神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた

ヨハネ12・40

ユダヤ民族

ヨハネ12・40

 

神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。

 

 

天界の秘義5508[2]

 

 かれらにふりかかった事柄は摂理の事柄であり、または供えられた事柄であるということは、ふりかかったり、または不意に起きたりする事柄は凡て―それは他の言葉では偶然的なものと呼ばれて、偶然、または運に帰せられてはいるが―摂理に属したものであるためである。神の摂理がこのように目に見えず、また不可解なままに働いているのは、人間が事件を自由に摂理から、または偶然か、その何れかに帰すためである、なぜならもし摂理が目に見えて、把握できるように働くなら、人間はその見て、把握するものから、それは摂理から来ていると信じ、後になってその反対の考えに移る危険が在るためである。かくて真理と誤謬とは内的な人の中に連結して、真理は冒涜され、その冒涜には永遠の堕地獄が伴うのである。それでこのような人間は、信仰について、その後で信仰から後退するよりは、不信仰の中に留めおかれる方がまさっているのである。

 

 

天界の秘義5508[3]

 

 これがイザヤ書に意味されている事柄である―

 

 この民に言いなさい、あなたらは聞いて聞くがよい、しかし理解してはならない、見て見るがよい、が、知ってはならない。この民の心を鈍くし、その耳を(聞くに)ものうくし、その目に塗りつけなさい。かれらがその目で見、耳で聞き、心で理解し、再び向きなおって、いやされないためである(イザヤ6・9、10、ヨハネ12・40)。

 

 奇蹟が現今行われないのもまたこうした理由のためである、なぜなら奇蹟は、凡て目に見えて、把握される事柄のように、人間を強制して信じさせはするが、何であれ強制するものはことごとくと自由を奪い去ってしまいはするものの、人間の改良と再生とはすべてその自由の中に行なわれるからである。自由の中に植えつけられないものは存続はしないのである。それはその人間が善と真理の情愛の中にいるとき自由の中に植えつけられるのである(1937、1947、2744、2870−2893、3145、3146、3158、4031番を参照)。

 

 

 

 

天界の秘義3373[2]

 

多少さらに深くまたは内的に考える者は凡て以下のことを知ることができよう、すなわち、神の聖言の中では、『アブラハムの、イサクの、ヤコブの裔』により―その言葉はひんぱんに言われていて、またそれについてはそれは祝福されるに違いない、しかも世界の凡ゆる国民と民族にもまさって祝福されるであろうとひんぱんに言われているのであるが―かれらの子孫が意味されているはずはないことを知ることができよう、なぜならかれらは凡ての国民にもまさって些かも主に対する愛の善と隣人に対する仁慈の善にはいなかったのであり、信仰のいかような真理の中にすらいなかったからである、なぜならかれらは主とは何であるか、その王国とは何であるかを全く知らず、かくて天界とは何であるか、死後の生命の何であるかを全く知らなかったからであるが、それはかれらが知ろうとはしなかったためであり、またそれらの事柄について学んだとしても心ではそれらを全く否定してしまい、かくて、丁度かれらは公然たる偶像教徒になることにより外的な諸善と諸真理とを再三冒瀆したように、内的な諸善と諸真理を冒涜してしまったであろうというためでもあり、このことが旧約聖書の聖言の文字の意義の中には内的な事柄がきわめて珍れにしか明らかにされていない理由となっている。このような性質を持っているため、主はイザヤ書にかれらについて言われたのである―

 

かれらはかれらの目をめしいにし、その心を頑になされた、かれらがその目で見、その心で悟り、回心し、わたしがかれらをいやす恐れがあるからである(ヨハネ12・40)。

 

さらに、かれらは―

 

 わたしたちはアブラハムの裔であり、アブラハムは私たちの父である。イエスはかれらに言われた、もしあなたたちがアブラハムの息子たちであるなら、アブラハムの業を行うでしょう、あなたらはあなたらの父悪魔から出ており、あなたらの父の欲を為そうとしている(ヨハネ8・33,39、44)。

 

 ここの『アブラハム』により、聖言の凡ゆる所におけるように、主が意味されていて、ユダヤ人は主の裔または息子たちではなくて、悪魔の裔であったことが明らかに述べられている。この凡ては、歴史的な予言的な聖言に記されている『アブラハムの、イサクの、ヤコブの裔』によりかれらの子孫は決して意味されてはいないで―なぜなら聖言はくまなく神的なものであるから―主の『裔』である者たち、すなわち、主に対する信仰の善と真理との中にいる者たちがすべて意味されていることを極めて明白に示している。(主のみから天界の裔、すなわち凡ゆる善と真理とが発していることは前に見ることができよう(1438、1614、2016、2803、2882、2883、2891、2892、2904、3155番)。

 

 

天界と地獄456

 

しかし自分自身のことで不思議がるその思いが止むと、今度は世でこれまで生きていた者は凡て他生にて人間として生きているにも拘らず、教会が死後の人間の状態について何事も知っておらず、天界と地獄とについても知っていないことを不思議がる。で、彼らはまた、このことが教会の信仰の本質的なものであるから、なぜ人間に幻によってでも明らかにされなかったのかと不思議がったため、天界から以下のように告げられたのである。それは為そうとすれば為すことも出来たのである。なぜならそれが主の良しとされることなら、それ以上やさしいことはないからである。が、それでも、そうしたことに反感をもって、誤謬を確認した者は、たとえその者自身がその幻を見たにしても尚信じないであろうし、また誤謬にいる者に幻によって何かを確認させることは危険なことである。なぜなら彼らはそのことによって最初は信じるが、後には否定し、かくて真理そのものを冒涜するからである―それは冒涜することは始めは信じて、後には否定することであるためである―そして真理を冒涜する者は凡ゆる地獄の中でも最も低い、また最もいたましい地獄へ突き落とされるのである。この危険が主の以下の御言葉の意味である。「かれは彼の目を盲目にし、その心を頑なにされた、彼らがその眼で見、その心で悟り、回心し、私が彼らを癒すことのないためである」(ヨハネ12・40)。そして誤謬にいる者らは依然信じようとはしないことは以下の語に意味されている。「アブラハムは地獄の富んだ人間に言った。彼らにはモーセと予言者がいる、彼らには彼らに聞かせなさい。しかし、彼は言った、否、父、アブラハムよ、もし死人から誰かだ彼らのもとへ行きますなら、彼らは回心するでしょう。が、アブラハムは彼に言った。もしモーセと予言者とに聞かないなら、たとえ死人からよみがえる者があっても、信じもしないであろう」(ルカ16・29、30、31)。