平伏

卑下卑下の相違

天界の秘義1999

 

「アブラハムは平伏した」。

これは崇拝を意味していることは説明なしに明白である。平伏することは最古代教会の、引いては古代教会の崇拝の儀式であったが、それは顔は内部を意味し、彼らの卑下の状態は平伏することにより表象されたという理由からであり、ここから表象的なユダヤ教会ではそれは慣習的な儀式となったのである。真の礼拝は、または心の卑下は、そこから自然に流れ出てくる動作として、主の前に面を下にして地に平伏することを伴っている。なぜなら心の卑下の中には自己を汚れたもの以外の何ものでもないものとして承認することが含まれると同時にそうしたものに対する主の無限の慈悲を承認することが含まれており、心がこの二つのことを承認する状態に置かれると、心そのものは自らを地獄の方へ卑下してうなだれ、身体を平伏させ、またそれが主によって持ち上げられるまでは、それ自らを持ち上げもしないからである。このことは凡ゆる卑下の中に起り、主の慈悲により持ち上げられることを認識するのである。こうしたものが最古代教会の人間の卑下であったが、しかし心情の卑下から生まれていない崇拝の場合は非常に異なっている。

 

 

天界の秘義2327

 

「彼は身を屈めて、顔を地につけた」(創世記19・1)。これは卑下を意味していることは、その意義を明らかにしなくとも認めることが出来よう。前の時代に、特に表象的な教会の中では、彼らが顔を地につける程にも身を屈めた理由は、顔は人間の内部を意味したためであり(358、1999番)、彼らが顔を地につけた理由は、地の塵は汚れた、罪に定められたものを意味したということであり(278番)、従って彼らはそのようにして、自分は自分自身では汚れて罪に定められたものであることを表象したのである。その同じ理由から彼らは平伏して、顔を地面に押しつけ、塵と灰の中にころげまわりさえもし、また頭に塵と灰とを振り掛けさえもしたのである(このことは哀歌2・10、エゼキエル27・30、ミカ1・10、ヨシュア7・6、黙示録18・19、その他から認めることができよう。)

 

 

天界の秘義2327 [2]

 

このすべてにより彼らは真の卑下の状態を表象したのであるが、それは彼らが自分は自分自身では汚れた、罪に定められたものであることを承認しない限り、かくて自分は自分自身では、そのもとには神的な聖いもの以外のものは何一つ存在していない主を見上げることは出来ないものであることを承認しない限り、たれにもあり得ないのであり、そうした理由から人間は自己を承認するに比例して、真の卑下の中におり、礼拝を捧げているときは、崇拝の中にもいるのである。なぜなら凡ゆる礼拝の中には卑下が無くてはならないのであり、もしそれがそこから分離しているなら、崇拝は何一つなく、かくて礼拝も何一つないからである。

 

 

天界の秘義7068

 

「彼らは身を屈め、頭を垂れた」。これは卑下を意味していることは、『身を屈め、頭を垂れること』の意義から明白であり、それは卑下の結果起るものであるが(2153、6266)、しかし『身を屈めること』は外的な卑下を意味して、真理の中にいる者たちの卑下であり、 『頭を垂れること』は内的な卑下を意味して、善の中にいる者たちの卑下であることは前に見ることが出来よう(5682番)。それがそうであることは真理の中にいる者たちと善の中にりう者たちとから明らかである、即ち、真理の中にいる者たちは謂わば冷厳であって、頑な者であるかのように直立しており、神の前に自らを卑うしなければならぬ時にも、ただ身体を少しく曲げるのみであるが、しかし善の中にいる者たちは謂わば柔和であって、神の前に自らを卑うする時は、地に平伏するのである。なぜなら真理は善が無い時は冷厳であり、それが善をその目的として仰ぐ時、この冷厳さは柔かくなり始めるが、しかし善はそれ自身において柔和であり、(そこへ)徐々に導き入れられつつある真理も、そこで善になるに連れて、また柔和になるからである。その理由は真理は善によらなくては天界の形に秩序づけられることは出来ないということであり、そこから真理はそれ自身においては頑ななものである。なぜなら天界の形は極めて自由で何ら抵抗はしないのであり、そこから、真理が共になって正当に秩序づけられた善もそのようなものとなり、前に言ったように柔和なものとなるのである。