老年
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
1.聖書
テモテ1・5・1
老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義553
天界に相互的な愛の中にいる者たちは絶えずその若い青春期へ進んでおり、数十年間生きるに応じて益々喜ばしい幸福な春へ進んで行くのである。年老いて死に、身も衰弱したものの、主に対する信仰と隣人への愛とその夫との幸福な結婚愛に生きた女性達は年が経つにつれ益々青春の花盛りへ進み、自然的な視覚に認められることができるような美の凡ゆる観念さえも凌駕した美しさに入って行くのである。なぜならそれは善と仁慈とがそのもの自身に似た形を形作り、示し、その容貌の最小の造作の各々からさえも仁慈の歓びと美しさとを輝き出させているものであり、かくてそれらは仁慈の形そのものとなって、或る者はそれらを眺めて、驚嘆するからである。他生で、そのあるがままに見られる仁慈の形はこうしたものであり、表現し、また表現されるものは仁慈そのものであり、しかしそれは天使全体が、とくにその顔がいわば仁慈となり、仁慈が明白に眼前に現れもし、心に認められるようにもなっているのである。こうした形が見られるとき、それを見る者の心の最も内なる生命そのものを仁慈をもって感動させるものはその言い尽くし難い美である。この形の美を通し信仰の諸真理は映像となって目のあたりに示され、そこから認識されさえもしている。主に対する信仰の中に、すなわち、仁慈の信仰の中に生きた者はこうした形にまたはこうした美になるのである。天使は凡て無数の変化をもったこうした形であり、天界はこうした者から成っているのである。
天界の秘義1852
15節「あなたは平安の中に[安らかに]あなたの父祖のもとへ行くであろう、あなたは十分な老年の中に[十分年老いて]葬られるであろう」。『あなたは安らかにあなたの父祖たちのもとへ行くであろう』はいくたの善と真理とは一つとして害われはしないことを意味し、『あなたは十分に年老いて葬られるであろう』は主のものである者たちによりあらゆる善が享受されることを意味している。
天界の秘義1854
「あなたは充分に年老いて葬られるであろう」。これは主のものである者によりあらゆる善が享受されることを意味していることは、死んで葬られる者は死にはしないで、明確でない生命から澄明な生命へ移って行くという事実から明白である。なぜなら身体の死は単に生命の継続にすぎないのであり、またその完成にすぎないのであり、主のものである者たちはそのときはじめてあらゆる善を享受するようになるからであって、その享受が『充分な老年』により意味されているのである。かれらは『死んだ』、『葬られた』、『父祖のもとへ集められた』という表現に私たちはしばしば接するが、しかしその内意ではそれらは文字の意義の中に意味されていることと同一のことを意味してはいない。内意には死後の生命に属して永遠のものであるものが存在しているが、しかし文字の意義には世の生命のものであって時間に属しているものが存在しているのである。
[2]したがって(天使たちのように)内意の中にいる者たちはこうした表現に接しても、決して死と埋葬の観念[考え]の中には止まっていないで、生命の継続に関係したものの中に止まっている、なぜなら彼らは死を極めて粗悪な性質を持った、時間に属しているものを脱ぎ去ること以外の何ものでもないものとして、また真実の生命の継続としてのみ認めているからであり、事実かれは死とは何であるかを知ってはいないのである、なぜなら彼らはそれについては何ごとも考えないからである。人間の年齢の場合もそれに似ており、それでここに『充分な老年になって』と言われているときは、天使たちは些かも老年を認めはしないで、じつに彼らは老年とは何であるかを知ってはいないのである、なぜなら彼らは成人期の初期と青年期の生命に向って絶えず進みつつあるからである。こうした生命が、従ってその生命の天的な霊的なものが『充分な老年』とそれに類した表現が聖言に用いられているとき意味されるものである。
天界の秘義2198
「アブラハムとサラとは年をとっていた」。これは主における人間的なものを、すなわち、それが脱ぎすてられねばならなかったことを意味していることは、アブラハムとサラとの表象から明白であり、また同じく『年をとる[老いる]』と『老年』の意義からも明白である。この章にくり返し言われているように、ここのアブラハムは合理的な善の方面の主[主の合理的な善]を表象し、サラは合理的な真理の方面の主[主の合理的な真理]を表象しており、かくて各々はここでは、前に言ったように、以下の理由から主における人間的なものを表象しているのである、すなわち、エホバは今や臨在されて、アブラハムと語られたのであるが、エホバは主の神的なものそれ自身であって、主からは分離されてはいなかったのである―たとえ歴史的に表象されているものの中では分離しているものとして示されてはいるが。なぜなら歴史的なものによってはそれはそのようにしか表象されることができないからである。しかし『アブラハムとサラとは年をとっていた』と言われていることがかの人間的なものが脱ぎ去られねばならないことを意味していることについては―『老年』は最後のとき以外の何ものをも意味していないのである。『老年』は聖言に色々な所に記されており、同じくまた人々は『死んだ』とも記されているが、しかし内意では、身体の老年または死といったものは決して認められてはいないで、その事柄の連続から明白になっている他の事柄が認められているのである、なぜなら他生では老年と死とは知られていないからである。ここに意味されていることは前に言われたように、事柄の連続から明白であり、すなわち主は人間的なものを脱ぎ棄てられねばならなかったことが意味されているのである。
天界の秘義3016
