秩序の転倒

 

天界の秘義3182

 

善へ導き入れられて、これと連結することになっている真理が自然的なものから高揚されるとき、それは自然的なものの中に在るものから分離されるが、この分離されることがかれらがその妹レベカを去らせることによって意味されているものである。人間がもはや真理から善を顧慮しないで、善から真理を顧慮するとき、真理は引き離されるのであり、あるいはそれと同一のことではあるが、人間が教義から生命[生活]を顧慮しないで、生命[生活]から教義を顧慮するとき、真理は引き離される[分離される]のである。例えば、教義は、たれをも憎んではならない、なぜならたれでも他の者を憎んでいる者は、その者を各瞬間殺しているからであると教えている。生命の初期では人間はこのことの真理をほとんど容認はしないが、しかしかれが年がすすんで、改良されつつあるにつれ、かれはそのことを、自分がそれに応じて生活しなくてはならない教義的な事柄の一つとして顧慮するのである。ついにかれはそれに従って生きるが、そのときはかれはもはや教義からは考えないで、生命から行動するのである。このことが行われるとき、この教義の真理は自然的なものから高揚されて、実に自然的なものから分離されて、合理的なものにおける善の中に植えつけられるのであり、このことが行われると、かれはもはや自然的な人がそのいかような詭弁によってもそれに疑いを抱くことを許さないのであり、いな、かれは自然的な人がそれに反抗して論じることを許しはしないのである。

 

 

天界の秘義3203

 

「彼女はらくだから降りた」。これはそれが合理的な善を認識すると自然的な人における記憶知から分離したことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『降りること』の意義は分離されることであり、『らくだ』の意義は自然的な人における記憶知であるからである(3048、3071番を参照)。それがイサクにより表象されている合理的な善を認識したさいに行われたことは明白である。

 

 

天界の秘義3203[2]

 

 自然的な人から分離されるということの何であるかは前に述べもしまた示しもした(3161、3175、3182、3188、3190番)、すなわち、真理の情愛[真理に対する情愛]はそれがもはや記憶知の事柄ではなくなて、生命のものとなるとき、そこから分離されるのである、なぜならそれが生命のものとなると、習慣によりその人間はその者の気質または性質のようにそれに浸透され、かれtがそのようにしてそれに浸透されると、そのときそれはいわば自発的に流れ出て行動となり[行為に向って流れ出]、しかもそのことはかれがそれいついていかような記憶知からも考えることもなしに行われるのであり、いな、それが生命のものとなると、そのときはそれは記憶知からも考えることもなしに行われるのであり、いな、それが生命のものとなると、そのときはそれは記憶知を支配し、その記憶知から確認を与える無数のものを引き出すことができるのである。真理のすべてのものの場合がそのようになっている。初期ではそれは記憶知の事柄であるが、しかしその人間が年がすすむにつれ、それは生命のものとなるのである。このかんの実情は子供が歩み、話し、考え、また理解から認め、判断から結論することを学んでいる際の場合に似ている、こうした事柄は、それらが習慣によって自発的なものとなり、かくて自動的なものになったとき、記憶知のいくたの事柄の間から消え去り、おのづから流れ出てくるのである。

 

 

天界の秘義3203[3]

 

 主から再生しつつある者たち、または再び生まれつつある人たちにおける霊的な善と真理とのいくたの知識にぞくしている事柄の場合もまた同じである、最初このような人たちは子供に似ていなくはないのであり、最初は霊的な真理はかれらにはたんに記憶知にすぎないのである、なぜなら教義的なものは、それが学ばれて、記憶の中に挿入されつつあるときは、それ以外のものではないからである、しかしこれらのものは主によりそこから絶えず呼び出されて、生命の中に、すなわち、善の中に植えつけられるのである、なぜなら善は生命であるからである。このことが行われると、いわば一回転が起るのである、すなわち、その人間は善から、すなわち、生命から行動し始めて、もはや以前のように、記憶知からは行動しないのである。かくて新に生まれつつまる者はこの点ではたとえ吸収された事柄は霊的な生命のものではあるものの、子供のようなものであり、ついにはかれはもはや教義的なものから、または真理から行動しないで、仁慈または善から行動するのであり、このことが行われると、そのとき、かれは初めて祝福された状態となり、知恵を得るのである。

 

 

天界の秘義3295

 

