傲慢

 

謙遜謙虚

 

 

 

1.落胆は傲慢のしるし

2.自決・絶望は傲慢のしるし

3.自分を許せないというのは傲慢のしるし

4.自分で直せると思うのは傲慢のしるし

5.傲慢な者は嘘つきで卑怯

6.すべての罪は傲慢から生ずる

7.疲労は人間の傲慢の根の一つ

8.傲慢にならないための理想的状態、つまり迫害

9.ルイザ・ピッカレータ

10.トマス・ア・ケンピス

11.マリア・ワルトルタ

12.横柄

13.ヴァッスーラ

14.ヨゼファ・メネンデス

15.サンドロ・ニョッキ

16.サンダー・シング

 

 

 

 

1.落胆は傲慢のしるし

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P309

 

主がエンドルのヨハネに

「うん、分かっています。泣くのだけはやめなさい。謙遜を深めるのはよいが、落胆は避けなさい。“落胆は、まだ傲慢であるしるし”です。さあさあ、泣くのではない。ただ謙遜でありなさい」

 

 

 

 

2.自決・絶望は傲慢のしるし

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1.P138

 

ユダ:「では先生、私は何を捨て去ればよろしいですか」

イエス:「おまえの心をかき乱すと分っていることなら何でも。なぜなら、神は平和で、おまえが神の道を歩きたいならば、おまえの知恵、心、肉体にとって平和でないこと、すべてを抹殺すべきです。自分自身を改革することが難しいのは知っています。しかし、私は、あらためて神の子となるように、人間を助けるためにここにいます。しかし、おまえのさきほどの質問に答えます。適切な私の答えがなく、おまえがあやまちに残ったのは私の責任だと言わせないように。自決するのは他人を殺すのと同じです。自分の命であろうと、他人の命であろうと、命は神の賜物で、これを与えた神だけが、いつかそれを切る権利があります。自決する人は、自分の傲慢を告白するもので、傲慢は神に憎まれています」

 

「傲慢を告白するとおっしゃるのですか。私はむしろ絶望を告白すると言いたい」

「しかし、絶望が傲慢でなくて何でしょう。ユダ、ちょっと考えてみなさい。人はなぜ失望するのですか。さまざまの不幸が集中豪雨のように降りそそぎ、それに自力で打ち勝ちたいと思ってもできないか、もしくは、自分は罪人で神に許されないと考えているからです。

 

この両方とも、もとをただせば傲慢ではありませんか。じぶんだけで何でもしたいという人は“私にはできないけれどもあなたにはできます。私を助けてください”と神に手を伸ばし、あなたにすべてを期待し、すべてを希望するという神への謙遜がないのです。“神は私をゆるしはしない”と言っているもう一人の人は、神を自分自身と比べて、自分が侮辱した人は自分を許すわけがないと知っているからです。すなわち、ここにも傲慢があります。謙遜な人は、あわれみ、同情し、受けた侮辱のために苦しんでいてもゆるします。傲慢な人はゆるさない。“父よ、私は罪を犯しました。罪深いあわれな子供をゆるしてください”と頭を下げることを知らないからです。

 

ユダ、知らないのですか。真実な痛悔をしている心、謙遜で善に復活したいという望みの心でゆるしを請うなら、御父からすべてゆるされるのを知らないのですか」

 

「しかし、ある犯罪は許されてはいない。ゆるされることはあり得ない」とユダが言い返す。

「おまえがそう言うのだし、人間はそう思うから、そのとおりかもしれない。しかし、まことに言うが、“最悪の犯罪”の後でも、罪人が御父の足元に走り寄り―ユダ、そのために御父と言われます。そして、無限に完全な父です―泣きながら、どんな償いも拒まず、失望せず、自分をゆるすようにと請い願えば、御父はゆるしを得るために、霊魂を救うに値するものとなるように、償う方法を与えるはずです」

 

