他生を信じない
これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました(マタイ11・25)/
1.他生を信じない
2.死んで生き返った者はいない
3.単純な者たちは霊魂についてはそのような考えは持たないで、自分たちは死後も生きると信じている
4.その理由は彼らは善の中にはいないで、善を通して光の中にいないということ
5.しかし彼は奈落の者らの間にいる
6.それで人間はこれを楽しまなくてはならない、なぜなら人間は死ぬ時は、全く死んでしまうのだから、と信じている
7.永遠に幸福であることを願われる方は自分は死後も生きることを知り、また信じられるように
8.内なる人が閉じられている者らは内なる人が在ることを知らないし、また彼らは天界と永遠の生命が在ることを信じもしない
9.学者たちの中では僅かな者しか―一千人の中殆ど一人位しか―人間は死後も生きることを、即ち、人間の形をとって生きることを信じてはいない
10.ユダヤ民族
11.自己と世への愛の中にいる者は天界と地獄の存在することを信じないし、従って死後生命の在ることも信じない
12.目に見えないから存在しない
13.悪を罪として避けない者は、その心に、人間は死後生きないと信じている
マタイ22・23
その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。
使徒言行録23・6−8
パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」 パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。
1.他生を信じない
天界の秘義946
死後の生命についての、全く何の観念[考え]にもならない、極めて全般的な、曖昧な観念以外には如何ような観念も存在していない結果、そしてそうした観念[考え]を、人間は自分の目で霊魂または霊を見ていないと考えて、そこから自分自身に確認してしまった結果、他生におけるかくも多くのまたかくも驚嘆すべき物の存在を僅かの者しか到底信じないであろうという事実について私は霊たちと語ったのである。学者でさえも、霊魂または霊が存在していると言ってはいるけれど、技巧的な言葉や、専門語に執着し―その専門語を事物の理解を助けるよりはむしろ曖昧にしまたは消滅させさえもしているが―かくて自分自身を自己と世とに献げているが、全般的な安寧や天界には滅多に捧げはしないため、感覚的な人間よりも更に信じはしないのである。私が語りかけた霊達は、人間は自然そのものの中に、またその物界の各々の中には人間の知らない多くの驚くべき、また色々な物が存在していることを知っているのに、例えば内なる人間の耳の中にはそうしたものが存在して、それについては一冊の書物を書くべき、人が聞いたこともない物で満たすことも出来るが、またたれでもそうしたものが存在していることを信じているのに、人間がこうした性格のものとなってしまうことを怪しんだのである。しかし霊界について―そこから自然の幾多の物界の凡ゆる物が全般的にもまた個別的にも発生しているのに―何かが言われても、前に言ったように、それは目に見えないから存在しないという考えが先入観ともなり、また確認もされているため、殆どたれもがそれを信じはしないのである。
天界の秘義1200
『カナン』はその内に内なるものを何一つ持っていない外なる礼拝を意味していることは前にカナンを取り扱った所に示した。『カナン』と呼ばれている外なる礼拝は主が来られる前の、また主が来られた後のユダヤ人のそれのようなものである。彼らは外なる礼拝を持ち、これを厳格に守りはしたがそれでも自分たちはただ身体をもってしか生きていないと考えていた程にも内なるものについては全く無知であったのである。霊魂の性質については、信仰について、主については、霊的な天的な生命の事柄については、死後の生命については、彼らは全く無知であったのである。それで主の時には彼らの極めて多くの者は―マタイ22・22−33、マルコ12・18−28、ルカ20・27−41に明白なように―復活を否定したのである。