謙遜
1.聖書
2.トマス・ア・ケンピス
3.マリア・ワルトルタ
4.マザー・テレサ
5.ベルナルド
6.ヴァッスーラ
7.箴言
8.人間の謙虚は主が栄光を求められるためではなく、人間を幸福にするために主は求められる
9.ルイザ・ピッカレータ
10.スウェーデンボルグ
1.聖書
イザヤ66・1−2
主はこう言われる。
天はわたしの王座、地はわが足台。
あなたたちはどこに
わたしのために神殿を建てうるか。
何がわたしの安息の場となりうるか。
これらはすべて、わたしの手が造り
これらはすべて、それゆえに存在すると
主は言われる。
わたしが顧みるのは
苦しむ人、霊の砕かれた人
わたしの言葉におののく人。
マタイ23・11−12
あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
ルカ1・49−53
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
ルカ14・11
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
ルカ18・14
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
2.トマス・ア・ケンピス
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・2・1
人は生まれつき、知りたいと望む。けれども多く知ったところで、神を畏れる心がなければ何の役に立とう。
まことに神に仕える謙遜な百姓は、自分という者をお留守にして、天体の運行を観測する高慢な学者より、はるかにましである。
本当に自分を知る人は、必ず自分をつまらぬ者と考えて、他人にほめられることを喜ばない。
たとい私が世の中のことをことごとく知ったところで、もし愛がなかったとしたら、神のおん目から見てなんの役に立とう。神は私の行いによって私をお裁きになるからである。
キリストにならいて1・4・2
ことを軽率に行わず、また自分の意見を頑固に押し通そうともしないのは、非常に賢いことである。
ひとりよがりの考えに従うよりも、むしろ自分よりもののわかった人の教えを求めよ。
人は心が謙遜になればなるほど、また神に従えば従うほど、万事にますます知恵と安心とを得るだろう。
キリストにならいて1・7・3
謙遜な人にはいつでも安らかさがある。しかし高慢な者の心にはしばしば憤怒(いかり)と嫉妬(ねたみ)とが巣食うているのである。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・2・2
人がその欠点のために自らへりくだると、たやすく他人(ひと)の心をやわらげ、その怒りを早く解くことができる。
神は謙遜な者を守り、救い、謙遜な者を愛し慰め、謙遜な者にみ心をかたむけ、謙遜な者に豊かに恩恵を与え、これをおさえつてのち栄光(さかえ)の座にお上げになる。
主は謙遜な者にその奥義を示し、やさしくこれをご自分に引き寄せ、お招きになる。
謙遜な者は侮辱を受けても、泰然と落ちついている。これはかれが神を頼みとし、この世を頼みとしないからである。
あなたは自分がすべての人よりも劣っていると感じないうちは、進歩したなどと思ってはならぬ。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・3・2
あなたは自分のしたことを弁解したり飾ったりすることは知っている。しかし他人の弁解は聞き入れようとしない。
自分を責めて、兄弟を弁護してやるのこそ正しい道であろう。
他人(ひと)に許してもらいたいならば、他人をも許すがよい。
見よ、あなたはほんとうの愛と謙遜とから、どんなに遠く離れていることだろう! なんとなればこの徳は、自分以外にはだれにも腹を立てたり不機嫌になったりすることがないはずだからである。
善良でおとなしい人といっしょにくらすのは、少しもむずかしいことではない。それはだれでも自然に楽しく思うところで、人はみな平和を喜び、自分と同じ考えの者をいっそう愛するからである。
しかし人触りが悪いなみはずれた者や、だらしのない者や、自分に逆らう者などと、平和にくらすのはこれこそ大きな恩恵であって、称賛すべき雄々しいことである。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・6・3
つねに善業を行い、自分で偉いとも思わないのは、謙遜な霊魂の表徴(しるし)である。
どんな被造物からも慰めを得ようとしないのは、非常な純潔(きよさ)と心に自信のある表徴(しるし)である。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・7・3
経験者の言葉を信じないで、自分の意見ばかりに従い、あくまで自説を捨てないならば、その結果はなはだ危険である。
自分を賢いと心得ている人が、謙遜に他人の指図を受けるなどということはめったにない。
あまり学問がなく、理解力に乏しくても、謙遜であれば、知識の宝を多く有してうぬぼれている人よりもずっとよい。
誇ることのできるものは、たくさん持つよりも少なく持つ方が、あなたのためによい。
光明社/トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・13・1−3(P225)
「わたしの子よ、服従を拒もうとする者は、恩恵を拒む者である。
また私の利益を得ようとする者は、公の利益を失う者である。
