理知的
天界の秘義6524[3]
第三の、または最も内なる天界にいる者たちは、かくて主に最も近い者たちは、『賢い者』と呼ばれているが、しかし真中の、または第二の天界にいる者は、かくて主にそれほど近くいない者たちは『理知的な者』と呼ばれている。
天界と地獄86
天使たちは、神を考えるときに、見えないものを、すなわち、いかような形の下にも把握出来ないものを考える人間が自分自身を理知的なものと信じており、そのように考えない者を―その反対が真理であるのに―非理知的で、単純な者と呼んでいることを不思議がったのである。彼らはそれに付け加えて[以下のように]言っている、「このようにして自分自身を理知的なものと信じている者らに自分自身に向って、自分たちは自然を神として見てはいないか、どうかと訊ねさせなさい。その中のある者は自分の目の前に在るものを、ある者は自分の目の前にないものを神として見てはいないか、どうか。また自分たちは、神とは何であるか、天使とは何か、霊とは何か、死後生きるに違いない彼らの霊魂とは何か、人間における天界の生命とは何か、その他理知に属した多くの物を知らないほどにも盲目ではないかどうか[訊ねさせなさい]。が、彼らが単純な者と呼ばれている者たちは、彼らなりに、凡てこれらの事柄を知っていて、神については、神は人間の形を持った神的なものであり、天使については、天使は天界の人間であり、死後生きるに違いない彼らの霊魂については、それは天使であり、人間のもとにある天使の生活については、それは神の教えに従って生きることであると考えているのである」。それゆえ、これらの者を、天使たちは理知的な、天界に適わしい者と呼んでいるが、これに反し、他の者を理知的でない者と呼んでいる。
天界と地獄349
世で理知と知恵を得た者は凡て、各々その理知と知恵の質と度とに従って、天界に迎えられて、天使となる。なぜなら人間が世で受ける理知は何であれ、死後も存続して、彼と共に、携えられて行き、更に増大して完全なものとなるからであるが、しかしそれは真理とその善に対する彼の情愛と願望の度の内で行われ、その度を越えては行われない。情愛と願望を僅かしか持たない者は僅かしか受けないが、しかもその度の中で受け得るだけのものは受けるのである。それで情愛と願望を多く持つ者は多く受ける、即ち、情愛と願望の度そのものは一杯になるまで中を満たされる升のようなものであり、それで大きな升を持っている者は多くのものを受け、升の小さな者は少ししか受けない。それがそうであるのは、情愛と願望とを持っている人間の愛は、その愛にそのものに和合したものを凡て受け、従って人間はその愛に応じただけのものを受けるためである。これが主の以下の御言葉により意味されている、「持っている者は与えられ、更に豊かに得るであろう」(マタイ13・12、25・29)。「彼の胸の中へ升目を充分にし、押さえつけ、揺すぶり、こぼれるほどにして与えられるであろう」(ルカ6・38)。
教会と聖言の教訓からであれ、また科学からであれ、多くの事柄を知っている者たちは、他の者よりも内的に、また鋭利に真理を認め、かくて更に理知的で、賢明であると世では信じられている。彼らも彼ら自身でそのように信じている。しかし真の理知と知恵のいかようなものであるか、似而非なる理知と知恵、誤った理知と知恵のいかようなものであるかを今以下の記事に述べてみよう。真の理知と知恵とは真で善いものを見、認め、それによって誤った、悪いものを見、認め、それらを良く識別し、しかもこれを内的な直覚と認識から行うことである。人間各々のもとには内部と外部とが在り、内部は内なる人、または霊的な人に属するものであるが、しかし外部は自然的な人に属するものである。人間の内部が形作られて、その外部と一つのものとなるに応じて、人間は見、また認識する。人間の内部は天界においてのみ形作られることが出来るが、その外部は世で形作られる。彼の内部が天界で形作られると、そのとき、その内部に在るものが世から発している外部に流れ入って、外部を内部に相応するように形作り、即ち、外部が内部と一つになって働くように形作り、そのことが為されると、人間は内部から見、また認めるものである。