「それなら、あなたに言わせれば、聖書で自殺して死んだと言っている人々は悪かったのですね」

「だれに対しても、自分に対しても暴力はよくない。その人たちが悪かったのです。ただ、善悪の判断がまだできなかったから、ある時は神からあわれみを受けたと思われます。しかし、みことばがすべての真理をはっきりさせたであろうその時から“絶望して死ぬ人にはゆるされはしない”(後略)」

 

 

 

3.自分を許せないというのは傲慢のしるし

 

 

ブリージ・マッケナ/祈り 恵みの泉/P85

 

しかし、告解をした後でも、ひどい罪悪感を持ち続ける人もいます。これは、主の喜びと、個人的、意識的ない主の赦しを受けることが略奪されることです。自分を赦せないということは傲慢です。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P411

 

ペトロ:「しかし彼が、今、戻られた御父のふところから私をゆるしてくださるにしても、私は自分自身をゆるせない。『私はあの人を知らない』と言ったこの私を!

 

それはあの時に彼を知っていることは危険であったから。私は彼の弟子であることを恥ずかしく思い、拷問を恐れたからだ・・・。彼は死にに行くのに、私は・・・自分の命を救うことばかり考えた。そして、この命を救うために、女が罪によって懐胎して生んだ子供を夫が帰る前に捨てると同じように彼を捨てたのだ! 私は姦通の女よりも悪い・・・」

 

その叫びに、マグダラのマリアが入ってくる。

 

「そんなに喚くな。母マリアが聞かれるではないか。疲れはてておられる。何の力もなく、すべてが苦しみのもととなる。それにむだな、分けの分からないおまえの叫びは、受難の時のおまえたちが何であったかの、あの苦しみを思い出させる・・・」

 

「ヨハネ、聞いたか? ごらん、一人の女は、私に黙るようにと命令している。しかし、それはもっともだ。なぜなら主に聖別されているわれら男子たちは偽りを言うか、それとも逃げるしか知らなかったのに、女たちはえらかった。おまえは若くて清いので、いささか女みたいだから、おまえだけが残った。強いものわれら、男子のわれらが逃げた。

 

おお! 世間はどんなに軽蔑するだろう! 女よ、言え。そう私に言え!あんたの言うとおりだ。偽りを言った私の口をあんたの足で踏め!サンダルの底には、多分、彼の血が残っているかもしれない。そして道のほこりにまざったその血だけが、この裏切り者にちょっとしたゆるし、ちょっとした平和を与えるかも。私はどうしても世間の軽蔑に慣れるべきだ。私は何だろう? さあ言え、私は何だ? 」

 

「おまえは大いなる傲慢でしかない」とマグダラのマリアが静かに答える。

 

「苦しみか? それもあろう。しかし、おまえの苦しみの十分の五 ―あまり侮辱しないように六、と言わないが― は、軽蔑されうる一人の人間になったという苦しみのためです。

 

しかし、おまえが愚かな女みたいに嘆いたり、取り乱しつづけるならば、本当に私もおまえを軽蔑する! やったことは、もうやったことです。そして、それを償う。あるいは消してしまうのは、あのような訳の分からない叫びではない。

 

それは他人の注意を引くだけで、おまえに値しない同情を乞食するだけです! おまえの後悔で男らしくあれ、キャンキャン喚くな。

 

おまえは・・・おまえは・・・私が、だれだったかを知っているでしょう。しかし私は自分が反吐よりも軽蔑に値するものであると分かった時に、めちゃくちゃにいら立ったり、喚いたりしなかった。ただ私は皆の前で行った。自分自身に対して同情せず、また他人の同情も請わなかった。

 

世間は私を軽蔑していたというのか。もっともだった。それは私に値するだけのものだった。世間は“あんな娼婦の新しい気まぐれ”と言っていた。そして私がイエズスへ近づくのも冒涜の名前を与えていた。彼らの言うことにも一理あった。前の私の生活を、世間がちゃんと覚えていた。そして、それは彼らのどんな邪推をもゆるすものだった。

 

では? 世間は今、マリアはもう罪の女ではなくなったと納得した。私の新しい生活をもって説得させた。おまえも同じように黙りなさい」

 

 

 

 

4.自分で直せると思うのは傲慢のしるし

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P

 