人が目上に対し、進んで快く従わないのは、その肉体がまだまったくその人に
従わず、たびたび逆らい不平を鳴らすことがあるという徴候である。
だから自分の肉体を従わせたいと思うならば、
自分の目上に対し、すぐに従うことを学ぶがよい。
内なる人(精神)が荒らされていないならば、
外なる敵(肉体)に打ち勝つことはたやすいからである。
精神とよく一致しないならば、霊魂にとってあなた自身よりも
害のあるやっかいな敵はほかにはあるまい。
あなたは肉と血とに勝ちたいと思うならば、
自分というものをまったく軽んじなければならない。
あなたはまだ自分をむやみに愛しているので、
それで他人の意思にまったく従うことを恐れるのである。
しかし、無から万物を造り出した全能にしてこの上なくとうとい
わたしですら、あなたのためにへりくだって人間に服従したのに、
塵であり虚無であるあなたが、神のため人に服従したとて、
それがどうして大したことだろう。
わたしはすべての人のうちで、もっとも卑しいもっとも低い者となったが、
それはわたしの謙遜によってあなたが自分の高慢に打ち勝つためである。
塵であるあなたよ、従うことを学べ、土芥(つち)であるあなたよ、
へりくだって、すべての人の足元に屈服することを習え。
あなたの意思をくじき、何事につけても人に服従することを学ぶがよい。
自我を抑える熱心に燃え立ち、
心の中に高ぶる思いを少しでも持っていてはならぬ。
かえって卑しい者、小さい者たる実を示して、すべての人に自分の上を
踏み歩かれ、街路の上の糞土のごとくふみにじられるようにすべきである。
むなしい者よ、あなたになんの不平を鳴らすことがあるのか?
あさましい罪びとよ、あなたはかようにしばしば神に背き、
いくたび地獄におとされても文句の言えない身でありながら、
あなたを責める人々に対して、どう言いわけすることができるのか?
けれども、それをわたしが大目に見ていたのは、あなたの霊魂がわたしの
前に貴重なものであったからで、またあなたがわたしの愛を認め、
わたしの恵みを絶えず感謝し、いつも真の服従と謙遜とに甘んじ、
自分が軽蔑されるのを、忍耐するようになるためである。」
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・42・1
人は地上の慰めから遠ざかれば遠ざかるほど、ますます神に近づくのである。
また自分において深く謙(へりくだ)り、自分を卑しい者と思えば思うほど、いよいよ神に向ってのぼり行くのである。
3.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P406
クラウディア:「先生、よくぞおっしゃいました。傲慢は、私たちの中に生まれながらにあります」
イエズス:「謙遜は、私の教えの一番はっきりしたしるしです。私について来たい人は、真理、貞潔、謙遜を愛すべきだし、皆への愛と、人間の意見に挑戦するため、また暴君たちの迫害を跳ね返すための雄々しさを持つべきです。では、行きましょう」
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P90
彼らにも、あなたたちにも、両方ともいいところと悪いところとがある。それぞれ自分の間違っているところを認め、自分のよいところは、あまり口にしないほうがよい。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P90
「彼が私を年端のいかぬ子供のように扱うときでもですか?普段はともかく彼はときどき常識外れなことを言いますよ」
「黙ってそれを聞き流すのです。それが怒りを鎮める唯一の薬なのです。謙遜と忍耐をもって沈黙しなさい。相手を罵らないで、もう黙っていられないと思ったら、そこを去りなさい。黙ることを知り、逃げることを知る。これは卑怯のためではなく、返答に窮したためでもない。ただ徳のため、賢明のため、謙遜のためです。議論のとき、正義を守るのは決して易しくないし、心の平和を守るのも難しい。
何時でも何かが心の中を濁し、雑音を立てる。そのとき人間の心に反映している神のかたどりは消えてゆき、もう神のことばを聞くことができない。兄弟の間の平和!敵に対しても平和。彼らが我々の敵であればサタンの友だちである。自分を憎む人を憎んで、自分もサタンの友人になりたいのですか。愛から外れている人が、どうして他人を愛へ導くことができよう。
あなたたちはよく私に言う。『イエズス、あなたは何回も教えを繰り返すだけでなく、それを実行しておられるのに、それでもあなたは憎まれている』と。私はこのことを何時も繰り返そう。何時かあなたたちと一緒にいられなくなるときには、この教えを天から聖霊を通して繰り返そう。我々は敗北ではなく勝利を教えたい。このために神を賛美しよう!回心者がいない日はなかったか、神の働き手はこれに注意すべきで、うまくいけば主をたたえ、勝利を手にしないときも世間の人々のように平和を失うことがないように。そうすれば・・・」
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P88
主がマグダラのマリアに:
「心の謙遜な人はいつでも許されます、マリア・・・」
マリア・ワルトルタ26・8/天使館1巻P214
聖母がマリア・ワルトルタに:
わたしたちは自分が完全無欠ではないのに、自分は完全無欠だと信じ込むほど自分自身を愛しています。ではなぜ、隣人を不完全な人間だと言って愛さなくなるのですか?