「一方の民は他方の民に勝つであろう」。これは最初は真理が真理の善に勝るであろうということを意味していることは以下から明白である、すなわち、『民』の意義は真理であり(直ぐ前の3294番参照)、『勝つこと』の意義は勝ることである。最初に言及されている『民』は真理を意味しているが、しかし二番目に言及されている『民』は真理の善を意味しており、真理の善は真理から発生してくるかの善であり、それはそれが始めて発生してくるさいは真理であるが、しかし善として見えるため善と呼ばれているのである。そこから『民』によりこの善がまた意味されており、それはそれが始めて発生してくるさいは真理の善と呼ばれるのである。この善について或る観念を得るために、私たちは以下のことを知らなくてはならない、すなわち、人間は再生していない中は、真理から善を行っているが、しかし再生した後は、善から善を行うのである。それで理解から発している善はそれ自身では善ではなくて、真理であるが、それに反し、意志から発している善は善である。例えば、自分の両親を尊敬しないで、十誡の誡命からかれらを尊敬することを習う者は、初めてかれらを尊敬するときは、それを戒めから行っているのであって、この尊敬は誡命から発しているため、それはそれ自身では善ではないのである、なぜならそれは愛から発していないで、律法に対する服従か、または律法の恐怖か、その何れかから発生しているからである。それにも拘らずそれは真理の善と呼ばれているが、しかしそれが始めて発生してくるさいはそれは真理である、なぜならその時はその人間は善を行うのではなくて、真理を行うからである、それに反しその人間が愛からその両親を尊敬すると、そのときは善である。他の凡ての場合も同じである。

 

 

天界の秘義3332[2]

 

 この最後の節に、これらの言葉とそれにつづいている言葉により、再生しつつある時の霊的な人の真理と善との方面の進歩が記されているのである、すなわち、かれは先ず真理の教義的な事柄を学び、次にそれらの事柄に感動し(それが教義的な事柄の善であり)、次にかれはこれらの教義的なものを心で観察することによってその中に在る真理に感動し(それが真理の善である)、最後にそれらのものに従って生きることを意志する[欲する]が、それが生命の善である。このようにして霊的な人は再生しつつあるときは真理の教義から生命の善へ進んで行くのである。しかしかれが生命の善の中にいると、秩序は転倒してしまい、かれはこの善から真理の善を見つめ、真理の善から教義的なものの善を見つめ、教義的なものの善から真理の教義的なものを見つめるのである。このことから人間は感覚的な人間であることからいかようにして霊的なものになるか、またかれは霊的なものになると、いかような性質のものになるかを知ることができよう。

 

 

天界の秘義3539[3]

 

 人間の再生の状態が本章の表象的な意義の中に『エソウ』と『ヤコブ』により記されており、ここでは、人間が再生しつつある間の、または再生してしまわない間の人間の最初の状態の性質が記されているのである、なぜならこの状態は、人間が再生した時その中にいる状態に対しては全く転倒しているからである。なぜなら再生している間の、または再生して了わない間の前の状態では、真理にぞくしている知的な物が外観的には主役を演じているが、しかし人間が再生した時は、善にぞくしている意志のいくたの事柄が主役を演じるからである。真理にぞくしている知的なものが最初の状態では外面的には主役を演じていることは、ヤコブがエソウの生得権を己がために要求したということにより、またここにとり扱われているように、かれが祝福を要求したことにより表象されたが、その状態は全く転倒したものであったことは、ヤコブがエソウの上着と雌山羊の子山羊の皮をつけて、自分がエソウであると偽装したことにより表象されているのである、なぜならこの状態では、合理的な真理は未だこにょうに合理的な善に連結しないままに、またはそれと同一のことではあるが、理解は意志にこのように連結していないで、それはそのように自然的なものの中へ流入し、またそれへ働きかけ、そこに在る物を逆に配置[処理]するからである。

 

 

天界の秘義3576[2]

 