人間は自分が死後も生きることを信じないといったものになると、彼はまた霊的なものであり、天的なものである内なるものが何か存在していることを信じないのであって、単なる欲念の中に生きている者らは、身体と世との生活を送っているため、そうしたものとなり、特に嫌忌すべき貪欲に溺れている者らはそうしたものになるのである。にも拘らず彼らは礼拝を持っていて、その会堂にまたは教会に出席し、儀式を守り、或る者は極めて厳格にそれを守っているが、しかし彼らは死後に生命があることを信じていないため、その礼拝は、核のない貝がらのように、果のならない、また葉さえもない木のように、内なるものを何ら持たない外なる礼拝以外のものでは有り得ないのである。『カナン』により意味されているものはこうした外なる礼拝である。前に取り扱われた他の種類の外なる礼拝は内に内なるものを持った礼拝であった。
天界の秘義1630
霊たちは、人間が霊たちと天使たちの生命については何の考えも持っていないで、霊たちや天使たちは極めてもの悲しいものとならないわけにはいかない明確でない状態の中に、いわば虚無と空虚の中にいると考えていることに非常に怒っているのである。人間はそのように考えてはいるものの、彼らは最大の光の中にいて、その感覚のすべての方面で凡ゆる善いものを楽しんでおり、しかもそれがそれらを最も深く認識しつつ行われているのである。また最近世から来たばかりの霊魂たちがいた。彼らは世で受け入れた原理から、他生にはこうしたものは存在しないという観念[考え]を抱いてきたのである。そこで彼らは天使たちの家へ案内されて、そこにいる者たちと語って、これらのものを見たのである。彼らは帰ってくると、自分たちはそれがそうであることを、またその事物はまことであることを認めたが、自分たちは身体の生命の中ではこのことを全く信じていなかった、だからそれを信じることは出来ないと言い、またこうしたものは必然的に、把握されないために信じられない驚嘆すべきものの一つであるに違いないと言った。しかし経験は感覚の事柄ではあるが、しかし内的な感覚のものであるため、彼らは以下のようにもまた言われた、即ち、それでもあなたたちはあなたたちが把握しないからといって疑ってはならない、なぜなら把握されるもの以外には何ごとも信じられないなら、内的な性質のものについては何ごとも信じられないし、ましてや永遠の生命に属したものについては何ごとも信じられはしないのである、と。ここから私たちの時代の狂気が発しているのである。
天界の秘義4776[3]
しかし彼らに浸透し、彼らのものとされるものは真理を否定するものである、なぜなら彼らは心では地獄と天界の存在することさえ信じておらず、死後の生命の在ることも信じないのであり、それで彼らは地獄と天界について、または死後の生命について言われていることを何一つ信じないのであり、かくて信仰と仁慈について聖言からまた教義から言われることを全く一つとして信じない。
天界の秘義5006[4]
それでも事実は、人間はこの世におけるその活動によって天界のものである事柄の中へ導き入れられるためにこの世にいるのであり、この世における彼の生命は死後の彼の生命に比較するならば一瞬にも当らないということである、なぜなら死後の彼の生命は永遠であるからである。しかし死後生きることを信じる者は僅かしかおらず、そうした理由からもまた、天界の事柄は彼らには全く取るに足らないものとされている。しかし私は以下のことを確実に宣言することが出来るのである、すなわち、人間は死後直ぐに他生に入り、この世における彼の生命はそこにも全くそのまま継続し、それはこの世で持っていたと同じ性質を持っているのである。そのことを私は知っているため、それを主張することが出来るのである、なぜなら私は身体の生命の中で私の良く知っていた殆ど凡ての者とその死後も語って、生きた経験からいかような運命が各人を待っているかを、すなわち、その生命に応じた運命が彼を待っていることを知ることが出来たからであるが、しかしこのような性質の者たちはその事柄さえ信じないのである。
天界の秘義7490
以下のこともまた明白である、即ち、人間は自己と世への愛の中にいるに応じて、仁慈の何であるかを知らないし、遂にはそれが存在することも知らなくなり、またその人間は信仰の何であるかを知らないし、遂にはそれが何か意味のあるものであることも知らなくなり、またその人間は良心の何であるかを知らないし、遂にはそれが存在することも知らなくなり、否、その人間は霊的なものの何であるかを知らないし、天界の生命の何であるかも知らないし、遂には天界と地獄の存在することを信じないし、従って死後生命の在ることも信じないのである。こうしたことは自己と世への愛が(人間を)支配するとき、その愛から生まれてくるのである。