内部が形作られるただ一つの方法は人間が神的なもの[神]と天界とを仰ぐことである、なぜなら、今述べたように、内部は天界で形作られるからであり、そして、人間は、神的なもの[神]を信じ、また神的なものから真理と善とは凡て発し、従って理知と知恵とが凡て発していることを信じるとき、神的なものを仰ぐのであり、神的なもの[神]により導かれようと欲するとき、神的なものを信じるのである。この方法によってのみ人間の内部は開かれる。その信仰にいて、その信仰に従った生命にいる人間は理解し賢明になる力と能力とを持っている。しかし人間は理知的で賢明なものとなるためには、単に天界のもののみでなく、また世のものについても、多くの事を学ばなくてはならない、即ち、聖言と教会から天界に属する物を、科学から世に属する物を学ばなくてはならない。人間は学んで、生命[生活]に応用するに応じて、理知的で、賢明なものになる、なぜならそれらに応じて彼の理解に属する内的な視覚と意志に属する内的な情愛とは完全になるからである。この種のの単純な者とは、その内部は開かれてはいるが、霊的な、道徳的な、社会的な、自然的な真理によりさほど培われていない者たちであり、彼らは真理を聞くと、それを認めはするが、自分自身の中にはそれを見ないのである。が、この種の賢い者とは、その内部が開かれているのみでなく、また培われている者たちであり、これらの者は真理を自分自身の中に見もし、また認めもしている。これらの事柄から真の理知と知恵のいかようなものであるかが明らかである。
天界と地獄602
最後に、人間へ注がれている天界の流入から発しているところの、死後の人間の生命についての人間に先天的な抱かれている先入観念について若干述べておかなくてはならない。世では信仰の善に生きたところの、単純な、普通の人々の幾人かがいた。彼らは世にいたときおかれていたと同じ状態へ入れられ―こうしたことは何人にでも主が良しとされるなら、行われるのである―彼らは死後の人間の状態についていかような考えを抱いていたかをそのとき示されたのである。彼らは言った、理知的なある者たちが世で自分たちに向って、世の生命の後の自分たちの魂について、どう考えているかとたずねたが、自分たちは魂とは何であるかはわからないと答えたのである、と。彼らはさらに死後の状態について何を信じているかとたずねられたが、彼らは霊として生きることを信じている、と言った。次に彼らは霊についていかような信念を抱いているかとたずねられたが、霊は人間である、と言った。どうしてあなたらはそのことを知っておられるかと、またたずねられると、それがそうだから知っているのであると言った。彼らに質問をしたその理知的な人たちは、単純な者たちがそうした信仰を持っているのに、自分たち自身はそれを持っていなかったことを不思議がったのである。このことから、天界と連結している人間各々には死後の自分の生命については先天的な先入観念があることが明らかにされたのである。この先天的な先入観念は天界からの流入以外の源泉から発しているものではない、即ち、主から天界を通し、霊たちの世界から人間に接合している霊たちにより与えられるものである、こうした先入観念は、人間の霊魂について色々と論じられている議論から取り入れられ、また確認された主義によって、考える自由を消滅されていない者たちは持っているのである―人間の霊魂は純粋な思考か、または何か生命の原理であるかと言われて、それは身体の何処かに宿っていると探求されているが、事実は、霊魂は人間の生命以外のものではなく、その霊は人間そのものであり、人間が世で持ち回っている地的な身体は、単に代行者であって、この代行者により、その人間そのものである霊は自然界で適切に行動することが出来るのである。
神の愛と知恵428
しかしながら隣人に対する愛である霊的愛にいる者たちは、その生命に知恵を刻みつけられていないで、理知を刻みつけられている、なぜなら(前述したように)善への情愛から善を為すことは知恵に属するが、他方真理への情愛から善を為すことは理知に属するから。これらの者もまた信仰とは何であるかを知らない。信仰が語られると、彼らは真理を理解し、仁慈が語られると、真理を行うことを理解し、そして信じなくてはならないと言われると、それを無意味な言葉と呼んで、誰が真のものを信じないかと尋ねる。このように彼らが言うのは、彼らは真理を彼ら自身の光の中に見るからであり、それ故彼らの見ないものを信じることを単純と呼ぶか、または愚鈍と呼ぶかする。これらは前に記した肺臓の領域を構成する者である。