淫行

 

 

 

レビ記20・6

 

口寄せや霊媒を訪れて、これを求めて淫行を行う者があれば、わたしはその者にわたしの顔を向け、彼を民の中から断つ。

 

 

 

天界の秘義1186

 

『アッシル』は論じることであることは聖言におけるアッシル、またはアッシリヤの意義から明白であり、そこでは、それは理性に関わる事柄の両方の意義に絶えず取られているのである、すなわち理性にぞくしたものと理論の意味に取られているんどえある。理性と合理的な事柄により真である事柄が元来意味され、論じることと理論とにより誤った事柄が意味されているのである。『アッシル』は理性と論じること[理論]を意味しているため、それは記憶知を意味しているエジプトと極めてひんぱんに連結して用いられている、なぜなら理性と論じること[理論]とはこうした知識から発するからである。『アッシル』が論じること[理論]を意味していることはイザヤ書に明白である―

 

 禍いなるから、わたしの怒りのむち、アッシルよ、かれは正しいことを考えない、またその心も正しいことを思いめぐらさない、かれは言った、わたしの手の強さによってわたしはそれを行った、またわたしの知恵によって(行った)、わたしは理知のあるものであるから、と(10・57、13)。

 

 ここには『アッシル』は論じることを意味しており、それでかれについてはかれは正しいことを考えもしないし、また思いめぐらしもしないと言われ、また『かれは理知があるため、かれ自身の知恵によって』とも言われている。

 

 

 

[2]エゼキエル書には―

 

 一人の母の娘である二人の女がエジプトで淫行を犯した、かれらはその若い日に淫行を犯した。その一人は淫行を犯して、その恋人らに溺れた、その隣人のアッシル(アッシリア人)に溺れた、かれらは青い着物を着ていた、またかの女は主長と支配者とに溺れた、その凡ては好ましい、若者であり、馬に乗る騎士である。バベルの息子らはかの女のもとに来て、その淫行をもってかの女を汚した(23・2,3、5、6、17)。

 

 ここでは『エジプト』は記憶知を意味し、『アッシル』は論じることを、『バベルの息子たち』は欲念から発した誤謬を意味している。

 

 

 

[3]同書に―

 

 ああエルサレムよ、おまえはまたエジプトの息子らと淫行を犯した、おまえはまたアッシェルの息子らと淫行を犯した、おまえはおまえの淫行をまし加えて、カナンの地にも、カルデヤにも至った(16・26,28,29)。

 

 ここでは『エジプト』は同じく記憶知を意味しており、『アッシル』は論じることを意味している。霊的な天的な事柄について記憶知から論じることは、聖言のここでもまた他のところでも、『淫行』と呼ばれている。エジプト人とアッシリア人との淫行が意味されていないことはたれでも認めることができよう。

 

 

 

天界の秘義5044[]

 

さらに―

アッシルは正しく考えない、彼の心は正しく思い巡らさない、彼の心は破壊することであり、少なくはない幾多の民族を切りはなつことである。彼は言う、私の君は王ではないか、と(イザヤ17・8)。

 

『アッシル』は神的真理について論じることであり、―そこから幾多の誤謬が発生してくるのであるが―歪められた理論を意味している(1186番)。理論により生み出され、真理そのもののようにも見えるところの、このように誤謬化された真理が、または誤謬が、彼が『私の君は王ではないか』と言ったことにより意味されているのである。『アッシル』は議論[論じること]であることは、またその『王である君』は真理そのものであると信じられている誤謬であることは、心が文字の意義の中に留め置かれている限りは認められることは出来ないし、またそこから信じられることは出来ないのであり、ましてや神の聖言の中にはその文字に現れているものよりも更に聖い、更に普遍的なものが在ることについて心が否定的なものに傾いているなら、認められも、信じられもしないものの、それでも聖言の中ではその内意においては理論と論じること以外には何事も理解されてはいないのであり、『王』により真理そのものが、『君』により真理の主要な事柄が意味されているのである。天界ではアッシル〔アッシリヤ〕については何事も知られてはおらず、天使たちもまた天使たち自身から王と君との考えを斥けており、それを人間の中に認めると、それを主に移して、天界の主から発して主のものであるものを、即ち、主の神的善から発している神的真理を認めるのである。

 

 

 

天界の秘義10570

 

“ツロ”により真理と善の知識が意味され、それはそれが利得、名誉のために、また利得、名誉を得るための名声のために教えられ、かくていわば売られて、真理それ自身のために教えられないときは、“娼婦のかせぎ高(賃金)”と呼ばれるのである。聖言ではこのことが“売春”、“淫行”と呼ばれているのである。“大地のあらゆる王国と淫行を犯すこと”は教会であらゆる真理にそうしたことを行うことを意味し、“土地の面に”は、何処であれ教会が存在するところを意味している。真理と善の知識を教え、“売る”その人間にはその知識は利得のためのものであり、従って“娼婦の稼ぎ高(賃金)”ではあるもののその知識はそれ自身においては、依然真理と善の知識として止まっているため、それで“その商品とその娼婦の稼ぎ高とは、エホバに聖いものとなるであろう”と言われているのである。

 

 

 

聖書79[]

 

それに似たことがまた以下の記事のエフライムの『淫行』により意味されている(なぜなら『淫行』は聖言を、すなわち、その純粋な真理を誤って理解することを意味するからである)―

 

わたしはエフライムが全く淫行を犯し、イスラエルが汚れたことを知っている(ホゼヤ5・3)。

イスラエルの家にわたしは醜いものを見た、そこでエフライムは淫行を犯し、イスラエルは汚された(6・10)。

 

『イスラエル』は教会そのものであり、『エフライム』は聖言を理解することであって、その理解から、またその理解に従って教会は存在しており、それで『エフライムは淫行を犯し、イスラエルは汚された』と言われている。

 

 

 

黙示録講解195ロ(7)

 

エゼキエル16・10−13、16−18

 

彼女の身を飾った『金と銀』は愛の善とその真理である。次に歪められた時のその同じ教会が以下のことにより記されているのである、即ち、『彼女はその衣裳を取って色々な色をもった高い所を自らに作った』は誤謬化された真理を意味し、『彼女は刺繍を施したものの衣裳を取って、男の像を覆うた』は、彼らは聖言の文字の意義の諸真理を適用して〔用いて〕誤謬を確認し、それを真理のように見せかけさえもしたことを意味し、『それらと淫行を犯すこと』と『それらの下に』は誤謬から教義と礼拝とを作ることを意味している(そのことが『淫行を犯すこと』であることについては、前の141、161番を参照されたい)。

 

 

 

 

天界と地獄384

 

*8。姦淫は汚れたものである、9961、10174。天界は姦淫に対しては閉じられる、2750。姦淫の中に歓喜を認めた者らは天界に入ることは出来ない、539、2733、2747−49、2751、10175.姦淫は無慈悲であって、宗教上の主義も持たない、824、2747、2748.姦通者の考えは汚れている、2747、2748。他生では彼らは汚れたものを愛し、汚れた地獄にいる、2755、5394、5722。聖言では姦淫により善の不善化が意味され、淫行により真理の歪曲が意味されている、2466、2729、3399、4865、8904、10648。