天界と地獄452
私は或る者たちとその死後三日目に―そのとき前に記したようなことが起ったのであるが(449)―語り、ときに世では私に知られていた三人の者と話して、その者たちに、今あなたたちを埋葬するため葬いの手筈が取られていると言った。私は、あなたたちを埋葬するために、と言ったのであるが、それを聞くと彼らは非常に驚いて、自分たちは生きており、世で自分たちに役立ったものが埋葬されているのであると言った。その後で彼らは、自分たちが身体の内で生きていた時、死後のこうした生命を信じなかったことを非常に不思議がり、特に教会内で殆ど凡ての者がそれを信じていないことを不思議がったのである。霊魂は身体の生命の後にも何らかの生命を持っていることを世で信じなかった者らは、死後も自分たちが生きていることを知ると、非常に恥じるのである。しかしその不信仰を確認した者らはその者らに似た者と交わって、信仰を持っていた者たちから分離してしまう。彼らの大半は奈落の何らかの社会に結ばれているが、それは彼らはまた神的なもの[神]を否定して、教会の諸真理を嘲笑したためである。なぜなら何人でも己が霊魂の永遠の生命を否認するに比例して、天界と教会との事柄もまた否認するからである。
新エルサレムの教義44
内なる霊的な人が天界の中へ主に向って開かれている者たちは天界の光の中におり、主から明るくされて、そこから理知と知恵の中におり、これらの者は真理をそれが真理であるために見、善をそれが善であるために認めている。しかし内なる霊的な人が閉じられている者らは内なる人が在ることを知らないし、まして内なる人の何であるかは知らない。彼らはまた神的なもの[神]がおられることを信じないし、死後に生命の在ることも信じないし、従って天界と教会とに属した物も信じない。そして彼らは単に世の光の中にのみおり、そこからのみ明るくされているため、自然を神的なもの[神]として信じ、誤謬を真理として見、悪を善として認めている。
2.死んで生き返った者はいない
天界の秘義5224[2]
何か内なる人が在るか、否かは、また身体のものである状態以外の霊魂の状態が何か在るか否かは、否、死後生きる霊魂が在るか、否かは私には疑問の種である。たれか死人の中から帰って来て、それを明らかに言ったか、と。
天界の秘義5224[3]
こうした理解の明確でない状態は古代人の間には決して存在しなかったのである。内的な事柄を涵養し、かくして理解のみでなく意志の能力を完全なものにし、そのことにより霊魂の幸福に備えることが彼らの知恵であったのである。古代人はこうした事柄に注意を払ったことは今でも存在している彼らの文書から明らかであり、また凡ての者がソロモンに聞こうと願ったことからも明らかである―
それゆえソロモンの知恵を聞こうとして凡ての民から来た者がおり、地の凡ゆる王からも来た者がいた、彼らはその知恵を聞いたからである(列王記上4・34)。
それ故シバの女王も来て、彼女はソロモンの知恵を聞いて心に覚えた幸いから以下のように言ったのである―
何と祝福されたことでしょう、あなたの家来たちは。何と祝福されていることでしょう、これらのあなたの僕たちは。彼らは絶えずあなたの前に立って、あなたの知恵を聞いています(列王記上10・8)。
天界と地獄1
今日の教会人は、天界と地獄については、または死後の自分自身の生命については、その事が凡て聖言に記されてはいるものの、殆ど何事も知ってはいない。実に、教会内に生まれている多くの者はそれを否定さえもして、心で、誰がその世界から来て、我々に話してくれたかと言っている。それゆえ世の知恵を多く貯えている者らのもとに特に広がっているこうした否定が心の単純な者や信仰の単純な者にも感染して、彼らを堕落させないように、私は天使たちと交わって、人間が人間と話すように彼らと語り、また諸天界に在る物と諸々の地獄に在る物とを眺めることを許されたのであり、このことは十三年も続いているのである。それゆえ私は今これらの事柄を私の見聞したものから記すことが出来るが、それはそのことによって無知[な心]が明るくされて、不信仰も解消するようにとの希望からである。現今こうした直接の啓示が与えられたのは、これが主の来られることにより意味されているものであるからである。
