卑下の相違

 

卑下

 

 

 

天界の秘義981

 

 『神は祝福された』が主の現存[臨在]と恵み[恩寵]を意味することは『祝福する』の意義から明白である。『祝福する』は、聖言では、その外なる意義では、―古代の、また現代のユダヤ人のように、また特に現今の基督教徒のように―外なる意義に止まっている者らにより与えられている聖言の説明に従って、凡ゆる地上的なまた形体的な善をもって富ませることを意味しており、それ故彼らは神の祝福を富から、凡ゆる物が豊富であることから、また自己の栄光から成立させたのである。しかし内意では『祝福すること』は凡ゆる霊的な天的な善を以って豊かにすることであり、その祝福は主によらなくては存在しないし、また決して在り得ないのであり、そのためそれは主の現存[臨在]と恵み[恩寵]とを意味しており、その現存と恵みとが必然的にこうした霊的な天的な善をもたらすのである。現存と言われているのは、主はひとえに仁慈の中におられ、ここに取り扱われている主題は仁慈から行動する再生した霊的な人であるためである。実に主は人間各々のもとに現存[臨在]されているが、しかし人間が仁慈から遠ざかるに比例して、主の現存[臨在]は―いわば―欠如してしまい、即ち主は遠ざかり給うのである。恵み[恩寵]と言われて、慈悲と言われていない理由は―私の推測するところでは、今まで知られなかったところの―以下の理由によっているのである。即ち、天的な人間は恵み[恩寵]のことを語らないで、慈悲のことを語るに反し、霊的な人間は慈悲のことを語らないで、恵み[恩寵]のことを語るのである。こうした言い方は以下の事情に根ざしているのである。即ち天的な者たちは人類を汚れたもの以外の何ものでもなく、それ自身においては排泄物のようなものであり、奈落のものであるとして承認しており、それで彼らは主の慈悲をねぎまつるのである。なぜなら慈悲はこのような事態に述べられるからである。しかしながら霊的な者たちは人類はこのような性質のものであることは知ってはいるものの、それでも彼らは彼ら自身のものの中に止まっていて、その彼ら自身のものを愛しているため、それを承認してはいないのであり、それで慈悲のことを語るには困難ではあるが、恵み[恩寵]のことは容易に語るのである。言語上のこうした相違は卑下の相違から発しているのである。人間はたれでも自分自身を愛し、自分自身で善を行い、かくて救いに価することが出来ると考えるに比例して、主の慈悲をねぎまつることは出来ない。若干の者が恵み[恩寵]をねぎまつることが出来る理由は、それが習慣的な言葉の形式となってしまって、その中には主のものは殆ど存在していないで、自己のものが多く存在しているということであり、このことはたれでも自分自身の中に、主の恵みを口にしている間に、発見することが出来よう。

 

 

 

 

天界の秘義868

 

 「水が地から乾き切るまで。」これは幾多の誤謬が明らかに消散したことを意味することは人間が再生しつつある間のその状態から明白である。現今誰でも幾多の悪と誤謬とは再生の間に全く分離されて廃棄され、かくて人間は再生すると、悪も誤謬も何ら止まっていないで、水に洗われ清められた者のように清潔になり、義しいものになると信じている。しかしながらこの考えは全く誤っている、なぜなら悪はまたは誤謬は一つとして廃棄される程に振り落とされることは出来ないで、幼い頃から遺伝的に取得されて、行為と業により獲得されたものは何であれことごとく残っており、かくて人間は再生しているにもかかわらず―死後の霊魂たちに有りのままに示されているように―悪と誤謬以外の何ものでもないからである。このことの真理は以下のことを考察することから充分に明白となるであろう、即ち主から発しなくては人間の中には善は何一つ無く、真理も何一つ無く、悪と誤謬はことごとく人間自身のものから発して人間のものであり、人間は、霊は、また天使でさえも、もしいささかでもその者自身に委ねられるならば、自分自身から地獄へ突入してしまい、それ故また聖言には天界も純潔でないと言われているのである。このことは天使たちによっても承認されており、それを承認しない者は天使たちの間にいることは出来ない。彼らを地獄から解放し、彼らを地獄から引き出しさえもし、彼らを彼ら自身からそこに突入させないものは主の慈悲のみである。彼らは主により地獄へ突入しないように止められていることは天使たちにより明白に認められており、ある程度良い霊たちによってすら認められている。しかしながら悪霊らは、人間のように、そのことを信じていないが、しかしそのことはしばしば彼らに示されているのである。このことについては今後経験から主の神的慈悲の下に述べよう。