 しかし改良と再生の時が完成した後では、そのときは、最も内なる所に隠れていて、真理にぞくしているように見えたところの、または真理がそれ自らに帰していたところの一切のものを内部から処理していた善そのものが現れてきて、公然と主権を持つのである。このことがイサクがエソウに言ったことにより意味されているのである、『あなたは剣によって生き、あなたの弟に仕えなくてはならないが、あなたが主権を得るときは、あなたはあなたの首からかれの軛を打ちおとすようになるであろう』(創世記27章40節)、これらの言葉の内意は以下のようである、すなわち真理が善に連結しつつある限り、善は外面的には低い位置を取るようにされているが、しかしそれが先在的な位置に立つようになり、そのときは合理的なものが自然的なものの善に連結し、そのことによって真理にも連結するようになり、かくて真理は善にぞくするようになるであろう、従ってエソウはそのとき自然的なものの善そのものを表象し、ヤコブは自然的なものの真理そのものを表象され、その両方のものが合理的なものに連結しているのであり、かくてその最高の意義では主の神的な自然的なものが表象され、エソウは主の神的な自然的なものにおける神的善の方面を、ヤコブはその主の神的な自然的なものにおける神的真理の方面を表象するのである。

 

 

天界の秘義3593

 

「イサクは甚だしく非常に震えた」。これは状態の逆転にかかわる非常な変更を意味していることは、『震えること』の意義から明白であって、それは変更であり、それは状態の逆転について―その人間が再生してしまう前の状態と再生した後の状態について―前に言ったことから明白であり、すなわち、再生してしまう前の状態[再生していない状態]では、真理が外面的には主権をもっているが、再生した後の状態では真理は場所をゆずって、善が主権を受けるのである(この主題については前に再三示したことを参照されたい、1904、2063、2189、2697、2979、3287、3288、3310、3325、3330、3332、3336、3470、3509、3539、3548、3556、3563、3570、3576、3579番)。

 

 

天界の秘義4241

 

『派生した真理』は、または善から発している真理は、善が存在する源泉となる真理とは明確に区別されている。善が存在する源泉となる真理は人間が再生以前に自分自身に浸透させるものであるが、しかし善から発生する真理は人間が再生以後自分自身に浸透させるものである、なぜなら再生以後では真理は善から発生するからである、それはそのときはその人間はその真理が真のものであることを善から認め、また知っているためである。このような真理が、かくて善の真理が、『エドムの野』により意味されているものである、同じく士師記から前に引用した記事においてもそのことが意味されているものである、『ああ、エホバよ、あなたがセイルから出て行かれたとき、あなたがエドムの野から進み出られたとき』(5・4)。

 

 

天界の秘義4243

 

本章には、真理が善に服従するようにされつつあるとき存在する秩序における連結の経過が記され、かくて状態の転倒が記されているのである。人間が情愛から真理を学びつつあるものの、それに従ってさほど生きていないときは、真理は外観的には第一位に立っているのである。しかし人間が情愛から学んだ真理に従って生きるとき、善は第一位に立つのである、なぜならそのときその人間は真理に従って行うことは善であると信じているため、真理はそのとき善となるからである。再生した者たちはこの善の中におり、良心を持っている者たちもまた、すなわち、何かの事柄が真であるか否かとはもはや論じはしないで、それが真であるためにそれを行い、かくてそれを信仰の中にまた生命の中に自分自身に浸透させた者たちも、この善の中にいるのである。

 

 

天界の秘義4245

 

「わたしはわたしの主に告げるために、あなたの目の中にめぐみを得るために、使いの者を遣わします」。これは主の状態について知らせることとまた真理が善の前に立ってへりくだり、自らを卑下することを意味されていることは、『告げるために(使いの者を)つかわすこと』の意義から明白であり、それは自分の状態について知らせることである。そのとき真理が善の前に立ってへりくだり、自らを卑下することが続いて起ることは明らかである、なぜならヤコブはかれを自分の『主』と呼んで、『あなたの前にめぐみを得るために』と言っており、それはへりくだった、また自分を卑下した言葉であるからである。ここには転倒が行なわれつつあるときの、すなわち、真理が善に服従するようにされつつあるときの、または真理に対する情愛の中にいた者たちが善に対する情愛の中に存在しはじめつつあるときの状態の性質が記されているのである。しかしこのような転倒と服従とが在ることは再生している者たち以外の者にはたれにも明らかではなく、またそれも再生した者たちの中でも反省する者たちにのみ明らかなのである。現今では再生しつつある者は僅かしかいないし、反省する者はさらに僅かなのである、そうした理由から真理と善とについてここに言われている事柄は漠然としたものにならざるを得ないのであり、恐らく承認されないような性質のものとならざるを得ないのであり、そうしたことは特に信仰の諸真理を第一位において、仁慈の善を第二位におき、従って教義的なものについては多く考えるが、仁慈の善については余り考えないで、永遠の救いを前のものから発するものとして、後のものから発しはしないと考えている者について言われるのである。このように考える者は信仰の真理が仁慈の善に服従させられることを決して知ることはできないし、ましてそのことを認めることはできないのである。人間が考えるところの、また人間が考える源泉となっているところのものが人間を動かすのである。もしかれがかりにも仁慈の諸善から考えるなら、かれはそのとき明らかに信仰の諸真理が第二位に立っていることを認め、またそのとき真理そのものを光の中に見るように見るであろう、なぜなら仁慈の善は光を与える焔のようなものであり、かくて、その人間が前に真であると考えていた一切のものを明るくするからである、かれはまたいかに誤謬がそれ自らを混入させて、それが真理であるという外観をつけていたかを認めるであろう。