天界と地獄312
それらはこの信仰を破壊したことは以下のように言う者から明白である、即ちたれが天から私たちのもとへ来て、それがそうであると告げたか。
3.単純な者たちは霊魂についてはそのような考えは持たないで、自分たちは死後も生きると信じている
天界の秘義3428[3]
死後の生命、死人の復活、最後の審判、天界と地獄の場合も同じである―これらのものは存在するか否かと単に議論しているにすぎない者は、その間知恵の扉の外側に立っていて、たんにノックするのみで、知恵の壮麗な宮殿の中を覗き込むことは出来ない人物のようなものである。しかも奇妙なことにはこのような人間は自分自身を他の者に較べて賢明な者であると信じており、何かの事柄がそうであるか否かと論じ、特にそれはそうではないと立証することが出来る自分たちの才能に比例して賢明な者であると信じているが、それでも善の中にいて、彼らからは軽蔑されている単純な者たちは、その物が存在し、またその性質のいかようなものであるかを、一瞬にして、何らの議論もなしに、ましてや学問のある論争もなしに認めることが出来るのである。これらの者は真理を認識することについては常識を持っているに反し、前の者はその物が何らかの存在を持っているか否かをとりわけ論じようと欲して、このような方法によりこの常識を消滅させてしまっているのである。主が賢い者と理知ある者から事柄は隠されているが、幼児には示されていると言われるとき、主は前の者についても、後の者についても語られているのである(マタイ11・25、ルカ10・21)。
天界の秘義6053
そしてこのように人間は霊魂について何の観念も持つことが出来なかったため、極めて多くの者は、霊魂は身体が死ぬと消滅してしまう単なる生命的なものに過ぎないという信念を避けることが出来なかったのである。そしてこのことが学者が単純な者よりも死後の生命を信じていない理由であり、彼らはそれを信じていないため、その生命に属して、信仰と愛との天界的な霊的なものであるものも信じることが出来ないのである。このこともマタイ伝の主の御言葉から明らかである―
あなたは賢い者と知的な者とからこれらのことを隠されて、幼児に啓示されました(マタイ11・25)。
更に―
彼らは見ない、聞くけれど、聞かない、また悟りもしない(マタイ13・13)。
なぜなら単純な者たちは霊魂についてはそのような考えは持たないで、自分たちは死後も生きると信じており、その単純な信仰の中に、彼らには知られてはいないものの、自分たちはそこに人間として生き、天使たちを見、天使たちと語り、幸福を得るであろうという信念が隠れているからである。
4.その理由は彼らは善の中にはいないで、善を通して光の中にいないということ
天界の秘義6400[2]
真理の中にはいるが、未だ善の中にいない者らは最低の自然から発している妄想から善と真理について論じるため、妄想の何であるかを言う必要がある。例えば死後の生命を考えられたい。真理の中にはいるが、未だ善の中にはいない者らのように、最低の自然から発した妄想の中にいる者らは人間の中にはその身体以外には生きるものが何か在ることを信じはしないし、また人間は死ぬと、その身体を再び受けない限り、再び甦ることが出来ることも信じはしないのである。もし彼らは、身体の内には内的な人が生きていて、それは身体が死ぬ時主により甦らされ、人間は甦ると、霊または天使たちが持っているような身体を持っており、見、聞き、語り、他と交わり、丁度この世の人間のように、自分が全く人間のように自分自身に見えるということを告げられても、それを把握することは出来ないのである。最低の自然から発した妄想から彼らはこうした事は不可能であると信じるが、それは主として彼らはそれを彼らの身体の肉眼で見ないという理由からである。
天界の秘義6400[3]