 

 

 

 

天界の秘義868[2]

 

それ故人間に固有な生命は悪と誤謬とが廃棄される程に決して振り落とされることは出来ない底のものであるからには、主は人間を再生させられつつも、神的慈悲から、試練を通して人間のいくたの悪と誤謬とを征服され、かくてそれらのものは死んではいないけれど、死んでしるかのように見えるが、しかしそれらは主から発している善と真理とに反抗して戦うことが出来ない程に征服されているに過ぎないのである。主はまた同時に試練を通して人間に、幾多の善と真理とを受ける新しい能力を与えられるが、それは彼に善と真理の幾多の観念とまた善と真理とを求める情愛とを与えられてそれに悪と誤謬とがたわめられることにより行われるのであり、また彼の全般的なものの中に(この全般的なものについては前を参照されたい)個別的なものを挿入し、その個別的なものの中に単一的なものを挿入されることにより為されるのである、これらのものは人間の中に貯えられるが、人間はそれらのもについては何事も知っていないのである、なぜならそれらのものは人間に把握され、認識される領域の内部の深い所に存在しているからである。これらのものは容器または器として役立つ性質のものであり、かくて仁慈は主によりそれらのものの中へ植えつけられることが出来、また仁慈の中へ無垢が植えつけられることが出来るのである。それらのものが人間と霊と天使とのもとで驚くべき方法で調合されていることにより一種の虹が表わされることが出来るのであって、こうした理由から虹は契約の印となされたのである(9章12節から17節まで)、このことについては主の神的慈悲の下にその章の下で話すことにしよう。人間がこのようにして形作られた時、彼は再生したと言われる、彼の幾多の悪と誤謬とは依然残ってはいるもののそれでも同時に彼の幾多の善と真理はことごとく保存されているのである。悪い人間のもとでは、その凡ての悪と誤謬とは、丁度その者がそれらのものを身体の生命の中で持っていたままに、他生でも帰ってきて、奈落の幻想と刑罰とに変化するのである。しかし善い人間のもとでは、友情の、仁慈の、また無垢の状態といった彼の善と真理の状態はことごとく他生で思い出され、その状態の歓喜と幸福と共に合して、そこに無限に拡大し、増大するのである。それ故これらの事が水が乾くことにより意味されており、それは幾多の誤謬が明らかに消散することである。

 

 

 

 

天界の秘義5682

 

「彼らは身を曲げ、また屈めた」。これは外部の、また内部の卑下を意味していることは以下から明白である、即ち、『身を曲げること』の意義は外的な卑下であり、『身を屈めること』の意義は内的な卑下である、なぜなら曲げることは低い度の身を屈めることであり、それでそれは外的な卑下を意味しているが、屈めることは大きな度の身を屈めることであり、それでそれは内的な卑下を意味しているからである。更に、『曲げること』は、真理の卑下を、即ち、真理にいる者の、かくて霊的な者の卑下を意味し、『屈めること』は善の卑下を、即ち、真理にいる者の善の卑下を、即ち、善にいる者の、かくて天的な者の卑下を意味しているのである。この場合でもまた『曲げること』は外的な卑下であり、『屈めること』は内的な卑下である。なぜなら善の中にいる者たちは真理の中にいる者たちよりも内的な人であるからである。