 

 

天界の秘義4248

 

再生しつつある人間のもとに状態が転倒しつつあるとき、すなわち、善が第一位に立つと、そのとき試練が来るのである。その時以前ではその人間は試練を受けることはできないのである、なぜならかれは未だ知識の中に―その知識をもってかれは自分自身を防禦し、また慰安を求めてその知識に訴えるのであるが、そうした知識の中に―いないからである。こうした理由からまたたれ一人成人期に達しない中は試練を受けはしないのである。

 

 

天界の秘義4249

 

善が先在的な位置に立って、善自身に諸真理を服従させつつあるときは―そのことはその人間が霊的な試練を受けつつある時起るのであるが―そのとき内から流れ入ってくる善は、かれの内的な人の中に貯えられている非常に多くの真理を伴っているのである。これらの真理は、善が主役を演じるまではその心に認められはしないし、また把握もされはしないのである、なぜなら善が主役を演じると、そのときは自然的なものは善により明るくされはじめ、そこから自然的なものにおけるいかようなものが一致しているか、またいかようなものが一致していないかが明らかとなり、そこから霊的な試練に先行している恐怖と苦痛とが生まれるからである。なぜなら霊的な試練は内的な人のものである良心に働きかけるのであり、それでその人間がこの試練に入ると、かれはどこからこうした恐怖と苦悩が来るかを―かれとともにいる天使たちはそれを良く知ってはいるものの―知りはしないからである、なぜなら試練は悪霊たちがその人間を悪と誤謬との中に留めおいている一方では天使たちがその人間を善と真理との中に留めおいていることから生まれるからである。

 

 

天界の秘義4256

 

それでその秩序が転倒して、善が明らかにその先在的な位置をとりつつあるときは(すなわち、それが真理を支配しはじめつつあるときは)、自然的な人は恐れ、苦しみ(4249番)、また試練に入るのである。その理由は真理が第一位に在ったときは、すなわち、それが主権を持っているようにそれ自身に見えたときは、誤謬がそれ自身を混入させていたということである、なぜなら真理はそれ自身からはそれが真理であるか否かを見ることはできないで、そのことを善から見なくてはならないのであり、誤謬が在る所には、善が近づいてくると、恐怖が起るからである。さらに善の中にいる者はすべて誤謬が善から光の中に現れると恐れ始めるのである、なぜならかれらは誤謬を恐れて、それが根絶されることを欲するからである、しかしこのことは、もし誤謬がかたく密着しているなら、主から発している神的手段によらなくては不可能である。

 

 

天界の秘義9184[2]

 

 しかし、内なる人が再生により開かれると、そのとき主から善がそれを通して流れ入り、外なる人を通して入っている信仰の諸真理を採用して、それ自身に連結させ、その連結に応じて秩序が転倒する。すなわち、第一位に立っていたものが最後の位置におかれるのである。そのとき主は、その人間の中に在って生命に属している凡てのものが上を見上げるように、それらを御自身へ引き寄せたもうのである。そのときその人間は主と天界に属したものを目的としてみとめ、また主御自身をそのために一切の物が存在している目的としてみとめ、自己の利益と名誉の歓喜である前のものをその目的に対する手段として認めるのである。手段はその生命を専ら目的から得ており、目的を離れては生命をもたないことは知られている。かくて自己の利益と名誉の歓喜が手段となると、そのときはそれはその生命を天界から来るところの、すなわち、天界を通して主から来るところの生命から得るのである。なぜならその歓喜がそのために存在している目的は主であるからである。人間がこうした生命の秩序の中にいると、そのときは自己の利益と名誉の事柄はかれにとり祝福となるが、それに反し、かれがその転倒した秩序の中にいるなら、それらものものはかれの呪いとなるのである。人間は天界の秩序の中にいるときは凡ゆるものが祝福であることを主はマタイ伝に教えられている―

