるとき(そしてそれはそれが生命のために用いられるとき愛されるのであるが)主は人間のもとでその中におられるからである。このことを主はヨハネ伝に伝えられている―
かの日あなたたちは、あなたたちがわたしの中におり、わたしがあなたたちの中にいることを知るでしょう。わたしの戒めを守って、それを行う者はわたしを愛するのであり、わたしもかれを愛して、かれにわたし自身を明らかにしよう、そしてわたしはかれのもとへ来て、かれのもとに住むであろう(14・20、21、23)。
またマタイ伝に、
心の純潔な者は祝福されている、なぜならかれらは神を見るからである(5・8)
これらの者は聖言を読んでいるとき明るくされ、聖言が輝き出で、それが透明なものとなる者たちである(5・8)。