更にこのような人物は霊または霊魂について考えると、それについては自然の中の目に見えない物について抱くような考え以外にはいかような考えも抱かないで、そこからそれを単なる息か、または空気のようなもの、またはエーテルのようなもの、または焔のようなものとしてしまい、中には、それが再び身体に結合されるまでは殆ど何ら生命力を持っていない単なる思考力であると考える者もいるのである。彼らがこのように考える理由は彼らには内的なものは凡て陰と暗黒の中に置かれ、ただ外なる物のみが光の中に在るということであり、そのことは彼らはいかに容易に過ちに陥るかを示している、なぜなら彼らは身体がいかようにして再び共に集められることが出来るかにつき、世の破壊につき、そのことはかくも多くの代に亘って徒に期待されてきたことにつき、獣も人間の生命に似ていなくはない生命を持っていることにつき、死んだ者は一人として現れてきて、その生命の状態を知らせはしないことにつきただ考えさえするなら―彼らはこうしたことやまたその他それに類したことを考える時は、容易に復活の信仰から遠ざかるのであるが、他の多くの場合でも同じである。その理由は彼らは善の中にはいないで、善を通して光の中にいないということである。これが彼らの状態であるため、『その乗る者は後向きに倒れる、ああ、エホバよ、私はあなたの救いを待っています』とまた言われているのである。このことにより主が助けを与えられない限り、そこから後退が生まれることが意味されているのである。
5.しかし彼は奈落の者らの間にいる
(死後の生命を信じはしなかった霊たちはそのことが彼らに示されると仰天する)
霊界日記792
私に知られていたある一人の霊はその身体の生命の間では、たとえ今わの際では祭司から死後の生命を説得されたものと私は考えてはいるものの、その生命を信じてはいなかった。彼は色々な手段により彼が他生にいることを示されると、殆どそのことを納得することも出来ないほどにもびっくり仰天して、自分はかくも長い間自分に類似した霊たちの仲間であったのに、反省もしないであのように生きていた、と言った。しかし彼は奈落の者らの間にいる。1748年〔60歳〕2月15日。
死後に生命はないとすっかり思い込んでいた同じような霊が一人たった今し方までその場にいた。彼は死後の生命について他の者らと話したが、自分が他生にいることを反省もしないで、その信念を主張した。彼は暗い部屋の奈落の者らの間にいる。1748年〔60歳〕9月8日(*)
*この最後の項目は後にスエデンボルグがその表を作っていた際挿入されたものである。3102番参照(英訳者)。
6. それで人間はこれを楽しまなくてはならない、なぜなら人間は死ぬ時は、全く死んでしまうのだから、と信じている
イザヤ22・12−13
その日には、万軍の主なる神が布告された。
嘆くこと、泣くこと
髪をそり、粗布をまとうことを。
しかし、見よ、彼らは喜び祝い
牛を殺し、羊を屠り
肉を食らい、酒を飲んで言った。
「食らえ、飲め、明日は死ぬのだから」と。
コリント1・15・32
単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。
天界の秘義7352
「川は蛙を這い出させるでしょう」。これは、これらの誤謬から幾多の理論が発生するであろう、を意味していることは以下から明白である、即ち、『エジプトの川』の意義は誤謬であり(6693、7307番)、『蛙』の意義は(前の7351番のように)理論である。『蛙』が理論を意味していることは、彼らは水の中にいて、盛んに騒がしい音を立て、鳴き、また不潔な物の中にいるためである。単なる誤謬そのものから発した理論のいかようなものであるかを若干の例により説明しよう。凡ゆる物は神的なもの[神]から発生しており、自然は神的なものが働く媒介的な手段であるのに、凡ゆる物を自然に帰して、殆ど何ごとも神的なものに帰しはしない人間は単なる誤謬そのものから論じるのである。人間は獣のようなものであって、単に考えることが出来るため、獣よりは完全であるに過ぎない、それで獣のように死んでしまうと信じ、かくして信仰に属した思考と愛に属した情愛とを通して人間が神的なものと連結していることを否定し、そこから人間の復活と永遠の生命を否定する者、こうした人間は単なる誤謬そのものから論じており、こうした人間は誤謬そのものから語っているのである。地獄は存在しないと信じている者も同様である。そしてまた人間の得る一切はこの世の生命の歓喜であり、それで人間はこれを楽しまなくてはならない、なぜなら人間は死ぬ時は、全く死んでしまうのだから、と信じている者も同じである。一切の物は自分自身の才智に、また運に懸かっていて、神の摂理には―その全般的なものを除いては―懸かってはいないと信じている者は単なる誤謬そのものから論じているのである。また宗教は単純な者を拘束する以外には無用の長物であると信じている者もまた同じである。聖言は神的なものではないと信じる者らは特に誤謬そのものから論じているのである。約言すると、真理の神的なものを全く否定してしまう者らは誤謬そのものから論じるのである。
