悪から遠ざけられる

 

外観の法則

 

 

 

天界の秘義1581

 

「ねがわくは、わたしから離れてください」。これは善はそれと調和しないものが無とされないかぎり、現れることができないことを意味していることは今しがた言ったことから明白である、すなわち内なる人は、外なる人の中にあって、一致していないものがそれ自身を分離させようにとねがっているのである、なぜならそれが分離されない間は内なる人から、すなわち主から内なる人を通して絶えず流れ入っている善は現れることができないからである。しかしこの分離については、それは分離ではなくて、静止であることを知らなくてはならない。主を除いては、人のもとでは、外なる人の中にある悪は分離されることはできないのである。何であれ人間が一度び得たものはことごとく残るのであるが、しかしそれが静止すると、それは分離してしまったように見えるのである、なぜならそれはそのようになると存在していないように見えるからである。それはまた主によらなくては存在しないように見える程に静止するようになりもしないのであり、それがそのようになって静止したようになると、そのとき初めて善が主から流れ入って、外なる人を感動させるのである。こうしたものが天使たちの状態であり、かれらもまた悪はかれらから分離してしまったとしか考えもしないが、事実はそれに反していて、かれらは単に悪から遠ざけられているにすぎないのであり、かくて悪が静止して、そのためそれが存在していないように見えているにすぎないのであり、従って、これは天使もまた反省するとき知っているように、外観である。

 

 

 

天界の秘義2196[]

 

人間はかれが主により悪から遠ざけられて、善の中に維持されるとき、かれのもとには善で正しいもの以外には、いな、聖いもの以外には何ものもないと外観から考えはするが、(真理は)それに反して人間の中には悪い、不正な、汚れたもの以外には何ものも存在していないのである。

 

 

 

天界の秘義3318[5]

 

 しかし主については―主は最高の意義においてここにとり扱われておられるが―主はその最も痛ましい試練の争闘によって御自身の中の凡ゆるものを神的秩序[神の秩序]に帰せしめられ、かくて主が母から取得された人間的なものは何一つ些かも残らなくなったのであり(1444、1573、2159、2574、2649、3036番)、それで主は他の人間のように新しくされたもうたのではなくて、全く神的なものになされたもうたのである。なぜなら再生により新しくされた人間は依然その者自身の中に悪への傾向を、否、悪そのものをすら保有しているが、しかし主の愛の生命の流入により悪から遠ざけられており、しかもそれは極めて偉大な力によって行われているが、これに反し主は母から御自身に遺伝した悪をことごとく徹底的に放逐され、御自身を、そのいくたの容器の方面においてすら、すなわち、幾多の真理の方面においてすら神的なものになされたからである。これが聖言の中に『栄化』と呼ばれているものである。