「アブラハムは老いて、日の中へ来た」。これは主の人間的なものが神的なものになされる状態が切迫したとき、を意味していることは以下から明白である、すなわち、アブラハムの表象は主であり(1893、1965、1989、2011、2172、2198、2501、2833、2836その他多くの箇所を参照)、『老いる』または『老年』の意義は人間的なものを脱いで、天界的なものを着けることであり(1854、2198番を参照)、そのことが主について述べられているときは、神的なものを着けることである、そのことはまた『日』の意義が状態であり(23、487、488、493、893、2788番を参照)、そこから『日の中に来ること』の意義がその状態が切迫したときであることから明白である。『老いる』と『日の中へ来ること』によりこのような事柄が意味されているのは以下の理由によっている、すなわち、天使たちは『日に入ること』により意味されている老年をまたは高年を何ら考えないで、自分たちがその中にいる生命の方面の状態を考えるのであり、それで聖言に年が進むことや老年のことが言われていると、人間のもとにいる天使たちは、その人物たちがその中におかれているところの、また人間がその年齢を経てその最後にまでさえもいたる間におかれているところの状態以外のものは何ら考えることはできないのであり、すなわち、人間はこのようにして順次人間的なものを脱ぎ棄てて、天界的なものを着けるという以外のものは何ら考えることはできないのである。なぜなら人間の生命は、幼少期から老年にいたるまでも、この世から天界へ進んで行く事意外の何ものでもなく、死である最後の年はその移行そのものであるからである。それで埋葬は完全に脱ぎ棄てることであるため、復活である(2916、2917番を参照)。天使たちはこのような考えの中にいるため、主として天使たちのために存在し、また天使的な心を持っている人間のために存在している内意では、『日の中へ来ること』によっては、また『老年』によってはそれ以外のものは何ら意味されることはできないのである。
天界の秘義3492
「イサクは老いるようになった」。これはその状態が切迫した時を意味していることは『老いること[年をとること]』の意義から明白であって、それは新しい状態が現れる[現存する]ことである、なぜなら聖言では『老年』は前の状態を脱ぎ去ることのみでなく、新しい状態を着けることを意味しており、しかもそれは以下の理由によっているのである、すなわち、老年は形体的な物が脱ぎ去られ始め、それとともにその前の時代のいくたの愛も脱ぎ去られ始め、かくて内部が明るくされ始めるところの年齢の最後である、なぜなら形体的な物が遠ざけられると、内部は明るくされるからである、それはまた天使たちは、聖言に在る事柄を霊的に認識しているため、老年のことはもはや全く考えなくなって、代って新しい生命を考えるのであり、かくてここでは、その状態が切迫したことを考えるためである、すなわち、イサクにより表象されている神的な合理的なものがそれ自身に相応した自然的なものを欲したことを、すなわち、同じくまた神的なものである自然的なものを欲したことを考えるためである。
天界の秘義4676
「老年」の意義は前の状態を脱ぎ棄てて、新しい状態を着けることであり、また生命が新しくなることである(3492,4620)。
なぜなら「老年」はその内意では老年を意味しないからである。それは内なる人はまたは人間の霊は老年とは何であるかを知らないで、身体または外なる人が老いるにつれて、内なるものは生命の新しさに入り、人間の霊は年令により、その身体の力が減退するにつれ、完全なものになるためである。このことは他生ではさらに真である。なぜならそこでは天界にいる者たちは絶えず主によりさらに完全な生命の中へ入れられており、ついにはかなり老年になって死んだ者たちでさえも、青春の開花期へ入れられるからである。このことから老年によりその内意では生命が意味されていることを認めることができよう。それ自身の生命がその中に在ることにより意味されていることは前に説明しておいた(4667番)。
天界の秘義5608[9]
しかしながら小さな子供たちの無垢については、それはたんに外なるものであって、内なるものではない、それは内なるものではないため、いかような知恵とも連結されることはできないのである。しかし天使たちの、とくに第三の天界の天使たちの無垢は内なる無垢であり、かくて知恵と連結している(2305、2306、3494、4563番)。人間は年をとり、小さな子供のようになると、幼児の頃に持っていた無知の無垢に知恵の無垢が連結され、かくてかれは真の幼児として他生へ入って行くように創造されているのである。
マリア・ヴァルトルタ27・1/天使館1巻P217
天使たちは年老いることがありません。彼らは、そのうちに反映する神の永遠の今によって、永遠の若さによって、永遠に美しいものたちなのです。
天界と地獄414
天界にいる者たちは絶えず生命の青春に向って進んでおり、数千年生きれば生きるほど、その到達する青春は喜ばしく、また幸福になり、しかもこれは永遠に続き、彼らの愛、仁慈、信仰が進むに応じ、またその度に応じて増大している。年をとって、老齢のためやせ衰えて亡くなった婦人たちも、もし主に対する信仰と、隣人に対する仁慈とに生き、夫と幸福な結婚愛に生きたならば、年の経過につれて、益々青春とうら若い女性時代の花盛りに入り、地上の美からは考えることもできない美に入って行く。善良と仁慈とが彼らの中にその善良と仁慈そのものの姿を形作り、また示しており、仁慈の喜びと美とをその顔の凡ゆる線から、実にその最小の線からも輝き出させ、かくて彼らは仁慈そのものの形となっている。仁慈の形は、天界ではそのあるがままに見られるが、それは仁慈そのものが表現し、またその表現されたものであり、しかもそれは天使全体が、とくに顔が、いわば仁慈であり、それが明らかに目に見え、また明らかに認められるようになっている。この形は、目に映じると、言うに言われぬほど美しく、その最内部の生命そのものに仁慈を覚えさせる。約言すれば、天界では老いることは若くなることである。主に対する愛と隣人に対する仁慈とに生きた者たちは他生ではこうした形、またはこうした美になる。天使たちは凡てこうした形であって、それは無限に変化しており、天界はこの形から成っているのである。
天界の秘義5804
『老年』の意義は生命の新しさである(3492、4220、4676番を参照)。