 

先ず天国とその義とを求めなさい。さすれば凡てのものがあなたたちに加えられるでしょう(マタイ6・33)。

 

 

天界の秘義9274

 

「七年目にあなたはそれを休ませて、解き放たなくてはならない。」

 

これは、教会の人間が善の中におり、かくて平安の静謐の中にいる第二の状態を意味していることは以下から明白である、すなわち、『七年目[第七年]』または安息日の意義は人間が善の中にいて、善により主に導かれる時であり(8505、8510、8890、8893番を参照)、『地を休ませること』、すなわち、それに種をまかないことの意義は、前のように、諸真理により導かれないことであり、『それを解き放つこと』の意義は平安の静謐の中に在ることである。(安息日もまたその中に連結が在る平安の状態を表象したことについては、8494番を参照)。なぜなら地が休閑地となり、解き放たれ、休むことにより主から発した善の中にいる者たちの得ている休息、静謐、平安が表象されたからである。(再生しつつあり、また教会となりつつある人間のもとには二つの状態が在り、すなわち、かれが信仰の諸真理により仁慈の善へ導かれる最初の状態と、かれが仁慈の善の中にいる第二の状態があることについては、7923、7992、8505、8506、8512、8513、8516、8539、8643、8648、8658、8685、8690、8701、8772、9139、9224、9227、9230番を参照されたい。)

 

 

天界の秘義9274[2]

 

再生しつつあり、また教会となりつつある人間のもとには二つの状態が在ることはこれまで知られていなかったことは、主として教会の人間は真理と善とを、引いては信仰と仁慈とを何ら明確に区別しなかったためであり、また理解と意志であるところの人間の二つの能力を何ら明確に認めなかったためであり、理解は真理と善とを認めるが、意志は真理と善とに感動して、それらを愛するのである。同じ理由からかれは以下のことも知ることができなかったのである。すなわち、再生しつつある人間の最初の状態は真理を学んで、それを認めることであり、第二の状態は真理を意志し[欲し]、愛することであり、人間が学んで、認めた事柄は、その人間がその事柄を意志し、愛さなくては、その人間のものとはならないのである、なぜなら意志はその人間そのものであって、理解はかれに仕える者であるからである。もしこうした事柄が知られていたなら、再生しつつある人間は主から新しい理解のみでなく、新しい意志も与えられ、もしその二つとも与えられないなら、かれは新しい人間ではないことが知られもし、認められもしたであろう、なぜなら理解はその人間が意志し、愛する事柄を見ることにすぎないのであり、かくて、前に言ったように、仕える者にしかすぎないからである。従って再生しつつある人間の最初の状態は諸真理を通して善は導かれることであり、第二の状態は善により導かれることであり、かれがこの後の状態の中にいるときは、秩序[順序]は転倒するのであり、そのときはかれは主により導かれており、従ってかれはそのときは天界の中におり、そこから平安の静謐の中にいるのである。

 

 

天界の秘義9274[4]

 

これらの状態は互いに他から区別されていることはモーセの書の以下の言葉の中にも含まれている―

 

あなたは新しい家を作るときは、屋根に垣を作らなくてはならない。あなたはぶどう畠に、また畠にも、種の入りまじったものをまいてはならない。あなたは雄牛とろばとをくみ合わせて耕してはならない。あなたは羊毛とリンネルとが入りまじった上着を着てはならない(申命記22・8−11、レビ記19・19)。

 

 

これらの言葉により、真理の状態の中に、すなわち、最初の状態の中にいる者は善の状態の中に、すなわち、第二の状態の中にいることはできないし、またその逆に、善の状態にいる者は真理の状態にいることはできないことが意味されているのである。その理由はその一方の状態は他方の状態の反転したものであるということである、なぜなら最初の状態ではその人間は世から天界を見つめるが、しかし第二の状態では天界から世を見つめるからである、それは最初の状態では真理が世から知性を通して意志へ入ってそこで愛のものとなるため、善となるが、第二の状態では善が天界から意志を通して知性へ入り、そこで信仰の形をとって現れるためである。救うものはこの信仰である、それはその信仰が愛の善から発しており、すなわち、主から愛の善を通して発しているためである、なぜならこの信仰は形をとった仁慈に属しているからである。