布地全体が弱っているだけでなく、穴が開いたり、切り裂かれたりしていたら、自分で直せるなどと思い上がった考えを捨てて、霊魂を新しくしてくださるお方に頼まねばなりません。このお方は何でもできるし、何でもなさいます。すなわち私の父なる神、私、救い主についての話です。ところが、人間は傲慢なもので、自分の霊魂が滅びかかっていても、下手に繕って、かえってますます大きな傷口にしてしまいます。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P98

 

 「自分ですべてができるのは、神だけです。今言ったあなたの言葉は、思い上がりもはなはだしい。傲慢にはサタンが宿っている。謙遜になれ、ユダ! 友人として伸ばしているこの私の手をつかみなさい。へりくだって、この手を取り、あなたを守ろうとしている私の心に避難しなさい。ここに私と一緒にいる限り、サタンはあなたに手を出せません。」

「私はそうしようと思って、再三試してみましたが、ますます遠ざかってしまうばかりでした・・・何もかも、もうおしまいです」

「そういうふうに言ってはいけない。失望があるなら、それに抵抗しなさい。神には、どんなことでもできます。ユダ! もっと神に頼りなさい!」

 

 

 

 

5.傲慢な者は嘘つきで卑怯

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P

 

傲慢な者はいつも嘘つきで、卑怯者です。

(中略)

ところが、傲慢な者は、自分が救いをすべて拒否してきたと気づいた時、落胆し、神のあわれみのことなど考えず、『ああ、もう手遅れだ!』と思い、最後の死、永遠の滅びに至るのです。

 

 

 

 

6.すべての罪は傲慢から生ずる

 

 

マリア・ワルトルタ48・4/天使館第1巻P425

 

彼らの真の罪は傲慢である。すべての罪は傲慢から生ずる。その罪から他のすべての罪は生じるのだ。

 

 

 

 

7.疲労は人間の傲慢の根の一つ

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P53

 

イエズスが:

「前進すべきです。私もそうしています。倦むことなく前に進みなさい。疲労は、人間の傲慢の根の一つです。あわてることについても同じことが言えます。なぜ私たちは敗北したとき心がおさまらず反感を抱き、成果が目に見えて上がらないときいらいらするのか。“私の言うことに背くのか。私に対してなぜぐずぐずするのか。そういう態度をとるのは神の使徒に対する尊敬が足りないからではないか”と、傲慢がささやくからです。」

 

 

 

 

8.傲慢にならないための理想的状態、つまり迫害

 

 

デボラ/生ける神より明かされた英知/5巻下P14

 

 しかし私は、何回あなたを苦悩や欠乏の中に置いたことだろう? もしあなたが信仰のうちで元のままに残ったとしたら、それは傲慢にならないための理想的状態、つまり迫害のうちに、私があなたを置いたからである。

 

 

 

 

9.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P15

 

「もしあなたがもっと謙虚で、もっとわたしの近くにとどまっていたならば、あのことをあれほどまずく行うようなことはなかったでしょう。しかしあなたは、あの時それを行うことや、それをなし終えることをわたしなしでできると信じていたのですから、あなたにとってとても残念でしょうが、あなたはわたしの望みに従ってすることができなかったのです。ですから何か手がけようとする時は、全ての動作の初めにまずわたしに祈りなさい。わたしといっしょにそれをするために、いつもわたしの存在を考えなさい。そうすればそれは完全になされるでしょう。いつもこのようにするなら、あなたはもっと深い謙譲さを獲得することができるでしょう。反対の場合には、あなたのうちに傲慢が入り込み、あなたの中に蒔かれたよい謙遜の徳の種を圧しつぶしてしまうでしょう。」

 このようにおっしゃりながら、たくさんのお恵みの光を与えて下さったので、傲慢の罪というものがいかに醜いものであるかを、私によく理解させて下さいました。それは主にたいして犯すものの中でもっとも大きな罪で、きわめて忌まわしい、恩知らずの行為です。これは霊魂の目をくらませ、もっとも深い邪悪性におちいらせますので、それが原因で霊魂を完全な破滅にまでも引き入れることができます。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P66

