複利
認識/
1.ますます明らかとなって行く
天界の秘義3833
人間が真理へ導き入れられ、真理から善へ導き入れられている間に、彼が学ぶ凡てのものは彼には明確なものではないが、しかし、善が彼に連結されつつあり、彼が真理を善から見つめると、そのときはそれは彼に明らかとなり、しかもそれは継続的に益々明らかとなって行く。なぜなら今や彼は事柄が存在しているか否か、またそれはそうであるか否かについてはもはや疑いを持たないで、それが存在しており、またそれがそうであることを知っているからである。
人間がこうした状態の中にいると、そのとき彼は無数の事柄を知り始めるのである、なぜなら今や彼はその信じ、また認めているところの善と真理から、中心から円周へ進むようにも進むのであり、そして進むに比例して彼は周囲に存在している事柄を見、しかも継続的に益々広く見るからである。なぜなら彼は絶えず境界を押し進めて広げつつあるからである。以後また彼はその境界内の区域の中の凡ゆる主体から始め、そこから、新しい円周を新しい中心から広げるように拡げるのである。このようにして善から真理の光は無限に増大して連続した透明体のようなものになるのである、なぜならそのときその人間は主から発している天界の光の中にいるからである。しかし、事柄が存在しているか否かについて、それはそのようなものであるか否かについて疑惑を持って、論争している者たちのもとでは、これらの無数の、否、無限のものは些かも現れはしないのであり、彼らには凡ゆるものは全般的にも個別的にも全く明確なものではなく、何か真に存在するものとしては殆ど認められはしないで、むしろその存在も疑わしいものとして認められるのである。現今では人間の知恵と理知とはこうした状態の中にあり、事柄が存在しているか否かについて器用に論じることが出来る者が賢い者と見なされており、それが存在しないと論じることが出来る者はそれにもまして賢い者であると見なされているのである。
天界の秘義3833[3]
例えば、神秘的なものであると言われている聖言の内意が存在しているという命題を考えてみられよ―そのことが信じられない中は、内意の中に在り、天界全体を無限の多様なもので満たしているほどにも多い無数の事柄の最小のものさえも人間は知ることは出来ないのである。他の例は以下のものである、即ち、神的摂理[神の摂理]について、それは単に全般的なものにすぎないで、個別的なものの中には存在しないか、否かについて議論している人間は摂理の無数の秘義を到底知ることは出来ないのであり、その秘義は数においては人間各々の生命の最初から最後に至るまでの偶発的な出来事のようにも、世の創造からその最後にも至る、否、永遠にさえも至る偶発的な出来事のようにも多いのである。更に、人間の意志は極度に腐敗しているからには、人間は善の中にいることが出来るか否かについて論じている者は、再生にかかわる凡ゆるアルカナを決して知ることは出来ないのであり、また新しい意志が主により植え付けられることすらも知ることは出来ず、また、それが植え付けられることに関わるアルカナを知ることは出来ないのであり、そのことは他の凡ての事についても言われるのである。このことからこのような人物はいかような明確でないものの中にいるかを、彼らは知恵の最初の入口さえも見はしないし、ましてやそれに触れはしないことを知ることが出来よう。
2.サンダー・シング
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P328
イエス・キリストの中に真の生命を持つときに、わたしたちは他にも多くのことを知るようになります。知るために学者になる必要はありません。。ごく単純な人がキリストの中に真の生命を知ることもあるのです。学者にはそれが理解できません。