絶対的な愛徳。赦すことを知り、赦そうとする愛徳。心のうちで隣人の不完全さを弁明して、先んじて赦すこと。過ちを犯した者にすべての情状酌量を認めて、直ちに赦すこと。
愛徳と同様、絶対的謙遜。たとえそれが、ただふっと心を過ぎった思いによる過失であっても反省して認めること。過失そのものよりも害があるのは、『わたしは間違いました』と言えない高慢です。神を除いて、人間は皆間違うのです。『わたしは決して間違わない』と言える人間がどこにいるでしょうか?
さらに、それよりもずっと難しい謙遜の行為があります。わたしたちのうちで神が行われる不思議を、神を公に讃美する必要がない場合には、黙して語らぬことです。神からそのような特別な恵みをいただいていない隣人をがっかりさせないために。もしそれを神が望まれるのであれば、おお!もし望まれるのであれば、神はご自身をそのしもべに啓示なさるのです!エリザベツは、あの時、ありのままのわたしを『見た』のでした。またわたしの夫は、彼がそれを知る時が来るやわたしの真相を知りました。
あなたたちが神のしもべであることを宣言する役目は、神にお任せしなさい。彼はそれを慈しみをもって急がれます。というのも、特別な使命に召されたどんな人も、神の無限の栄光をいや増す新しい栄光であり、神が望まれたような人間であることの証言、すなわち、自分の作り手を反映するより小さな完全さなのですから。おお、恩寵による神の愛子たちよ、日陰に、沈黙に止まりなさい。『生命』である唯一の言葉を聞くことができるように。永遠の輝きを放つ太陽をあなたたちの上に、あなたたちのうちに有するに値することができるように。
マリア・ワルトルタ29・8/天使館1巻P239
聖母がマリア・ワルトルタに:
どんな人でも、いと高き御者に対しては謙遜であるべきです。
マリア・ワルトルタ/天使館第4巻下P184
(エンドルのヨハネ)
わたしを謙遜に保つために過去の記憶は残ります。しかし確信があります。わたしは新しい風土に慣れてきたと感じ、あなたのものである赦しの、また愛の甘美なこの世界の中で、もう外国人ではありません。そしてわたしは平和な状態に戻り、晴れ晴れとしており、幸せです。
4.マザー・テレサ
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P107
もしも私たちが謙遜ならば、ほめられようと、けなされようと、私たちは気にしません。
もし誰かが非難しても、がっかりすることはありません。
反対に、誰かがほめてくれたとしても、それで自分が偉くなったように思うこともありません。
マザー・テレサ/ブラザー・ロジェ/祈り―信頼の源へ―/サンパウロ/P114
神についての知識は愛をもたらし、自分についての知識は打ち砕かれた謙遜な心をもたらします。
5.ベルナルド
あかし書房/聖母の歌手/P42
神は、ご自分が進んでお選びになった、マリアの子という身分と名前を、決して嫌がるはずがありません。福音記者もそのことを、少しあとに記述してこう言っています。「イエズスは彼ら[両親]に従っておられました」(ルカ2・51)。
「従っておられた」―だれが、従っておられたのですか。だれが、だれに、従っておられたのですか。ああ、神が、人間に従っておられたのです。神が!そうです、神が従っておられたのです。天使たちがご自分に従っているその神、主天使も権天使もこぞって、ご自分に仕えているその神―この神が、マリアに従っておいでになったのです。それもただ、マリアにばかりではありません。マリアのゆえに、ヨセフにまでも従っておいでになったのです。人よ、この二つの絶妙な事柄を、心行くまで驚嘆するがよい。神の母マリアの高い位か、それとも人間への神の服従か―この二つのうち、どちらが一層あなたの驚嘆に値するのですか。神の御子の尊敬に満ちた、母マリアへの孝子の態度か。それとも母マリアの類ない権威か。どちらも絶妙な奇跡ではありませんか。