 

くり返してイエスと聖母からたくさんの招きのあとに、私が、生けにえの身分の受諾に従ったときから、ほんの数日がたったばかりでした。主が頭に茨の冠をつけ、血まみれの姿でおみえになると、私は意識を失う―二度目ですが―のを感じました。主は私に近づかれ、いつくしみ深い様子でおっしゃいました。「わたしの娘よ、人間はまったくわたしの愛から離れて、いったい何をわたしにするのかを少し見て下さい。この悲しい時代に彼らの傲慢さは驚くほどひどくなり、彼らが吸う空気まで毒されてしまいました。その悪臭はまったくひどく、それはあちこちに満ちているだけでなく、天上のわたしの父の玉座にまでとどいています。あなたにも考えられるでしょう。これほどまでに惨めな人びとの状態ゆえに、天の扉まで閉じられようとしています。彼らはもう真実を知るための目すら持っていません。なぜなら傲慢の罪によって彼らの頭は暗くなり、その心は堕落してしまったからです。そのためにあらゆる不摂制と醜態に身を任せているので、わたしは彼らが自分を失うのを見て、激しい苦しみと言いようのない心痛をおぼえます。ああ、あなたはどうか、人びとが絶え間なくわたしに行う多くの間違いにたいする慰めと償いのわざを捧げてくれませんか? 少なくともこの冠が、わたしに与えるひどい茨の痛みを和らげたいと思いませんか?」

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P193

 

 私は完全な戸惑いとへりくだりの心のうちに告白の祈りを唱えました。私の過去を一瞥しますと、自分が全く罪に覆われているのを見ましたが、主にお与えした侮辱の中でいちばん重いものとして、私のうちに覚えた単純な傲慢心のいくつかを見つけました。それで申し上げました。「主よ、あなたの御前で傲慢の罪を犯しましたことを告白いたします。」するとイエスは「わたしの愛情深い御心に近づきなさい。耳をすませてごらんなさい。この罪によってわたしの寛大な心にあなたが与えたひどい苦悩を感じるでしょう。」とおっしゃいました。私はすっかり震えあがりその御心に耳をかたむけました。ほんの一瞬でしたがその時に感じ、理解したことを誰が言い表せるでしょうか? 愛におののく私の心は非常に強くどきどきとしはじめて胸がつぶれるかと思われ、苦痛のために心臓は破裂し、きれぎれになってほとんど破壊されてしまうのではないかと思えました。このような感じを覚えたあと私は叫びました。「人間の傲慢心というものはなんと冷酷なものでしょう! もし可能性が与えられていたら、それは神性そのものをも破壊してしまうでしょう。」

 そのとき私にとって人間の傲慢心とはちょうどうじ虫で表象されるように思えました。それは偉大な王様の足もとで気楽に過ごせるのをいいことに、まるで自分もなにか偉い者であるかのように信じて頭を高く上げ、ふくらんでゆき、少しずつ王様の衣服をはい登り、ついにその頭まで行きつきます。するとその頭が輝く王冠にかざられているのを見て、それを自分の頭にのせるために王様の頭から取りたいと思い、さらに衣服も脱がせ、玉座からおろし、ついにはその命までねらってあらゆる方法を使いたいとさえ願います。このうじ虫は自分が何者であるかを知りません。まして自分の傲慢のゆえに、彼を消してしまうには、王様がその厚かましい計画に気づいて片方の足でふみつけるだけで足りるということすら考えることができません。傲慢で熱した頭が作り出した錯覚による金色の彼の夢の全てはたった一瞬のうちに壊され、彼ほど傲慢でない人びとにも蔑みと同情心を起させることでしょう。このような人は恩知らずで悪者であるだけでなく、もっとも軽はずみで生意気な人だと思われるでしょう。

 まさしくこの私が、神聖な王様の足もとにいる惨めなうじ虫であるのを見ました。私が主にたいして犯した侮辱を思って非常な戸惑いと申し訳ない気持ちでいっぱいになるのを感じ、私の傲慢の罪ゆえにイエスが苦しまれたひどい苦悩を私の心におぼえました。イエスはこのあと私をひとりに残されましたが、私は傲慢心の醜さについて考えつづけました。それはあまりにも生々しい苦しみを生みましたので、とても言葉で言い表すことはできません。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P17