7.永遠に幸福であることを願われる方は自分は死後も生きることを知り、また信じられるように
天界の秘義8939
それで永遠に幸福であることを願われる方は自分は死後も生きることを知り、また信じられるように。その方はこのことを考えて、それを心に留められるように。なぜならそれは真理であるからである。またその方は、聖言は、人間が永遠に幸福になるためには世でいかように生きなくてはならないかを教えている唯一の教義であることを知り、また信じられるように。
8.内なる人が閉じられている者らは内なる人が在ることを知らないし、また彼らは天界と永遠の生命が在ることを信じもしない
天界の秘義9709
内なる人が閉じられている者らは内なる人が在ることを知らないし、また彼らは天界と永遠の生命が在ることを信じもしない。そして驚くべきことには、それにも拘らず彼らは自分らは他の者よりも賢明に考えていると考えているのである、なぜなら彼らは彼ら自身を、また彼らに属するものを愛して、それらを拝しているからである。内なる人が天界に向って主へ開かれている者たちの場合は異なっている、なぜならこれらの者は天界の光の中におり、かくて主から明るくされているに反し、前の者は天界の光の中にはいないで、世の光の中におり、かくて自己から明るくされているからである。自己から明るくされてはいるが、主から明るくされていない者らは、誤謬を真理として、悪を善として認めている。
9.学者たちの中では僅かな者しか―一千人の中殆ど一人位しか―人間は死後も生きることを、即ち、人間の形をとって生きることを信じてはいない
霊界日記5245(第8巻)
「私は復活についてマホメット教徒と話して、以下のように言った、即ち、復活は世界の凡ゆる物がまさに死滅するばかりにならない中は起りはしないのであり、その時になると〔死滅するばかりになると〕身体と霊魂とは結合すると、キリスト教国に信じられており、また、学者たちの中では僅かな者しか―一千人の中殆ど一人位しか―人間は死後も生きることを、即ち、人間の形をとって生きることを信じてはいないのである、と。こうした事柄に彼らは驚いて、言った、自分たちは、自分たちが死後も生き、その際人間となることを知っており、自分たちは、世で、かの粗悪なスフィアの中で―自分たちに役立ったその着物をただ脱ぎ去ったに過ぎないのである、と。彼らはキリスト教徒がこうしたことを、それが最大に重要な意義を持っているものであるにも拘らず、知りはしないことを怪しんだのである。
10.ユダヤ民族
マタイ22・23
その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。
天界の秘義3769[2]
聖言が閉じられていることにより意味されていることは特にユダヤ人から認めることが出来よう、 彼らは一切の物を文字に従って説明し、そこから、自分たちは地の面に凡ゆる国民にも優先して選ばれたものであり、メシアは来られて自分たちをカナンの地へ連れて行き、地の凡ゆる国民と民の上に高めるであろうと信じているのである、なぜなら彼らは地的な形体的な愛の中に惑溺してしまっており、そうした愛は聖言をその内的な物の方面で全く閉じてしまうといったものであるからである。それで彼らは未だ天国が在るか否かを、自分たちは死後も生きるか否かを、内なる人とは何であるかを知ってはおらず、霊的なものが在ることさえも知っておらず、ましてやメシアは魂を救うために来られたことを知ってはいないのである。聖言が彼らに閉じられていることは、彼らが、イザヤ書の以下の言葉に応じて、基督教徒の間に生きてはいるものの、その教義的なものを些かも受け入れはしないという事実からもまた充分に明白となるであろう―