神が一人の女性に従っておいでになります。ああ、なんという異色の謙遜なのでしょう。一人の女性が神に命令を下しています。ああ、なんという高い位、類ない権威なのでしょう。一人の女性が神に命令を下しています。ああ、なんという高い位、類ない権威なのでしょう。童貞者をたたえる讃美の歌の中に、彼らは子羊が行くところには、どこにでもついて行く(黙示録14・4)という句があります。だとすれば、子羊を先導する母マリアには、どんな讃美をささげねばならないのでしょう。人よ、服従することを学びなさい。一塊の土に過ぎない人間よ、従うことを学びなさい。吹けば飛ぶ塵に過ぎない人間よ、相手に譲ることを学びなさい。あなたを創造された神について福音記者は、「彼は彼らに従っておられた」と記述しています。あなたを創造された神が、マリアに従っておられたのです。またマリアのゆえに、ヨセフにも従っておられたのです。人よ、おごり高ぶる灰よ、恥じなさい、赤面しなさい。神はこのようにご自分を低くされるのに、あなたは途方もなく自分を高くしているのです。
6.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/8巻P31
聖霊はうちに残された枯れ草(*)をすべて焼き払い 天国的な若木と喜ばしい葡萄畑(**)に置き換えて下さる。その日以降は私自身が園丁となる・・・
*枯れ草とは:悪癖や、罪
**これら天国的な植木は:美徳
荒涼とした廃墟でしかないあなたの古い地が今 私に向かって叫び声をあげるなら 私は本当にその恥ずべきさまを哀れもう・・
今や残されたわずかの木々も乾燥して折れ曲がり 薪にくべるばかりとなっている、そこで我が聖霊にあなたの霊魂を もう一つの楽園、私どもが住まう新しい地とさせなさい。 見よ、冬は過ぎ去り、あなたの土地には花が顔を出した。 見よ? 葡萄畑では咲き始めたつぼみが 香りを放っている。これこそが私どもの楽園、天国。 庭園に入り 収穫の実をかき集めよう。 私どもの庭園に入って行き まるで泉や、生ける水の井戸、芳香を放つあらゆる木々の茂る谷間、牧場に葡萄畑、ミルラの山々のような あなたの美徳の間で憩おう。 謙遜は私どもを喜ばせ 愛は嬉しいもの。 平安は誉れとなり、歓びは私どもを歓喜させる。 このように、果実とは すべて私どもの目には好ましい美徳。 そこで我が聖霊があなたを鍛え 健全な教えこそがいのちだと分からせて下さるように。
7.箴言
箴言18・12
破滅に先立つのは心の驕り。
名誉に先立つのは謙遜。
8.人間の謙虚は主が栄光を求められるためではなく、人間を幸福にするために主は求められる
天界の秘義3539[5]
人間の謙虚[卑下]は主が栄光を求められる愛のためではなく、主の神的な愛のためであり、主がそのことによって善と真理とをもって流入され、その人間を祝福し、幸福にされることができるためである
天界の秘義4724
このことをまた信仰のみのために戦って、信仰の生活を送っていない者らはその者ら自身の中に消滅させてしまうのである。なぜなら彼らは主の人間的なものは純粋に人間的なものであって、他の人間の人間的なもの[人間性]に似ていなくはないと信じており、そこから彼らの多くの者はいかほど主をその唇で告白しても、主の神的なものを否定しているからである。しかし、跪いて、謙遜な心から信仰の生活を送っている者たちは主を救い主なる神として崇めており、その時は神的な性質と人間的な性質とが区別される教義からは些かも考えはしないのであり、聖餐においてもまたそのように考えはしないのである。ここから彼らのもとでは主の神的な人間的なものが彼らの心の中に在ることが明らかである。
新しいエルサレムの教義199
試練により凡ゆる悪と誤謬の源泉である自己と世への愛が破壊される(5356番)。かくして人間は謙遜になる(8966、8967番。
天界の秘義8966
試練は、信仰の諸真理を確認し、またそれらを植えつけ、意志の中へ徐々に入り込ませ、かくてそれが仁慈の善となることに貢献している。なぜなら、前に言ったように、人間は悪と誤謬とに対抗して信仰の諸真理から戦い、その心はその時真理の中にいるため、征服する時は、その諸真理を自分自身の中に確認して、それを植え付け、また自分を襲った悪と誤謬とを敵と見なし、それを自分自身から斥けるからである。更に試練を通して自己と世に対する愛から発している欲念は征服され、その人間は謙遜になるのである。かくて彼は主から天界の生命を受けるに適わしいものとされるが、その生命は新しい生命であり、再生した人間に属しているものである。