 

「我が娘よ、傲慢は恩恵をむしばむ。傲慢な心の中には、盲目性を生み出す煙がいっぱいに満ちた空洞以外のものは何もない。傲慢心は、自分自身を偶像として奉ること以外の働きをしない。傲慢な霊魂は、自分の中に神を有していない。なぜなら傲慢の罪によって彼の心の中の神を破壊してしまうからだ。その心の中に祭壇を築いてその上に自分を据え、自分自身を礼拝するのだ。」

 

 ああ、この悪癖はなんという忌まわしい怪物でしょうか! 私には、もし霊魂が自分の中に傲慢心を入れないように注意するなら、他の全ての悪癖から自由になるだろうと思われます。その反対に、もし不幸にもその霊魂が、意地悪で忌むべき母親であるこの傲慢に支配されるがままに任せるならば、彼は他の様々な罪という放らつな子供たちを生むでしょう。主よ、どうか私から傲慢心を遠ざけて下さい!

 

 

 

 

10.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・6・1

 

人は何かの欲望がむやみに激しくなると、たちまち心の落ちつきがなくなるものである。

 だから高慢な人と貪欲な人とは決して心の安まる時がないが、心の貧しい人、謙遜な人はいつも非常に心が安らかである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・7・3

 

謙遜な人にはいつでも安らかさがある。しかし高慢な者の心にはしばしば憤怒(いかり)と嫉妬(ねたみ)とが巣喰うているのである。

 

 

 

 

11.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P

 

「でも、あの人の母は善い人ですよ。それに父親も悪人ではなかったと聞いています」

「そうです。だが父親の心に傲慢心が潜んでいたので、我が子を早く母親から引き離して、エルサレムに送りました。父親譲りの傲慢はそこで成長しました。傲慢心を治すところは、決して神殿ではありません」と、イエズスが答える。

 

 

 

 

12.横柄

 

 

霊界日記4662

 

すなわち、たれでも心の中で他の者たちに横柄に振舞うに応じ、すなわち、自己愛にいるに応じ、益々賢明になる能力を失うのであり、それで彼らはその愛の度に応じて知恵からは遠ざけられてしまうが、主から知恵は、自分を卑しくしている者、自分自身に較べて他の者を軽蔑しない者、善いことを愛し、心から善良な人間を愛している者たちのもとにのみ流れ入るのである。

 

 

 

 

13.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・9巻P185

‘98・8・12

 

私は見た。見ている私は 国たみの前であなたを露にする・・・・そのやからの偽りの筆をもって、我が掟と聖体の制定を どれほど曲げているかを見よ! それでもまだ:「キリストは見ているはずがない」と言えるか? 「私は見えている」と言うあなたが、救い主も 与えた嗣業も見えなく 気づかないのはどうしてか? モグラでさえ自分の穴ぐらを見分け あなた自身よりもよく見えている。

来て 悔い改めなさい、それともあなたには悔悛の能力がないのか? 眼から涙を溢れさせて 悔い改めなさい。来て 心から悔い改めなさい そうするならそっと正し その行いをすべて赦そう。

 

我が聖霊を悲しませるのはもうやめなさい。 私はうぬぼれと傲慢を忌み嫌う、しかし悔い改めるなら 怖がることはない。見よ? 贖い主が手を差しのべている。あなたに司祭職を与え 王的衣装を着せて、その群れを牧するようにと権威の紋章を授けた聖なる者は 父親が息子を諭すように今こう言っている:「野獣の領地からは、我が息子よ、何も嗣がない、しかし私、あなたの主からは、永遠のいのちを得よう:私があなたの分け前 嗣ぐべきもの。」

 

 

 

 

14.ヨゼファ・メネンデス

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P336

 

(聖マグダネラ・ソフィア)

