娼婦

淫行ユダヤ民族

 

 

 

 

マタイ21・31−32

 

「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

 

 

 

 

天界の秘義4865

 

「彼女が娼婦であると考えた」。これは誤謬以外のものとしては認めなかったことを意味していることは、『娼婦』の意義から明白であって、それは誤謬であり(2466、2729、3399番)、かくてそれはユダヤ民族はその宗教性から教会の内なるものを誤謬以外のものとしては認めていないことを意味している。『娼婦』が誤謬を意味していることは、結婚は善と真理との結婚である天界の結婚を表象し、夫は善を、妻は真理を表象し、そこから息子は真理を、娘は善を表象し、義理の息子と義理の娘と義理の父と義理の母といくたの親類関係の者は、その度に従って、天界の結婚のものである事柄を表象しているためである。それで姦淫と淫行とは、それとは対立したものであるため、悪と誤謬とを意味しており、事実、それらは対立しているのである、なぜなら姦淫と淫行にその生命をついやしている者らは善と真理とを何らかえりみないからである。その理由は、純粋な結婚愛は天界の結婚から、すなわち、善と真理との結婚から下降しているが、しかし姦淫と淫行とは、地獄から発している悪と誤謬との連結から起っているということである(2727−2759番を参照)。

 

 

天界の秘義4865[2]

 

 ユダヤ民族は教会の内なるものをたんに誤謬以外のものとしては認めなかったのであり、現今でもそのようにしか認めていないことが、ユダがその義理の娘のタマルを娼婦としてしか認めないで、かれ自身を娼婦に連結させるものとして連結させたことにより意味されていることである。この民族は教会の内なるものを娼婦として、または誤謬として認めていることは非常に明白である。たとえば、もしたれかがかれらに、メシアは―その来られることが聖言の予言的な部分に予言されており、それでかれらはメシアを期待しているのであるが―主であられることが教会の内なるものであると告げるなら、かれらはそれを誤謬として全く斥けてしまうのである。もしたれかがかれらに、メシアの王国は世的な、時間的なものではなくて、天界的な、永遠のものであることが教会の内なるものであると告げるなら、かれらはそのことをもまた誤ったものであると宣告するのである。もしたれかがかれらに、かれらの教会の祭儀はメシアとその天国とを表象していると告げるなら、かれらはそのことが意味していることを知らないのである。

 

 

天界の秘義4868

 

「どうかわたしをあなたのもとへ来させてください」。これは連結を求める欲念を意味していることは、『たれかのもとへ来ること、または入ること』の意義から明白であり、それは連結することである(4820番)。娼婦との連結を求める欲念のような欲念が意味されていることは明らかであり、内意では誤謬との連結を求める欲念が意味されていることが明らかである。ここに『ユダ』により意味されているユダヤ民族は(4815、4842、4864)、表象的な教会の内なる真理を誤謬以外のものとしては認めなかったのであり、また今日でもそのようにしか認めていないことは前に見ることができよう(4865番)。ここに今とり扱われていることは、それにも拘らずこの民族はそれ自らをこの真理に連結させたのであるが、それでもそれは妻と連結するように連結したのではなく、娼婦と連結するように連結したのであり、すなわち、真理と連結するように連結したのではなく、誤謬と連結するように連結したのである。欲念は、丁度娼婦との連結について述べられるように、誤謬との連結について述べられるのである。

 

 

天界の秘義4868[6]

 

さらに、もしかれらが、基督教会はかれらのもとに設立された教会とは一つのものではあるが、しかしそれは内なるものであるに反して、かれらのものは外なるものであり、それでかれらのもとに設立されている教会がその外なるものを剥ぎ取られて、あらわにされるなら、基督教会が現れてくると告げられるなら、かれらはこの真理を娼婦以外のものとしては、すなわち、誤謬以外のものとしては認めないのである。にも拘らず、かれらの中幾人かの者はユダヤ教から基督教に改宗して、自らをこの真理に連結させはするが、それもまた同じ欲念から為すのである。このような事柄は聖言でしばしば淫行と呼ばれている。しかしながら聖言にバビロンにより意味されている者については、これらの者も教会の内なる真理を同じように認めているが、しかしかれらは内なるものを熟知しており、またそれを子供時代には承認はするが、成人期には否定してしまうため、かれらは聖言では醜悪な姦淫、忌まわしい交接により記されているのである、なぜならそれらは冒涜であるからである。