9.ルイザ・ピッカレータ
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P24
「私がどれほど謙遜を愛するかを、もしあなたが知っていたなら。謙遜とは発見されるかぎりのもっとも小さな植物のようなものです。しかしそのつるは、天に届くほど非常に高いところまで伸びる。それは私の玉座の回りにまで這いのぼり、私の心の中にまで入り込んで来る。この小さな植物とは謙遜のことで、この樹が伸ばすつるが信頼なのです。即ち信頼のない謙遜はあり得ず、それのない謙遜は偽物の徳です。」
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P50
慎ましく純朴であることがどれほど大切かイエズスは教えた。
1899年5月19日
今朝イエズスではなく、悪魔が私をだまそうとしているのではないかと恐れた。イエズスがやって来て、そんな私を見て言った。
「謙遜こそ天国を約束してくれる。謙遜はその魂を確実に包みこむので、狡猾な敵もその中に入り込むことがない。謙遜は天国の恵みをしっかり確保するので、十分な謙遜を見ると、さまざまな種類の天の恩恵を流し与える。だから心配しないで、単純な目でいつもお前の心の内が真の謙遜に包まれているようにし、その他のことは心配しないように。」
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P48
神性化された私の人間性には限界がなかった。しかし、英雄的な謙遜をもって私の全てのわざをそこに織り込むために、私は喜んで人間として、自分自身の限界の中に留まった。地上を覆うすべての悪の原因は、謙遜の不足ということである。私はこの徳を実践することによって、神の正義から全ての善を引き寄せなければならなかった。もし謙遜を通してでないならば、私の玉座から恵みの決定が発せられることはなく、もし謙遜のサインがなかったなら、どのような名刺も私から受け取られることはない。
もしも謙遜の芳香がふりかけられていないなら、どのような祈りも私の耳に届かず、私の心を同情へと動かすこともできない。もしも被造物が、軽蔑されること、卑しめられ、当惑させられることを愛することによって、名誉心と尊敬を望む気持ちの芽を破壊しないならば、彼は自分の心の回りに棘が編み込まれているのを感じ、常に心の中にも空洞と不快を感じて、彼を、私の聖なる人間性とは非常に似つかないものとするであろう。もし霊魂が卑しめを愛するまでに達しないならば、自分自身について知ることもなく、美しく快い謙遜の衣服をまとった者として、私の前に輝くこともないだろう。
ザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P56
「さて、恩恵の国に入るためのパスポートはどれであろうか? それは謙遜である。霊魂は、つねに自分の虚無を眺めることによって、自分は風かほこり以外の何ものでもないことに気づく。そこで霊魂は、自分の信頼のすべてを恩恵のうちに委ねるので、それを自分の主人にするほどになる。すると恩恵は、霊魂への支配力を得るので、それを全ての徳の小路へと導き、ついに完徳の頂上にまで到達させるのである。」
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P82
娘よ、あなたが自分自身のうちにへり下ればへり下るほど、私はもっと心が惹かれ、私の恵みであなたを満たすために、あなたのほうに向って身をかがめる。謙遜こそ、光の前触れである。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P91
「鳥が飛ぶときに羽を羽ばたかせるように、私のものである霊魂も、望みの飛翔をするために、謙遜の羽をはばたかせる。このはばたきの中に私を引きつける磁石があるので、被造物が私のところに来るために飛び立つとき、私も彼女のところに行くために飛び立つのである。」