「あなたの謙遜によってみ主をお慰めしなさい。謙遜あるところ、そこにこそ道は開け、謙遜なくして、何ごともうまくはゆきません。」

(中略)

夕方悪魔は聖女のおとりなし、殊にその忠告に気をいら立たせ、

「あの祝されたやつは、その謙遜だけで俺の力を無にする。」と、あたかも地獄の秘密をあばかなければならないかのごとく冒涜を怒号しながら、「もし俺が霊魂をしっかり握ろうと思えば、その心に傲慢を起こさせればよいのだ。破滅に導こうと思えばその傲慢の欲情に従わせればそれで足りるのだ。俺の勝利は傲慢にある。世の中に傲慢が満ちるまで休むものか。俺も傲慢で破れたのだ。霊魂が謙遜によって救われてゆくのを承知で見ていられるか。」と終に憤怒の叫びで結んでいる。「成聖の聖域に達するやつらは皆謙遜の深淵に身を沈めたやつばかりだということは、わかりきっている。」と。

ヨゼファはこの悪魔の告白に非常に感動して書き記し、苦しみの中にもこの思いがけない母なる創立者の謙遜への証明に、子としての喜びに満たされた。

 

 

 

 

15.サンドロ・ニョッキ

 

 

燦葉(さんよう)出版社/田中眞理子訳/サンドロ・ニョッキ著/「神さまの声が聞こえる」おん父のすばらしいご計画/P17

 

「それは映画館の入口でした。入場無料で、誰でも自由に入れました。観客がほぼ集まっていました。上映シーンは私の全生涯でした。

一瞬の間で私の一生を見たのです。行いの一つ一つを意識し、その一つ一つの行動の時間や場所を見ました。そのときの、私の行動の意図も見えたのです。すべてのことは意識から出ていて、誰かが何かを反対したとしても、否定したり自分を正当化したりすることは絶対にできないということを、私は知っていました。すべての私の生活の一つ一つの行動は、私自身の完全な認識からのものだったからです。」

 

P18

「秤り(裁判所を象徴する天秤皿のような)が地上から一メートルくらいの高さで私の方へ進み、地面から少し離れた道路の右側の近距離のところで止まりました。(中略)今度は、丸石のようなものが現れました。小さな石のようなものではなく、私の全生涯で犯した全部の大きな罪を意味していました。それが秤りの皿に落ちました。(中略)そのすぐあとに、ほぼ同じ大きさの丸石が地平線のところから現れ、同じ方向から秤りに近づいてきました。

 

(中略)もう一つの石は私のすべての善い行いで、悪い行いとほぼ同じ大きさのように私は思えたのです。(中略)

 

しかし現実は、ちょっとちがっていました。私のした善い行いの石は、結果的に自分を良く見せようとする傲慢から出たもので、それは他の人から評価されたいと思ったり、自分の良心の呵責を静めようとするところから出たものでした。私自身のためにやったことで、神様のためのものではなかったのです。それでその善行は悪行よりも劣ってしまって、大きな罪の皿の上にその善行までもが付け加えられる始末となってしまったのです。」

 

 

 

 

16.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P172

 

傲慢は罪である。傲慢な人間は自分を実際以上の人間と思い込む。こうして、神の御恵みを失い、罪に陥り、自らの霊魂を滅ぼす。虚偽は、真理にたてつくことなので、これまた罪である。嘘ばかりついている人間は次第にその影響を被り、しまいに自分まで偽るようになる。事実を常に疑い、内なる感覚も外なる感覚も信じられなくなる。ついには、神の愛と御恵みさえ疑い、自分の霊的生命と神のもっとも豊かな祝福を失することになる。貪欲も罪である。貪欲な人は創造主を見捨て、創造された物に満足を求めるようになる。姦淫も罪である。姦淫は家族の絆をこわし、純潔と生活を破壊する。泥棒は罪である。泥棒は他人の稼ぎを奪い、他人の損失に歓びを求める。そのように、われわれはこうしたすべての罪を懺悔し、救いを求めることが必要である。神の聖旨が天で聖徒と天使との間に行なわれているように、地上でわれわれの生活の中にも行なわれるために。