この民に言いなさい、あなたたちは聞いて聞きなさい、が、悟ってはならない、見て、見なさい、が、認めてはならない。この民の心を鈍くし、耳を重くし、目をめくらにしなさい。で、わたしは言った、主よ、いつまででしょうか。かれは言われた、町々が住む者もなく、家々が人もなく荒れ、土地は荒れてもの淋しい所となるまで(イザヤ6・9−11、マタイ13・14、ヨハネ12・40、41)。
天界の秘義6963〔2〕
なぜならもし彼らが聖言の内なる事柄を知り、また彼らの間にある教会の祭儀により表象されている諸真理そのものを知り、それらを信じて、しかも彼らの性向に従って生きたとするなら、即ち、自己への愛と世への愛との中に生き、彼ら自身の間では憎悪と復讐の中に、異邦人に対しては残酷の中に生きたなら、彼らは必然的に、そのかつて信じた真理を冒涜したに違いないからである、なぜなら真理を信じつつも、それに反して生きることはそれを冒涜することであるからである。それで彼らは可能な限り内なる真理にかかわる知識から遠ざけられて(3398、3489番を参照)、自分たちは死後も生きることを知りさえもせず、メシアは魂を永遠に救うために来られていることを信じもしないで、その民族を世界の凡ゆる他の民族にもまさって高揚させるためにのみ来られると信じるほどにもなったのである。そしてその国民はそうしたものであったのであり、現今でもまたそうしたものであるため。それで彼らは例え基督教国の真中に住むとしても、依然信仰からは遠ざけられているのである。それでそこから癩病の性質が特にそのように記されたのである。
11.自己と世への愛の中にいる者は天界と地獄の存在することを信じないし、従って死後生命の在ることも信じない
以下のこともまた明白である、即ち、人間は自己と世への愛の中にいるに応じて、仁慈の何であるかを知らないし、遂にはそれが存在することも知らなくなり、またその人間は信仰の何であるかを知らないし、遂にはそれが何か意味のあるものであることも知らなくなり、またその人間は良心の何であるかを知らないし、遂にはそれが存在することも知らなくなり、否、その人間は霊的なものの何であるかを知らないし、天界の生命の何であるかも知らないし、遂には天界と地獄の存在することを信じないし、従って死後生命の在ることも信じないのである。こうしたことは自己と世への愛が(人間を)支配するとき、その愛から生まれてくるのである。
天界の秘義946
死後の生命についての、全く何の観念[考え]にもならない、極めて全般的な、曖昧な観念以外には如何ような観念も存在していない結果、そしてそうした観念[考え]を、人間は自分の目で霊魂または霊を見ていないと考えて、そこから自分自身に確認してしまった結果、他生におけるかくも多くのまたかくも驚嘆すべき物の存在を僅かの者しか到底信じないであろうという事実について私は霊たちと語ったのである。学者でさえも、霊魂または霊が存在していると言ってはいるけれど、技巧的な言葉や、専門語に執着し―その専門語を事物の理解を助けるよりはむしろ曖昧にしまたは消滅させさえもしているが―かくて自分自身を自己と世とに献げているが、全般的な安寧や天界には滅多に捧げはしないため、感覚的な人間よりも更に信じはしないのである。私が語りかけた霊達は、人間は自然そのものの中に、またその物界の各々の中には人間の知らない多くの驚くべき、また色々な物が存在していることを知っているのに、例えば内なる人間の耳の中にはそうしたものが存在して、それについては一冊の書物を書くべき、人が聞いたこともない物で満たすことも出来るが、またたれでもそうしたものが存在していることを信じているのに、人間がこうした性格のものとなってしまうことを怪しんだのである。しかし霊界について―そこから自然の幾多の物界の凡ゆる物が全般的にもまた個別的にも発生しているのに―何かが言われても、前に言ったように、それは目に見えないから存在しないという考えが先入観ともなり、また確認もされているため、殆どたれもがそれを信じはしないのである。
13.悪を罪として避けない者は、その心に、人間は死後生きないと信じている
神の摂理274
悪を罪として避けない者は、その心に、人間は死後生きないと信じており、そのため、人間は死後人間として生きると告げられようご、最後の審判の日に甦えると告げられようが、意に介しない。