主よ、謙遜の磁石こそがあなたを引きつけるということが分かりました! もしも私も自分の歩みのうちで、もっと謙遜の磁石をあらゆるところに及ばせたならば、あなたのおいでをこれほど待ちわびることはないでしょう。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P178
このあと主は私を、動物の姿をした二人の男の人がいる道のところまで連れて行かれました。彼らは、あらゆる種類の道徳的善を破壊しようとしていました。彼らはライオンのように強く、情熱で酔っ払っているようでした。ただ彼らを見るだけで、恐怖と戦慄を感じました。幸いなるイエスは言われました。
「もし私の心を少し和らげたいと思うなら、あの男たちの真中を通り過ぎて、彼らの怒りに直面しながら、彼らがしている悪について自覚させなさい。」
少々臆病を感じましたが、私は行きました。彼らは私を見るやいなや、私を撲滅しようとしましたので、私は言いました。
「先ず私が話すことを許してください。それからお好きなことをしてください。あなた達は死らなければなりません。もしも宗教、徳、従順、または社会の善などに属するあらゆる道徳的善を破壊しようというあなたがたの意図を達し得たとしても、あなた達がその間違いに気づかないうちに、身体と現世の善のすべてを破壊してしまうでしょう。事実、道徳的善を取り去った分に応じて、身体の災いも増えるでしょう。したがって、気づかないうちに、あなた達があれほど愛している一過性でうつろいやすい善すらも破壊しながら、結局はあなた達自身に反対して進んで行くことになるのです。さらに、自分自身の命を打ち壊そうとしているのですから、あなた達自身、家族などの生き残った人達に苦い涙を流させる原因となるのですよ。」
このあと私は、書き現す方法も知らないほどの、非常に大きな謙遜の行為をいたしました。するとその二人は、あたかも狂気の状態が終わりを告げたように変化して、非常に弱くなり、私に触れる力もないほどでした。こうして私は、無事に害を受けずにすみ、道理と謙遜の力に抵抗できる力は何もないということを、理解しました。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P256
「聖なる父よ、あなたの御名に栄光を。驕る者をまどわせてあなたを隠し、謙遜な者にはあなたを現してください。謙遜な者だけがあなたを創造主として認め、自分があなたの被造物であることを認めるからです。」
こう言われたあと、もうイエスは声を聞かせてくださいませんでした。私は、神のみ前における謙遜の力を理解しました。神は、そのもっとも大切な宝を謙遜な者に委託することについてなんの躊躇もなさいません。謙遜な者にはすべてが解放されており、どんな事にも鍵がかけられることはありません。しかし傲慢な人にとっては反対です。神様は、一歩ごとに困惑させるために、傲慢な人の足には縄をおかけになるようです。
10.スウェーデンボルグ
天界の秘義3318[4]
これが人間が試練により、またはそれと同一のことではあるが、霊的争闘により再生する、すなわち、新しくされる理由である、その後かれは他の性質を与えられて、柔和に、謙遜に、単純に、砕けた心になるのである。
天界の秘義8966
試練は、信仰の諸真理を確認し、またそれらを植えつけ、意志の中へ徐々に入り込ませ、かくてそれが仁慈の善となることに貢献している。なぜなら、前に言ったように、人間は悪と誤謬とに対抗して信仰の諸真理から戦い、その心はその時真理の中にいるため、征服する時は、その諸真理を自分自身の中に確認して、それを植え付け、また自分を襲った悪と誤謬とを敵と見なし、それを自分自身から斥けるからである。更に試練を通して自己と世に対する愛から発している欲念は征服され、その人間は謙遜になるのである。かくて彼は主から天界の生命を受けるに適わしいものとされるが、その生命は新しい生命であり、再生した人間に属しているものである。